ロレンゾ・スノーの生涯と教導の業
1835年のある日のこと,21歳のロレンゾ・スノーは両親の家を後にし,オハイオ州オバーリンにあるオバーリン大学を目指して馬を走らせていた。その短い旅で経験したあることが,自らの人生に転機をもたらすことになるとは思ってもいなかった。
オハイオ州にあった故郷マンチュアの道を走っていく途中で,ロレンゾは自分と同様,馬に乗った男性に出会った。その男性とは主イエス・キリストの使徒に聖任されて間もないデビッド・W・パッテンであった。彼は伝道を終え,末日聖徒の住むオハイオ州カートランドに戻るところだった。二人はおよそ30マイル(50キロ)の道のりを旅した。ロレンゾ・スノーはそのときのことを後にこう語っている。
「わたしたちの会話はいつしか宗教や学問のことに及びました。まだ年が若く,かなりの学歴があると自負していたわたしは,最初,彼の見解を軽視しがちでした。彼の言葉遣いに時々文法的な誤りがあったのでなおさらでした。しかし,救いの計画について語り続ける彼の熱意と
パッテン長老に会ったとき,ロレンゾ・スノーは末日聖徒イエス・キリスト教会の会員ではなかった。しかし,教会の教えについて幾らかの知識はあった。実際,スノー家は預言者ジョセフ・スミスの訪問を受けたこともあったのである。また,ロレンゾの母親,そして姉のレオノラとエライザはバプテスマと確認を受け会員となっていた。ただ,自らも語っているように,ロレンゾは当時「ほかのことをするのに忙しく」,教会に関連することには「まったく関心を示さなかった。2このような状況を変えるきっかけとなったのがパッテン長老との会話だった。このときの経験についてロレンゾは次のように述べている。「それはわたしの人生にとって重大な転機となりました。」3パッテン長老との会話の中で何を感じたのか,ロレンゾは次のような言葉で語っている。
「わたしは強く心を刺される思いがしました。明らかに彼は自分の語っていることは真実だと知っていました。証を述べて,話し終えようとしていたとき,夜寝る前に主に心を向けて,主に直接尋ねるようにとわたしに勧めたからです。わたしはこれを実行に移しました。結果的に,この偉大な使徒に会ったその日から,わたしの心の思いは,計り知れないほど大きくなり,高められました。」
パッテン長老の「どこまでも誠実で熱心な態度と霊的な力」4は,将来,使徒として奉仕することになる一人の若い男性に尽きることのない影響を及ぼした。また,パッテン長老との静かな会話が転機となり数々の経験をするに至ったロレンゾ・スノーは,末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長,すなわち地上における神の代弁者となるよう備えられた。
信仰と勤勉を伝統とする家庭に育つ
1800年5月6日,オリバー・スノーがロゼッタ・レオノラ・ペティボーンと結婚したときに,信仰にあふれ宗教的伝統を重んじる二つの強固な家族が一つに結び合わされた。新郎と新婦は最も初期にヨーロッパから合衆国へと移り住んだ開拓移民,すなわち1600年代に宗教的な迫害を逃れて大西洋を横断したイギリス人入植者の子孫だった。オリバーとロゼッタは結婚してから最初の数年間をマサチューセッツ州で過ごしたが,その間に娘のレオノラ・アビゲールとエライザ・ロクシーが生まれた。その後,家族は当時の合衆国で最も西部にあった開拓地の一つ,オハイオ州マンチュアに移った。彼らはこの地域に移り住んできた11番目の家族だった。マンチュアでさらに家族が増え,二人の娘,アマンダ・パーシーとメリッサが生まれた。オリバーとロゼッタの5番目の子供であり長男のロレンゾは,1814年4月3日にマンチュアで生まれた。後にロレンゾの弟,ルシアス・オーガスタスとサミュエル・ピアースが生まれた。5
家族の伝統に基づき,オリバーとロゼッタは子供たちに信仰,勤勉,そして教育の大切さを教えた。数々の困難を耐え抜き,堅固な家庭を築くに至るまでの話を両親から聞かされたことで,子供たちは落胆を克服し,日々の生活に注がれる神の祝福に感謝することを学んだ。エライザは次のように書いている。「わたしたちは両親について心からこう言うことができます。父と母は,紛れもなく高潔な人たちでした。周囲の人々とのつきあいにおいても,仕事上の取引においても全面的に信頼されていました。勤勉,節約,厳格な道徳観念を身に付けることができるように子供たちをよく訓練しました。」6ロレンゾは,「思いやりと優しさ」が身に付くよう,いつも両親から訓練を受けたことに感謝している。7
ロレンゾは成長し,この世の活動にも知的な活動にも勤勉に取り組んだ。父親は地域社会に奉仕し「公的な仕事」に携わっていたために,家を空けることが多かった。オリバーが不在のとき,ロレンゾは,長男として,農場の切り盛りを任された。ロレンゾはこの責任を真剣にとらえ,立派にやり遂げた。仕事の手が空くと,ロレンゾはたいてい本を読んでいた。「ロレンゾが本を手放すことはありませんでした。」エライザはこう語っている。8
ロレンゾの人格がどのように形成されていったかについて振り返り,エライザはこう述べている。「幼いころから,〔彼は〕その後の生涯における成長を特徴づける行動力と決断力を発揮しました。」9
若者特有の望みを卒業する
オリバー・スノーとロゼッタ・スノーは,宗教について中立な立場で学ぶよう勧めた。子供たちに様々な教会について学ぶことを許し,「あらゆる宗派の善良で知性的な人々」に自分たちの家を開放した。そのような両親の勧めがあったにもかかわらず,ロレンゾは「宗教的な事柄にほとんど,あるいはまったく関心を示さなかった。ましてやある特定の宗教に加わりたいという望みなどなかった。」10軍隊の司令官になるのがロレンゾの夢であり,その夢は人生のいかなる影響力にも勝っていた。それは「彼が争いを好むからではなく,軍人として生きることに伴う冒険と騎士道精神にあこがれていた」からであったと歴史家のオーソン・F・ホイットニーは記している。11しかし,間もなくして,この望みは他の望みに取って代わった。「大学教育」12を受けるために,家を離れ,近くにあったオバーリン大学に入学したのである。
ロレンゾはオバーリン大学で学ぶうちに,新たな視点から宗教に興味を持ち始めた。パッテン長老と交わした会話の影響がまだ残っていたことから,回復された福音の教義について思い巡らし,さらにはオバーリン大学の生徒と,また牧師となるために学んでいる生徒とすら,その教義を分かち合ったのである。カートランドの聖徒と合流していた姉のエライザにあてた手紙の中で,ロレンゾは次のように書いている。「牧師や牧師を目指す人々に対してモルモンの教えを擁護するという点で,わたしはかなりの成功を収めています。確かに,多くの人々を改宗に導いたわけではありませんし,わたし自身もまだ改宗していませんが,モルモンの教えに何か深遠な〔知恵〕を感じると九分どおり認めてくれた人たちもいます。しかし,オバーリンの学生はモルモンの教えに対して根強い偏見を抱いており,その偏見を取り除くのは容易なことではありません。」
その同じ手紙の中で,ロレンゾはエライザから受けた勧めに返事を書いている。エライザはロレンゾがカートランドで自分とともに生活し,ジョセフ・スミスや十二使徒定員会の会員も参加するクラスでヘブライ語を学べるよう調整していたのである。ロレンゾはこう書いている。「お姉さんがカートランドでほんとうに幸福な生活を送っていることを知りうれしく思います。現在のところそちらに引っ越すつもりはありませんが,こちらと同様に教育を受ける機会があるのであれば,試しに引っ越してもかまわないような気もします。と言うのも,何より,このオバーリンで自分がこれほど長い間擁護し,支持する努力を払ってきた教えを実際にこの耳で聞くのは,興味深く,無駄なことではないかもしれないと思うからです。」
ロレンゾは末日聖徒イエス・キリスト教会の教義に感銘を受けてはいたが,教会に加わるのをためらっていた。しかし,興味はあった。エライザへの手紙の中で,ロレンゾは教会について幾つかの質問をした。牧師になるために準備をしているオバーリンの生徒についてこう語っている。「彼らは,7年以上もの年月をかけて難しい勉強をしなければ,天に神がおられることを異教徒に伝えることができません。弁護士がある特定の資格を持っていなければ,法廷で語ることができないのと同じです。」これとは対照的な姉の教会について,ロレンゾは次のような感想を述べている。「お姉さんの教会では,教義を
ロレンゾはオバーリン大学で友人ができ,教育を受けたことには感謝した。しかし,そこで与えられる宗教上の教えに対しては不満が募る一方だった。とうとうロレンゾは退学し,カートランドでヘブライ語を学ぶという姉の勧めに従った。彼は合衆国東部にある大学に行く準備ができるようヘブライ語のクラスにだけ出席したと語っている。14しかし,エライザも指摘しているように,ヘブライ語の学習に加えて,「彼は永遠の福音について多くのことを学び,その福音を信じるいきいきとした信仰で満たされた。15やがてオバーリン大学で尋ねた質問に対する答えを見いだしたロレンゾは,1836年6月,この神権時代における最初の十二使徒定員会の一員であったジョン・ボイントンからバプテスマを受けた。また,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員に確認された。
2週間ほどたって,ロレンゾは友人からこう尋ねられた。「スノー兄弟,バプテスマを受けた後で聖霊は受けましたか。」ロレンゾはこう振り返る。「その質問に大きな衝撃を受けました。必要なものはすべて受けたはずですが,期待していたものは受けていなかったからです。」つまり,確認は受けたものの,聖霊の特別な現れは受けていなかったのである。「自分の取った行動には満足していましたが,自分自身には満足していませんでした。そのような気持ちを抱いたまま,夜になって,わたしは祈りをささげるために使っていたいつもの場所に入って行きました。」ひざまずいて祈り始めると,ロレンゾはすぐに祈りの答えを受けた。「その経験が消し去られることは,記憶のあるかぎり絶対にありません。」彼は後にこう断言している。「……わたしは神がおられ,カルバリの丘で亡くなられたイエスが御子であられ,預言者ジョセフが,自らも公言したように,権能を受けたという完全な知識を受けました。その現れがもたらした満足と栄光は,いかなる言葉をもってしても表現することができません! それからわたしは家に帰りました。今やわたしは,神の御子の福音が回復され,ジョセフが主の
この経験によって強められたロレンゾは宣教師となる準備をした。姉のエライザが言うように,改宗したことによってロレンゾの望みは変わり,「目の前に新しい世界が開かれた。」エライザはこう語っている。「彼は今やこの世の軍人として名を成すのではなく,天の軍勢とともに勝利者を選ぶ競技場へと足を踏み入れたのです。17
専任宣教師として様々なチャレンジにこたえる
1837年の春,ロレンゾ・スノーはオハイオ州で伝道活動を開始した。教会に入ろうと決心したときと同様,専任宣教師として奉仕しようと決心したときも,自分の物の見方や計画を変えなければならなかった。日記にこう記している。「1837年,〔わたしは〕自分が支持していたすべての考え方を完全に捨てた。」18ロレンゾは合衆国東部の大学で「古代ギリシャ・ラテン文学」の道に進む計画をあきらめた。19また,財布も旅の袋も持たずに旅をする,言い換えれば,食物と住まいを提供してくれる人々の善意に頼り,金銭を持たずに出て行くという点に関して同意した。これはロレンゾにとって何よりも難しいことだった。父親の生活手段であった農場を手伝うことで収入を得,幼いころからいつも自分の出費は自分で賄うことが大切だと感じていたからである。彼はこう語っている。「信条的に,わたしは食物や住まいのことで人に依存する気にはなれませんでした。どれほどの距離を旅するにしても,父は必ず出費に見合う十分な金銭を持たせてくれました。わたしにとって,出かけて行き,食べる物や
スノー長老のおじ,おば,いとこ,そして友人の中には,スノー長老が宣教師のときに行った最初の集会に出席した人たちがいた。初めて説教をしたときのことを振り返り,スノー長老は次のように語っている。「そのとき,わたしはかなり当惑していました。……そこに立ち,招待されていた自分の
家族と友人に福音を分かち合ったスノー長老は,ほかの都市や町で伝道の働きを続け,1年あまりの間,奉仕した。スノー長老はこう報告している。「この伝道の期間中,わたしはオハイオ州の様々な場所を旅しました。その間,真理に忠実であり続けてきた大勢の人々にバプテスマを施しました。」25
この最初の伝道から帰るとすぐに,スノー長老はもう一度福音を宣べ伝えたいと思った。彼はこう語っている。「伝道の召しに伴う御霊を非常に強く心に感じ,この業に携わりたいと切望しました。」26今度はミズーリ州,ケンタッキー州,イリノイ州,そしてもう一度オハイオ州で回復された福音を
スノー長老とスノー長老が分かち合ったメッセージに反感を抱く人たちもいた。その一例として,スノー長老はケンタッキー州で経験した次のような出来事について語っている。彼の説教を聞くためある人の家に人々が集まったときのことである。説教を終えた後,スノー長老は,家を出たらすぐに自分を襲おうと計画している人たちがいることを知った。スノー長老は当時のことを振り返りこう語っている。その家で「大勢の人々がひしめき合っている中」一人の男性が「たまたまわたしのコートのすそポケットに手を触れ,突然恐怖に襲われたのです」。スノー長老のポケットに何か固いものが入っていると感じ,彼はすぐにこの宣教師は武装していると友人たちに警告した。スノー長老はこう記している。「もうそれで十分でした。無法者気取りの男たちは,その邪悪な計画を放棄したのです。」少し
スノー長老を歓迎し,彼が分かち合ったメッセージを喜んで受け入れた人たちもいた。ミズーリ州にあった入植地では,5人の人を教えたが,その人たちは真冬にバプテスマを受けた。スノー長老たちは儀式が行えるように川に張っていた氷を切り抜かなければならなかった。寒かったにもかかわらず,改宗者の中には,「水の中から出てきたとき,手をたたき,神をほめたたえた」人たちもいた。28
スノー長老が行った最初の2回の伝道は,1837年の春から1840年5月までの期間に及んだ。スノー長老の手紙の抜粋には,主の業に携わったこの時期のことが記されている。「わたしはその年〔1838年-1839年〕の冬の残りを旅と説教に費やしました。成功の度合いや人々から受けた待遇はまちまちでした。これ以上ないほど丁重に受け入れられ,非常に熱心に説教を聞いてもらったこともありますし,口汚く下品な言葉でののしられたこともありました。しかし,わたしが従うと公言しているイエスが受けられたようなひどい仕打ちを受けたことは一度たりともありませんでした。」29「自分が経験した様々な状況について,今振り返ってみると,……驚くとともに感動させられます。」30「主はわたしとともにいてくださり,困難な働きを成し遂げるときに,大きな祝福を与えてくださったのです。」31
イングランドでの伝道
1840年5月の初め,ロレンゾ・スノーはイリノイ州ノーブーの聖徒と合流したが,そこに長く滞在することはなかった。大西洋を横断し,イングランドで伝道する召しを受けたロレンゾは,その同じ月,ノーブーを後にした。イングランドではすでに9人の使徒が伝道していたが,ロレンゾは出かける前に,時間を取り,そのうち何人かの家族を訪問している。
ブリガム・ヤングの家族を訪れたときにロレンゾが目にしたのは,彼らの住む丸太小屋だった。丸太の間にしっくいが施されていなかったために隙間だらけで,「吹きさらし」の状態だった。ヤング姉妹は疲れている様子だった。家族の唯一所有する乳牛がいなくなり,捜しに行ったが見つからず帰って来たばかりだったのだ。厳しい状況に置かれていたにもかかわらず,ヤング姉妹はスノー長老にこう告げた。「見てのとおりですが,わたしのことで決して悩んだり心配したりしないようにと彼〔夫〕には伝えてください。名誉の解任を受けるまで,任地で働き続けてほしいのです。」スノー長老は,ヤング姉妹が「極度の貧困にあえいでいる
スノー長老はイリノイ州からニューヨーク州へと旅し,そこから船に乗って大西洋を渡った。42日間の航海中,船は猛烈な
イングランドでおよそ4か月宣教師として働いた後,スノー長老はさらにもう一つの責任を受けた。現在の地方部会長に似た召し,ロンドン連盟の会長として働くよう任命を受けたのである。その後も,スノー長老は福音を
スノー長老が会長だったときに,ロンドン連盟は著しい発展を遂げた。この成功をスノー長老は喜んだが,その間,指導者としての責任に伴う苦しみも味わった。彼は,十二使徒定員会のヒーバー・C・キンボール長老にあてた手紙の中で,これらの試練を通して,「これまでとはまったく異なる方法で指導者としての責任に取り組んだ」ことを伝え35,さらにこう語っている。「あなたや〔ウィルフォード・〕ウッドラフ長老が言ったとおり,人生とは様々な経験をする学校のようなものです。これはすでに事実となってしまいました。……わたしがここに来てからというもの,聖徒の間で次から次に何か新しいことが起こります。一つのことが終わるとすぐに次のことが起こるのです。」彼は新しい責任を受けてすぐに学んだ一つの真理を分かち合っている。「神がかなりの部分を助けて〔くださらなければ〕,わたしは困難に立ち向かうことができません。」36十二使徒定員会のジョージ・A・スミス長老とも同じような気持ちを分かち合っている。「自分が成し遂げたほんのわずかなことも,実は,自分ではなく神が成し遂げられたのです。イスラエルの教師としての職を尊んで大いなるものとする努力を払う中で,自らの経験を通して完全に理解していることが一つあります。それは自分一人の力では何も知ることができず,何もすることができないということです。また,教会を管理するよう召された人たちの教えや助言に従わなければ,いかなる聖徒も栄えることはできないということをわたしははっきりと理解しています。主の律法を守っているかぎり,主なる神はわたしをその職にあって支えくださるという確信があります。……へりくだり主の前を歩むときに,主はわたしに義にかなって助言を与える力と啓示の霊を授けてくださるのです。」37
福音を宣べ伝え,ロンドン連盟の会長として働くことに加えて,スノー長老は回復された福音について宣教師が説明するのに役立つ教会用小冊子やパンフレットを作成した。『救われる唯一の道』(The Only Way to Be Saved)という表題の小冊子は,後に数多くの言語に翻訳され,19世紀後半を通して使用された。
スノー長老は1843年1月までイングランドで奉仕した。イングランドを離れる前に,彼はブリガム・ヤング大管長から与えられていた責任を果たした。彼はこの責任について日記の片隅に次のように簡単に記録している。「ブリガム・ヤング大管長の要請を受け,モルモン書を2冊,ビクトリア女王とアルバート公に献上した。」38
イングランドを離れるとき,スノー長老はイギリス人の末日聖徒から成る移民団をノーブーへと引率した。そのときのことが日記にはこう書かれている。「わたしは250人から成る一団を預かった。その多くはわたしの親友で,わたしが教え導いたことにより主と聖約を交わしていた。友人に囲まれて大西洋を再度横断する今回の旅は,2年半前の一人旅に比べればはるかに恵まれたものだった。39客船「スワントン号」でのスノー長老の経験は,彼の指導者としての力量と神への信仰を証明するものだった。以下の記事は彼の日記からの引用である。
「わたしは〔聖徒〕を呼び集め,全員の承諾を得て,分隊と班を組織し,それぞれにふさわしい長を任命し,移民団を統括するための規範を定めた。何人もの大祭司,そして30人ほどの長老がいるということが分かった。わたしは,長老たちの多くが,だれかに命じられるまでもなく,少しでも貢献し,少なからず際立った存在になりたいと強く望んでいること,また彼らがどんな方法を使ってでもその望みを必ず実行に移すことを知っていた。そこで,彼らがどのように行動すればよいか,わたしの方で調整した方が無難だろうと判断した。したがって,わたしはできるかぎり多くの神権者を何らかの役目に就かせ,その全員に責任を持たせた。移民団の全員が毎晩祈るために集合した。わたしたちは週に2回説教をした。日曜日には集会を開き,
船長は,わたしとしては友好的な関係が築けたらと思ったのだが,無愛想で打ち解けにくい人だった。……わたしたちに対して偏見があることは容易に見て取れた。航海が始まってから約2週間がたったが,その間,さしたる大きな問題が起こることもなく,海上での日常的な生活が過ぎていった。そんなある日,次のような出来事が起こったのである。
船長の下で給仕係として働いていた若いドイツ人男性が
口から血を吐き,激しいけいれんや発作も起きていた。いろいろと手当てをしたが,そのかいもなく,とうとう命を取り留める望みはすべて断ち切られた。船乗りたちは船長から,就寝前に,一人ずつ船室に入り,別れのあいさつをするように言われた。つまり,翌朝生きている彼に会えるという望みはまったくないという意味だった。船室から出て来るときに,大勢の人たちが目に涙を浮かべていた。
青年のベッドわきに一人で座っていたマーティン姉妹〔乗船していた末日聖徒の一人〕は,わたしが神権の祝福を施せば,もしかして
わたしはさらに進み,船室のドアの所で船長に会った。泣いていたようだった。彼はこう言った。『スノーさん,来てくれてありがとう。しかし,もう無駄です。給仕係はきっともうすぐ死ぬでしょう。』わたしは部屋に入り,彼のベッドのそばに座った。息づかいは非常に荒く,死期は迫っているように見えた。大きな声で話すことはできなかったが,神権の祝福を施してほしい〔という〕彼の思いは伝わった。彼にはドイツのハンブルグに彼の経済的な支えを必要とする妻と二人の子供がいるということだった。彼は家族のことをとても心配しているようだった。
わたしは彼の頭に手を置いた。すると神権の祝福が終わるやいなや,彼は起き上ってベッドの上に座ると,両手を打ち〔たたき〕,癒してくださった主を大きな声で賛美した。彼は直ちにベッドから立ち上がる〔と〕船室から外に出てデッキを歩き回った。
翌朝,給仕係が生きているのを見て,皆,仰天した。また,いつものように仕事ができるようになった彼の姿を見て驚いた。船乗りたちは全員が口をそろえて,これは奇跡だと断言した。聖徒たちも彼が回復したことは奇跡だと知っていたので,喜び主を賛美した。船長はこの奇跡を固く信じ,深く感謝した。それからというもの,船長の心はわたしたちの心に結びついた。彼はわたしたちのためにありとあらゆる
スノー長老は次のように書いている。「船乗りの中には,わたしたちが『スワントン号』に最後の別れを告げるとき,涙を流す人が何人もいた。実際,わたしたち全員が非常に厳粛な思いになった。」41ニューオーリンズから,スノー長老と仲間の聖徒たちはフェリーボートに乗り,ミシシッピ川をさかのぼり,1843年4月12日にノーブーへと到着した。
主の業に献身し続ける
7年間のほとんどを専任宣教師として働いた後,しばらくの間,ロレンゾ・スノーは異なる奉仕の機会を経験した。1843年から1844年にかけて,冬学期の間,地元の教育理事会から教師として働いてほしいという申し出を受けたのである。その学校の生徒の多くが「自分たちの能力を鼻にかけ,教師に暴力を振い,学校を崩壊させている」という事実を知りながらも,彼はその申し出を受け入れた。彼は生徒からの尊敬を得るためには,生徒に対して尊敬の念を示すことだと確信した。姉のエライザは次のように語っている。「彼はそれらの少年たちを,あたかも最も尊敬すべき紳士のように扱いました。……彼は生徒に対して自分が抱いている関心」と「勉強を続けられるよう援助したいという」望みを「印象づけるために特別な努力を払いました。……そのような思いやりと説得により生徒の気持ちは和らぎ,生徒の信頼を得ることができました。また,うまずたゆまず働きかけたことにより,乱暴な若者たちは礼儀正しい生徒に変身しました。その学期が終了するずっと前の段階で,生徒は驚くべき進歩を遂げ,学問に励む習慣を身に付けたのです。」42
1844年,ロレンゾ・スノーは教会の新しい責任を受けた。オハイオ州へと旅し,ジョセフ・スミスを合衆国大統領として選出するキャンペーンの統括者として任命されたのである。預言者は合衆国政府の末日聖徒に対する処遇に失望し,当時の大統領候補者一人一人にあてて手紙を書き,教会についてどのような考え方があるのか尋ねた。その答えに満足できなかったジョセフ・スミスは自ら大統領選に出馬しようと決心した。
十二使徒定員会は「大統領選挙に立候補するジョセフ・スミスを支援するためオハイオ州全域に政治団体を組織する」43ようロレンゾ・スノーやその他の人たちを任命した。そうすることによって,彼らは憲法で聖徒に保障された権利がどのような形で侵害されたかについて人々に周知させた。ロレンゾは「非常に興味深い経験」44をしたと語っている。預言者の立候補に猛反対する人がいるかと思えば,ジョセフ・スミスはこの国を成功と繁栄に導く力があると感じた人もいた。
ロレンゾ・スノーは次のように振り返っている。「このような両極端の反応がある中,わたしの活動は突然終わりを迎えました。預言者と兄ハイラムの
このような悲惨な事件が起こったときですら,聖徒は神の王国を築くため勤勉に働いた。ロレンゾが後に述べているように,「全能の父なる神の導きの下,王国は前進していきました。」47彼らは引き続き福音を宣べ伝え,互いに強め合った。そして自分たちの町に神殿を建築し完成するために協力した。
ロレンゾ・スノーは,ノーブーで聖徒たちと合流したとき,結婚は絶対にせず,その代わり生涯をかけて福音を宣べ伝えようと決心していた。姉のエライザは後にこう語っている。「自らの時間と才能と持てるものすべてを教え導く業にささげること,それだけが彼の望みでした。」主の業を果たすとき家族を持つと「十分な力を発揮できなくなる」のではないかと彼は感じたのである。48
ロレンゾの結婚観と家族観に対する考え方は,ミシシッピ川の河畔で預言者ジョセフ・スミスと個人的に話した1843年から変わり始めた。預言者は多妻結婚に関して自分が受けた啓示について
1845年,ロレンゾ・スノーは,シャーロット・スクワイヤーズおよびメアリー・アダリン・ゴッダードと当時教会で実施されていた多妻結婚をした。後年,さらに何人かの女性と結び固められた。彼の妻たちと子供たちに対する献身は主の業への献身の一部となった。
聖徒たちはノーブーに神の王国を築き続けたが,迫害も続いた。1846年2月,彼らは冬の寒さの中で,暴徒により,自分たちの家と神殿を手放さざるを得なかった。新たな安息の地を目指し西部への長い旅が始まった。
ソルトレーク盆地に聖徒が集合するのを助ける
ロレンゾ・スノーと彼の家族はほかの聖徒とともにノーブーを去ったが,彼らがソルトレーク盆地に到着したのは,最初の開拓者団の到着から1年以上たった後だった。初期のほとんどの末日聖徒の開拓者と同様,彼らは旅の途中で仮の入植地に滞在した。ロレンゾの家族はガーデングローブというアイオワ州にある入植地に短い間だったが滞在した。そこで自分たちの後に続く聖徒のために丸太小屋を建てた。そこから彼らは,これもアイオワ州にあったが,マウントピスガという入植地に移動した。
マウントピスガで,ロレンゾは家族やほかの聖徒とともに働き,そこでも再び,自分たちならびにソルトレーク盆地へ向かって彼らの後に続く聖徒の必要を満たした。彼らは丸太小屋を建て,ほかの人たちが収穫にあずかることを確信し,作物まで植え,育てた。マウントピスガに滞在中,ロレンゾは入植地を管理するよう召された。自分の家族も含めて,悲しみ,病気,そして死が人々を悩ませたが,ロレンゾは人々が希望を見いだし,互いに強め合い,主の戒めに従順であり続けることができるよう勤勉に働いた。50
1848年の春,ブリガム・ヤング大管長はロレンゾに,マウントピスガを離れ,ソルトレーク盆地へ旅するよう指示した。ロレンゾは再び指導者,この度は開拓者団の隊長としての責任を与えられた。開拓者団は1848年9月にソルトレーク盆地に到着した。
十二使徒定員会の一員として奉仕する
1849年2月12日,ロレンゾ・スノーは十二使徒定員会の集会に出席するようにとの知らせを受けた。彼はしていたことを途中でやめて,直ちに集会へと向かったが,集会はすでに始まっていた。その道すがら,どうして十二使徒定員会に呼ばれたのか不思議に思った。彼は困惑した。何か間違いでもしでかしたのだろうか。彼は自分が忠実に義務を果たしてきたことを知っていたので,その心配ははねのけた。しかし,何が自分を待ち受けているのか想像できなかった。到着したとき,彼は自分が定員会の一員として働くよう召されていたことを知って驚いた。その同じ集会で,彼とチャールズ・C・リッチ長老,フランクリン・D・リチャーズ長老,そしてロレンゾの遠縁のいとこ,エラスタス・スノー長老の4人が使徒に聖任された。51
使徒職への聖任は,ロレンゾ・スノーの残りの生涯を決定づけた。「キリストの名の特別な証人」として働く召しは彼の行動のすべてに影響を与えた(教義と聖約107:23)。使徒の責任の一つ一つについてどのように感じたか,彼は後にこう語っている。
「第1に,使徒は神からの啓示によって,イエスが生きておられ,生ける神の御子であられるという神から授かった知識を持っていなければなりません。
第2に,使徒は聖霊を約束する権能を天から授かっていなければなりません。聖霊とは神の原則であり,救い主が宣言されたように,神にかかわる事柄を明らかにし,神の
第3に,使徒は神の力によって福音の神聖な儀式を執行するよう委任されています。これらの儀式は真実であると神の証によって一人一人に確認されます。今この盆地に住む何千人という人々は,わたしが執行の手助けをした儀式を受け,使徒は確かにそのような神の権能を与えられているということについての生ける証人となっています。」52
召しに伴う個人的な責任に加え,スノー長老には十二使徒定員会の一員であることの意味について確固たる信念があった。「わたしたち12人は,義務の道からわたしたちの注意をそらすものはすべて捨てる覚悟ができている。そうであってこそ〔大〕管長会が一つであるようにわたしたちも一つとなり,神の御子と御父を結び合わせる愛の原則によって一つに結び合わせられるのである。」53
そのように個人としての召しならびに十二使徒定員会の使命を理解していたロレンゾ・スノー長老は,この地上における神の王国建設を助けるためにその全生涯をささげた。多くの異なる方法,多くの異なる場所で奉仕する召しにこたえた。
イタリアでの伝道
1849年10月に行われた総大会で,スノー長老はイタリアに伝道部を開設するよう召された。この国とその文化ならびに言語についてよく知らなかったが,ためらうことなく召しを受けた。大会から2週間もたたないうちに,スノー長老は伝道へと出かける準備をし,なおかつ自分が不在の間,妻と子供たちが困らないようにと,全力を尽くして援助の手配をした。
スノー長老とその他の宣教師は合衆国東部へ向かって旅をした。そこで船に乗り,大西洋を渡った。そのとき彼の思いは自分の家族とやがて仕えることになる人々に向けられた。姉のエライザにあてた手紙の中にこう書かれている。「わたしの心は多くの相反する気持ちでいっぱいでした。……わたしたちは強力な磁石,すなわち故郷からどんどん遠ざかって行きましたが,自分たちがこれから携わろうとしている業は,
1850年7月,スノー長老と彼の同僚たちはイタリアのジェノバに到着した。ここでは主の業が遅々として進まないことが分かった。スノー長老はこう記している。「この巨大な都市で,わたしは孤独なよそ者だった。愛する家族から8,000マイル(1万2,875キロ)離れ,周囲の人々の習慣や特徴もよく理解できなかった。わたしは彼らの思いを照らし,義の原則を教えるためにやって来た。しかし,その目的を果たすための手段となりそうなものがまったく見いだせなかった。将来の見通しがまったく立たない状態だった。」自分が仕えるように召された民の「愚行,……罪悪,はなはだしい無知,迷信」に心を痛め,彼は次のように書いている。「この民に
スノー長老はワルドー派と呼ばれる集団の中に,これらの「選ばれた人々」を見いだした。ワルドー派の人々は,イタリア・スイス国境の真南,イタリア・フランス国境の東に位置するピーモント地域にある山間の谷に住んでいた。彼らの先祖は迫害され,行く先々で追い立てられた。古代の使徒が持っていた権能を信じ,その当時の諸宗教に加わるよりもむしろ使徒の教えに従いたいと望んだからである。
ブリガム・ヤング大管長にあてた手紙の中で,スノー長老はワルドー派の人々について,彼らは長年にわたる「無知と残虐な行為」に苦しみながらも,「荒れ狂う大海原にあって波に打たれても動じることのない岩のように自分たちの信念を守り続けた」と記している。しかし,末日聖徒の宣教師がイタリアに到着する前に,ワルドー派の人々は「深い平穏の時代」を享受し始めた。イタリアのその他の宗派よりも多くの宗教的自由を与えられているように見えた。スノー長老はこう語っている。「したがって,道が開かれたのは伝道が開始される前のごく短期間だけでした。イタリアにおいては,ワルドー派の住む地域ほど好ましい法律によって統治されている所はありません。」
この民について知識を深めたいと思ったスノー長老は図書館に行き,この民について書かれている1冊の本を見つけた。彼はこう語っている。「応対してくれた図書館員と話したところ,わたしの探しているような本はあるけれども,だれかが借りて行っているということでした。彼がそう言い終わらないうちに,一人の女性がその本を持って入って来ました。図書館員は言いました。『これはまったく驚きだ。その本が欲しいとこの男性がたった今言ったところだった。』イタリアで最初に福音を受け入れるにふさわしいのは,まさしくこの民だとわたしはやがて確信しました。」56
スノー長老と同僚たちはピーモント地域で熱心に福音を宣べ伝えたが,友情をはぐくみ,自分たちが信頼できる人間であることを人々に示しながら,慎重に事を進めるべきだと感じた。人々と良い関係を築いたと感じたときに,スノー長老たちは近くの山に登り,「天の神,ほめよ」を歌い,祈りをささげ,イタリアの地を伝道の地として奉献した。彼らはこの業に対し自らを奉献することを表明し,スノー長老はその責任を果たすための助けとして同僚たちに神権の祝福を授けた。山上での経験から霊感を受け,スノー長老はそこをマウントブリガムと呼んだ。57
この経験の後ですら,教会に加わりたいという望みを表明する人が現れるまでにおよそ2か月待たなければならなかった。ついに1850年10月27日,宣教師たちはイタリアで最初のバプテスマと確認を見ることができ歓喜した。58スノー長老は後にこう報告している。「この地での
ある夜のこと,スノー長老はイタリアにおける伝道の本質を理解させてくれる一つの夢を見た。その夢の中で,スノー長老は友人たちと魚釣りをしていた。「はるか遠くの方でしたが,水面の至る所に大きくて美しい魚を目にして喜びました。」彼はこう語っている。「たくさんの人たちが魚をとろうと網を張り,糸を垂れているのが見えました。しかし,彼らは皆,同じ釣り場に陣取り,じっとして動かないように見えました。一方,わたしたちは絶えず良い釣り場を求めて動き回っていました。釣り人がひしめき合っている中,一人の男性のそばを通り過ぎたとき,わたしは自分の釣針に1匹の魚がかかっていることに気づきました。おそらくこの男性は自分の釣り場からわたしに魚をとられ気分を害しているのではないかと思いました。それでもなお,魚のかかった釣竿を持ったまま,釣り人の間を縫って歩き続けると海岸に出ました。それから釣糸をたぐり寄せたわたしは,少なからず驚き当惑しました。とれた獲物が小魚だったからです。わたしはほんとうに奇妙に思いました。見かけが立派ですばらしい魚がこれほど大量に泳ぎ回っている中で,
スノー長老の夢はイタリアにおける伝道の将来を預言するものだった。イタリアで多くの改宗を見ることはできなかったし,別の宣教師が後に述べているように,福音を実際に受け入れたのは,「地位も富もない人たち」61だった。しかし,スノー長老とその同僚たちは主の
およそ1世紀半後,使徒の一人であるジェームズ・E・ファウスト長老が,スノー長老とその同僚たちの働きの結果,教会に加わった人々について語っている。「その中にはソルトレーク盆地に来た最初の手車隊に加わった人々もいます。……こうした家族の子孫の多くは,新たに回復された教会のぶどう園で働き,
教会を築き上げる
スノー長老は後にそのほかの地にも伝道に赴いた。「大管長会の指示の下に〔働き〕……教会を築き上げ,すべての国々において教会の諸事をすべて整える」という十二使徒定員会会員としての召しを尊んで大いなるものとしたのである(教義と聖約107:33)。
1853年,ブリガム・ヤング大管長は,ロレンゾ・スノーを召し,家族の集団をユタ州北部のボックスエルダー郡にある定住地まで導く責任に当たらせた。その時点でこの定住地は小さく,無秩序で,活気もなかった。スノー長老は直ちに任務に取りかかり,預言者ジョセフ・スミスが教えた奉献の律法の原則に基づいて人々を組織した。町は繁栄した。スノー長老はヤング大管長に敬意を表して,この町をブリガムシティーと名付けた。皆,ともに働き,支え合い,学校制度,工場,
スノー長老と彼の家族は長年にわたってブリガムシティーに住んだ。スノー長老はこの町に住む聖徒を管理し,時折,ほかの地への短い伝道に赴いた。1864年,彼は約3か月間町を離れた。短期間ではあったが,スノー長老と同じく十二使徒定員会会員であったエズラ・T・ベンソン長老,またジョセフ・ F・スミス長老,アルマ・スミス長老,ウィリアム・W・クラフ長老とともにハワイ諸島で伝道するためだった。651872年から1873年にかけて,スノー長老はそのほかの長老たちとともに,大管長会第一顧問であったジョージ・A・スミス管長に同行し,ヨーロッパならびに中東諸国を9か月にわたって歴訪した。その間に聖地も訪問した。それは彼らの義にかなった影響力によって,回復された福音を受け入れる備えがほかの国民にできるようにと望んだブリガム・ヤング大管長の要請によるものだった。661885年,スノー長老は合衆国北西部とワイオミング州に点在する集落に住むアメリカインディアンを訪問する責任に召された。8月から始まり10月に終わったが,スノー長老はその地域に伝道部を確立し,バプテスマと確認を受けた人々に対する教会指導者の支援体制を整えた。
神殿活動
第7代大管長ヒーバー・J・グラント大管長は,ロレンゾ・スノー大管長についてこう述べている。「〔彼は〕神殿における働きに何年もの歳月をささげまし〔た〕。」67スノー大管長の神殿の業を愛する気持ちは,改宗したてのころに芽生え,使徒として働いたときに深まった。彼はバプテスマと確認を受けて間もなくカートランド神殿で行われた集会に出席した。後に,ノーブーに神殿を建設するための寄付金を集める召しを心から喜んで受けた。ノーブー神殿が建つと,そこで儀式執行者として奉仕し,西部に向かう旅の前にエンダウメントや結び固めの儀式を受ける末日聖徒を助けた。使徒として働く召しを受けた後も,神殿における責任は続き,多岐にわたった。ユタ州ローガン神殿の奉献式で話をした。ウィルフォード・ウッドラフ大管長がユタ州マンタイ神殿を奉献したときには,その後のセッションで奉献の祈りを読み上げた。ソルトレーク神殿の最も高い
スノー大管長が80歳の誕生日を迎えたとき,地元の新聞に次のような賛辞が掲載された。「晩年にあっても,〔彼は〕依然として忙しくまた精力的に,若いころからずっと携わってきた大義を推し進めている。また,神聖な神殿の中で,彼とその仲間たちが自らを奉献して行ってきた輝かしい働きを続けている。彼は現在の罪と死に苦しむ世界にとってほんとうに大きな意義を持つ働きを続けているのである。」68
個人を教え導く
スノー大管長は方々を旅し,大勢の人々から成るグループを幾つも教えたが,その際,個人や家族に仕えるために時間を割いた。例えば,1891年3月,ブリガムシティーにおいて開かれた大会で話していたときのことである。当時,スノー大管長は十二使徒定員会会長として働いていた。話の最中,説教壇の上に1枚のメモが置かれた。その場にいた人は次のように証言している。彼は「話を途中でやめ,そのメモを読むと,深い悲しみに包まれている人々を訪問するようにという召しを受けたと聖徒たちに説明した。」スノー大管長は,いとまごいをし,説教壇を降りると,その場を去った。
そのメモというのは,ブリガムシティーの住民,ジェーコブ・ジェンセンからのものだった。そのメモには,しょうこう熱にかかり何週間も苦しんだ末,娘のエラがその日に亡くなったと書かれてあった。ジェンセン兄弟がメモを書いたのは,ただその死についてスノー大管長に知らせ,葬儀の手配を頼むためだった。しかし,スノー大管長は,たとえそのために話を早めに切り上げ,自分が管理している集会をやむを得ず立ち去ることになったとしても,この家族を一刻も早く訪問したいと思った。集会を去る前に,スノー大管長は当時ボックスエルダーステークのステーク会長だったラジャー・クローソンに同行を依頼した。
ジェーコブ・ジェンセンは,スノー大管長とクローソン会長が自分の家に到着した後,何が起こったか次のように語っている。
「スノー大管長は,エラのベッドわきにほんの数分でしたが立っていました。それから家の中に聖別された油があるかと尋ねました。わたしは大変驚きましたが,ありますと答え,聖別された油を取りに行きました。スノー大管長は,油の瓶をクローソン兄弟に渡すと,エラに油を注ぐよう言いました。それから〔スノー大管長は〕油注ぎを結び固め,祝福を宣言しました。
儀式の執行中,特にスノー大管長が口にした幾つかの言葉に感銘を受けました。その言葉は今でもはっきりと記憶しています。彼はこう言いました。『愛するエラ,わたしは主イエス・キリストの
彼は娘にまだ死んではならず,これから多くの子供たちを育て,両親や友人に慰めを与える者とならなければならないと告げたのです。その言葉をはっきりと記憶しています。……
…… スノー大管長は,祝福を終えると,妻とわたしの方を向いて,こう言いました。『もう嘆き悲しまないでください。大丈夫です。クローソン兄弟とわたしはなすべきことがあるので行かなくてはなりません。最後まで見届けることはできませんが,とにかく忍耐し待ってください。嘆かないでください。大丈夫ですから。』 ……
スノー大管長が儀式を施してくれてから1時間以上,亡くなってから合計3時間以上たっても,エラに何の変化もありませんでした。わたしたちは,ベッドわきに座ったまま様子を見守っていました。そこには彼女を案じる母親と父親の姿がありました。すると突然,娘が目を開けたのです。彼女は部屋を見回し,座っているわたしたちに気づきました。しかし,まだほかのだれかを捜しました。そして開口いちばん,こう言ったのです。『あの人はどこにいるの? あの人はどこにいるの?』わたしたちは尋ねました。『だれだって? だれがどこにいるかって?』彼女はこう答えました。『スノー兄弟よ。彼がわたしを呼び戻してくれたの。』」69
霊界にいたとき,エラはあまりにも平安で幸福な気持ちを感じたため,現世に戻りたくないと思いました。しかし,スノー大管長の声に従ったのです。まさにその日以来,彼女は家族と友人に慰めを与え,たとえ愛する人が亡くなっても嘆く必要はないということを彼らが理解できるように助けました。70後に彼女は結婚して8人の子供を産み,さらには教会の召しを受けて忠実に働きました。71
主の預言者,聖見者,啓示者として教会を導く
1898年9月2日,ウィルフォード・ウッドラフ大管長が9年以上大管長として働いた後亡くなった。当時,十二使徒定員会会長として働いていたロレンゾ・スノー大管長はブリガムシティーにいるときにその知らせを聞いた。彼はすぐにソルトレーク・シティー行きの列車に乗った。彼は教会を導く責任が今や十二使徒定員会に課せられていることを知っていた。
自分はふさわしくないが主の
スノー大管長の模範を通して,また彼が受けた啓示を通して,末日聖徒は彼が自分たちの預言者であることを知るようになった。信仰を異にする人々も彼を紛れもない神の人として尊敬するようになった。
末日聖徒との交流
スノー大管長は,大管長のときに,ステーク大会をよく管理した。聖徒と会合を持つときに,彼は聖徒に愛と尊敬の意を表した。彼の言葉と行いから,彼が自分に与えられた召しの神聖さを認識し,自分のことを自分が仕える人々よりも優れているとは考えていなかったことが分かる。
あるステーク大会で,スノー大管長はステークの子供たちのために開かれた特別な会合に出席した。子供たちはきちんと整列するように言われた。一人ずつ預言者に近寄って握手できるようにするためだった。すると子供たちがそうする前に,スノー大管長は立ってこう言った。「わたしが皆さんと握手するときに,わたしの顔を見上げてください。わたしのことをいつも忘れないようにするためです。ここにいるわたしはほかのたくさんの人と何ら変わるところがありません。しかし,主はわたしに大きな責任をお与えになりました。主がその完全な方法でわたしに御自身のことをお知らせになってからというもの,わたしは自分に課せられたあらゆる責任を果たそうと努力してきました。皆さんにわたしのことを覚えおいてほしいと思います。それはまさしくわたしが身に余る責任を与えられているからです。皆さんにイエス・キリストの教会の大管長と握手したことを覚えておいてほしいと思います。忘れることなく,わたしのため,わたしの顧問であるキャノン管長やスミス管長のため,また使徒のために祈ってほしいと思います。」73
スノー大管長の息子,ルロイはユタ州リッチフィールドのステーク大会で起こった以下の出来事を紹介している。「ロレンゾ・スノー大管長と〔十二使徒定員会の〕フランシス・M・ライマン会長はリッチフィールドで行われた大会に出席していました。開会の歌が終わり,ステーク会長はだれに開会の祈りを依頼すべきかライマン兄弟に尋ねました。ライマン兄弟はこう答えました。『スノー大管長に尋ねてください。』だれが祈りをささげるべきかについては,自分ではなくスノー大管長に尋ねてくださいと言ったつもりでした。ところが,ステーク会長はスノー大管長に祈りをささげることができるかどうか尋ねたのです。スノー大管長は快くその依頼に応じ,祈り始める前に,祈りを依頼されたことに喜びを表明し,そのような機会にあずかったのは久しぶりだと言いました。彼はすばらしい祈りをささげたそうです。」74
信仰を異にする人々との交流
スノー大管長の影響は
「礼儀正しいベテランの秘書がわたしを威厳に満ちた彼のもとへと連れて行ってくれた。気がつけば,わたしはいまだかつて会ったこともないような親しみやすく愛想の良い男性と握手をしていた。その前にいると窮屈な気持ちがたちどころに消え去ってしまう,そんな特異な能力を持った人だった。一緒にいる人をくつろがせ,歓迎されていると感じさせる非凡な才能を有し,話術にたけた人だった。
スノー大管長は知性,感情,肉体,すべての面で洗練された人である。よく吟味され,そつがなく,友好的かつ知識の深さを感じさせる言葉を使う。その立ち居振舞いには優れた教育機関で身に付けた品位が漂っている。人となりは子供のように柔和である。彼に会うと彼が気に入る。彼と話すと彼が好きになる。彼を訪問し長い時間を共にすると彼を愛するようになる。」教会に対して明らかに偏った考えを持っている読者に対して,コーネル牧師は次のようにコメントしている。「そのような彼が,実は,『モルモン』なのである!さて,もし『モルモニズム』がスノー大管長を粗暴かつ野蛮な人間にするとしたら,確かに,この宗教には改善すべき点が数多くあるということになる。しかし,もし『モルモニズム』に人の心を穏和にし,スノー大管長のように規律正しく,知的に洗練された人間を生み出す力があるとすれば,確かに『モルモニズム』には何か善なるものがあるに違いないということになる。75
もう一人の牧師,プレンティス牧師もスノー大管長と会ったときのことについて次のように記している。「その顔を見れば,平和の君が彼という人間を統治しておられることが手に取るように分かる。これまでいろいろな人を観察してきたが,幾度かそのような雰囲気のある人に出会ったことがある。
什 分 の一の啓示
ロレンゾ・スノー大管長を最も有名にしているのは,彼が什分の一の律法に関して受けた啓示であろう。1899年5月,スノー大管長はほかの教会指導者とともにユタ州セントジョージへ旅しなければならないと強く感じた。どうしてそこへ行く必要があるのかスノー大管長自身も分からなかったが,大管長ならびに中央幹部はその促しにすぐ応じ,2週間足らずのうちにセントジョージに到着した。5月17日,セントジョージに到着後,スノー大管長は什分の一の律法について
このメッセージをセントジョージで伝えた後,スノー大管長と同行した中央幹部はユタ州南部の町々やセントジョージとソルトレーク・シティーの間に位置する地域でも同じメッセージを分かち合った。5月27日にソルトレーク・シティーへ帰り着くまでに,彼らは24の集会を開いた。それらの集会で,スノー大管長は26の説教をし,4,417人の子供たちと握手をした。汽車で420マイル(676キロ)を旅し,馬や馬車で307マイル(494キロ)を旅した。78スノー大管長は,この経験から力を得,教会の至る所で熱心に什分の一の律法について宣べ伝えた。「わたしは今回の訪問の結果に非常に満足し,近い将来,シオンのステークをすべて訪問したいと願っています。」79スノー大管長は,多くのステーク大会を管理し,それぞれの大会で,この律法に従うならば,教会員は物質的にも霊的にも祝福を受ける備えができると約束した。80また,什分の一の律法に従うならば,教会員は負債から抜け出すことができると約束した。81
教会の至る所で,会員はもう一度自らを奉献し,スノー大管長の勧告に従った。後に十二使徒定員会会員として働く歴史家のオーソン・F・ホイットニーは,1904年にこう記している。「こうした動きの効果は即座に表れた。あっという間に,また計り知れないほど大量の什分の一とささげ物が,何年にもわたって集まったのである。その結果,多くの点で教会の状況が改善され,将来の見通しが明るくなった。スノー大管長は以前から会員に愛され信頼されていたが,今やそうした好感情は深く強くなった。82スノー大管長が什分の一に関する啓示を受けたとき十二使徒定員会会員であったヒーバー・J・グラント大管長は,後に,こう断言している。「ロレンゾ・スノー大管長が大管長会で働くよう召されたのは,彼が85歳のときでした。その後の3年間で彼が果たした業績には想像を絶するものがあります。……3年という短い年月で,また世の人であればすでに引退しているはずの年齢で,金融業務に携わったこともなく,生涯の多くの年月を神殿での奉仕にささげた男性が,生ける神の霊感によりキリストの教会の財政を把握し,すべてを
在任期間の最後の日々に証をする
1901年1月1日,スノー大管長はソルトレーク・タバナクルで行われた20世紀の到来を祝う特別な集会に出席した。あらゆる宗教に属する人々が出席するよう招待された。スノー大管長はこの行事のためにメッセージを準備していたが,悪性の風邪を引いていたため自分で読むことができなかった。開会の賛美歌,開会の祈り,タバナクル合唱団による国家斉唱の後,スノー大管長の息子,ルロイが立って,「スノー大管長による世界へのあいさつ」と題するメッセージを読んだ。84メッセージの最後の言葉に,主の業に対するスノー大管長の思いが如実に表れている。
「この地上に生まれて87年がたち,わたしの心は人類の救いと昇栄を願う強い望みで満たされています。……わたしは両手を挙げ,この地上に住む人々のうえに天の祝福を呼び求めます。太陽の光が皆さんに天上からほほえみかけてくれますように。地の宝と産物が惜しみなく与えられ皆さんの益となりますように。真理の光が皆さんの心から暗闇を追い払いますように。義が栄え,悪が衰えますように。……正義が勝利を得,腐敗が一掃されますように。そして徳と貞潔と誉れが尊ばれ,罪悪が打ち負かされ,地が不道徳から清められますように。これらの思いが,ユタの山々に住む『モルモン教徒』の声となって,全世界に広まり,わたしたちの願いとわたしたちの使命が全人類に祝福と救いをもたらすことであることをすべての人々に知らしめることができますように。……罪,悲しみ,不幸と死を打ち負かす勝利によって神があがめられますように。すべての人々に平安が与えられますように。」85
1901年10月6日,ロレンゾ・スノー大管長は総大会の最後の部会で,同胞である聖徒に語りかけるために立ち上がった。何日もの間,体調はかなり悪く,やっとのことで説教壇の前に立ったとき,彼はこう語った。「愛する兄弟姉妹の皆さん,
4日後,スノー大管長は肺炎のために亡くなった。ソルトレークタバナクルでの葬儀後,彼のなきがらは愛するブリガムシティーの墓地に葬られた。