ウィルフォード・ウッドラフの生涯と教導の業
「神は不思議な方法で業を進め,奇跡を行われる。神は海に足跡を残し,
「彼は〔その賛美歌が〕大好きでした」と,ウィルフォード・ウッドラフが大管長であった当時に十二使徒として働いたヒーバー・J・グラント大管長は述べている。「神殿で開く毎週の集会で,時には月に2度それを歌いました。ウッドラフ兄弟がその歌をリクエストすることのないまま1か月が過ぎ去るようなことはほとんどありませんでした。彼はこの業を心の底から信じ,その前進のために,神から授けられた力を尽くして働きました。」2
同じくウッドラフ大管長とともに働いたマサイアス・F・カウリーは次のように述べている。「恐らく教会の中に,『神は不思議な方法で業を進め,奇跡を行われる』という言葉が真実であることを,ウィルフォード・ウッドラフ以上に深く感じてきた人はいないでしょう。彼はきわめて霊的で,まったく完全に神の務めに献身していたために,生涯を通じて神の
グラント大管長やカウリー兄弟が述べているように,ウッドラフ大管長の好んだ賛美歌は彼の生涯にふさわしいテーマであった。またそれはウッドラフ大管長が眼前に見た末日聖徒イエス・キリスト教会の発展を描写したものでもあった。賛美歌は次のように続いている。
恐れを抱く聖徒たち,勇気を得よ
あなたがたが激しく恐れる雲は
祝福となって頭上に注がれる
神の目的は
絶えず開花していく
つぼみの間は苦くても,
その花は甘いであろう
ウィルフォード・ウッドラフは初期の教会歴史における主要な出来事の多くにかかわった重要な人物であり,逆境の雲が最終的には忠実な者にとって祝福となることをよく理解していた。迫害や苦しみの苦さを味わったが,そのすべてを通して,神の手に導かれることの甘さをも味わった。そして福音が回復されていくのを見ながら,神の業をはっきりと理解していったのである。
ウィルフォード・ウッドラフの幼年時代および青年時代
-家庭で据えられた堅固な土台
ウィルフォード・ウッドラフは1807年3月1日,コネチカット州ファーミントンでアフェク・ウッドラフとビューラー・トンプソン・ウッドラフの間に誕生した。1歳3か月のときに,母親は
ウィルフォード・ウッドラフの書き物から,彼が当時の普通の少年と同じように育ったことが分かる。学校に通い,家族の農場で働いた。また非常に若いころから父親の製材工場で働き,その経験は成人して自ら工場を経営する際に役立つことになる。好きな娯楽は魚釣りで,よく父親の工場の横を流れる小川で兄弟たちと
彼は家族を愛し,両親に深い敬意を抱いていた。称賛と感謝をもって,父親のことを常に「大量の仕事」をこなす強健な人物で,「慈愛にあふれ,正直で,高潔で,誠実な人」であったと述べている。5また継母から福音を教わったことが,主のまことの教会を探し求めるようになるうえでどれほど助けとなったかを回想している。6
大人になってからも,生涯における最大の喜びの多くは肉親に関連したものであった。兄のアズモンと同じ日に教会に加わった。そして父親や継母,家族に教えを説き,バプテスマを施すことができ喜んだ。また後年になって,実母のために神殿の業が行われるようにし,それは自分の生涯のあらゆる働きに十分報いてくれる特権であったと述べている。7
「神の守りと憐 れみ」
幼年時代や青年時代を振り返りながら,ウィルフォード・ウッドラフは命が幾度も主の手によって守られてきたことを認めている。「災難の章」(“Chapter of Accidents”)と題した記事の中で,遭遇してきた災難について述べ,生きてそれを語れることに驚いている。例えば,家族の農場での冒険について次のように語っている。「6歳のとき,ひどく気の立った雄牛に殺されかけました。父と一緒に家畜にカボチャを食べさせていると,1頭のひどく気の立った雄牛が,わたしの牛を追い払いました。わたしが残ったカボチャを取ると,雄牛が飛びかかってきました。父はカボチャを投げ捨てて走るように言いました。わたしは急な坂を駆け下りて行きましたが,カボチャは持って行きました。このカボチャはわたしの牛に食べる権利があると心に決めていたからです。雄牛は追いかけて来ます。まさに追いつかれようかというとき,わたしは杭を埋め込むために掘った穴に足を踏み入れ,転んでしまいました。雄牛はわたしを跳び越え,カボチャを追いかけて,角で粉々に引き裂きました。もし転んでいなかったなら,わたしもあのカボチャと同じ目に遭っていたでしょう。」8
また17歳のときに経験した災難についても語っている。「わたしはなじみのない,とても短気な馬に乗っていました。岩の多い非常に急な坂を下っていたとき,馬がその地の利を生かして突然道から飛び出し,岩の間を縫いながら急勾配を全速力で駆け下り,わたしを頭越しに岩の上へ投げ出そうとして足をけり始めました。わたしは馬の頭にしがみつきました。そして,いつ岩に打ち付けられて粉々になるかと思いながら,両方の耳をグリップのようにつかんでいました。馬の首にまたがって座ったままの姿勢です。耳のほかは馬を操る手綱もなく,馬は坂を全速力で駆け下りて行き,ついに岩に衝突して,その身を地面に打ち付けました。わたしは馬の頭と岩を越えて,1ロッド〔約5メートル〕ほど向こうまで投げ飛ばされて,足から地面にたたきつけられました。そうでなければ命を落としていたでしょう。もし体の別の箇所を打ち付けていたなら,即死していたと思います。実際,骨は下の方からまるで
ウィルフォード・ウッドラフは大人になってからも頻繁に災難に見舞われたが,それでも命は守られ続けた。41歳のとき,経験してきた数々の不幸な出来事をかいつまんで話し,主の守りの手に対する感謝を次のように述べている。
「わたしはこれまでに両足(片方は2か所)と両腕,胸骨と3本の
わたしには奇跡的だと思われることがあります。これまでに経験してきたあらゆるけがや骨折にもかかわらず,手足が不自由になることもなく,どんな過酷な仕事や厳しい環境にも,つらい旅にも耐えてこられました。そのうえ,幾度となく1日に40マイル(約64キロ),50マイル(約80キロ),あるときには60マイル(約96キロ)を歩いてきたのです。神の守りと
主のまことの教会を探し,見いだす
ウィルフォード・ウッドラフが最初に主に仕え,主のことを学びたいと望んだのは,若いころのことであった。次のように語っている。「弱年のころ,わたしは宗教に関する事柄に非常に関心を抱いていました。」11しかし,どの教会にも加わらないことを選んだ。その代わりにイエス・キリストの唯一まことの教会を見いだそうと決意していたのである。両親や友人たちの教えから,そして
ウィルフォード・ウッドラフ大管長は後に,自分の経験が末日聖徒にとって益となると信じて,13自らが真理を探し求めた物語を度々話している。次のように語っている。
「わたしはイエス・キリストの福音,または使徒が教えた儀式や
「わたしはこれらの事柄に引き付けられていました」と彼は語っている。「青年時代,生きて預言者に会うことができるように日夜祈っていました。預言者に会うためなら,あるいは聖書で読んだ事柄を教えてくれる人に会うためなら,1,000マイルでも旅をしたでしょう。しかし当時これらの原則を支持している教会を見つけることができなかったので,どの教会にも加わることができませんでした。深夜に何時間も,川辺で,山の中で,製材工場で過ごし,……生きて預言者に会えるように,あるいは神の王国に関する事柄について読んだとおりに教えてくれる人に会えるように,神に請い願いました。」15
ウィルフォード・ウッドラフの探求が終わったのは,26歳のときであった。1833年12月29日,末日聖徒の宣教師ゼラ・パルシファー長老の説教を聞いたのだ。日記の中で,パルシファー長老の説教に対する自らの反応を次のように述べている。
「彼は幾らかあいさつを述べて集会を始め,次に祈った。わたしは神の
ウィルフォード・ウッドラフはパルシファー長老と同僚のエライジャ・チェニー長老を家に招き,滞在するように勧めた。それから2日後,モルモン書を読み,宣教師たちと話をすることにじっくり時間を費やしたウッドラフ兄弟は,バプテスマを受けて,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員に確認された。その日から人生は変わった。真理を見いだした彼は,真理を人にもたらすために自らをささげることになったのである。
「福音を宣 べ伝えに行きたいという望み」
バプテスマで交わした聖約を守ることを堅く決意していたウィルフォード・ウッドラフは,喜んで主の手に使われる者として,いつでも
最初の伝道を始めた当時,ウィルフォード・ウッドラフはアロン神権の祭司に聖任されたばかりであった。同僚はすでに長老に聖任されていた人で,ともに伝道初期の試練に耐えていたが,やがて落胆してオハイオ州カートランドの家に帰ってしまった。見知らぬ土地に独り残されたウィルフォードは助けを求めて祈り,沼地や湿地帯を歩いて渡りながら伝道の務めを続けた。そしてついに,「疲れ切って空腹な」ままテネシー州メンフィスの町に着いた。19その地で最初の伝道活動として,彼は大勢の聴衆に向かって話をした。そのときのことを次のように語っている。
「ジョサイア・ジャクソン氏が営む,その地で最も立派な宿屋に行きました。自分はよそ者であり,無一文であることを伝え,一泊させてもらえないか尋ねました。職業を尋ねられ,福音を説く者であると言いました。すると彼は笑い,わたしのことをあまり説教者には見えないと言いました。わたしは非難したりはしませんでした。なぜなら,彼がそれまでに出会ってきた説教者は皆,立派な馬や馬車に乗り,質のいい衣服をまとい,高給を得ていた人々,民を救うために170マイル(約270キロ)のぬかるみを歩いて渡ったりするくらいなら,全世界が地獄に落ちるのを眺めているような人々だったからです。
宿の主人はおもしろ半分に,もし教えを説くならば泊めようと言いました。説教ができるのかを見てみたかったのです。正直に言うと,このころになると少々いたずら心が生じて,わたしは説教をさせないでほしいと頼み込みました。勘弁してほしいと頼むほどに,説教をさせようというジャクソン氏の決意は堅くなっていきました。……
わたしは大広間に座って夕食を取りました。すると食事が済む前に,その部屋が高級な黒ラシャや絹の衣服を着たメンフィスの富者や上流社会の人々で埋まり始めました。一方でわたしは,ご想像いただけるように,ぬかるみを旅してきた姿です。食事を終えると,テーブルが人々の頭越しに運び出されました。わたしは1冊の聖書と賛美歌集とろうそくを載せた台を前に部屋の隅に立たされ,宿の主人を中心とする12人の人に取り囲まれました。そこには500人ほどが,福音の説教を聴くためではなく,少しばかり楽しい時間を過ごすために集まっていました。……あなたがこのような立場に置かれたらどのように思うでしょうか。初めての伝道で,同僚や友人もなく,このような会衆に教えを説くように求められたとしたら。わたしの場合,連れが欲しいように感じはしたものの,それは人生で最も楽しかったひとときに挙げられる時間となりました。
わたしは賛美歌の歌詞を読み,歌うように求めました。だれ一人として一語でも歌おうとする者はいませんでした。わたしは自分には歌を歌う才能はないが,主の助けを得て祈りと説教を行いましょう,と言いました。祈るためにひざまずくと,周囲にいた人たちもひざまずきました。わたしは,主の
その場に集まっていた人々の生活がわたしの心の目に明らかにされ,わたしはその邪悪な行いと,彼らが得るであろう報いについて語りました。わたしを囲んだ人々はうなだれていました。話を終えて3分後,部屋にはだれもいなくなっていました。
間もなく寝室に案内されました。隣は大きな部屋で,わたしの説教を聞いた人が大勢集まっていました。会話が聞こえてきました。ある男が,あのモルモンの坊やが自分たちの過去の生活について知っている訳を知りたいと言っていました。しばらくして教義のある点について論争を始めました。ある者が争点の結論を得るためにわたしを呼ぼうと提案しました。しかし宿の主人が言いました。『いや,今回はもう十分聞いた。』
朝,わたしはおいしい朝食を頂きました。主人は,もしまたこちらの方に来ることがあれば,この宿に立ち寄り,好きなだけ滞在するようにと言ってくれました。」20
1836年11月,ウィルフォード・ウッドラフは合衆国南東部での伝道を終えた。1835年と1836年に9,805マイル(約1万5,688キロ)を旅し,323の集会を開き,教会の4つの支部を組織し,70人にバプテスマを施し,62人に確認の儀式を行い,11人に神権の聖任を執り行い,
カートランドに戻ったウッドラフ長老は,その地の多くの教会員が背教に陥り,預言者ジョセフ・スミスを非難しているのを知った。後に次のように語っている。「カートランドにおける背教の時期,ジョセフ・スミスは神の
「その暗黒のただ中にあって」23さえも,ウィルフォード・ウッドラフは預言者に忠実であり続け,福音を
「神の
主イエス・キリストの使徒として伝道の務めを続ける
1838年,フォックス諸島で伝道していたときに,ウッドラフ長老は,自らの伝道の務めを人生の終わりまで広げる召しを受けた。次のように述べている。「8月9日,当時十二使徒の会長であったトーマス・B・マーシュから1通の手紙を受け取り,預言者ジョセフ・スミスが啓示を受けて,道を外れた者たちの空席を満たすためにジョン・E・ページ,ジョン・テーラー,ウィルフォード・ウッドラフ,およびウイラード・リチャーズを指名したことを知りました。
マーシュ会長の手紙にはさらにこうありました。『ですからウッドラフ兄弟,これによって,あなたは十二使徒の空席を満たすために任じられていること,そして最近与えられたばかりの主の
ウッドラフ大管長は後に次のように述べている。「この手紙の内容は数週間前にわたしに明らかにされていましたが,わたしはだれにも話していませんでした。」26
「大洋の向こうにある別の地方へ出発」するようにとの指示は,十二使徒はイギリスで伝道の務めを果たすようにという主の命令を指していた。1839年4月26日に使徒に聖任されて間もなく,ウィルフォード・ウッドラフ長老は「全世界におけるキリストの名の特別な証人」(教義と聖約107:23)の一人としてイギリスへ出発した。
ウッドラフ長老は後に合衆国とイギリスでさらに伝道を行った。彼は教会歴史における最も偉大な宣教師の一人として知られている。本書にはウッドラフ長老の伝道における経験が数多く載っている。
聖徒の集合に貢献する
ジョセフ・スミスとハイラム・スミスの殉教から約2年後,聖徒はノーブーにあった自分たちの家を去ることを余儀なくされ,ネブラスカ州ウィンタークウォーターズに一時的な居住地を築いた。イギリスで伝道していたウッドラフ長老は,教会の本隊に戻って来た。そしてウィンタークウォーターズを出発し,聖徒たちの最も有名な移民を導く手助けをした。すなわち合衆国の平原と山々を越えて,ソルトレーク盆地にある約束の地へと向かう聖徒たちの旅を導いたのである。開拓者の最初の部隊の一員として,旅の終わりの方で,病気であったブリガム・ヤング会長を馬車に乗せて運んだ。ヤング会長が馬車の床から起き上がり,眼前に広がる土地を見渡して,「結構です。まさにこの地です。さあ,行きましょう」と宣言したとき,ウッドラフ長老もその場にいた。27
ウッドラフ長老は引き続き聖徒たちが約束の地に集まるのを助けた。ある伝道の際には,家族とともにカナダと合衆国北東部で2年半を過ごし,教会員がソルトレーク盆地に移住するのを助けた。この聖徒たちの最後の一団とともにいたとき,自らが
「わたしは蒸気船が出航の準備をしているのを見ました。船長のところに行き,乗客が何人いるのかを尋ねました。『350人です。』『もう100人乗せることができますか。』『はい。』乗船させてほしいと言おうとしたとき,御霊が告げました。『その蒸気船に乗ってはいけない。あなたも同行者たちも。』分かりました,とわたしは言いました。その静かな細い声についてはすでに学んでいました。そこでその蒸気船には乗らず,翌朝まで待つことにしました。蒸気船は,出発から30分後に火災を起こしました。
ソルトレーク盆地での務め
聖徒たちがソルトレーク盆地に移住した後,ウッドラフ長老の義務は変わった。もう専任宣教師として海外に遣わされることはなかった。その代わりに,さらに多くの聖徒が教会の中心地に移住するのを助け,その地域を訪れる人々と会い,立法府の議員を務め,
ウィルフォード・ウッドラフは1856年から1883年まで教会歴史家補佐として,また1883年から1889年まで教会歴史家として働いた。これは十二使徒定員会で務めを果たした期間の大部分に及んでいる。この責任は多大な時間を要するものであったが,「この教会の歴史はいつまでも永遠に残る」と信じ,その責任を特権と考えていた。29歴史家としての務めは,1835年に日記をつけ始めて以来行ってきた働きの延長であった。─ウッドラフ大管長の日記は,本人の生涯と教会の歴史の個人記録となっている(125-127ページ参照)。
教会を強め,地域社会で働き,家族を扶養するために絶えず努力することによって,ウィルフォード・ウッドラフは勤勉だった父親から学んだ原則を実践した。十二使徒定員会のフランクリン・D・リチャーズ長老は,ウッドラフ長老について次のように語っている。「〔彼は〕その行動力と勤勉さと身体的な持久力で知られていました。大柄ではありませんでしたが,普通の体格の人では疲れ果ててしまうような労働を行うことができました。」30
ウッドラフ長老の日記は,熱心に働いた長い一日を記録した記述で満ちている。67歳のころ,桃を収穫するために息子アサへルとともに12フィート(約3.7メートル)のはしごを登っていた。バランスを崩しかけたアサヘルを助けようとしたウッドラフ長老は,自身が落下してしまった。次のように記している。「はしごの下へ約10フィート(3メートル)落ち,地面で右肩と腰を打ち,非常に痛い思いをした。アサヘルにはさほどけがはなかった。一晩中,体が非常に痛み,自由が利かなかった。」31翌日こう記している。「今日も体が非常に痛くて自由が利かなかったが,それでも畑に出て,夕方に帰宅した。」32この出来事についてマサイアス・カウリーは次のように述べている。「あの年代の人がどうして木の上で作業しようなどとしたのだろう,といぶかるのが普通である。第一に,ウッドラフ長老の場合,しなければならないと思うことが目に入ったら,それが彼にとって可能なことなら年齢など決して考慮しないのである。彼はどこにでもいた。……どのような緊急事態にも,いつでも備えができていた。もしリンゴの木の頂に切るべき大枝が見えたなら,思案するよりも先に木の頂にいるのである。自分でできることを人に頼むのは,彼にとって常に難しいことであった。」33
神殿の建設と神殿の業
聖徒たちは中心となる場所に長期間とどまったときにはいつでも神殿を建設した。それはカートランドにおいても,ノーブーにおいても,そして
「世のいかなる時代にあっても,ユダヤ人,あるいは神の民を集める目的は何であっただろうか。その主要な目的というのは,それによって,主が主の宮の儀式と主の王国の栄光を主の民に明らかにし,民に救いの道をお教えになれるようにすることであった。なぜなら,特定の儀式と原則があって,それらが教えられ施されるときには,その目的のために建てられた場所,すなわち宮の中で行われなければならないのである。これは世界が存在する前に神が思っておられたことであり,この目的のために神は度々ユダヤ人を集めようとされたが,ユダヤ人は拒んだ。神が終わりの時に御自分の民を集められるのは,同じ目的のため,すなわち,儀式とエンダウメント,洗い,油注ぎに対して民を備える宮を主のために建てるためである。」34
ウッドラフ長老は
当時の多くの預言者と同様,ウッドラフ長老は世界中に神殿が存在する時代が来ることを預言した。36聖徒がソルトレーク盆地に到着してからの46年間で,ユタ準州に4つの神殿が,セントジョージ,ローガン,マンタイ,およびソルトレーク・シティーの町に建てられ奉献された。このようにして彼は,その預言が成就し始めるのを見る機会に浴した。
ウッドラフ大管長はマンタイとソルトレーク・シティーの神殿で奉献の祈りをささげた。すべての教会員に向けたメッセージの中で,副管長とともに心からの礼拝の精神で神殿の奉献式に出席する人々に注がれる祝福について
「この神殿の奉献式に出席していたとき,青春時代に何時間も祈ったことが思い起こされた。あのころわたしは,キリストの教会が確立されるのを,また,いにしえの福音を受ける民,かつて聖徒たちに語られた信仰のために戦う民が起こされるのを,生きて地上で見ることを許されるように神に請い願っていた。そして主は,生きて神の民を見いだし,主の宮の内で名前と場所を,……息子にも娘にも勝る名前,絶えることのない名前を得ると約束してくださった。そして
教会の大管長としてのウィルフォード・ウッドラフの務め
1887年7月25日にジョン・テーラー大管長が亡くなると,十二使徒定員会が教会の管理組織となり,ウッドラフ会長が管理役員となった。教会全体を導くという重荷を感じて,ウッドラフ会長は日記に次のような思いを記している。「これによってわたしは非常に特異な状況,生涯を通じて決して求めたことのない立場に置かれた。しかし神の摂理によってこの職を与えられたのだ。天の御父である神に,この責任を果たすための助けと祝福を与えてくださるように祈る。それはどんな人物が就くとしても高くて責任の重い役職であり,大いなる知恵を必要とする役職である。自分がテーラー大管長よりも長く生きようとは思いもしなかった。……しかしそうなったのであり,……ただこう言えるだけである。おお,全能の主なる神よ,あなたの道は何と驚くべきものでしょう。地上で御自分の
主の末日の業を証 する
教会員へのメッセージの中で,ウッドラフ大管長はそれまでの務めにおいて絶えず行ってきたように,福音の回復について繰り返し
「わたしには理解できないことがたくさんありますが,その一つは,なぜ自分がこの年齢でここにいるかということです。非常に多くの使徒や預言者が故郷である天へ呼び戻されてきた中で,なぜこれほど長く生き長らえてきたのか,理解できません。……わたしは預言者ジョセフ・スミスのもとでエンダウメントを受けた者の中で,肉体を持って生きている唯一の人物です。ジョセフが神の王国を十二使徒に託し,この王国に対する責任を引き受けるように命じたときにともにいた者の中で,現在肉体を持っている唯一の者です。ジョセフは部屋の中で,3時間ほどにわたって立ったまま最後の講話を行いました。部屋は焼き尽くす火のようなもので満たされました。彼の顔はこはくのように澄み,彼の言葉はわたしたちにとって激しい稲妻のようでした。預言者の言葉は頭のてっぺんから足のつま先まで,体中を貫きました。彼はこう言いました。『兄弟たち,全能の主は時満ちる最後の神権時代と神の王国の確立に必要なあらゆる神権,あらゆる
教会の大管長として,ウッドラフ大管長は聖徒に聖霊の導きを求めてそれに従い,聖約に忠実であり,自国や外国で福音を説き,現世での責任を誠実に果たし,神殿と家族歴史の業を熱心に行うように強く勧めた。彼の勧告は,十二使徒定員会の一員であったころに語った次の言葉を繰り返したものであった。「たとえどれほど善良であろうと,わたしたちは絶えず向上してさらに良くなろうとしなければなりません。ほかの人たちが従ってきたものとは異なる律法と福音に従い,異なる王国を目指しています。同様にわたしたちの目標は主なる神の
「宣言」を発する
主の導きの手によって強められながら,ウッドラフ大管長はこの神権時代でもとりわけ不穏な時期にあって末日聖徒を導いた。1880年代末,教会は主が預言者ジョセフ・スミスに与えられた戒めに従って多妻結婚を続けていた。しかし,少し前に合衆国政府が多妻結婚を禁止する法律を可決しており,違反に対しては,教会の資産の没収や,投票権など教会員の基本的人権の否認を含む,厳しい刑罰が設けられていた。またこの展開によって,多妻結婚を行う末日聖徒を起訴する法的手段が確保されることになった。教会は上訴したが,徒労に終わった。
ウッドラフ大管長はこうした状況を深く憂慮していた。この問題について主の
家族の永続性を再び強調する
殉教する約3か月前,預言者ジョセフ・スミスは大勢の聖徒に向かって説教をした。その説教の概要を記録したウィルフォード・ウッドラフ長老は,預言者が「これまで聖徒に提示されてきた主題の中で最も重要で興味深いものの一つ」44について語ったと述べている。この説教の一部として,預言者は家族が永遠であることを
「これがエリヤの霊です。わたしたちはこれによって死者を
それからの数十年間,末日聖徒は「先祖と子孫の間にある事項について固いつながり」(教義と聖約128:18)がなければならないことは知っていた。しかし,手順は完全に整えられてはいなかった。ウッドラフ大管長が述べているように,預言者ジョセフは「これらの事柄に関してさらに深く話を進める」46前に世を去ってしまったからである。聖徒は「〔自分たちが〕持っていたあらゆる光と知識」47に従って,自分自身を,父親や母親にではなく,ジョセフ・スミスやブリガム・ヤング,あるいは当時の教会指導者に結び固めて,すなわち「養子縁組」していた。教会の大管長として,ウッドラフ大管長はこの行いについて次のように述べている。「先祖の心を子孫に結び固め,子孫の心を先祖に結び固めることに関して,わたしたちは神から与えられた啓示に従ってそれらの原則を十分に実践していません。わたしは満足を覚えていませんし,〔ジョン・〕テーラー大管長も,そして預言者ジョセフ以来神の神殿において養子縁組の儀式に出席してきたすべての人も同様です。わたしたちはこの件に関して,すでに受けている事柄以上にさらに明らかにされるべき事柄があると感じてきました。」48
1894年4月5日,そのさらなる啓示がウッドラフ大管長に与えられた。3日後,総大会での説教の中で,その啓示について語っている。「自分がだれに養子縁組されるべきかを知ろうとして主の
わたしたちは末日聖徒に,今からできるかぎり系図をたどり,自分の父親や母親に結び固められてほしいのです。子供たちを両親に結び固め,この鎖をできるかぎり長くつないでください。……
兄弟姉妹,これらの事柄を心に据えてください。記録の作成を続け,主の御前に義にかなった方法で行い,この原則を遂行するならば,神の祝福がともにあり,贖われる人々がいつの日か祝福してくれるでしょう。一つの民として,目が開かれ,耳が開かれ,心が開かれますよう,神に祈っています。そして,わたしたちの双肩に託された業,すなわち天の神が求めておられる大いなる力ある業を理解できますように。」50
「絶えずあなたのために祈ります」
1897年3月1日,ソルトレークのタバナクルはウィルフォード・ウッドラフ大管長の90歳の誕生日を祝う末日聖徒で埋まった。その場で聖徒は「絶えずあなたのために祈ります」という新しい賛美歌を聞いた。エバン・スティーブンスが既存の賛美歌の曲に手を加え,教会の愛する預言者に敬意を表すために次の新しい歌詞を書いたのである。
わたしたちの愛する預言者
絶えずあなたのために祈ります
神が慰めと励ましを下さいますように
その額に
内なる光が今と等しく輝いていますように
内なる光が今と等しく輝いていますように
わたしたちの心を尽くして
絶えずあなたのために祈ります
務めを果たす力が与えられますように
日々導きと勧告を与え
わたしたちの道に聖なる光を注いでください
わたしたちの道に聖なる光を注いでください
燃えるような愛をもって
絶えずあなたのために祈ります
子らの祈りが天で聞かれるように
あなたが絶えず祝福され,生きているかぎり
神がすべてのふさわしいものを与えてくださいますように
神がすべてのふさわしいものを与えてくださいますように51
それから1年半後の1898年9月2日,ウィルフォード・ウッドラフ大管長は死去し,すでに世を去っていた仲間の聖徒たちに加わった。ソルトレークのタバナクルで行われた葬儀では,「平安の霊が……式の準備をする際も,式の間も満ちあふれ,あらゆる人に慰めをもたらした。」タバナクルの内部は「白い布が芸術的にかけられ」,「無数の見事な」生花や,小麦やオート麦の束で飾られた。「オルガンの両側には『1847』の数字と,大きな束にしたヤマヨモギとヒマワリ〔および〕松の木が配置され」,1847年7月に開拓者がソルトレーク盆地に入ったことを思い起こさせた。ウッドラフ大管長の大きな遺影の上には「死してもなお語る」という宣言が照らし出され,神の預言者への敬意が表された。ウッドラフ大管長の残した教えと模範は,神の王国を築き上げようと努力する末日聖徒に霊感を与え続けるであろう。52