歴代大管長の教え
ウィルフォード・ウッドラフの生涯と教導の業


ウィルフォード・ウッドラフの生涯と教導の業

「神は不思議な方法で業を進め,奇跡を行われる。神は海に足跡を残し,あらしぎょされる。」1ウィルフォード・ウッドラフ大管長の好んだ賛美歌「神は不思議な方法で業を進められる」はこのように始まる。

「彼は〔その賛美歌が〕大好きでした」と,ウィルフォード・ウッドラフが大管長であった当時に十二使徒として働いたヒーバー・J・グラント大管長は述べている。「神殿で開く毎週の集会で,時には月に2度それを歌いました。ウッドラフ兄弟がその歌をリクエストすることのないまま1か月が過ぎ去るようなことはほとんどありませんでした。彼はこの業を心の底から信じ,その前進のために,神から授けられた力を尽くして働きました。」2

同じくウッドラフ大管長とともに働いたマサイアス・F・カウリーは次のように述べている。「恐らく教会の中に,『神は不思議な方法で業を進め,奇跡を行われる』という言葉が真実であることを,ウィルフォード・ウッドラフ以上に深く感じてきた人はいないでしょう。彼はきわめて霊的で,まったく完全に神の務めに献身していたために,生涯を通じて神の御心みこころの奇跡的な現れを豊かに受けました。奇跡を信仰の土台としたことは決してなく,奇跡は心の底から信じていた事柄を確認し,聖文の教えについての彼の理解を支持したにすぎませんでした。」3

グラント大管長やカウリー兄弟が述べているように,ウッドラフ大管長の好んだ賛美歌は彼の生涯にふさわしいテーマであった。またそれはウッドラフ大管長が眼前に見た末日聖徒イエス・キリスト教会の発展を描写したものでもあった。賛美歌は次のように続いている。

恐れを抱く聖徒たち,勇気を得よ

あなたがたが激しく恐れる雲は

あわれみに満ち,

祝福となって頭上に注がれる

神の目的は早生そうせいのように速やかに熟し,

絶えず開花していく

つぼみの間は苦くても,

その花は甘いであろう

盲目の不信仰な者は必ず過ちを犯し,

神の業を見ても理解することがない

神が御自身を解き明かす者であり,

その業を明らかにされる4

ウィルフォード・ウッドラフは初期の教会歴史における主要な出来事の多くにかかわった重要な人物であり,逆境の雲が最終的には忠実な者にとって祝福となることをよく理解していた。迫害や苦しみの苦さを味わったが,そのすべてを通して,神の手に導かれることの甘さをも味わった。そして福音が回復されていくのを見ながら,神の業をはっきりと理解していったのである。

ウィルフォード・ウッドラフの幼年時代および青年時代
-家庭で据えられた堅固な土台

ウィルフォード・ウッドラフは1807年3月1日,コネチカット州ファーミントンでアフェク・ウッドラフとビューラー・トンプソン・ウッドラフの間に誕生した。1歳3か月のときに,母親は斑点熱はんてんねつのために世を去った。約3年後にアフェクは再婚している。ウィルフォードと二人の兄は,父親と,継母であるアズバ・ハート・ウッドラフに育てられた。アフェクとアズバはさらに6人の子供をもうけたが,そのうちの4人は乳児期または子供のころに死亡している。

ウィルフォード・ウッドラフの書き物から,彼が当時の普通の少年と同じように育ったことが分かる。学校に通い,家族の農場で働いた。また非常に若いころから父親の製材工場で働き,その経験は成人して自ら工場を経営する際に役立つことになる。好きな娯楽は魚釣りで,よく父親の工場の横を流れる小川で兄弟たちとます釣りをしていた。

彼は家族を愛し,両親に深い敬意を抱いていた。称賛と感謝をもって,父親のことを常に「大量の仕事」をこなす強健な人物で,「慈愛にあふれ,正直で,高潔で,誠実な人」であったと述べている。5また継母から福音を教わったことが,主のまことの教会を探し求めるようになるうえでどれほど助けとなったかを回想している。6

大人になってからも,生涯における最大の喜びの多くは肉親に関連したものであった。兄のアズモンと同じ日に教会に加わった。そして父親や継母,家族に教えを説き,バプテスマを施すことができ喜んだ。また後年になって,実母のために神殿の業が行われるようにし,それは自分の生涯のあらゆる働きに十分報いてくれる特権であったと述べている。7

「神の守りとあわれみ」

幼年時代や青年時代を振り返りながら,ウィルフォード・ウッドラフは命が幾度も主の手によって守られてきたことを認めている。「災難の章」(“Chapter of Accidents”)と題した記事の中で,遭遇してきた災難について述べ,生きてそれを語れることに驚いている。例えば,家族の農場での冒険について次のように語っている。「6歳のとき,ひどく気の立った雄牛に殺されかけました。父と一緒に家畜にカボチャを食べさせていると,1頭のひどく気の立った雄牛が,わたしの牛を追い払いました。わたしが残ったカボチャを取ると,雄牛が飛びかかってきました。父はカボチャを投げ捨てて走るように言いました。わたしは急な坂を駆け下りて行きましたが,カボチャは持って行きました。このカボチャはわたしの牛に食べる権利があると心に決めていたからです。雄牛は追いかけて来ます。まさに追いつかれようかというとき,わたしは杭を埋め込むために掘った穴に足を踏み入れ,転んでしまいました。雄牛はわたしを跳び越え,カボチャを追いかけて,角で粉々に引き裂きました。もし転んでいなかったなら,わたしもあのカボチャと同じ目に遭っていたでしょう。」8

また17歳のときに経験した災難についても語っている。「わたしはなじみのない,とても短気な馬に乗っていました。岩の多い非常に急な坂を下っていたとき,馬がその地の利を生かして突然道から飛び出し,岩の間を縫いながら急勾配を全速力で駆け下り,わたしを頭越しに岩の上へ投げ出そうとして足をけり始めました。わたしは馬の頭にしがみつきました。そして,いつ岩に打ち付けられて粉々になるかと思いながら,両方の耳をグリップのようにつかんでいました。馬の首にまたがって座ったままの姿勢です。耳のほかは馬を操る手綱もなく,馬は坂を全速力で駆け下りて行き,ついに岩に衝突して,その身を地面に打ち付けました。わたしは馬の頭と岩を越えて,1ロッド〔約5メートル〕ほど向こうまで投げ飛ばされて,足から地面にたたきつけられました。そうでなければ命を落としていたでしょう。もし体の別の箇所を打ち付けていたなら,即死していたと思います。実際,骨は下の方からまるであしのように砕けていました。左足は2か所で折れ,両方の足首がひどく脱臼だっきゅうしていて,起き上がろうともがき回る馬の下敷きになりかけました。わたしの落ちるのを見ていたおじのタイタス・ウッドラフが,人に手伝ってもらって,おじの家まで運んでくれました。わたしは午後2時から10時まで治療を受けることのないまま横たわっていました。その後,父がファーミントンのスウィフト医師を連れて到着し,医師は整骨してから両足に添え木を当てて固定し,その晚に馬車で8マイル離れた家まで運んでくれました。とても激しい痛みでした。しかしよく世話をしてもらい,8週間後には松葉杖まつばづえで外に出るようになりました。」9

ウィルフォード・ウッドラフは大人になってからも頻繁に災難に見舞われたが,それでも命は守られ続けた。41歳のとき,経験してきた数々の不幸な出来事をかいつまんで話し,主の守りの手に対する感謝を次のように述べている。

「わたしはこれまでに両足(片方は2か所)と両腕,胸骨と3本の肋骨ろっこつを折り,両方の足首を脱臼しました。おぼれ,凍え,やけどをし,狂犬にかまれました。全速力で回る水車に2度巻き込まれました。幾度か病気のひどい発作を経験し,最も恐ろしい種類の毒にあたったこともありました。山積みになった鉄道施設の残骸の中に落ちたこともありました。銃弾にかろうじて当たらずに済んだこともあり,ほかにも間一髪で難を逃れた経験を無数にしてきました。

わたしには奇跡的だと思われることがあります。これまでに経験してきたあらゆるけがや骨折にもかかわらず,手足が不自由になることもなく,どんな過酷な仕事や厳しい環境にも,つらい旅にも耐えてこられました。そのうえ,幾度となく1日に40マイル(約64キロ),50マイル(約80キロ),あるときには60マイル(約96キロ)を歩いてきたのです。神の守りとあわれみがわたしにあって,今まで命は守られてきました。その祝福に対して,天の御父にわたしの心にある感謝をささげたいと思うとともに,残りの生涯を主の務めと主の王国の建設に使うことができるように祈っています。」10

主のまことの教会を探し,見いだす

ウィルフォード・ウッドラフが最初に主に仕え,主のことを学びたいと望んだのは,若いころのことであった。次のように語っている。「弱年のころ,わたしは宗教に関する事柄に非常に関心を抱いていました。」11しかし,どの教会にも加わらないことを選んだ。その代わりにイエス・キリストの唯一まことの教会を見いだそうと決意していたのである。両親や友人たちの教えから,そして御霊みたまのささやきによって,霊感を受けて「キリストの教会は現在地上にはないこと,神の前に清く汚れのない信心は捨てられてしまっていること,そして間もなく大きな変化が起ころうとしていること」を確信するようになった。12とりわけ刺激を受けたのが,ウィルフォードは生きて回復された福音の実を味わうだろうと預言した,ロバート・メーソンという人物の教えであった(本書1-3ページ参照)。

ウィルフォード・ウッドラフ大管長は後に,自分の経験が末日聖徒にとって益となると信じて,13自らが真理を探し求めた物語を度々話している。次のように語っている。

「わたしはイエス・キリストの福音,または使徒が教えた儀式や賜物たまものと一致する教義や信仰,慣習を持つ宗派を見いだすことができませんでした。当時の聖職者は,昔の聖徒が享受していた信仰,賜物,恵み,奇跡,および儀式は廃されて,もはや必要ではないと教えていました。しかし,わたしはそれが真実であると信じることなく,それらは人の子らの不信仰によって廃されてしまったにすぎないと思っていました。神が地上に教会を有しておられるときには,いつの時代においてもほかの時代と同じ賜物,恵み,奇跡および力が現れると信じていたのです。また,神の教会が再び地上に確立されて,自分は生きてそれを見るだろうと信じていました。そして人の意見がどうであろうと,主がわたしに何が正しく何が誤りであるかを示し,救いの道に導いてくださるように熱烈に祈りながら,旧約聖書や新約聖書を熟読しました。それによって,これらの原則はわたしの思いの中で揺るぎないものとなりました。そして主がまさに終わりの時に御自分の教会と王国を地上に建てようとしておられることを,主の御霊みたまのささやきが3年にわたって教えてくれました。」14

「わたしはこれらの事柄に引き付けられていました」と彼は語っている。「青年時代,生きて預言者に会うことができるように日夜祈っていました。預言者に会うためなら,あるいは聖書で読んだ事柄を教えてくれる人に会うためなら,1,000マイルでも旅をしたでしょう。しかし当時これらの原則を支持している教会を見つけることができなかったので,どの教会にも加わることができませんでした。深夜に何時間も,川辺で,山の中で,製材工場で過ごし,……生きて預言者に会えるように,あるいは神の王国に関する事柄について読んだとおりに教えてくれる人に会えるように,神に請い願いました。」15

ウィルフォード・ウッドラフの探求が終わったのは,26歳のときであった。1833年12月29日,末日聖徒の宣教師ゼラ・パルシファー長老の説教を聞いたのだ。日記の中で,パルシファー長老の説教に対する自らの反応を次のように述べている。

「彼は幾らかあいさつを述べて集会を始め,次に祈った。わたしは神の御霊みたまが彼こそ神のしもべであるとあかしするのを感じた。それから彼は教えを説き始めたが,それもまた権能を持つ者のようであって,説教を終えたとき,わたしは初めて福音の説教を聞いたと心から感じた。これこそ長い間探し続けてきたものであると思った。人々の前で真理について証せずにその場を離れることなどできないと感じた。わたしは目を開いて見,耳を開いて聞き,心を開いて理解した。そして教えを授けてくれた人を扉を開いてもてなした。」16

ウィルフォード・ウッドラフはパルシファー長老と同僚のエライジャ・チェニー長老を家に招き,滞在するように勧めた。それから2日後,モルモン書を読み,宣教師たちと話をすることにじっくり時間を費やしたウッドラフ兄弟は,バプテスマを受けて,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員に確認された。その日から人生は変わった。真理を見いだした彼は,真理を人にもたらすために自らをささげることになったのである。

「福音をべ伝えに行きたいという望み」

バプテスマで交わした聖約を守ることを堅く決意していたウィルフォード・ウッドラフは,喜んで主の手に使われる者として,いつでも御心みこころを行う備えができていた。1834年の終わり,「福音を宣べ伝えに行きたいという望みを抱いていた」17彼は,合衆国南東部で働く召しを受けた。試練が待ち受けていること,そして道中命が危険にさらされる恐れがあることを知っていたが,自らの証と信仰の内に力を見いだしていた。次のように回想している。「主がジョセフ・スミスに明らかにされた福音が真実であり,とても大きな価値を持つものであることを知っていたので,まだ聞いていない人たちに伝えたかったのです。回復された福音はとても善いものであって,分かりやすいものなので,信じさせることができると思いました。」18

最初の伝道を始めた当時,ウィルフォード・ウッドラフはアロン神権の祭司に聖任されたばかりであった。同僚はすでに長老に聖任されていた人で,ともに伝道初期の試練に耐えていたが,やがて落胆してオハイオ州カートランドの家に帰ってしまった。見知らぬ土地に独り残されたウィルフォードは助けを求めて祈り,沼地や湿地帯を歩いて渡りながら伝道の務めを続けた。そしてついに,「疲れ切って空腹な」ままテネシー州メンフィスの町に着いた。19その地で最初の伝道活動として,彼は大勢の聴衆に向かって話をした。そのときのことを次のように語っている。

「ジョサイア・ジャクソン氏が営む,その地で最も立派な宿屋に行きました。自分はよそ者であり,無一文であることを伝え,一泊させてもらえないか尋ねました。職業を尋ねられ,福音を説く者であると言いました。すると彼は笑い,わたしのことをあまり説教者には見えないと言いました。わたしは非難したりはしませんでした。なぜなら,彼がそれまでに出会ってきた説教者は皆,立派な馬や馬車に乗り,質のいい衣服をまとい,高給を得ていた人々,民を救うために170マイル(約270キロ)のぬかるみを歩いて渡ったりするくらいなら,全世界が地獄に落ちるのを眺めているような人々だったからです。

宿の主人はおもしろ半分に,もし教えを説くならば泊めようと言いました。説教ができるのかを見てみたかったのです。正直に言うと,このころになると少々いたずら心が生じて,わたしは説教をさせないでほしいと頼み込みました。勘弁してほしいと頼むほどに,説教をさせようというジャクソン氏の決意は堅くなっていきました。……

わたしは大広間に座って夕食を取りました。すると食事が済む前に,その部屋が高級な黒ラシャや絹の衣服を着たメンフィスの富者や上流社会の人々で埋まり始めました。一方でわたしは,ご想像いただけるように,ぬかるみを旅してきた姿です。食事を終えると,テーブルが人々の頭越しに運び出されました。わたしは1冊の聖書と賛美歌集とろうそくを載せた台を前に部屋の隅に立たされ,宿の主人を中心とする12人の人に取り囲まれました。そこには500人ほどが,福音の説教を聴くためではなく,少しばかり楽しい時間を過ごすために集まっていました。……あなたがこのような立場に置かれたらどのように思うでしょうか。初めての伝道で,同僚や友人もなく,このような会衆に教えを説くように求められたとしたら。わたしの場合,連れが欲しいように感じはしたものの,それは人生で最も楽しかったひとときに挙げられる時間となりました。

わたしは賛美歌の歌詞を読み,歌うように求めました。だれ一人として一語でも歌おうとする者はいませんでした。わたしは自分には歌を歌う才能はないが,主の助けを得て祈りと説教を行いましょう,と言いました。祈るためにひざまずくと,周囲にいた人たちもひざまずきました。わたしは,主の御霊みたまを与えてくださるように,そして人々の心の思いを示してくださるようにと主に祈りました。そして祈りの中で,主が与えてくださることはどのようなことでも会衆に伝えると約束しました。それから立ち上がり,1時間半にわたって話をしましたが,それは生涯で最も記憶に残る説教となりました。

その場に集まっていた人々の生活がわたしの心の目に明らかにされ,わたしはその邪悪な行いと,彼らが得るであろう報いについて語りました。わたしを囲んだ人々はうなだれていました。話を終えて3分後,部屋にはだれもいなくなっていました。

間もなく寝室に案内されました。隣は大きな部屋で,わたしの説教を聞いた人が大勢集まっていました。会話が聞こえてきました。ある男が,あのモルモンの坊やが自分たちの過去の生活について知っている訳を知りたいと言っていました。しばらくして教義のある点について論争を始めました。ある者が争点の結論を得るためにわたしを呼ぼうと提案しました。しかし宿の主人が言いました。『いや,今回はもう十分聞いた。』

朝,わたしはおいしい朝食を頂きました。主人は,もしまたこちらの方に来ることがあれば,この宿に立ち寄り,好きなだけ滞在するようにと言ってくれました。」20

1836年11月,ウィルフォード・ウッドラフは合衆国南東部での伝道を終えた。1835年と1836年に9,805マイル(約1万5,688キロ)を旅し,323の集会を開き,教会の4つの支部を組織し,70人にバプテスマを施し,62人に確認の儀式を行い,11人に神権の聖任を執り行い,按手あんしゅによって4人をいやし,6度にわたって暴徒の手から救い出された,と日記に記録している。211835年6月に長老に,そして1836年5月に七十人に聖任された。

カートランドに戻ったウッドラフ長老は,その地の多くの教会員が背教に陥り,預言者ジョセフ・スミスを非難しているのを知った。後に次のように語っている。「カートランドにおける背教の時期,ジョセフ・スミスは神の御霊みたまによって明らかにされなければ,人と会うときにその人が友であるか敵であるかを知ることがほとんどできませんでした。指導的立場にあった人の大半が彼に敵対していたのです。」22

「その暗黒のただ中にあって」23さえも,ウィルフォード・ウッドラフは預言者に忠実であり続け,福音をべ伝えるという決意に忠実であり続けた。七十人第一定員会に召され,その立場にあって真理をあかしし続け,地域の数々の大会に赴いた。カートランドで1年足らずを過ごした後,導きに従って,メイン州の沖合にあるフォックス諸島においてフルタイムで伝道の務めを果たした。次のように語っている。

「神の御霊みたまがこう言いました。『一人の同僚を選んで,フォックス諸島に直行しなさい。』さて,フォックス諸島に何があるのかは,コロブに何があるのかと同じ程度にしか知りませんでした。しかし主が行くように言われたので,行きました。わたしはジョナサン・H・ヘイルを選び,彼は同行してくれました。その地で幾度か悪霊を追い出し,福音を説き,幾つかの奇跡を行いました。……わたしはフォックス諸島に着き,そこで善い働きをしました。」24フォックス諸島に到着したウッドラフ長老は,「その地の人々がいにしえに存在した秩序を切望している」のを知った。後に次のように報告している。「それについては長々と話さずに,そこにいた間に100人以上にバプテスマを施したとだけ申し上げておきましょう。」25

主イエス・キリストの使徒として伝道の務めを続ける

1838年,フォックス諸島で伝道していたときに,ウッドラフ長老は,自らの伝道の務めを人生の終わりまで広げる召しを受けた。次のように述べている。「8月9日,当時十二使徒の会長であったトーマス・B・マーシュから1通の手紙を受け取り,預言者ジョセフ・スミスが啓示を受けて,道を外れた者たちの空席を満たすためにジョン・E・ページ,ジョン・テーラー,ウィルフォード・ウッドラフ,およびウイラード・リチャーズを指名したことを知りました。

マーシュ会長の手紙にはさらにこうありました。『ですからウッドラフ兄弟,これによって,あなたは十二使徒の空席を満たすために任じられていること,そして最近与えられたばかりの主の御言葉みことばに従い,速やかにファーウェストに来て,また来年の4月26日に,この地の聖徒を離れて大洋の向こうにある別の地方へ出発しなければならないことをご承知ください。』」

ウッドラフ大管長は後に次のように述べている。「この手紙の内容は数週間前にわたしに明らかにされていましたが,わたしはだれにも話していませんでした。」26

「大洋の向こうにある別の地方へ出発」するようにとの指示は,十二使徒はイギリスで伝道の務めを果たすようにという主の命令を指していた。1839年4月26日に使徒に聖任されて間もなく,ウィルフォード・ウッドラフ長老は「全世界におけるキリストの名の特別な証人」(教義と聖約107:23)の一人としてイギリスへ出発した。

ウッドラフ長老は後に合衆国とイギリスでさらに伝道を行った。彼は教会歴史における最も偉大な宣教師の一人として知られている。本書にはウッドラフ長老の伝道における経験が数多く載っている。

聖徒の集合に貢献する

今日こんにち,末日聖徒は自分たちの住む地域に神の王国を築き上げ,それにより世界中で教会を強めるように奨励されている。教会の初期には,末日聖徒の宣教師は新たな改宗者たちに,オハイオ州カートランドであろうと,あるいはミズーリ州ジャクソン郡,イリノイ州ノーブー,そしてユタ州ソルトレーク・シティーであろうと,当時の教会の中心地に移住するように奨励していた。

ジョセフ・スミスとハイラム・スミスの殉教から約2年後,聖徒はノーブーにあった自分たちの家を去ることを余儀なくされ,ネブラスカ州ウィンタークウォーターズに一時的な居住地を築いた。イギリスで伝道していたウッドラフ長老は,教会の本隊に戻って来た。そしてウィンタークウォーターズを出発し,聖徒たちの最も有名な移民を導く手助けをした。すなわち合衆国の平原と山々を越えて,ソルトレーク盆地にある約束の地へと向かう聖徒たちの旅を導いたのである。開拓者の最初の部隊の一員として,旅の終わりの方で,病気であったブリガム・ヤング会長を馬車に乗せて運んだ。ヤング会長が馬車の床から起き上がり,眼前に広がる土地を見渡して,「結構です。まさにこの地です。さあ,行きましょう」と宣言したとき,ウッドラフ長老もその場にいた。27

ウッドラフ長老は引き続き聖徒たちが約束の地に集まるのを助けた。ある伝道の際には,家族とともにカナダと合衆国北東部で2年半を過ごし,教会員がソルトレーク盆地に移住するのを助けた。この聖徒たちの最後の一団とともにいたとき,自らが御霊みたまの導きに敏感であったことを示す,次のような経験をした。

「わたしは蒸気船が出航の準備をしているのを見ました。船長のところに行き,乗客が何人いるのかを尋ねました。『350人です。』『もう100人乗せることができますか。』『はい。』乗船させてほしいと言おうとしたとき,御霊が告げました。『その蒸気船に乗ってはいけない。あなたも同行者たちも。』分かりました,とわたしは言いました。その静かな細い声についてはすでに学んでいました。そこでその蒸気船には乗らず,翌朝まで待つことにしました。蒸気船は,出発から30分後に火災を起こしました。かじに金属の鎖ではなくロープを使用していたため,燃えて舵が利かなくなり,岸に向かうことができませんでした。その晚は闇夜やみよで,助かった者は一人もいませんでした。もし自分の内にあるあの忠告者の促しに従っていなかったなら,わたしは残りの同行者たちとともにあそこにいたでしょう。」28

ソルトレーク盆地での務め

聖徒たちがソルトレーク盆地に移住した後,ウッドラフ長老の義務は変わった。もう専任宣教師として海外に遣わされることはなかった。その代わりに,さらに多くの聖徒が教会の中心地に移住するのを助け,その地域を訪れる人々と会い,立法府の議員を務め,灌漑かんがいと開墾に取り組み,農作物と農法の開発に携わった。また,頻繁にユタ,アリゾナ,およびアイダホにある末日聖徒の入植地を訪れ,福音を説き,自らの義務を行うように聖徒たちを励ました。

ウィルフォード・ウッドラフは1856年から1883年まで教会歴史家補佐として,また1883年から1889年まで教会歴史家として働いた。これは十二使徒定員会で務めを果たした期間の大部分に及んでいる。この責任は多大な時間を要するものであったが,「この教会の歴史はいつまでも永遠に残る」と信じ,その責任を特権と考えていた。29歴史家としての務めは,1835年に日記をつけ始めて以来行ってきた働きの延長であった。─ウッドラフ大管長の日記は,本人の生涯と教会の歴史の個人記録となっている(125-127ページ参照)。

教会を強め,地域社会で働き,家族を扶養するために絶えず努力することによって,ウィルフォード・ウッドラフは勤勉だった父親から学んだ原則を実践した。十二使徒定員会のフランクリン・D・リチャーズ長老は,ウッドラフ長老について次のように語っている。「〔彼は〕その行動力と勤勉さと身体的な持久力で知られていました。大柄ではありませんでしたが,普通の体格の人では疲れ果ててしまうような労働を行うことができました。」30

ウッドラフ長老の日記は,熱心に働いた長い一日を記録した記述で満ちている。67歳のころ,桃を収穫するために息子アサへルとともに12フィート(約3.7メートル)のはしごを登っていた。バランスを崩しかけたアサヘルを助けようとしたウッドラフ長老は,自身が落下してしまった。次のように記している。「はしごの下へ約10フィート(3メートル)落ち,地面で右肩と腰を打ち,非常に痛い思いをした。アサヘルにはさほどけがはなかった。一晩中,体が非常に痛み,自由が利かなかった。」31翌日こう記している。「今日も体が非常に痛くて自由が利かなかったが,それでも畑に出て,夕方に帰宅した。」32この出来事についてマサイアス・カウリーは次のように述べている。「あの年代の人がどうして木の上で作業しようなどとしたのだろう,といぶかるのが普通である。第一に,ウッドラフ長老の場合,しなければならないと思うことが目に入ったら,それが彼にとって可能なことなら年齢など決して考慮しないのである。彼はどこにでもいた。……どのような緊急事態にも,いつでも備えができていた。もしリンゴの木の頂に切るべき大枝が見えたなら,思案するよりも先に木の頂にいるのである。自分でできることを人に頼むのは,彼にとって常に難しいことであった。」33

神殿の建設と神殿の業

聖徒たちは中心となる場所に長期間とどまったときにはいつでも神殿を建設した。それはカートランドにおいても,ノーブーにおいても,そしてつい住処すみかとなったソルトレーク・シティーにおいてもそうであった。そうすることによって,預言者ジョセフ・スミスによる主からの啓示─ウッドラフ長老が日記に記録した次の啓示に忠実であったのである。

「世のいかなる時代にあっても,ユダヤ人,あるいは神の民を集める目的は何であっただろうか。その主要な目的というのは,それによって,主が主の宮の儀式と主の王国の栄光を主の民に明らかにし,民に救いの道をお教えになれるようにすることであった。なぜなら,特定の儀式と原則があって,それらが教えられ施されるときには,その目的のために建てられた場所,すなわち宮の中で行われなければならないのである。これは世界が存在する前に神が思っておられたことであり,この目的のために神は度々ユダヤ人を集めようとされたが,ユダヤ人は拒んだ。神が終わりの時に御自分の民を集められるのは,同じ目的のため,すなわち,儀式とエンダウメント,洗い,油注ぎに対して民を備える宮を主のために建てるためである。」34

ウッドラフ長老は同胞はらからである聖徒たちに,神殿で得られる祝福にあずかるように頻繁に勧めた。次のように語っている。「わたしは神殿の建設を,時満ちる神権時代に主が末日聖徒に求めておられる重要な事柄の一つであると考えています。聖徒が神殿に参入して,生者をあがなうだけでなく死者を贖うことができるようにするためです。」35特有の勤勉さをもって,神殿の業の模範を示し,自身の幾千人もの先祖のための業が行われるようにした。

当時の多くの預言者と同様,ウッドラフ長老は世界中に神殿が存在する時代が来ることを預言した。36聖徒がソルトレーク盆地に到着してからの46年間で,ユタ準州に4つの神殿が,セントジョージ,ローガン,マンタイ,およびソルトレーク・シティーの町に建てられ奉献された。このようにして彼は,その預言が成就し始めるのを見る機会に浴した。

ウッドラフ大管長はマンタイとソルトレーク・シティーの神殿で奉献の祈りをささげた。すべての教会員に向けたメッセージの中で,副管長とともに心からの礼拝の精神で神殿の奉献式に出席する人々に注がれる祝福についてあかししている。「聖霊の心地良いささやきが与えられ,さらに時には天の宝,天使の交わりが与えられるでしょう。なぜなら〔主の〕約束はすでに発せられており,それが達せられないことはあり得ないからです。」37大管長はローガン神殿の奉献式で経験したそのような出来事について,次のように記している。

「この神殿の奉献式に出席していたとき,青春時代に何時間も祈ったことが思い起こされた。あのころわたしは,キリストの教会が確立されるのを,また,いにしえの福音を受ける民,かつて聖徒たちに語られた信仰のために戦う民が起こされるのを,生きて地上で見ることを許されるように神に請い願っていた。そして主は,生きて神の民を見いだし,主の宮の内で名前と場所を,……息子にも娘にも勝る名前,絶えることのない名前を得ると約束してくださった。そして今日きょう,わたしは主の民とともに名前を得ていることを喜び,もう一つの神殿を主の最も聖なる御名みなに奉献する手助けをする。神と小羊がとこしえにほめたたえられるように。」38

教会の大管長としてのウィルフォード・ウッドラフの務め

1887年7月25日にジョン・テーラー大管長が亡くなると,十二使徒定員会が教会の管理組織となり,ウッドラフ会長が管理役員となった。教会全体を導くという重荷を感じて,ウッドラフ会長は日記に次のような思いを記している。「これによってわたしは非常に特異な状況,生涯を通じて決して求めたことのない立場に置かれた。しかし神の摂理によってこの職を与えられたのだ。天の御父である神に,この責任を果たすための助けと祝福を与えてくださるように祈る。それはどんな人物が就くとしても高くて責任の重い役職であり,大いなる知恵を必要とする役職である。自分がテーラー大管長よりも長く生きようとは思いもしなかった。……しかしそうなったのであり,……ただこう言えるだけである。おお,全能の主なる神よ,あなたの道は何と驚くべきものでしょう。地上で御自分の御業みわざを行わせるために,確かに世の弱い者たちを選んでこられたからです。しもべウィルフォードが,何であろうと地上で待ち受けるものに備え,天の神によって求められることを行う力を持つことができますように。わたしはこの祝福を,生ける神の御子イエス・キリストの御名みなによって天の御父に求めます。」39ウッドラフ会長は1889年4月7日,末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長として支持され,この神権時代における第4代の大管長となった。

主の末日の業をあかしする

教会員へのメッセージの中で,ウッドラフ大管長はそれまでの務めにおいて絶えず行ってきたように,福音の回復について繰り返しあかしした。しかし,その生涯における最後の9年間に,それまで以上の緊迫感をもって証を述べた。使徒としてジョセフ・スミスとともに働いた者の中で最後の生存者であり,回復の預言者について明確でいつまでも消えることのない証を残すことが急務であると感じていた。この世を去る約1年前に,次のように語っている。

「わたしには理解できないことがたくさんありますが,その一つは,なぜ自分がこの年齢でここにいるかということです。非常に多くの使徒や預言者が故郷である天へ呼び戻されてきた中で,なぜこれほど長く生き長らえてきたのか,理解できません。……わたしは預言者ジョセフ・スミスのもとでエンダウメントを受けた者の中で,肉体を持って生きている唯一の人物です。ジョセフが神の王国を十二使徒に託し,この王国に対する責任を引き受けるように命じたときにともにいた者の中で,現在肉体を持っている唯一の者です。ジョセフは部屋の中で,3時間ほどにわたって立ったまま最後の講話を行いました。部屋は焼き尽くす火のようなもので満たされました。彼の顔はこはくのように澄み,彼の言葉はわたしたちにとって激しい稲妻のようでした。預言者の言葉は頭のてっぺんから足のつま先まで,体中を貫きました。彼はこう言いました。『兄弟たち,全能の主は時満ちる最後の神権時代と神の王国の確立に必要なあらゆる神権,あらゆるかぎ,あらゆる力,あらゆる原則をわたしの頭上に結び固められました。わたしは皆さんの頭上にそのすべての原則と,神権と,使徒職と,神の王国の鍵を結び固めました。今皆さんは力を合わせてこの王国を担っていかなければなりません。そうしなければ皆さんは罰の定めを受けるでしょう。』わたしはその言葉を忘れません。─命あるかぎり,決して忘れないでしょう。それはジョセフが肉体を持って語った最後の話でした。その後間もなく彼は殉教し,栄光を受けるために故郷である天に呼び戻されました。」40

教会の大管長として,ウッドラフ大管長は聖徒に聖霊の導きを求めてそれに従い,聖約に忠実であり,自国や外国で福音を説き,現世での責任を誠実に果たし,神殿と家族歴史の業を熱心に行うように強く勧めた。彼の勧告は,十二使徒定員会の一員であったころに語った次の言葉を繰り返したものであった。「たとえどれほど善良であろうと,わたしたちは絶えず向上してさらに良くなろうとしなければなりません。ほかの人たちが従ってきたものとは異なる律法と福音に従い,異なる王国を目指しています。同様にわたしたちの目標は主なる神の御前みまえにあって高くなければならず,わたしたちはそれに従って自らを治めて管理しなければなりません。神の御霊がとどまって,そうする力を与えてくださるように,わたしの天の御父である神に祈ります。」41

「宣言」を発する

主の導きの手によって強められながら,ウッドラフ大管長はこの神権時代でもとりわけ不穏な時期にあって末日聖徒を導いた。1880年代末,教会は主が預言者ジョセフ・スミスに与えられた戒めに従って多妻結婚を続けていた。しかし,少し前に合衆国政府が多妻結婚を禁止する法律を可決しており,違反に対しては,教会の資産の没収や,投票権など教会員の基本的人権の否認を含む,厳しい刑罰が設けられていた。またこの展開によって,多妻結婚を行う末日聖徒を起訴する法的手段が確保されることになった。教会は上訴したが,徒労に終わった。

ウッドラフ大管長はこうした状況を深く憂慮していた。この問題について主の御心みこころを求め,最終的に末日聖徒は多妻結婚の実施をやめるべきであるという啓示を受けた。主の命令に従って,「宣言」として知られることになる声明を発した。─この霊感による声明は,多妻結婚に関する教会の公式な立場のよりどころとなっている。この1890年9月24日付けの公の宣言において,大管長は国の法律に従う意思を表明した。また,教会が多妻結婚の実践をすでに教えていないことをあかしした。421890年10月6日,総大会において,末日聖徒は預言者の宣言を支持し,預言者には「『宣言』を発するに十分な権能が,その地位によって与えられている」という声明を全会一致で支持した。43

家族の永続性を再び強調する

殉教する約3か月前,預言者ジョセフ・スミスは大勢の聖徒に向かって説教をした。その説教の概要を記録したウィルフォード・ウッドラフ長老は,預言者が「これまで聖徒に提示されてきた主題の中で最も重要で興味深いものの一つ」44について語ったと述べている。この説教の一部として,預言者は家族が永遠であることをあかしした。預言者は自分たちの親に結び固められること,およびすべての世代にわたってその結び固めの儀式を続けることの必要性について,次のように語っている。

「これがエリヤの霊です。わたしたちはこれによって死者をあがない,自分自身を天にいる先祖とつなぎ,また死者が第一の復活に出て来るように結び固めるのです。わたしたちはここで,地上に住んでいる人々を天に住んでいる人々と結び固めるエリヤの力を欲しています。……行って,この地上で息子たちと娘たちを自分に,そして自らを永遠の栄光の中にいる先祖に結び固めてください。」45

それからの数十年間,末日聖徒は「先祖と子孫の間にある事項について固いつながり」(教義と聖約128:18)がなければならないことは知っていた。しかし,手順は完全に整えられてはいなかった。ウッドラフ大管長が述べているように,預言者ジョセフは「これらの事柄に関してさらに深く話を進める」46前に世を去ってしまったからである。聖徒は「〔自分たちが〕持っていたあらゆる光と知識」47に従って,自分自身を,父親や母親にではなく,ジョセフ・スミスやブリガム・ヤング,あるいは当時の教会指導者に結び固めて,すなわち「養子縁組」していた。教会の大管長として,ウッドラフ大管長はこの行いについて次のように述べている。「先祖の心を子孫に結び固め,子孫の心を先祖に結び固めることに関して,わたしたちは神から与えられた啓示に従ってそれらの原則を十分に実践していません。わたしは満足を覚えていませんし,〔ジョン・〕テーラー大管長も,そして預言者ジョセフ以来神の神殿において養子縁組の儀式に出席してきたすべての人も同様です。わたしたちはこの件に関して,すでに受けている事柄以上にさらに明らかにされるべき事柄があると感じてきました。」48

1894年4月5日,そのさらなる啓示がウッドラフ大管長に与えられた。3日後,総大会での説教の中で,その啓示について語っている。「自分がだれに養子縁組されるべきかを知ろうとして主の御前みまえに行ったとき……,神の御霊みたまがわたしに言いました。『あなたにはあなたを生んだ父親がいないのですか。』『いいえ,おります。』『それではなぜ父親を敬わないのですか。なぜ彼に養子縁組されようとしないのですか。』『はい,おっしゃるとおりです』と,わたしは言いました。わたしは父に養子縁組されました。そして父をその父親に結び固め,さかのぼって同様に行うべきであったのです。神殿を管理するすべての人に義務として果たしてほしいのは,今日きょうから後とこしえに,全能の主が別の方法を命じられないかぎり,すべての人がその父親に養子縁組されるようにすることです。……それがこの民に対する神の御心みこころです。イスラエルの山々にある神殿を管理するすべての人に,このことを心にとどめておいてほしいと思います。わたしにどのような権利があって,血統に対する人の権利を取り去ろうというのでしょうか。そのように行う権利のある人がいるでしょうか。いいえ,いません。すべての人がその父親に養子縁組されるようにしてください。そうするときに皆さんは,神が終わりの時に預言者エリヤを遣わそうと宣言された際の御言葉をみことば,そのとおりに行うことになるでしょう〔マラキ4:5-6参照〕。……

わたしたちは末日聖徒に,今からできるかぎり系図をたどり,自分の父親や母親に結び固められてほしいのです。子供たちを両親に結び固め,この鎖をできるかぎり長くつないでください。……

兄弟姉妹,これらの事柄を心に据えてください。記録の作成を続け,主の御前に義にかなった方法で行い,この原則を遂行するならば,神の祝福がともにあり,贖われる人々がいつの日か祝福してくれるでしょう。一つの民として,目が開かれ,耳が開かれ,心が開かれますよう,神に祈っています。そして,わたしたちの双肩に託された業,すなわち天の神が求めておられる大いなる力ある業を理解できますように。」50

「絶えずあなたのために祈ります」

1897年3月1日,ソルトレークのタバナクルはウィルフォード・ウッドラフ大管長の90歳の誕生日を祝う末日聖徒で埋まった。その場で聖徒は「絶えずあなたのために祈ります」という新しい賛美歌を聞いた。エバン・スティーブンスが既存の賛美歌の曲に手を加え,教会の愛する預言者に敬意を表すために次の新しい歌詞を書いたのである。

わたしたちの愛する預言者

絶えずあなたのために祈ります

神が慰めと励ましを下さいますように

その額によわいが刻まれていこうとも

内なる光が今と等しく輝いていますように

内なる光が今と等しく輝いていますように

わたしたちの心を尽くして

絶えずあなたのために祈ります

務めを果たす力が与えられますように

日々導きと勧告を与え

わたしたちの道に聖なる光を注いでください

わたしたちの道に聖なる光を注いでください

燃えるような愛をもって

絶えずあなたのために祈ります

子らの祈りが天で聞かれるように

あなたが絶えず祝福され,生きているかぎり

神がすべてのふさわしいものを与えてくださいますように

神がすべてのふさわしいものを与えてくださいますように51

それから1年半後の1898年9月2日,ウィルフォード・ウッドラフ大管長は死去し,すでに世を去っていた仲間の聖徒たちに加わった。ソルトレークのタバナクルで行われた葬儀では,「平安の霊が……式の準備をする際も,式の間も満ちあふれ,あらゆる人に慰めをもたらした。」タバナクルの内部は「白い布が芸術的にかけられ」,「無数の見事な」生花や,小麦やオート麦の束で飾られた。「オルガンの両側には『1847』の数字と,大きな束にしたヤマヨモギとヒマワリ〔および〕松の木が配置され」,1847年7月に開拓者がソルトレーク盆地に入ったことを思い起こさせた。ウッドラフ大管長の大きな遺影の上には「死してもなお語る」という宣言が照らし出され,神の預言者への敬意が表された。ウッドラフ大管長の残した教えと模範は,神の王国を築き上げようと努力する末日聖徒に霊感を与え続けるであろう。52

  1. 『賛美歌』〔英文〕285番。詩:ウィリアム・カウパー

  2. Conference Report, 1937年4月,11

  3. Wilford Woodruff: History of His Life and Labors as Recorded in His Daily Journals(1964年),37

  4. 『賛美歌』〔英文〕285番

  5. “History of Wilford Woodruff ( From His Own Pen),” Millennial Star, 1865年3月18日付,167—168

  6. Journal of Wilford Woodruff, 1838年の前書き参照;末日聖徒イエス・キリスト教会記録保管課

  7. Deseret Weekly, 1894年2月24日付,288

  8. “History of Wilford Woodruff (From His Own Pen): chapter of Accidents,” Millennial Star, 1865年6月10日付,369-360;1858年にウッドラフ長老が書いた文書から引用

  9. “History of Wilford Woodruff (From His Own Pen): Chapter of Accidents,” Millennial Star, 1865年6月17日付,374-375

  10. “History of Wilford Woodruff (From His Own Pen): Chapter of Accidents,” Millennial Star, 1865年6月24日付,392

  11. “History of Wilford Woodruff (From His Own Pen),” Millennial Star, 1865年3月25日付,182

  12. Journal of Wilford Woodruff, 1838年の前書き

  13. Deseret Weekly, 1891年9月5日付,323参照

  14. Millennial Star, 1865年3月25日付,182

  15. Millennial Star, 1895年11月21日付,741

  16. Journal of Wilford Woodruff, 序文

  17. “Leaves from My Journal,” Millennial Star, 1881年5月30日付,342

  18. Millennial Star, 1881年5月30日付,342

  19. “Leaves from My Journal,” Millennial Star, 1881年6月20日付,391

  20. Millennia Star, 1881年6月20日付,391

  21. Journal of Wilford Woodruff, 1835年および1836年の概要参照

  22. Deseret Weekly, 1896年11月7日付,643

  23. Deseret Weekly, 1896年11月7日付,643

  24. Deseret Weekly, 1896年11月7日付,643

  25. Conference Report, 1897年10月,46

  26. “Leaves from My Journal,” Millennial Star, 1881年9月26日付,621

  27. Deseret News: Semi-Weekly, 1880年7月27日付,2

  28. Conference Report, 1898年4月,30

  29. Journal of Wilford Woodruff, 1856年9月6日付

  30. “Wilford Woodruff,” Improvement Era, 1898年10月号,865

  31. Journal of Wilford Woodruff, 1874年9月7日付

  32. Journal of Wilford Woodruff, 1874年9月8日付

  33. Wilford Woodruff: History of His Life and Labors, 484

  34. Journal of Wilford Woodruff, 1843年6月11日付でウィルフォード・ウッドラフにより引用

  35. Deseret News: Semi-Weekly, 1876年5月2日付,4

  36. Deseret News: Semi-Weekly, 1878年3月26日付,1参照

  37. “Address from the First Presidency,” Millennial Star, 1898年4月10日付,246

  38. Journal of Wilford Woodruff, 1884年5月17日付

  39. Journal of Wilford Woodruff, 1887年7月25日付

  40. Deseret Weekly, 1897年9月4日付,356

  41. Deseret News: Semi-Weekly, 1875年12月28日付,1

  42. 教義と聖約,公式の宣言一参

  43. ロレンゾ・スノー,教義と聖約,公式の宣言一に添えられている文書

  44. Journal of Wilford Woodruff, 1844年3月10日付

  45. Journal of Wilford Woodruff, 1844年3月10日付でウィルフォード・ウッドラフにより引用

  46. “Discourse by President Wilford Woodruff,” Millennial Star, 1894年5月28日付,338

  47. Millennial Star, 1894年5月28日付,337

  48. Millennial Star, 1894年5月28日付,337

  49. Journal of Wilford Woodruff, 1894年4月5日付参照

  50. Millennial Star, 1894年5月28日付,338,339,341

  51. 『賛美歌』〔英文〕23番

  52. In Memoriam: President Wilford Woodruff,” Woman’s Exponent, 1898年9月15日付,44-45参照

Elder Wilford Woodruff and Elder Brigham Young

1839年,ウィルフォード・ウッドラフ長老(前),ブリガム・ヤング長老(後),およびほかの十二使徒定員会会員たちは,イギリスで福音を宣べ伝えるためにそれぞれの家を後にした。

Woodruff home in Nauvoo

ウィルフォード・ウッドラフ長老と家族がイリノイ州ノーブーで住んだ家。

Manti Utah Temple

ユタ州マンタイ神殿。1888年にウィルフォード・ウッドラフ大管長によって奉献された。

President Woodruff’s First Presidency

ウィルフォード・ウッドラフ大管長(中央)と副管長。ジョージ・Q・キャノン副管長(左)とジョセフ・F・スミス副管長(右)