第1章
信仰によって学ぶ
「兄弟姉妹,日々知恵と英知を蓄え,主なる神の名によって努力し続けようではありませんか。そうすれば,どのような事態もわたしたちの益となって働くでしょう。」
ロレンゾ・スノーの生涯から
ロレンゾ・スノーは子供のころ,家族の農場で仕事をしていないときはいつも本を読んでおり,それを家族は「本を抱えて雲隠れ」とよく言ったものだった。姉のエライザは,彼は「学校だけに限らず家でも,常に学生のよう」だったと言っていた。1成長するに従い,彼の学習意欲はさらに高まっていった。実際,教育は青少年時代の「最大の関心事」だったと彼は話している。2幾つか公立学校に通った後,1835年にオハイオ州にある私立のオバーリン大学で学び,1836年には,エライザの招きを受けてオハイオ州カートランドに移ることとなった。彼がまだ教会に入る前のことである。カートランドで履修したヘブライ語のクラスには預言者ジョセフ・スミスをはじめ大勢の使徒が出席していた。
バプテスマと確認を受けた後,スノー大管長の関心の中心は「書物による勉強」3から「
ロレンゾ・スノーの教え
学ぶには信仰と努力と根気が必要である
皆さんとわたしが受け入れたこの宗教体系は壮大で輝かしく,日々何かしら新しいことを学ぶことができ,大きな価値があるものです。この宗教から日々学んで得る新たな知識や考え方を受け入れ,蓄えることはわたしたちの特権であるだけではなく,なすべきことなのです。7
そもそもモルモニズムとは何かと言えば,進歩すること,すなわち精神的,肉体的,道徳的,霊的に進歩することです。中途半端な教育は末日聖徒にとって十分ではありません。8
地上で長く生きて経験を積み,知識を得ることは有益です。それは主が言われたように,わたしたちがこの世の人生で得るどのような英知も,復活のときにわたしたちとともによみがえり,人がこの世で知識と英知を多く得れば得るほど,それだけ来るべき世で有利になるからです〔教義と聖約130:18-19参照〕。9
中には学ばない人もいれば,もっと速く進歩できるのに,それほど進歩しない人もいます。それは,目と心が神に向いていないからです。物事を深く考えないために,得られるはずの知識を得ていないのです。受けられるはずのものを多く取り逃すのです。永続する幸せを手に入れる前に,わたしたちは知識を得なければなりません。神にかかわる事柄に関して,神経を研ぎ澄ませていなければなりません。
わたしたちは,今は,時間の使い方を改善したり,知力を向上させたりする努力を怠っているかもしれませんが,いつか,取り組まなければならない時が来ます。歩くべき行程は長く,
頭を働かせなければなりません。つまり,神から与えられた才能を大いに発揮して実際に活用しなければなりません。そうすることで,聖霊の
同じ原則が,神にかかわる事柄に関連するわたしたちのあらゆる行動に当てはまります。わたしたちは努力しなければなりません。……行動を起こさず,怠惰な生活を続けていては何の益も生まれません。どっちつかずのままじっとしていては,何も達成できません。天から示された原則はすべて,わたしたちの人生や救い,幸福にとって益となるのです。11
神がわたしたちに求めておられることを知る努力,言い換えれば,非常に重要な祝福を得るために神が明らかにされた原則を探求する努力は必要ないと,わたしたち末日聖徒は考えているかもしれません。末日聖徒を昇栄に導き,多くの
兄弟姉妹,日々知恵と英知を蓄え,主なる神の名によって努力し続けようではありませんか。そうすれば,どのような事態もわたしたちの益となって働き,わたしたちの信仰と英知を増し加えてくれるでしょう。13〔39ページの提案2参照〕
御 霊 による教育は最大の注意を払う価値がある
何にも増して最大の注意を払う価値のある教育があり,あらゆる人がその教育に励むべきです。それは御霊による教育です。14
たとえわずかであっても,霊的な知識は,単なる意見や概念,考え,あるいは入念に練り上げた論法より,はるかに価値があります。たとえささいであっても,霊的な知識は非常に重要で,最も重んじられなければなりません。15
わたしたちはこの世の富を求める一方で,自らの霊的進歩をおろそかにしてはなりません。この世での祝福と快適さを追い求めるのと同様に,光と知識の原則に従って成長するという目的に向けてあらゆる努力を傾けることは,わたしたちの義務なのです。16
この世の財産を得ることに熱心なあまり,思いが一方に傾きすぎて,霊的な富を顧みなくなるとしたら,わたしたちは賢い管理人ではありません。17〔39ページの提案3参照〕
福音の原則を繰り返し聞くことによって益を得る
〔幾つかの原則については〕これまでに恐らく何百回も聞いていることでしょう。それでもわたしたちは,これらの原則を何度でも教わる必要があるようです。それはわたしが教義と聖約の書を読んでいて気づいたことと似ています。この書物に書かれている啓示を繰り返し読んでいるにもかかわらず,その同じ啓示を読む度に新しい考察を得るのです。皆さんも同じ経験をしていることと思います。もしそうでないとすれば,わたしの経験とはずいぶん違います。18
わたしたちはアルファベットを習っている子供と同じです。先生が子供に言います。「これがaです。ちゃんと覚えましょう。」すると子供は「はい,覚えます」と答えます。先生は次の文字を指して,「これはbです。よく見て覚えるように」と言い,「はい」と子供が言います。その後先生はaに戻って聞きます。「この字は何ですか。」しかし,子供は忘れています。すると先生はもう一度それがaという字であることを教えて,bに進みますが,子供はそれも忘れています。そこで先生はもう一度bを教えます。朝の授業はこのような様子でした。午後になって子供はまた質問されますが,またしても二つの文字を忘れていて,再度教えてもらわなければなりません。こうして,レッスンは何度も繰り返す必要があります。経験の浅い先生なら,これからも同じことを繰り返し教えなければならないのかと考え,がっかりしてしまうに違いありません。末日聖徒にも同じことが言えます。同じことを繰り返し聞いてうんざりするかもしれませんが,完全に理解するには,何度も学ばなければなりません。わたしたちは学ばなければならないのです。末日聖徒は最終的に神のすべての律法と戒めを学び,それらを厳格に守ることができるようになることをわたしは知っています。しかし,わたしたちはまだその段階に到達していません。19〔39ページの提案4参照〕
ともに福音を学ぶとき,教師と生徒の双方に御霊の導きが必要である
〔教師〕が人の前に立つとき,知識を伝えるためにその場にいることを自覚していなければなりません。そうすることで,人々はさらなる光を受け,
それを可能とするために,教師は頭を働かせ,信仰の力を働かせなければなりません。また,心を尽くして主なる神の
わたしが末日聖徒に望むことは,この大会で長老たちが前に立って話をするときに,話者一人一人のために信仰を働かせて祈ることです。それは,話者がわたしたちのすべてに益となる話ができるようにするためであり,そして,わたしたちも益となるものを受け入れる霊を持つことができるようにするためです。これはわたしたちの特権であり義務です。わたしたちは偶然ここへ来たのではありません。わたしたちは何かしら有益なものを得ることを期待してこの大会に来ているのです。21
〔話者が〕皆さんの知りたい事柄を語るよう,また皆さんに役立つ事柄を提案できるように,皆さんは主に求めるべきです。皆さんが理解できない何らかの答えを求めている場合には,その悩みに関して導きとなる言葉を〔話者が〕語れるように祈ってください。そのようにするなら,大会は皆さんにとってすばらしい,輝かしいものとなります。過去のどの大会より良いものとなるでしょう。不思議に思えるかもしれませんが,すぐ前の大会がいつも最高の大会だったように思えます。今回の大会がそのような大会になりますように。そして兄弟姉妹の皆さん,幹部の兄弟たちが皆さんに話をしている間,心を高めて主の方に向け,信仰を働かせてください。そうするならば,失望することはありません。必ずや,大いなる祝福を豊かに受けたと感じながらこの大会を後にし,家路に就くでしょう。22
今わたしの前にいる会衆の中に,総大会でともに集うために遠くから来た人も大勢いると思います。皆さん一人一人が,純粋な動機に促されてこの場に集まっているでしょう。神の王国で役立つ者として完全となるように成長することを願って来ているのです。その思いがかなわずに落胆しないためには,大会の進行中,話者が主の御霊に導かれて提案することを受け入れて益とするよう,自身の心を備えなければなりません。わたしたちが教化されることに関しては,話者の責任にも増して,わたしたち自身に責任があると思ってきましたし,今もそのように思っています。23
わたしたちが……ともに集うとき,話をする人たちから教えを受けることは,わたしたちの特権となります。何ら教えを受けなかったとしたら,普通,落ち度はわたしたちにあります。24
一部の人の中に見られる態度は,わたしが弱さだと考えてきたものです。彼らは集会にやって来ても,役立つ教えや,義にかなって成長させてくれる教えを受けることよりもむしろ,……話者の雄弁さを楽しんだり,鮮やかな弁舌に酔いしれたりしています。また,話者の姿を見たいために,あるいは,話者の人格をあれこれ憶測しようという目的で来ています。……
……たとえどんなに大切で価値ある考えが語られたとしても,わたしたちに与えられている能力を働かせず,主の御霊を得なければ,話者を通して得られるものはほとんどありません。反対に,聞く者が努力するなら,話者の話し方は非常につたなくても,……話者によって思いを満たされないまま会場を後にすることなど決してないとすぐに分かるでしょう。25
末日聖徒に最も役立つものは,長い説教によって常にもたらされるとは限りません。わたしたちは様々な説教を聞きながら知識や教えを受けたり,ある原則が突然理解できたりすることがあります。それが後になって価値あるものとなるのです。26
わたしたちは神を礼拝し,地上で真理の大義を推し進めるのに必要な務めを行うために集まっています。どのような教えを受けるかは,おもにわたしたちの心の状態にかかっています。この世的な事柄を心から払いのけ,この大会の目的に注意を集中するべきです。27
知識と霊的な理解を得ることに関して,わたしたちは完全に主に頼っています。わたしたちはそのように感じています。ですから,自らの信仰をどれくらい働かせているかに応じて,わたしたちは主の
研究とレッスンのための提案
本章を研究する際,またはレッスンの準備をする際に,以下の項目について深く考える。そのほかの提案については,ⅴ-ⅶページを参照する。
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33ページに書かれている,スノー大管長が学ぶために生涯を通じて払った努力について復習してください。人は何に促されて一生学び続けるのでしょうか。あなた自身がどのように学んでいるか考え,生涯学び続けられる方法について深く考えてください。
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福音を学ぶための努力と忍耐に関するスノー大管長の勧告を研究してください(34-35ページ)。真剣に努力するとき,あなたの個人学習はどのように変わりますか。子供や青少年が努力して学ぶために,どのように助けることができますか。
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スノー大管長は聖徒に対し,「御霊による教育」を熱心に求めるよう勧めています(35-36ページ)。「御霊による教育」はあなたにとってどのような意味がありますか。世の富に焦点を当てすぎた教育はどのような結果を招くでしょうか。
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アルファベットを学ぶ子供の例(36ページ)は,福音を学ぼうと努力するわたしたちとどのような共通点がありますか。これまで古代と末日の預言者の言葉を研究してきて,繰り返し教えられてきた原則にはどのようなものがありましたか。
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教会のクラスや集会で学ぶためには,どのように心を備えたらよいでしょうか。
聖 餐 会や大会でただ話を聴いているときにも学ぶには,どのように努力すればよいでしょうか(例として,36-39ページ参照)。
関連聖句-2ニーファイ9:28-29;28:30;モーサヤ2:9;教義と聖約50:13-22;88:118,122;136:32-33