第22章
この世の事柄と霊的な事柄への取り組み-「密接に関連させて推し進めるべきもの」
家族を強め,地上に神の王国を築き上げるために,この世の事柄にも霊的な事柄にも取り組まなければなりません。
ウィルフォード・ウッドラフの生涯から
教会の初期,預言者や使徒は民に対して,神の王国を築き上げていく中で自分の役割を果たすように度々強く勧めた。この取り組みには霊的な働きとこの世における働きの両方が求められた。祈ったり聖文を研究したり,福音を分かち合ったりすることに加えて,聖徒たちは家を建て,町を築き,公立の学校を設立し,硬い土壌を耕し,
ウッドラフ大管長をよく知っていた人たちは,彼が勤勉の価値について単に語っただけでなく,その原則を生活で実践していたことを知っていた。神権における召しを尊んで大いなるものとしていたことに加えて,大管長は高齢に及んでさえもこの世における働きに関して勤勉であった。末日聖徒の歴史家であるアンドリュー・ジェンソンは次のように記録している。「勤勉さは彼の人格の中でも非常に目を引く要素であった。例えば,90歳のとき,畑で野菜を掘り起こす作業で,孫の一人がほんの少しだけ彼を上回る仕事をしたことがあった。すると,彼はいかにも面目ないといった様子でこう言った。『やれやれ,畑仕事で子供に引けを取るとは,これまでの人生で初めてだな。』」2
ウッドラフ大管長と同年代のある人は,次のように述べている。「彼は労働を愛していました。労働そのものを愛していただけでなく,それが神聖な戒めに結び付いているからでもありました。また労働は彼にとって単に身を立てるための手段,自分や養っている人たちの生活をさらに便利で快適にするための手段ではありませんでした。彼にとって労働は祝福であり,特権であり,いい機会であって,召しの都合がつくときには常に働く機会を逃しませんでした。……汗を流して働くことは,祈ることと同じように神聖な戒めです。彼はその生涯において,人の身体的,精神的,および道徳的な福利をもたらす質素なクリスチャンの生活を最大限に体現しました。体を動かし骨折って働くことが,道徳的にこの上なく優れたことであると心から信じていました。労働を愛し,労働を楽しみました。」3
ウィルフォード・ウッドラフの教え
神の王国を築き上げるに当たって,果たすべきこの世における義務がある
〔ブリガム・ヤング〕大管長は
この教会の大管長会や十二使徒会はこの世的な事柄とは一切かかわりを持つべきではないという考えを抱いてきた人々がいます。しかし,もしこの世の事柄を扱わなかったならば,わたしたちは苦境に陥ることでしょう。5
わたしたちは文字どおり地上に神の王国を築き上げているのであって,果たすべき現世における義務があります。わたしたちはこの世の肉体に宿っており,この世の食物を食べ,この世の家を建て,この世の牛や小麦を育てます。この世に存在する雑草や,この地に現実に存在する敵と戦うのです。これは当然,この世的で骨の折れる様々な義務を果たす必要を生じます。そしてそれはもちろん,わたしたちの宗教に含まれているのです。6
木製のベンチに座り,永遠の至福を祝っていつまでも歌いながらシオンを築き上げることはできません。わたしたちは地を耕さなければならず,山々から岩を切り出し,様々な材料を手に入れて,いと高き神のために神殿を建てなければなりません。この世における業は,天の神がわたしたちに要求しておられることなのです。ちょうど,神がキリストに世を
この世の事柄に関して,主と主の僕 の勧告を喜んで受け入れるべきである
この業の始まりから現在に至るまで,神の
これは不思議なことですが,思うに,恐らくそれはわたしたちが置かれている状態のためでしょう。人と永遠の物事の間には幕があります。もしその幕が取り去られて,わたしたちが永遠の事柄を,主の前にあるがままに見ることができたならば,金や銀,またはこの世の品々に関して試しを受ける人は一人もいないでしょうし,このような物質的富への執着が原因で,喜んで主に自分を管理していただこうとしない人は一人もいないでしょう。しかしこの地上で人は選択の自由があって,試しを受けており,人と永遠の事柄との間,天の御父や霊界との間には幕があります。これは主なるわたしたちの神の内にある,ある賢明で適切な目的のためであり,人の子らがこの地上に置かれている状態の中で主の律法に従うかどうかを試すためなのです。末日聖徒の皆さん,このことについて深く考えてください。わたしたちはジョセフ・スミスやヤング大管長,民の指導者がわたしたちの永遠の利益に関して導きと指示を与えることに,心から同意してきました。そして彼らの権能によって結び固められた祝福は幕の向こう側に及び,死後も効力を持ち,永遠にわたってわたしたちの行く末に影響を及ぼします。
アブラハムやイサクやヤコブの時代に,またイエスや使徒たちの時代に,人々は王国,王位,公国,および力を,新しくかつ永遠の聖約のあらゆる祝福とともに結び固められました。次のような質問が生じるかもしれません。この永遠の祝福はわたしたちの益になるものなのでしょうか。そのとおりですし,そうであるはずです。この祝福は,わたしたちが多少を問わず手にする地上の富ほどに価値のあるものなのでしょうか。救いは,永遠の命は,1組の牛,1軒の家,100エーカーの土地,あるいは肉体を受けてこの地上にいる間に所有するすべてのものほどに価値のあるものなのでしょうか。もしそうであるならば,霊的な働きに関してと同じように,すべてのこの世的な働きに関しても喜んで主による統治と管理を受け入れるべきです。
さらにまた,人は死ぬときに自分の牛,馬,家,または土地を携えて行くことはできません。人はすべての肉体が休息する場所である墓に行きます。それを免れる人はなく,死の律法はすべての人にとどまっています。アダムにあってすべての人が死んでおり,キリストにあってすべての人が生かされているのです〔1コリント15:22参照〕。死がすべての人に及んできたことはだれもが理解しています。……そう遠くない将来に自分たちが先の世代の後を追うように召されることは知っているものの,自分の順番がいつ来るかを知っている人はだれもいません。これらの事柄について深く考えるとき,わたしたちは皆,この世の事柄に関して喜んで主に導いていただくべきであると,わたしは思います。8
福音に従った生活には,霊的およびこの世的な教育と正直な労働の両方が含まれる
生涯にわたって幾度も耳にしてきた格言またはことわざで,非常に重要であると思うものがあります。それは,「真理は力強く,勝利を得る」という言葉です。このことは,物質的な事柄に当てはめようと霊的な事柄に当てはめようと,国家や家族,個人の事例に当てはめようと,この世に当てはめようと神の王国に当てはめようと,これまでに真理が適用されてきたすべての事例において実証されてきたと思います。9
わたしは心から申し上げますが,この末日に神のシオンを築き上げることには,この世的にも霊的にも,わたしたちが従事するすべての分野の務めが含まれています。神と人の前に正当であり法律で認められている事柄で,わたしたちの宗教に含まれていないものなど挙げることができません。わたしたちが受け入れてきたイエス・キリストの福音,わたしたちが
子供たちがなおざりにされることがあってはなりません。子供は霊的な事柄についてもこの世の事柄についても適切な教育を受けるべきです。それこそ,両親が子供に残せる最もすばらしい遺産なのです。11
いわゆる机上の学問を好む傾向にある中で,肉体労働がなおざりにされるべきではありません。思いの教育と肉体の教育は,密接に関連させて推し進めなければなりません。優れた頭脳とともに優れた手がなければなりません。肉体労働はわたしたちの中で威厳あるものとされるべきであり,常に尊ばれるべきです。若者が少しばかりの教育を得ただけで,単調な仕事や骨の折れる仕事は自分にはふさわしくないと思う傾向が
財政的な取り組みの中で,家族を養い,什分 の一の律法に従い,財産を惜しみなくささげ,負債を避けるべきである
この世の事柄に関して言えば,わたしたちは仕事に取りかかり,自活しなければなりません。13
財産や富については,もしそれがわたしを破滅させるのであれば,欲しくありません。もし主の前に正直に得ることができるのであれば,自分の〔家族〕に衣服や靴や食物を与え,快適さを提供するのに十分なだけを得たいと思います。しかし富を得て滅びるよりは,自分も家族も皆貧しい生活を送ることを望みます。もし財産を用いることが身の破滅につながるなら,財産は危険なものです。もし神の栄光のために,神の王国を築き上げるために用いることができないならば,財産はない方が良いのです。14
民の中に
神の業のために惜しみなくささげる人々が主から恵みを受けることを……周囲に目を向けさえすれば,確信することができます。これこそ昔のイスラエルが経験したことであり,わたしたちが経験していることです。それでもなお,自発的に献金することに対して,それに結びついているすべての貴い約束にもかかわらず,あまりにも関心が寄せられていません。聖徒は自分たちに課せられている義務を思い起こさなければなりません。また子供たちにもこの義務を教え,こうしたことをきちんと果たすことが確固とした習慣となるようにしなければなりません。この要求に厳密に従ってきた人々は,従うことによって受けてきた大きな喜びと多くの報いを
物惜しみをしないというこの律法は,富の所有によって生じる悪い結果がこの民を襲うのを防ぐために,主が取り入れられた予防手段であるように思われます。主はわたしたちに,地の富は主のものであり,わたしたちに与えると告げておられます。しかしまた,昔のニーファイ人のようにならないように,すなわち高慢に気をつけるように警告しておられます〔教義と聖約38:39参照〕。わたしたちは高慢がニーファイ人にもたらした滅亡を知っており,富が自分たちに悲惨な影響を及ぼすのを防ぐためにあらゆる予防策を講じるべきです。多くの人々が貧しさを堪え忍び,
負債を背負い込み,しばしば耐えられる以上の重荷を負い,家やそのほかの所有物を失うことになるような債務を負うという悪い習慣を身に付けてしまっている人がいます。わたしたちはそのようなことに対して末日聖徒に警告するようにとの導きを感じています。信用貸しを最高限度まで利用することが現代の一般的な習慣となっています。……これは大きな悪であり,民として,また個人として,注意深く避けるべきものです。わたしたちの事業は,可能なかぎり,購入するものの対価を払うという原則に基づいて行われるべきであり,必要なものは資金の範囲内で買うべきです。投機を行い,様々な冒険的事業に賭けてみる性癖は抑えるべきです。……適度な利益に満足し,富を得るという幻想に欺かれないようにしてください。次の賢者の格言を覚えていてください。「急いで富を得ようとする者は罰を免れない。」〔箴言28:20参照〕子供たちにも倹約の習慣を教え,負債を背負い込むことなしには満たせないような欲望にふけることのないように教えましょう。17
すべての務めにおいて,まず神の王国を求めなければならない
物持ちになりたい,神の王国のためよりも自分自身のために働きたいという望みが,この民の間に非常に広く見られています。しかし祈ることをやめて,仕事に取りかかって金持ちになることが,皆さんやわたしにどのような益をもたらすというのでしょうか。人が全世界をもうけても,自分の命を損したら,何の得になるのでしょうか。何の得にもなりません。人は幕の向こう側に行くとき,どんな代価を払ってその命を買い戻すことができるでしょうか〔マルコ8:36-37参照〕
地に住む人々が自分たちの未来の状態にほとんど関心を示さないことに,わたしは非常に驚いています。
ある人々の行動を見ると,永遠にこの地上で生活しようとしているかのように,あるいは永遠の行く末は手に入れた金銭の額で決まるように思えることがあります。わたしは時々末日聖徒に次のように尋ねます。わたしたちはこの地上に来たときにどれだけのものを持っていたでしょうか。どれほどのものを携えて来たでしょうか,またそれはどこから得たのでしょうか。……わたしたちの中には馬の背や馬車の中で生まれた者はなく,鉄道の株券や牛や家を携えて来た者もいないでしょう。ヨブのように裸で生まれたのであり,ヨブのように裸で地上を去るのだと思います〔ヨブ1:20-21参照〕。この世の品々が救いを失わせるものであるならば,結局わたしたちにとって何になるのでしょうか。わたしなら,それよりもむしろ生涯を通じて貧しくありたいと思います。もし富がわたしを破滅させ,神の戒めを守ることによって得られたはずの栄光をわたしから取り去ることになるのであれば,わたしは決して富を所有することのないように神に祈ります。
神はこの世の富をその手の中に保っておられます。金や銀,牛や地は神のものであり,神は御自分が与えようと思う者にお与えになります。キリストが山の上におられたとき,悪魔であるルシフェルは主に世のすべての栄光を見せ,もしひれ伏して自分を拝むならば全部上げようと言いました〔マタイ4:8-9参照〕。しかし皆さんは知っているでしょうか。あの哀れな悪魔は,全地に1平方フィートの土地も所有しておらず,肉体すなわち幕屋さえも持っていなかったのです。地は主の足台であり,もしわたしたちがその一部を自分自身のために所有することがあるとすれば,それは主が与えてくださるのです。そしてわたしたちは,もし100億ドルを持っていたとしても,まったく何も持っていないときのように宗教に忠実でなければなりません。永遠の命こそわたしたちが求めるもの,あるいは求めるべきものであり,人生における環境や状況がどのようなものであろうと,第一の目的であるべきものです。……
……富を得ることについて話してきました。富を非難しているのではありません。金や銀は主のものです。わたしたちは家を〔建てたいと〕望んでいますし,地を耕さなければなりません。これは差し支えがありません。富を得る人を非難しているのではありません。肉の欲と虚栄心を満たし,世の習慣に
イエス・キリストが御自分に従う者たちに語られた言葉を引用しましょう。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,そのほかのものは,すべて添えて与えられるであろう。」〔マタイ6:33参照〕兄弟姉妹,皆さんに申し上げます。わたしたちは生涯を通じて主のこの約束を試すことができ,またこの世のあらゆる道とあらゆる原則を試すことができますが,まず天の王国と天の王国の義とを求めることによるほかは,どのような方法に基づいても聖徒として栄えることができません。そしてこのように行うとき,すべての祝福,すべての善いもの,昇栄,
非常に多くの人々が,まず天の王国を求めるということから離れて幸福を求めようとしてきました。……しかしそのような人々は常にそれが困難な仕事であることを見いだしてきました。そしてもしわたしたちがそのように試みるならば,同じ結果になるでしょう。19
わたしたちは高い所を目指しています。神の日の栄えの王国における一つの場所,神が人に授けられるあらゆる賜物の中で最も大いなるものである,永遠の命を得ることを目指しています。御父の家を含めて,すべての預言者や使徒,聖徒とともに,神と小羊の前において受ける受け継ぎと比べれば,この世のあらゆる名誉と栄光と富は,わたしたちの心の中で取るに足りないものとなります。一方ははかなく,すぐに過ぎ去るものであり,もう一方はとこしえに続くものなのです。20
研究とレッスンのための提案
この章を研究する際,またはレッスンの準備をする際に,以下の項目について深く考える。さらに助けが必要な場合は,ⅴ-ⅸページを参照する。
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この章で教えられている原則に従うために,ウィルフォード・ウッドラフ大管長はどのようなことを行ったでしょうか(225,227ページ参照)。
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「この世的なものを霊的なものと切り離すことはでき〔ない〕」のはなぜでしょうか(227-228ページ参照。教義と聖約29:34-35も参照)。わたしたちはこの真理をどのようにして日常生活や教会での奉仕に応用することができるでしょうか。
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ウッドラフ大管長は,多くの人々がこの世の事柄に関して主の勧告に従っていないと述べています。それはなぜだと思いますか(228-229ページ参照)。この世の事柄について現在の大管長はどのような勧告を与えているでしょうか。
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230ページの第2段落を読んでください。肉体労働がもたらす益にはどのようなものがあるでしょうか。「消費者であるだけでなく生産者である」とはどのような意味だと思いますか。
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ウッドラフ大管長は金銭について,どのような警告を与えていますか(231-235ページ参照)。負債と信用貸しについてどのような勧告を与えていますか。わたしたちは適切な観点を保つためにどのようなことができるでしょうか。
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什分 の一とささげ物はどのような点で「個人の利益と,子孫の利益のため」でしょうか(231ページ参照)。 -
マタイ6:33にある救い主の教えは,あなたにとってどのような意味を持っているでしょうか(233-235ページも参照)
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この章を調べて,両親が子供に教えるべき原則を見つけてください。この原則を教えるために両親が子供に対して行うことのできる具体的な事柄として,どのようなものがあるでしょうか。この原則を学んだり教えたりすることに関して,あなたにはどのような経験があるでしょうか。
関連聖句-マラキ3:8-11;マタイ6:19-21;ヤコブの手紙2:14-26;モルモン書ヤコブ2:12-19;教義と聖約42:42;58:26-28