ジョセフ・フィールディング・スミスの生涯と教導の業
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は忘れられないすばらしい言葉を使ったと,ゴードン・B・ヒンクレー大管長は回想している。それは「誠実で忠実」という言葉である。スミス大管長は「人々の前で説教するときも,個人的に人と話をするときも,主に祈りをささげるときも,わたしたちが誠実で忠実であるように強く訴えました」とヒンクレー大管長は述べている。1トーマス・S・モンソン大管長も同じようにこう回想している。「高齢になっても,〔スミス大管長は〕『わたしたちが最後まで誠実で忠実でいられますように』と常に祈っていました。」2
「誠実で忠実」というのは,ジョセフ・フィールディング・スミス大管長にとって,しばしば繰り返された言葉以上のものであった。すべての人に対して大管長が抱いていた望みを心から表現した言葉だったのである。また,幼年時代から,末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長として奉仕する晩年に至るまで,彼の生涯を言い表す言葉でもある。
「約束の子」
ジョセフ・フィールディング・スミスは「約束の子として生まれた」と十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老は述べている。スミス大管長の義理の息子であるマッコンキー長老はこう説明している。ジュリナ・ラムソン・スミスには「3人の娘があったが,息子が一人もいなかった。そこで,母親は主の前に行き,昔ハンナがしたように『誓いを立て〔た〕』(サムエル上1:11)。もし主から男の子を賜るなら,主にとって,また父親にとって誇りとなるように全力を尽くしてその子を助けると約束したのである。主は彼女の祈りを聞かれた。そして,彼女も主に対する約束を守った。」31876年7月19日,ジュリナと夫ジョセフ・F・スミスのもとに息子が誕生し,父親の名をとって,ジョセフ・フィールディング・スミス・ジュニアと名づけられた。
ジョセフ・フィールディング・スミスの生まれた一家の人々は,深い信仰と奉仕の精神にあふれ,優れた指導力を備えていた。祖父のハイラム・スミスは預言者ジョセフ・スミスの兄であり,福音の回復に対する雄々しい証人であった。主はハイラムを任命して「〔主の〕教会のために預言者,聖見者,啓示者」とし,ハイラムの名前は「世々とこしえにいつまでも尊敬を込めて覚えられる」と言われた(教義と聖約124:94,96)。ハイラムは弟のジョセフとともに,1844年6月27日,暴徒の犠牲となって殉教し,自らの
ジョセフ・フィールディング・スミスの両親,ジョセフ・F・スミス大管長とジュリナ・ラムソン・スミス
ジョセフ・フィールディング・スミスの父親ジョセフ・F・スミスは,子供のときから重い責任を負ってきた。ハイラム・スミスとメアリー・フィールディング・スミスの長子として生まれ,5歳のときに父親が殉教し,9歳のときには未亡人の母親がイリノイ州ノーブーからソルトレーク盆地へ荷車を駆るのを助けた。後に,宣教師として,また十二使徒定員会会員として奉仕した。そして,大管長会顧問を務めていたとき,息子のジョセフが生まれた。その後,1901年10月17日から1918年11月19日まで教会の大管長を務めた。
ジョセフ・フィールディング・スミスの母親ジュリナ・ラムソン・スミスは,ソルトレーク盆地に入植した初期の開拓者の家族の一員であった。9歳のときからおじのジョージ・A・スミスの家庭で育てられた。おじは当時十二使徒定員会会員であり,おばはバスシバ・W・スミスであった。(後にスミス長老はブリガム・ヤング大管長の下で大管長会第一顧問を務め,スミス姉妹は中央扶助協会会長を務めた。)ジュリナは成人すると,献身的な妻そして母親となり,扶助協会で熱心に働いた。思いやりが深く,優れた助産師としても知られていた。「1,000人近い赤ん坊」の誕生を助け,出産した母親の世話をした。4また,1910年10月から1921年4月まで中央扶助協会会長会第二顧問を務めた。
少年時代の労働と遊び
ジョセフは少年時代に働くことを学んだ。家族は家から約10マイル(16キロ)離れたユタ州テーラーズビルに農場を所有していた。そこできょうだいたちと一緒に畑に水を引き,牧草を刈り取り,家畜の世話をする手伝いをした。家には広い野菜畑や数本の果樹,3つの長いブドウ棚があり,多くのニワトリ,3頭の乳牛,数頭の馬を飼っていた。ジョセフ・F・スミス大管長は多妻結婚を行っていたため,養うべき家族も働き手も多かった。ジョセフ・フィールディング・スミスは大家族の年長の息子の一人であったため,普通であれば大人に任されるような責任が与えられた。こうした責任に加えて,常に学校の勉強に遅れを取らないように努めた。
ジョセフが家や家族の農場の外で行った最初の仕事は,母親の手伝いであった。しばしば馬車を駆って母親が助産師としての務めを果たすのを助けた。10代の後半には,シオン協同組合商事(Zion’s Cooperative Mercantile Institution〔ZCMI〕)に就職し,長時間の肉体労働に従事した。後にこう回想している。「小麦粉や砂糖,ハムやベーコンの大袋を担いで運び,一日中馬車馬のように働き,夜になるとへとへとに疲れてしまいました。わたしの体重は150ポンド(約68キロ)でしたが,200ポンド(約91キロ)もある大袋を平気で肩に担ぎました。」5
重労働の仕事と釣り合いをとるため,ジョセフは少し遊ぶ時間も見つけた。夜になるときょうだいと一緒に家の周りで,「特にブドウが熟すころ」ブドウの木の間に隠れて遊んだ。6また,野球が大好きだった。各ワードには野球チームが編成され,こうした友好的な競技を楽しんだ。
福音の研究と霊的な成長
少年ジョセフ・フィールディング・スミスにとって野球は大切であったが,時々試合を早々に切り上げた。自分にとってもっと大切な関心事があったからである。そのようなときには「馬小屋の二階か,または木陰で読書に没頭した。」モルモン書を読んだのである。7後にこう語っている。「覚えているかぎり,字が読めるようになったときから,聖文を勉強し,主イエス・キリストと預言者ジョセフ・スミス,人の救いのために成し遂げられてきた業について読む以上に大きな喜びと深い満足感を与えてくれたものは,世の中にほかには何もありません。」88歳になって初めてモルモン書をもらったときに,福音を自分で勉強する習慣を身に付けるようになり,標準聖典や教会の出版物を熱心に読んだ。昼休みやZCMIの仕事場の行き帰りに歩きながら読めるように,ポケットサイズの新約聖書を持ち歩いた。着実に,そして根気強く続け,回復された福音に対する
ジョセフ・フィールディング・スミス少年は時々,野球の試合を早めに切り上げて,家の馬小屋の二階でモルモン書を読んだ。
しかし,ジョセフの霊的な成長は,静かな個人学習にとどまらなかった。教会の集会やクラスに忠実に参加し,また神権の儀式と祝福を受けた。特に神殿に心が引かれた。ソルトレーク神殿はジョセフが生まれる23年前から建設が始まっていた。「ジョセフは少年時代を通じて,この壮大な建造物の建設が日々進行するのを深い関心をもって見ていた。巨大な
1893年4月6日,ジョセフはソルトレーク神殿の1回目の奉献式に出席した。教会の第4代大管長であるウィルフォード・ウッドラフ大管長が奉献式を管理し,奉献の祈りをささげた。壇上でウッドラフ大管長の隣に座っていたのは,第二顧問を務めていたジョセフ・F・スミス管長であった。
ジョセフ・フィールディング・スミスは19歳のとき,祝福師の祝福を受けた。当時教会の祝福師を務めていたおじのジョン・スミスから受けたこの祝福は,ジョセフの霊的な強さを増し加えた。ジョセフは次のように告げられた。
「天寿を全うし,イスラエルの勇士になるという主の
あなたの務めは幹部の兄弟たちとともに協議し,民の中で管理することです。また,陸路や水路で国内外を旅し,教導の業に携わることもあなたの務めです。あなたに申します。頭を上げ,恐れることなく,また人を偏り見ることなく,主の
ジョセフはその年の後半になって20歳の誕生日を迎えた後,奉仕と霊的な成長のための新たな機会を受けた。メルキゼデク神権の長老の職に聖任され,神殿でエンダウメントを受けたのである。晩年,教会の大管長であったときにこう断言している。「聖なる神権を持っていることは何と感謝すべきことでしょう。わたしは生涯にわたり,その神権の召しを尊んで大いなるものとするように努めてきました。現世の最後まで堪え忍び,来世で忠実な聖徒たちと交友を深めたいと願っています。」11
求婚と結婚
若いジョセフ・フィールディング・スミスは,一家の生計を助け,福音を研究し,神権の祝福に備えていた。その努力に気づいたのは,ルーイ・シャートリフという名の若い女性であった。両親はユタ州オグデンに住んでおり,ルーイはユタ大学に通えるようにスミス一家と一緒に生活するようになった。当時,ユタ大学はスミス家の通りをはさんだ向かい側にあった。
最初のうち,ジョセフとルーイの関係は普通の友達にすぎなかったが,だんだんと親しくなっていった。二人ともお金がなかったので,一緒に過ごすのはたいてい,家の居間で一緒に読書やおしゃべりをする,散歩をする,教会の社交活動に参加するなどの機会に限られた。また,ジョセフはルーイがピアノを弾くのを聴くのが好きだった。時には,地元の劇場で行われた演奏会へ行った。ルーイが大学2年生の終わりごろには,二人の恋愛は深まり,学校が休みになると一度ならず,ジョセフは往復100マイル(約160キロ)離れたオグデンにいる彼女に会うために,自転車ででこぼこの泥道を走った。12
ついに,ルーイとジョセフは結婚について話し合った。しかし,二人の心には疑問が残っていた。ジョセフが伝道に召されるのではないかという思いだった。当時,伝道に出ることを望む若い男性や女性は,伝道の召しの推薦を受けるためにビショップと面接することはなかった。伝道の召しの手続きはすべて,大管長の執務室を通して行われていた。若い男性は伝道の召しを告げる郵便をいつ受け取るか,まったく分からなかった。
ルーイは1897年の春に大学を卒業し,オグデンの両親のもとへ戻った。1年後,伝道の召しが来ないようであったため,二人は結婚の計画を進めることにした。後にジョセフはこう語っている。「彼女に住居を変えるように説得しました。そして,1898年4月26日にソルトレーク神殿へ行き,父のジョセフ・F・スミス管長の司式で永遠の結婚をしました。」13二人は一緒に生活を始め,スミス家の小さなアパートで暮らした。
伝道の召しにこたえる
教会の初期には,既婚男性が専任宣教師として召されることがよくあった。そのためジョセフとルーイは,1899年3月17日にロレンゾ・スノー大管長が署名した伝道の召しを郵便で受け取ったときに驚くことはなかった。しかし,ジョセフは任地については少し驚いたことであろう。召しを受ける前に,ジョセフは十二使徒定員会会長であったフランクリン・D・リチャーズ会長と伝道の召しを受ける可能性について話をしていた。後に,ジョセフはこう回想している。「〔会長は〕わたしにどこへ行きたいかと尋ねました。特に希望はなく,遣わされる所へ行くだけですと答えました。すると会長はこう言いました。『行きたい所がきっとあるはずです。』わたしはこう言いました。『そうですね。ドイツがいいですね。』それで,イギリスへ行くことになったのです。」14
専任宣教師のジョセフ・フィールディング・スミス長老
ルーイはジョセフの留守中,自分の両親とともに暮らすことにした。そうすれば,夫から離れている寂しさに耐えられると思ったからである。また,父親の店で働き,ジョセフの伝道費用を稼ごうと考えたのである。15
1899年5月12日,伝道地へ出発する前日,スミス長老とそのほかの宣教師は,ジョセフ・F・スミス管長と,十二使徒定員会のジョージ・ティーズデール長老とヒーバー・J・グラント長老から指示を受けた。これは専任宣教師として出発する前に受けた訓練であった。この集会で各宣教師は正式な宣教師証明書を受け取った。スミス長老の証明書にはこう書かれていた。
「これは下記の事柄を証明するものです。所持者のジョセフ・F・スミス・ジュニアは,末日聖徒イエス・キリスト教会の誠実な正会員であり,同教会の中央幹部により,福音を
また,この人は命と救いに至る扉を開くために神から遣わされた神に仕える人です。この人の教えと勧告に耳を傾けるように,また旅行中この人が必要とするものは何でも支援するように,すべての方にお勧めします。
また,永遠の父なる神が,スミス長老,および長老を受け入れて助力を与えるすべての方に,この世においても永遠にわたっても天と地の祝福を授けてくださるよう祈ります。イエス・キリストの
1899年5月12日,ユタ州ソルトレーク・シティーにおいて同教会代表として署名。大管長会ロレンゾ・スノー,ジョージ・Q・キャノン,ジョセフ・F・スミス」16
翌日,家族は家に集まり,ジョセフと,やはりイギリスで伝道するように召された兄に別れを告げた。しかし,家族の一人が集まりに来なかった。ジョセフの妹エミリーが,数年前に自分が行ったことについて恥ずかしく思い,姿を見せなかったのである。ジョセフとルーイが交際していたとき,ジョセフは時々,恋人と二人だけで時間を過ごせるように,エミリーやほかの小さな子供たちを早く寝かせた。これを不当だと感じて怒ったエミリーは,主が兄を伝道へ送ってくださるようにとしばしば祈ってきた。それが現実となった今になって,兄の出発に自分が一役果たしたのではないかと罪悪感を覚えたのである。17
ジョセフとルーイは,イギリスで伝道する召しは主から受けたものであると分かっていた。ジョセフは自分の務めを果たすことを熱心に望み,ルーイは夫が伝道に出ることを喜んでいた。しかし,二人とも,離れて生活することを考えるとつらかった。スミス長老が駅へ向かう時間になると,「ルーイは勇気を振り絞り,涙を見せないように努めた。しかし,赤い目を隠すことは難しかった。ジョセフは家を離れると考えただけでもうすでにホームシックになり,だれとも話したくないという気持ちであった。……ジョセフはファーストノース通りの古い家の玄関に立ち,愛する者一人一人に別れのキスをしたとき,胸が詰まって何も言えなかった。お母さん,お父さん,弟や妹たち,おばたち,そして最後にルーイ。『さようなら,いとしいルーイ。神の祝福があり,ぼくに代わって君を無事に守ってくださるように。』」18
イギリスで福音の種をまく
たばこの煙が充満した不快な列車が速度を上げて故郷を後にしたときから,スミス長老は自分の務めを献身的に果たした。長老が書いた日記や往復書簡には,宣教師として直面した困難とそれを乗り越えるために行使した信仰と献身が表れている。
イギリスで伝道した最初の日の終わりに,長老は日記にこう書いている。「
生活必需品を買うようにと数ドル送ってきた父親に,こう返事を書いている。「送ってくれたお金の使い方には十分注意します。もっともな理由がないかぎり使いません。」また,福音を学び教える決意についても父親に書いている。「自分がここにいるのは福音を宣べ伝えるためであり,それをよくできるようになることを望んでいます。……人生で何か重要なことのために常に役立つように,ここにいる間に自分の知性と才能を磨きたいと思います。……すべてのことについて正しくありたいと思います。福音について学ぶこと以上に大きな喜びを与えてくれるものはありません。わたしの願いは福音に精通し,知恵を得ることです。」20
ジョセフ・F・スミス大管長は,ジョセフ・フィールディング・スミス長老にあてた手紙の中で次のような称賛の言葉を書いている。「わたしはあなたの態度を好ましく思い,あなたの誠実さを信頼しています。あなたのことを喜び,満足しています。聖なる
ルーイにあてた手紙の中で,ジョセフはいつも彼女への愛を伝えていた。「温かい愛情にあふれた手紙」の中に押し花を同封したこともよくあった。23また,自分が直面した困難についても書いた。「この国には,わたしたちが教える福音が真実だと分かっていても,この世の生活から離れて福音を受け入れる勇気を持たない人がたくさんいます。」24
ルーイは少なくとも週に1度,手紙を送った。あるとき,このように書いた。「忘れないでください。わたしはここにいて,あなたを愛し,あなたのために祈っています。一瞬たりともあなたを忘れたことはありません。……わたしの大切な夫であるあなたに祝福があるようにいつも祈っています。」25ルーイは夫を深く愛していることをはっきりと述べた。また,主と主の業に対する献身についても同様に明言した。ホームシックのために奉仕する決意が弱まらないようにすることを絶えずジョセフに思い起こさせたのであった。
スミス長老はそのような励ましを必要としていた。なぜなら,回復された福音のメッセージを受け入れようとする人はめったにいなかったからである。後年長老は,「状況は非常に悪く,人々はひどく無関心であったため,もう続けることができないと考えるほどになっていたと息子のジョセフに語った。ある晩,眠れずに,家へ帰るためのお金を稼ぐ必要があると考えていた。」26しかし,愛する人々からの励ましに鼓舞され,また彼らの祈りと奉仕を望む自分自身の願いによって強められ,そのような考えを退けた。主から召されたことを知っており,また自分が仕える人々と自分の家族のために勤勉に働く必要があることを知っていた。彼はこう書いている。「名誉ある記録を作って解任されるのでなければ,家へ帰るよりむしろここに永久にとどまる方を選ぶ。……福音の精神と
1901年6月20日,ジョセフ・フィールディング・スミス長老は,立派に務めを果たして解任された。勤勉に奉仕した2年間に,「彼は一人も改宗に導けなかった。一人の改宗者の確認を行ったが,バプテスマを執行する機会は一つもなかった。」28しかし,長老と同僚は福音の種をまき,多くの人がさらに深い平安と知恵を見いだすのを助けた。また,福音を学ぶ者,教える者として,また神権指導者として個人的に成長した。
新しい家庭と新しい責任
1901年7月9日,ジョセフはソルトレーク・シティーに到着した。オグデンでルーイの家族と数日を過ごした後,ジョセフとルーイはスミス一家のいる故郷へ戻り,再び一緒に生活した。二人は信仰と勤勉,奉仕の結婚生活を送り,家庭と家族を築き,教会で奉仕した。
ルーイ・シャートリフ・スミス
ジョセフは帰郷してから間もなく,家族を養えるように仕事を探し始めた。そして,家族の助けにより,ソルトレーク郡事務局で臨時の仕事を得た。約5週間後,教会歴史家事務局に就職した。教会の歴史について学べば学ぶほど,教会とその指導者の信用を傷つけようとする人々がいることに気づいた。そこで,教会を擁護する情報を提供するために不断の努力を続けた。このような奉仕の努力が実って,その後長年にわたり教会に祝福をもたらすこととなった。
1902年の春,ルーイは妊娠した。ルーイもジョセフも小さなアパートに住めることに感謝していたが,自分たちの家を建てることを楽しみにしていた。ジョセフが安定した仕事に就いたので,その計画を立てることができるようになった。二人は建築業者に頼み,ジョセフが自分で多くの建築作業ができるように手配してもらった。こうして費用を節約したのである。1902年9月,ジョセフィンと名づけた長女が生まれ,約10か月後,新しい家へ引っ越した。1906年,ルーイは困難な妊娠で苦しんだが,もう一人の娘を家族に迎え,ジュリナと名づけた。
ジョセフは常に主の救いの業に進んで参加し,多くの機会に恵まれた。1902年,七十人第24定員会会長として奉仕するよう召され,定員会教師などの務めを果たした。(当時,教会には100を超える七十人定員会があり,定員会の会員は中央幹部ではなかった。)また,青年男子相互発達協会の中央管理会とソルトレークステークの高等評議会で奉仕するように召された。そして,十二使徒定員会会員であった兄のハイラムにより大祭司に聖任された。1906年4月の総大会で,教会歴史家補佐として支持され,翌年の1月,「教会の敵による非難に対して教会を擁護するための情報の作成」を目的とする特別委員会で働くよう任命された。29
ジョセフの父親が教会の大管長を務めていたとき,ジョセフは通信業務やその他の管理業務をよく手伝った。時には教会の責任を果たす父親に同行した。スミス大管長の代理で訪問をしたこともあった。ジョセフはこう記している。「父から依頼されて〔ユタ州〕ブリガム・シティーへ行き,同市の第二ワードの集会所を奉献した。会員たちは大管長が奉献の祈りをするよう強く望んでいたが,父は風邪をこじらせていたため,代理としてわたしを送った。」駅でジョセフを出迎えたステーク会長とビショップはうれしそうではなかった。30ステーク会長はこう言ったそうである。「泣きたい気持ちでした。大管長にお会いできると期待していたのに,迎えたのは代わりの息子さんでした。」その話には続きがあり,ジョセフはそれに応じてこう言った。「わたしも泣きたい気持ちでした。」31
教会で多くの務めを果たしていたジョセフは,家を留守にすることがよくあった。それでもジョセフとルーイは,一緒に奉仕したり一緒に過ごしたりする時間を見つけた。1907年11月1日の日記にはこう書かれている。「ルーイと一緒にソルトレーク神殿で一日の大半を過ごした。人生で最も幸せな日々の一日であり,二人にとって最も有益な時間であった。」32
試練と祝福
1908年3月,ジョセフはできるだけルーイと一緒に家で過ごすことの必要性を感じて,教会の責任の多くから離れた。ルーイは3度目の妊娠の初期症状に関連した重い病気を患っていた。祈りや神権の祝福,心配する夫による世話,医師の入念な手当てにもかかわらず,病状は悪化し続けた。そして,3月30日に亡くなった。
悲しみの中で,ジョセフはこう書いている。「わたしはこの1か月間ずっと不安と心配に明け暮れ,最も深く大きな苦痛に満ちた試練と経験をくぐり抜けた。その間中,主に頼り,強さと慰めを求めた。2か月近くにわたる闘病の末,3週間から4週間の最も激しい苦痛の後,愛する妻は苦しみから解放された。……わたしと愛する子供たちのもとを去り,より良い世界へ旅立った。悲しみの中で忍耐するならば,来世ではこの上なく輝かしい再会が待っている。」妻は「固い信仰を持ち,福音のすべての原則に忠実な生涯を終えた」とジョセフは語っている。33
ジョセフは間もなく,母親のいない家庭で二人の幼い娘を育てるという務めを果たすのが困難になった。そこで両親から一緒に住むように勧められた。このような助けがあっても,幼い子供たちには愛情ある母親の世話が必要だということが分かった。
エセル・レイノルズ・スミス
ジョセフは重要な決断をするときにいつでもそうしてきたように,この問題についても熱烈に祈った。教会歴史家事務局の事務員エセル・ジョージーナ・レイノルズが祈りの答えとなった。1908年7月6日,ジョセフは娘たちを公園へ散歩に連れて行くときに彼女を誘った。この散歩はうまくいき,4人は皆,一緒に過ごす時間を楽しんだ。10日後,ジョセフとエセルは二人だけのデートを楽しみ,それから間もなく婚約した。
1908年11月2日,エセルとジョセフはソルトレーク神殿で結び固められた。数年後,エセルにあてた手紙の中で,ジョセフはこう書いている。「わたしが
十二使徒定員会会員としての奉仕
1910年4月の総大会の直前に,大管長会第一顧問のジョン・R・ワインダー管長が逝去した。そこで,十二使徒定員会で奉仕してきたジョン・ヘンリー・スミス長老が大管長会で奉仕するように召された。その結果,十二使徒定員会に空席が生じた。大管長会と十二使徒定員会はソルトレーク神殿で会合し,その空席を埋めるのにふさわしい人はだれかについて話し合った。およそ1時間の協議の後,その件について全員が同じ気持ちになることはなかった。そこで,ジョセフ・F・スミス大管長は独りで別室に移り,導きを祈り求めた。大管長は戻って来ると,多少ためらいながら,自分の息子のジョセフ・フィールディング・スミス・ジュニアがその職に就くことについて検討する意思があるかどうか,ほかの13人の兄弟たちに尋ねた。また,そのような提案をするのをためらった理由について,すでに息子のハイラムが十二使徒定員会の会員であり,息子のデビッドが管理ビショップリックの顧問を務めていたためであると述べた。また,教会員たちはさらにもう一人の息子が中央幹部に任命されることを快く思わないだろうと
「スミス大管長はジョセフを選ぶことを総大会の発表の前に,ジョセフの母親に明らかに打ち明けていた。ジョセフの妹イーディス・S・パトリックはこう述べている。『1910年に父が神殿での評議会から帰宅したとき,非常に心配そうにしていたと,母が言ったのを覚えています。何を悩んでいるのかと聞くと,ジョセフが十二使徒会の一員に選ばれたと言い,兄弟たちは全員一致で選んだけれども,自分の息子を使徒に選んだことで,自分は大管長として厳しい批判を受けるのではないだろうかと言うのです。母は,人々が何を言おうと心配しないようにと父に言いました。主がジョセフを選んだことを知っており,その召しにふさわしい働きをすると分かっていると言ったのです。』
……当時の慣習は,選ばれた人に前もって通知することはなく,大会で名前が読み上げられて支持されるときに自分が任命されたことを知るというものであった。したがって,1910年4月6日にジョセフ・フィールディング・スミスが大会へ向かったときには,自分が選ばれたことは知らなかった。」タバナクルに入ろうとしたとき,会場の案内係に聞かれた。『ジョセフ,だれが新しい使徒になるのでしょうね。』ジョセフはこう答えた。『さあね。でもあなたではないし,わたしでもないでしょうね。』
十二使徒定員会の新しい会員の名前が読み上げられる直前に,ジョセフは自分の名前かもしれないという
その日遅く,帰宅したジョセフは,大会に出席できなかったエセルにその知らせを伝えた。こう言って話を切り出した。「牛を売らないといけないようだ。もう牛の世話をする時間がない。」35
十二使徒定員会会員としての60年間,ジョセフ・フィールディング・スミスは世の中の多くの変化を目にした。例えば,使徒に召されたとき,おもな交通手段として多くの人はまだ馬や馬車を使っていた。定員会での奉仕を終えるころには,責任を果たすためにジェット機で旅をすることが多かった。
1921年の十二使徒定員会。後方いちばん左に立つジョセフ・フィールディング・スミス長老
スミス長老は十二使徒定員会会員を務めながら,義務と責任を伴う多くの職に就いた。使徒として教導の業に携わった最初の8年間,父親の秘書として非公式に務めを果たした。1918年11月に父親が亡くなるまでこの仕事を続けた。この役割の中で,父親が死者の
スミス長老は次のような職を歴任した。教会歴史家補佐,教会歴史家(約50年間),ソルトレーク神殿会長会顧問,ソルトレーク神殿会長,ユタ系図歴史協会会長,『ユタ系図歴史機関誌』(Utah Genealogical and Historical Magazine)の初代編集長兼営業部長,教会教育管理会の教育理事会理事長。また,教会出版委員会委員長も務め,レッスン手引きやその他の教会出版物が作成される前に何千ページもの原稿を読むことが求められた。
1950年10月6日,十二使徒定員会会長代理に任命された。1951年4月までその職にあり,同月,十二使徒定員会会長に任命された。1951年4月から1970年1月まで会長を務め,1970年1月に大管長に就任した。また1965年から1970年まで,十二使徒定員会会長の責任を果たし続けながら,大管長会顧問も務めた。
厳しい警告と優しい
赦
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総大会の初めての説教の中で,ジョセフ・フィールディング・スミス長老は,「教会を管理する権能を持つ人々の行動を批判」しようとする人に率直に語りかけた。そして,次のように厳しく言明したのである。「教会員としての資格を持つそのような人々に警告したいと思います。悔い改めて主に立ち返るように申し上げます。さもないと主の裁きが下されます。また信仰を失って,真理の道からそれることでしょう。」36
教導の業を通して,長老は警告の声を上げ続けた。かつて次のように述べた。「シオンのステークを巡回しながら主の
この冷徹で率直な教え方を和らげるかのように,もう一方では人々に優しく親切であった。あるとき,ボイド・K・パッカー長老はこのような場面に居合わせた。ジョセフ・フィールディング・スミスが教会伝道委員会の会長を務めていたときのある会合でのことであった。二人の宣教師が教会所有の車を運転中に遭った事故に関する報告書が提出された。ある高齢の野菜販売業者のトラックが一時停止標識を無視し,宣教師の車が側面をぶつけられて大破した。トラックの運転手は警察に呼び出された。保険には入っていなかった。幸いにも,宣教師は大したけがをしなかった。
委員会の委員たちがその件について検討している間,スミス長老は黙って座っていた。委員たちはしばらく話し合った後,宣教師管理部の実務運営ディレクターに,弁護士を雇い,裁判にかけるよう指示した。
「そのときに初めて,スミス会長は,その処置に同意するかと聞かれた。会長は穏やかに答えた。『ええ,そうすることもできますね。強力に推し進めれば,その気の毒な人からトラックを取り上げることもできるでしょう。でも,そうなったら,どうやって生計を立てるのでしょうか。』
『わたしたちは少し恥ずかしくなり,互いに顔を見合わせました』とパッカー長老は述べている。『そこで,教会が宣教師用の車をもう一台購入し,伝道を続け,この問題にはもう関与しないことにしました。』」38
「思いやりと愛にあふれた夫であり父親」
スミス長老が使徒に召されたとき,ジョセフィンとジュリナ,そしてエセルの最初の子供エミリーの3人の子供がいた。7か月後,もう一人の娘が誕生した。エセルとジョセフはナオミと命名した。難産であったため,ナオミは生育が困難で,長く生きられないのではないかと家族は心配した。しかし,後に父親が述べたように,彼女は「呼吸ができないように思われたが,祈りと
スミス長老は使徒の責任を果たすため長期間家を留守にすることが多かった。しかし,家にいるときは,家族に心を向けた。妻のエセルは夫をこう描写している。「思いやりと愛にあふれた夫であり父親です。人生最大の望みは家族を幸せにすることであり,そのために努力することに我を忘れて没頭しました。」40
スミス家の子供たちは,ある人々が父親について抱いている印象を聞くと,笑いをこらえられなかった。とても厳格な人という印象を持たれていたのである。「あるとき,……彼が子供を正しくしつけることの重要性についてかなり厳しい説教を述べた後,ある女性が心配して,彼の二人の幼い娘たちに近づいて来て,同情心を示してこう言った。『きっとお父さんはあなたたちをぶつのね。』この非難の言葉を聞いて,娘たちはくすくす笑った。その女性よりも娘たちの方が父親のことをずっとよく知っていた。父親が子供を傷つけるようなことは一度もなかった。長い旅から帰って来ると,「子供たちは喜び勇んで駅へ迎えに行くときから,数日後にまた悲しい別れを告げるときまで,ずっと楽しい時間を過ごした。」ゲーム,パイやアイスクリーム作り,ピクニックを楽しみ,列車に乗り,近くの渓谷や湖へ行った。世界各地の教会を訪問した話を聞いて楽しんだ。41また一緒に働き,家事をこなすのに忙しい日々を送った。42
スミス長老の息子たちはスポーツをしていたので,子供たちの試合をできるだけ見に行った。43一緒にスポーツを楽しむこともあり,特にハンドボールをした。子供たちと一緒に楽しんだが,競争心も
悲しみと希望
スミス長老が責任のために家を留守することは,エセルと子供たちにとってつらいことだった。また長老にとっても,数週間も離れていることは苦痛だった。1924年4月18日,長老はあるステーク大会を管理するために列車で旅をしていた。エセルは当時妊娠7か月で,家で子供たちの世話をするのに精一杯だった。妻への手紙の中で,長老はこう述べている。「あなたのことを思っている。これから数週間,いつもあなたのそばにいて,世話をすることができればどんなにいいだろう。」45家のことを思いながら,手紙の最後に自分が作った詩を書いた。その詩の言葉の幾つかは,「旅は長く思えるか」(Does the Journey Seem Long?)という題名が付けられ,教会の多くの賛美歌集(英文)に収められている。
旅は長く思えるか
道は険しいか
いばらやとげにふさがれて
とがった石で足を切る
苦しい登り道
昼の日差しは暑く
気力を失い,悲しみに暮れ
心は疲れ果てる
労苦を背負い
重荷に耐えかねて
荷を下ろさざるを得ないか
重荷を分かつ人はいないのか
くじけずに進もう
旅は始まったばかり
手招きする御方を
喜んで見上げよう
差し出される手を取って
新しい高みへと導かれよう
1933年から,スミス家の幸福は時々,スミス長老が9年前に詩に書いたように「労苦の重荷」により遮られた。エセルは「理解しがたい恐ろしい病気」を患い始めた。「時には深いうつ状態に落ち込むかと思うと,時には精神を制御できなくなり,消耗した身体をさらに駆り立てた。家族の優しい愛と支え,祈りと祝福,入院治療さえも役立たないようだった。」474年間の闘病後,1937年8月26日にこの世を去った。妻の死について,傷心の夫はこう記している。「これ以上に良い女性,また誠実な妻そして母親はほかにはいない。」48深い悲しみに暮れる中で,自分とエセル・レイノルズ・スミスは神聖な結び固めの聖約により永遠に結ばれているという知識に慰めを見いだした。
新たな友情から結婚へ
エセルが亡くなった後も,スミス家にはまだ5人の子供たちが住んでいた。二人は間もなく家を出ることになっていた。アメリアは婚約し,ルイスは専任宣教師になる準備をしていた。そこで,16歳のレイノルズ,13歳のダグラス,10歳のミルトンが残ることになる。母親を亡くしたこの息子たちのことを心配したジョセフ・フィールディング・スミスは,再婚することを考えた。
このようなことを考えていたスミス長老は,間もなくジェシー・エラ・エバンズに目を留めた。モルモンタバナクル合唱団の著名なソリストであった。スミス長老はエセルの葬儀で独唱したジェシーに感謝の手紙を送り,それがきっかけで,電話で会話を交わすようになった。それ以前には互いを知らなかったが,二人はすぐに良い友達になった。
スミス長老は数日間,ジェシーに求婚することが可能かどうかについて考え,祈った。そしてついに手紙を書き,二人の友情をさらに深めたいという気持ちをそれとなく伝えた。4日後,勇気を出してその手紙を自分で届けることにした。彼女が郡の記録官として働いている役所へ持って行った。後に日記にこう書いている。「郡記録官の事務所へ行った。……重要な職である記録官と面談し,自分が書いた手紙を彼女に渡した。」49翌週,ステーク大会に出席するため列車で旅をした後,スミス長老は帰宅して,再びジェシーに会いに行った。
スミス長老はいつものように率直に日記に書いている。「ジェシー・エバンズ嬢に会い,重要な面談をした。」二人は互いを称賛する気持ちから,長老がジェシーの母親に会い,ジェシーが長老の子供たちに会う機会を計画した。それから1か月足らずの1937年11月21日,ジェシーは婚約指輪を受け取った。1938年4月12日,二人はソルトレーク神殿で,第7代大管長であるヒーバー・J・グラント大管長により結び固められた。50
スミス長老が大管長であったときに大管長会の秘書を務めていたフランシス・M・ギボンズ長老は,ジョセフ・フィールディング・スミスとジェシー・エバンズ・スミスの関係を次のように描写している。「26歳の年齢差をはじめ,気質や背景,教育訓練などの違いにかかわらず,非常に相性のよい二人であった。ジェシーは外交的で活力にあふれ,明るく陽気で,脚光を浴びるのが好きであった。それに対して,ジョセフは物静かで内向的,威厳があり超然としており,公衆の面前に出ることがあまり心地よさそうではなく,自分に注目を引こうとは決してしなかった。この二人のまったく異なる性格の大きな違いを埋めるものは,互いへの真心からの愛と敬意であった。」51この愛と敬意は,ジェシーが結婚するまで一緒に暮らしていた母親ジャネット・ブキャナン・エバンズにも及んだ。エバンズ姉妹は娘とともにスミス家へ移り住み,子供たちの世話を助けた。
ピアノの前で,ジョセフ・フィールディング・スミスとジェシー・エバンズ・スミス
動乱の世の人々を教え導く
新しいスミス姉妹はスミス長老の子供たちや孫たちからジェシーおばさんと呼ばれていたが,しばしば夫に同行してステーク大会へ行った。地元の指導者は集会で歌うようによくスミス姉妹を招いた。また,時には,姉妹が夫を説得して,二人でデュエットした。1939年,ヒーバー・J・グラント大管長はスミス長老夫妻にヨーロッパのすべての伝道部を視察するように割り当てた。
スミス夫妻がヨーロッパへ到着したときには,まだ第二次世界大戦は始まっていなかったが,国々の緊張は高まっていた。8月24日,二人がドイツに滞在中,大管長会はドイツにいる宣教師全員を中立国へ移動させるようにスミス長老に指示した。長老はこの移動の調整をデンマークのコペンハーゲンから行った。宣教師の移動の間,チェコスロバキアの伝道部会長のウォーレス・トロント会長は妻のマーサと子供たちを安全のためにコペンハーゲンへ送ることが必要であると考えた。しかし,残っている4人の宣教師が安全に避難するよう図るために,自分は後に残った。数日が過ぎたが,伝道部会長一行から何の連絡もなかった。マーサは後にこう回想している。
「ついに,ドイツを出発するすべての列車,フェリー,船の最終便が出る日が来ました。ウォーリー〔トロント会長〕と4人の若い宣教師がフェリーの最終便に乗って自国の港へ向かうように祈りました。刻一刻と心配と不安の度合いを増していくわたしの様子を見て,スミス会長はわたしの所へ来て,優しくわたしの肩に腕を回して言いました。『トロント姉妹,トロント兄弟と宣教師たちがこのデンマークの地に到着するまでは,この戦争は始まりません。』夕方近くになって,電話が鳴りました。……ウォーリーからでした。5人ともイギリス公使館員一行と一緒に,一行のために手配された特別列車でチェコスロバキアを出て,最後のフェリーに乗ってドイツを出て,今〔デンマークの〕海岸にいて,コペンハーゲンに向かう船を待っているとのことでした。伝道本部の人々と350名の宣教師が感じた
スミス長老は,避難してきた非常に多くの宣教師を入国させてくれたデンマークの国民に感謝した。そうした寛大さゆえに,デンマーク人は戦争中に食料不足で苦しむことはないと,スミス長老は戦争が始まったときに預言した。数年後,「デンマーク国民は恐らくヨーロッパの他のどの国民よりもうまく戦争を切り抜けた。デンマークの聖徒たちは,オランダやノルウェーの困窮した聖徒たちに救援物資を送ることさえできた。会員数は着実に増え,デンマーク伝道部の
戦争が始まると,スミス長老は,ヨーロッパで奉仕していた697名のアメリカ人宣教師の避難を進めた。宣教師の中には地方部や支部の指導者を務めていた者がいたため,スミス長老はこれらの指導者の責任を地元の会員へ移行させた。この任務を果たした後,スミス長老はジェシーと一緒に船で故国へ向かった。ニューヨークから列車に乗り,7か月ぶりに家に着いた。
スミス長老は,アメリカ人宣教師たちが無事に故郷へ帰ることができたのを喜んだが,母国で戦禍に見舞われている罪のない人々について心配した。長老はこう書いている。「伝道部を閉鎖したときに集会を開いて人々と握手する度に,胸が痛んだ。皆,温かいあいさつを交わしてくれた。人々の〔友情〕はわたしにとって,恐らく彼らには分からないほど大きな意味を持っていた。中には,涙を流し,大きな苦難が差し迫っており,もうこの世で再び会うことはできないだろうと言う人もいた。今でも気の毒に思い,この恐ろしいときにあって主が彼らを守ってくださるように毎日祈っている。」54
スミス長老の息子のルイスは,第二次大戦が始まったときにイギリスにおり,故国へ帰る宣教師の最後のグループにいた。55約2年半後,ルイスは大西洋を再び渡った。今度は兵役に就くためである。スミス長老はこう書いている。「このような状況は我々皆にとって悲しい。人の邪悪さのために,清く正しい人々が全世界で繰り広げられている紛争に巻き込まれているのは遺憾なことである。」56
1945年1月2日,スミス長老は電報を受け取り,息子が国家のために従軍中に亡くなったと知らされた。長老はこう書いている。「この知らせは非常に大きな衝撃だった。息子は間もなく合衆国へ戻って来るという大きな希望を持っていたからである。以前に何度か危険を逃れてきたので,守られるだろうと思っていた。まさかこのようなことが起きようとは,とうてい理解できなかった。……衝撃はあまりにも大きかったが,息子がこの世や軍隊に
信頼される教師であり指導者
十二使徒定員会会員として,ジョセフ・フィールディング・スミスは,しばしば末日聖徒の前に立ち,イエス・キリストについて
スミス長老の説教を聞いたり,著書を読んだりすることにより,教会員は長老を福音の学者として信頼するようになった。さらに,主を信頼し,主に従うようになった。N・エルドン・タナー管長が述べたように,ジョセフ・フィールディング・スミスは「福音の原則を一つ一つ実践し,言葉と筆によって教え,無数の人々の生活に影響を与えた。次の事柄を知っており,それについてだれの心にも疑いを生じさせなかった。神は生ける神であり,わたしたちは神の霊の子供である。イエス・キリストは肉における神の独り子であり,わたしたちが不死不滅を享受できるようにするために御自分の命をささげられた。わたしたちは福音を受け入れ,福音に従って生活することにより,永遠の命を享受することができる。」58
ブルース・R・マッコンキー長老はこう述べている。
「ジョセフ・フィールディング・スミス大管長の生涯と働きには,次の3つの特徴があります。
1.主に対する愛,また主の戒めを守り,主に喜んでいただける事柄を行うことによってその愛を示そうとする無条件の揺るぎない忠誠心。
2.預言者ジョセフ・スミス,および預言者を通じて回復された永遠の真理に対する忠誠心。殉教者として死んだ祝福師の祖父ハイラム・スミス,ならびに父親ジョセフ・F・スミス大管長に対する忠誠心。ジョセフ・F・スミスの名前は,わたしたちが生きることができるように御自分の血を流されたお方の大義のために雄々しく堪え忍んだ者として,日の栄えの王国で永久に尊ばれている。
3.福音に対する学識と霊的な洞察力。義を説く者としての不断の努力。飢えている人に食べさせ,着る物のない人に着せ,夫に先立たれた女性や父親のいない子供を訪れ,教えだけでなく模範により純粋な宗教を明らかにした行動。」59
スミス会長とともに十二使徒定員会の幹部を務めた兄弟たちは,彼が賢明で思いやりに満ちた指導者であると考えていた。80歳の誕生日を記念して,十二使徒定員会の会員たちが賛辞を記した冊子を出版した。その中にこう書かれている。
「スミス会長の指導の下に十二使徒評議会で働いているわたしたちは,会長の真の気高さをかいま見る機会があります。会長が主の業を前進させる目的のために責任の分担や仕事の調整を行う際に,ともに働く人々に理解と思いやりを示してくださる姿を,わたしたちは日々絶えず目にしています。会長の優しい心と困っている恵まれない人々の福祉に対する会長の深い思いやりを教会員全員が感じることができるように切に願っています。会長はすべての聖徒たちを愛しており,罪人のためにいつも祈っています。
非凡な識別力を持つ会長が最終判断を下す際に用いる尺度には,次の二つしかないように思われます。大管長会の望みは何か。神の王国にとって最も良いのはどれか。」60
大管長
1970年1月18日の安息日の朝,デビッド・O・マッケイ大管長が現世の生涯を閉じた。教会を指導する責任は今や十二使徒定員会のうえにあった。定員会会長は93歳のジョセフ・フィールディング・スミスであった。
1970年1月23日,十二使徒定員会は会合を開き,スミス会長を末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長として正式に支持した。スミス大管長は,ハロルド・B・リーを第一顧問,N・エルドン・タナーを第二顧問に選んだ。そして,この3人が新たな責任を果たすように任命された。
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長と大管長会顧問のハロルド・B・リー管長(中央)とN・エルドン・タナー管長(右)
その会合に出席していたエズラ・タフト・ベンソン長老はこう回想している。「新たな指導者が選ばれ任命されたとき,会合にはすばらしい一致の精神があふれ,兄弟たちは互いに抱き合いながら親愛の情を示しました。」61
ボイド・K・パッカー長老は,スミス大管長の召しについて個人的な
「ある金曜日の午後,週末の大会訪問について考えながら事務室を出て,エレベーターが5階から降りて来るのを待っていました。
エレベーターのドアが静かに開くと,ジョセフ・フィールディング・スミス大管長が立っていました。大管長の執務室は下の階にあるので,大管長の姿を見て一瞬驚きました。
エレベーターのドアの所に立っている大管長の姿を見て,そこに神の預言者が立っているという強い証を得ました。純粋な知性と何か関連のある光のような美しい
スミス大管長の指導の下で教会は発展し続けた。例えば,アジアとアフリカに最初のステークができるなど,81のステークが創設され,会員数は300万人を超えた。ユタ州のオグデンとプロボに二つの神殿が奉献された。
教会は全世界で発展したが,スミス大管長は個々の家庭と家族の大切さを強調した。「教会の組織が現実に存在するのは,家族と個人が昇栄するのを助けるためです。」63また,こう教えている。「この世と永遠にわたって家族は最も大切な組織です。……家族のきずなを強め守るよう主は望んでおられます。」64家族と個人を強める取り組みとして,教会は家庭の夕べをさらにいっそう強調した。これはスミス大管長の父親が大管長を務めていた1909年以来推奨されてきたプログラムである。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長の指導の下で,月曜日が正式に家庭の夕べを行う日として定められた。月曜日には教会の集会を開かないこととし,地元の教会施設は閉じられた。
スミス大管長は高齢にもかかわらず,子供のような謙虚さと若者のような活力をもって召しを果たした。2年5か月間,教会の預言者,聖見者,啓示者を務め,世界中の末日聖徒を鼓舞するメッセージを与えた。
スミス大管長は次のように断言した。「わたしたちは天の父なる神の子供です。」65「わたしたちはキリストを信じ,主に
大管長は聖徒たちに「この世の生き方の多くを捨てる」69ように,しかし世のすべての人を愛し,「一つか二つの悪い習慣を克服するのを助ける努力をしたとしても,なるべく人の良い点を見るように」と勧めた。70また,この「愛と兄弟愛の精神」を示す一つの方法は,福音を伝えること,すなわち「至る所のあらゆる人々に,この時代に啓示された永遠の命の言葉を心に留めるように勧める」ことだと聖徒たちに思い起こさせた。71
大管長は教会の青少年にも手を差し伸べ,多くの若い末日聖徒の集会に参加し,「あらゆる敵対にめげずに堅固な信仰をもって立つ」ように勧めた。72
また,神権者にしばしば語りかけ,神権者は「主の代理となり主の権能を持つように召されている」ことを思い起こさせ,「自分が何者であるかを覚え,それに従って行動する」ように熱心に勧めた。73
大管長はすべての末日聖徒に,神殿の祝福を受け,神殿で交わした聖約を忠実に守り,先祖に代わって神聖な儀式を受けるために神殿に参入するよう勧めた。ユタ州オグデン神殿を奉献する前にこう述べた。「わたしたちが神殿を主に奉献するとき,実際に行うことは,主が意図しておられる方法で神殿を使用するという聖約を交わし,主に仕えるために自分自身をささげることであるということを思い出していただきたいのです。」74
大管長は次のように強く勧めている。「戒めを守るように。光の中を歩むように。最後まで堪え忍ぶように。すべての聖約と義務に忠実であるように。そうすれば,主は,あなたが夢見ている最も好ましいものに勝る祝福を与えてくださいます。」75
ハロルド・B・リー大管長は,ブリガム・ヤング大管長の言葉を引用して,スミス大管長の影響力と指導力について次のように述べた。「ヤング大管長はこう述べています。『わたしたちが神聖な宗教を実践して,霊が主権を握る生活をするなら,宗教は退屈でつまらないものにはならないでしょう。肉体が死を迎えるとき,霊はあの永久に
このようなことをわたしたちは何度も目にしてきました。非常に重要な問題,すなわち大管長だけが決断すべき問題について話し合っているときのことです。このような光輝く知恵が現れるのを見たのです。それは〔スミス大管長〕が心の奥深くから引き出した事柄について述べたときです。明らかに,大管長自身が当時理解していることを超えたものでした。」76
「主から召され……ほかの働きに,またいっそう大きな働きに」
1971年8月3日,ジェシー・エバンズ・スミスが世を去り,ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,3度配偶者に先立たれることとなった。その結果,スミス大管長は娘のアメリア・マッコンキーとその夫ブルースと一緒に暮らすことになった。ほかの子供たちは定期的に大管長を訪れ,車に乗せて連れ出した。大管長は,週日は毎日執務室へ行き,集会に出席し,また教会の任務を果たすために旅をした。
1972年6月30日,スミス大管長は一日の終わりに教会執務ビルの1階にある執務室を出て,秘書のD・アーサー・ヘイコックと一緒に教会歴史家事務局へ行った。そこは大管長になる前に働いていた場所であった。そこで働く全員にあいさつしたいと思ったのである。握手をした後,その建物の地階へ行き,そこで働いていた電話交換手やその他の人々と握手し,感謝の気持ちを伝えた。それが事務所で過ごした最後の日であった。
1972年7月2日の日曜日,大管長は96歳の誕生日を迎えるわずか17日前,所属ワードの
今や地上における先任使徒となったハロルド・B・リー会長は,スミス大管長の逝去の知らせを聞き,マッコンキー家を訪ねた。リー会長は「静かに長いすに歩み寄り,ひざまずき,両手で預言者の手を握り,何も言わずにそのまましばらくじっとしていた。祈っているか,
「献身的に神に仕える人」への弔辞
スミス大管長の葬儀で,N・エルドン・タナー管長は,大管長を「献身的に神に仕える人」と呼んだ。すなわち,「神と
ハロルド・B・リー会長はこう述べている。「タナー兄弟とわたしは,この2年半の間,この方を愛してきました。見せかけではありません。大管長が愛してくださったので,わたしたちも大管長を愛してきたのです。またわたしたちを支え,信頼してくださったので,わたしたちも大管長を支えてきたのです。」80
スミス大管長に対して批判的であり,60年以上前の十二使徒会への召しに疑問さえ呈した新聞社が,ここに至って次のような賛辞を公表した。「ジョセフ・フィールディング・スミスは,自分の信条を確固として曲げなかったが,どこでも人々の基本的な必要に心を向ける優しさを持ち,同僚には賢明な勧告を与え,家族を温かく世話し,優れた指導力を発揮して教会の責務を果たした。懐かしく慕われ,特別な尊敬の念をもって覚えられることだろう。」81
恐らく最も意義深い賛辞は,家族の一員であり,スミス大管長の義理の息子であるブルース・R・マッコンキー長老の言葉であろう。マッコンキー長老は,スミス大管長について「神の息子,イエス・キリストの使徒,至高者の預言者,そしてとりわけイスラエルの父」と述べ,こう預言した。「今後も長い間,彼の声は土の中から語り,まだ生まれていない多くの世代の人々が彼の著書から福音の教義を学ぶことでしょう。」82
皆さんが本書を研究するとき,ジョセフ・フィールディング・スミス大管長の教えは,その預言を成就するでしょう。皆さんが「福音の教義を学ぶ」とき,スミス大管長の声が皆さんに「土の中から」語ることでしょう。