第7章
ジョセフとハイラム・スミス-キリストの証人
「わたしたちは声を大にして,預言者ジョセフ・スミス,祝福師ハイラム・スミス,彼らが据えた土台の上に築き上げてきた預言者たちと使徒たち,そして義にかなった人々の生涯と働きに感謝します。」
ジョセフ・フィールディング・スミスの生涯から
ジョセフ・フィールディング・スミスは,幼いときから,自分の家族が預言者ジョセフ・スミスと特別な関係にあることを知っていた。そして,預言者ジョセフの兄であり忠実な友でもあった祖父ハイラム・スミスの模範に
ジョセフ・フィールディング・スミスは,父方の祖父母をまったく知らなかった。彼が生まれる何年も前に,祖父ハイラムは殉教しており,ハイラムの妻メアリー・フィールディング・スミスも若くして亡くなっていたからである。ジョセフ・フィールディング・スミスはこう語っている。「わたしは祖母スミスをまったく知りません。いつもそのことを残念に思ってきました。なぜなら,彼女はかつてこの世にいた人の中で最も気高い女性の一人だったからです。しかし,彼女のすばらしい妹であるマーシー・トンプソンおばさんを知っていました。わたしは子供のときに,よく彼女の家に行って彼女のひざの上に座り,預言者ジョセフ・スミスについての話を聞いたものです。その経験をとても感謝しています。」1
ジョセフ・フィールディング・スミスは,預言者ジョセフ・スミスをよく知っていた父ジョセフ・F・スミスの模範からも学んだ。ジョセフ・フィールディング・スミスは父についてこう述べている。「父の証には疑いやためらいはまったくありませんでした。特に,救い主の神性や預言者ジョセフ・スミスの使命について語るときにはそうでした。」2
これらの模範と教えによって,ジョセフ・フィールディング・スミスは少年時代に,回復された福音に対して証を持つようになった。後に,「わたしは主なる救い主イエス・キリストの使命や預言者ジョセフ・スミスの使命に疑いを持ったことは一度もありません」と述べている。3彼は福音を教えるとき,家族に特有の言葉を使って証を述べることがあった。「わたしは預言者ジョセフ・スミスを愛しているでしょうか。はい,かつて父が愛していたように,わたしも愛しています。わたしはジョセフ・スミスを愛しています。それは彼が神の
スミス大管長は家族からの教えと受け継ぎに感謝していたが,彼の証はまぎれもない自身のものであった。このように語っている。「わたしは,神の預言者ジョセフ・スミスが時満ちる神権時代の長になるように召されたという証を主の
ジョセフ・フィールディング・スミスの教え
1
最も重要な二つのテーマ-イエス・キリストは神の御子であり,ジョセフ・スミスは預言者であった
わたしたちはイエス・キリストの
ジョセフ・スミスは,救いをもたらす福音の真理を啓示によって受ける者として,また福音の儀式を執行するために高い所から力を授けられた正当な管理者として,この終わりの時に召された預言者でした。
ジョセフ・スミスを通して明らかにされたこれらの真理は,再臨の前にすべての国に伝えられます。したがって,モロナイがジョセフ・スミスに次のように告げたのも驚くに当たりません。ジョセフ・スミスの「名〔は〕良くも悪くもすべての国民,部族,国語の民の中で覚えられ……,良くも悪くもすべての民の中で語られる……。」〔ジョセフ・スミス-歴史1:33〕
また,後に主が預言者に次のように言われたことも驚くに当たりません。「地の果ての人々があなたの名を尋ね,愚かな者はあなたをあざ笑い,地獄はあなたに激怒するであろう。
一方,心の清い者と,知恵のある者と,高潔な者と,徳高い者は,絶えずあなたの手から助言と権能と祝福を求めるであろう。」〔教義と聖約122:1-2〕
現在,地の果ての人々がジョセフ・スミスの名を尋ね始めており,多くの国で大勢の人々がジョセフ・スミスを通して回復された福音に喜びを見いだしています。
この神権時代の幕開け以来,ジョセフ・スミスに示されたイエスの
近年では,メキシコ,中央アメリカの国々,南アメリカで,ほとんど信じられないほどに
また,現在〔1971年〕,アジアでは,福音のメッセージに対して過去に見られないほど多くの門戸が開かれています。教会は日本と韓国,台湾と香港で確立されつつあり,またタイ,シンガポール,インドネシアで御業が進み始めています。
また,主の摂理により,現在真理のメッセージに扉を閉ざしているその他の国々が教会に対して門戸を開き,イスラエルの長老たちが入って行って,それらの国に住む心の清い人にキリストについて,また預言者ジョセフ・スミスを通してこの時代に地上にもたらされた主の王国の福音について告げる日が来ることでしょう。7
ジョセフ・スミスは
わたしが最も重要であると常に考えている二つのテーマがあります。イエス・キリストは世の罪のために十字架につけられた神の御子であることと,ジョセフ・スミスは時満ちる神権時代の到来に当たって召され任じられた預言者であったことです。これが世界に向けたわたしのメッセージです。9
2
主はこの栄光ある神権時代の長となるようジョセフ・スミスを召された
ジョセフ・スミスは,……この世に来て,聖なる使者たちの指示の下で,世を主の来臨に備えるため,神の王国と,この驚くべき業と不思議の基を据えました。10
わたしは彼〔ジョセフ・スミス〕が天の御父によって召され任じられたこと,神の御子から啓示と導きを受けたことを知っています。これによってあらゆる人はこの事実を受け入れるならば益と祝福を得られるようになりました。11
主が預言者ジョセフ・スミスを立て,天を開いて啓示と戒めを与え,この栄えある神権時代の長となるよう召されたことについて,わたしの心には
主は,この「まさに人の子らの中に現れようとしている大いなる驚くべき業」の長となる者を選ぶに当たって〔教義と聖約4:1参照〕,世の学問や慣習に通じた人を選ばれませんでした。主の方法は人の方法とは異なり,主の思いは人の思いとは異なっています〔イザヤ55:8参照〕。世の学問による教えを受けた人には,捨てなければならない人の慣習と哲学があまりにも多すぎます。主はその大いなる知恵によって,世慣れていない子供,14歳の少年を選ばれました。主はこの若者に完全な福音を啓示されました。その福音は不信仰のために世の人々が受け入れようとしないものでした。この若者ジョセフ・スミスは,主のみもとから遣わされた使者たちによって教えられ,何年にもわたって天の導きを受け,福音の回復の業と神の王国の建設を指導するように備えられました。13
3
この時代の人々は預言者ジョセフ・スミスを通して主の言葉を受けると,主は言われた
いつの時代でも福音が地上にあるときは,主の預言者に福音が啓示されなければなりません。そして,彼らは人々のために救いの儀式を執行し,指導するために正当な管理者として働くよう召されなければなりません。
ジョセフ・スミスは,救いの真理を回復するために,そしてこれらの救いの真理を授ける
主はジョセフに言われました。「この時代の人々は,あなたを通してわたしの言葉を受ける。」(教義と聖約5:10)その後,主はジョセフ・スミスを通して回復された福音についてこう言われました。「この王国の福音は,すべての民への
わたしはここで申し上げます。
ジョセフ・スミスは,
時が来れば,この預言者の名は地の隅々に,またすべての民の間に知れわたるようになるでしょう。
心の正直な人はジョセフ・スミスを預言者として受け入れ,ジョセフ・スミスが明らかにした主を礼拝するでしょう。
神の命令によってジョセフ・スミスにより組織された教会は,ジョセフ・スミスを通して与えられた啓示に従うので栄えるでしょう。
また,ジョセフ・スミスの教えを信じ,ジョセフ・スミスが定めた道を熱心に歩む人は皆,イエス・キリストが神の御子であって,世の罪のために十字架につけられた御方であることを知るでしょう。
わたしは,聖なる
わたしは証と感謝の気持ちを込めて,教義と聖約から次の霊感あふれる言葉を〔分かち合いたいと思います〕。「主の預言者であり聖見者であるジョセフ・スミスは,ただイエスは別として,この世に生を受けた他のいかなる人よりも,この世の人々の救いのために多くのことを成し遂げた。」(教義と聖約135:3)15
4
ジョセフ・スミスと兄ハイラムは,生前も死後も一つに結ばれていた
わたしはこの最後の福音の神権時代に永遠の真理が回復されたことに感謝しています。預言者ジョセフ・スミスならびにわたしの祖父である祝福師ハイラム・スミスの使命と働きに,また神の王国の
「さらにまた,まことに,わたしはあなたに言う。わたしの
彼に与えられた,しかも主から与えられたこのような信頼と称賛の言葉を喜ばない人がいるでしょうか。ハイラム・スミスはこの神権時代の初期にバプテスマを受けた人の一人です。生涯,彼は弟ジョセフの傍らに立ち,励ましと信仰と
ハイラム・スミスは,1800年2月9日に生まれ,預言者よりおよそ6歳年上でした。ジョセフ・スミスは自分に与えられた誉れをすべてハイラムとともに分かち合いました。ハイラムは,主が彼の弟に授けられたすべての祝福を弟とともに享受しました。預言者ジョセフも兄ハイラムに対して同様の兄弟愛を示しました。彼らはともに同じ悲しみと喜びを経験しました。二人は同じ迫害を受けました。福音のために同じ監獄に入りました。そして,
預言者は次のようなふさわしい賛辞の言葉を贈っています。「ハイラム兄弟,あなたは何と忠実な心を持っていることでしょう。おお,わたしを心にかけてきてくれたことへの報いとして,永遠のエホバが永遠の祝福を冠としてあなたの頭に授けてくださいますように。おお,わたしたちは何と多くの悲しみを共にしてきたことでしょう。そして再び,わたしたちは容赦なく虐げる者たちの手に落ちています。ハイラム,あなたの名は主の律法の書に記されるでしょう。後に来る人々が見て,あなたの行いに
また,預言者はこのように語りました。「わたしは心の中で,すべての兄弟たちがわたしの愛する兄ハイラムのようであったならと祈っています。ハイラムは子羊の穏やかさとヨブの高潔さ,要するに,キリストの柔和さと
5
ジョセフ・スミスとハイラム・スミスは自らの血をもって
証
(
)
を結び固めた
わたしの祖父である祝福師ハイラム・スミスは,弟の預言者ジョセフとともにこの神権時代の
ジョセフ・スミスは独りで立つことはできませんでした。独りで立とうとしていたら彼の業は失敗していたでしょう。それは救い主の業がほかの証人による確認を必要としたのと同じです。キリストの場合,御父以外にだれが証できたでしょうか〔ヨハネ8:12-18参照〕。そこで主は,ジョセフ・スミスとともに立って,証人としてこの神権時代に救いの鍵を持つもう一人の人を召されたのです。……
……〔ハイラムは〕生得権により教会の祝福師として召されただけでなく,同時に主から次のように言われました。
「これから先,わたしは彼を任命して,わたしの
それは,彼がわたしの僕ジョセフと力を合わせて働くためであり,またわたしの僕ジョセフから助言を受けるためである。わたしの僕ジョセフは彼にもろもろの鍵を示すであろう。これらの鍵によって,彼は求めれば与えられ,またかつてわたしの僕オリバー・カウドリに与えられた同じ祝福と,栄光と,誉れと,神権と,神権の
それは,わたしの僕ハイラムが,わたしが彼に示すことを証して,彼の名が代々とこしえにいつまでも尊敬を込めて覚えられるためである。」〔教義と聖約124:94-96〕
この召しと命令に従って,預言者ジョセフ・スミスは,預言者自身が持っており,またかつてオリバー・カウドリが持っていた神権のすべての鍵と権能と賜物をハイラム・スミスに授けました。主はまた,ハイラム・スミスに,預言者,聖見者,啓示者,教会の大管長である弟のジョセフとともに完全かつ十分な証人となるために,またこの世においても永遠にわたってもイエス・キリストの証人である弟ジョセフとともにこの神権時代の長となるために,必要な事柄をすべて明らかにされました。18
彼〔ジョセフ・スミス〕は,自身の兄であり,わたしの祖父である祝福師ハイラム・スミスとともに,カーセージの監獄で血をもって自らの証を結び固めました。わたしは,主が地上に主の王国を再び確立するためこの時代に力ある聖見者を立ててくださったので,再び救いを得ることができることを,地の果ての人々に知らせる主の
わたしたちは声を大にして,預言者ジョセフ・スミス,祝福師ハイラム・スミス,彼らが据えた土台の上に築き上げてきた預言者たちと使徒たち,そして義にかなった人々の生涯と働きに感謝します。20
研究とレッスンのための提案
質問
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スミス大管長は,少年時代にジョセフ・スミスの使命についての
証 ( ) を得るよう助けてくれた自分の家族のことを述べています(「ジョセフ・フィールディング・スミスの生涯から」参照)。わたしたちは,子供たちが預言者ジョセフ・スミスの使命についての証を得るよう助けるために何ができるでしょうか。 -
イエス・キリストの
御 ( )名 ( ) とジョセフ・スミスの名の間にはどのような関連があるでしょうか(第1項参照)。預言者ジョセフ・スミスの働きは,救い主とその福音に対するあなたの証にどのような影響を及ぼしてきたでしょうか。 -
主が「世の学問や慣習に通じた人」でなくジョセフ・スミスを召されたことについて述べた,スミス大管長の見解について深く考えてください(第2項参照)。このことを理解していると,自分には責任を果たすだけの資格がないと感じるときにどのように助けとなるでしょうか。
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第3項で,スミス大管長は教義と聖約5:10と135:3を引用しています。ジョセフ・スミスの使命をよく知らない人に対して,これらの聖句をどのように説明したらよいでしょうか。
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ジョセフ・スミスと兄ハイラムの関係から,どのようなことを学べるでしょうか(第4項参照)。
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あなたはジョセフ・スミスとハイラム・スミスが自らの血をもって証を結び固めたことについて考えるとき,どのように感じるでしょうか(第5項参照)。彼らの犠牲を意義深いものとするにはどのような方法があるでしょうか。
関連聖句
ジョセフ・スミス訳創世50:30-31;2ニーファイ3:5-15;教義と聖約11:11-26;76:22-24;135章
教える際のヒント
熱心な学習を促す一つの方法は,人が質問したり,意見を述べたりするときに注意深く耳を傾けることである。「耳を傾けることは一つの愛の表現である。耳を傾けるにはしばしば犠牲を要求される。人々の話に心から耳を傾けるには,彼らの考えていることを表現させるために自分の言いたいことを抑えなければならないことがある。」(『教師,その大いなる召し』66)