証人になる
皆さんは、強く、堅固で、誠実であるために必要なものはすべて備えています。主が皆さんのそばにいてくださるからです。
ホイットニーはとても聡明そうめいな17歳の少女で、約1年まえに教会にはりました。彼女のバプテスマ会で女子サッカーチーム全員が出席するのを見ることができたのは、特別な経験でした。彼女たちはこれまでも、度々力を合わせてきたのです。それがこのチームの姿勢でした。このチームはサッカーでも生活面でも最優秀チームの一つでした。チームの女の子は皆模範的なビーハイブで、試合の最中も徳の証人でした。ホイットニーは彼女たちの仲間であることをうれしく思い、喜びを感じていました。
ホイットニーはバプテスマを受けてから、友達のエリザベスと一緒にわたしたちを訪れました。彼女たちの顔はいきいきとし、目は輝いていました。そして暗記した次の言葉を繰り返す彼女たちは、心からの笑みを浮かべていました。「わたしたちは天父の娘です。天父はわたしたちを愛し、わたしたちも天父を愛しています。……わたしたちは……「いつでも、どのようなことについても、どのような所にいても……神の証人になる』ことを望みます。」ホイットニーはすでに若い女性のテーマをすべて暗記していました。実際、彼女の友入たちが神の証人であったため、あの記念すべき日にすばらしい神の娘を末日聖徒イエス・キリスト教会に迎え入れることができたのです。
いつでも、どのようなことについても、どのような所にいても、神の証人になるというのは、どういう意味なのでしょうか。
第1に、いつでも証人になるというのは、わたしたちが主を愛し、いつでも敬うと約束することです。昼も夜も、夏も冬も、良いときも悪いときも絶えず主を愛し、敬うことを約束し、自らの生活態度を通して主への愛を示します。また時間を割いて、主に感謝し、助けや導きを求め、耳を傾けます。わたしたちにささやき、助け、励ましてくれる静かな細い声に耳を傾ける時間を設けてください。例を挙げてみましょう。
アーニャはロシアに住んでいます。まだ14歳のとき、宣教師から福音を学びました。ある日学校の授業で、教師が教会とモルモン書について誤ったことを話しました。学校には、まだ若いアーニャを除いて教会を擁護する末日聖徒がいません。そのアーニャも教会員ではなく、まだ求道者にすぎませんでした。しかし教師が間違ったことを言っているのは分かりました。アーニャはクラス全員の前に立ってモルモン書と教会を擁護しました。何と勇気ある行動でしょうか。彼女は、そこで語られていたことは誤りであり、モルモン書が真実であると知っていると言いました。そして、自分で真理を知りたいと思う人は、彼女のようにモルモン書を読んでみてほしい、と言ったのです。それからアーニャは家に帰り、宣教師にバプテスマを受ける準備ができたと伝えました。わたしは、大事なときに証人となったアーニャの勇気をすばらしいと思います。
どのようなことについても証人になるというのは、どのようなことでも、つまり重要なこと、ささいなことにかかわらず、あらゆる会話や冗談の中でも証人となることを表します。行うゲーム、読む本、聴く音楽についても、また、支援する運動、携わる奉仕、身に着ける衣服、つきあう友達に関しても同様です。
ローレルのケンドラは次にように述べています。「正しい選択をするときに、自分が模範を示したり、証人になったりするとは思ってもいませんでした。天父が約束してくださった祝福をすべて受けるため、ふさわしく生活しようとしていたにすぎません。」
どのようなことについても証人になるという意味には、どのようなことについても親切で、進んであいさつをし、ほほえみかけ、見知らぬ人が仲間の一員であると感じるよう助け、力になることも含まれます。ほかの人々の気持ちを考慮し、手を差し伸べるようになることです。
どのようなことについても主に愛を示すならば、天父は確かにわたしたちを祝福してくださいます。
最後になりますが、わたしたちはどのような所にいても証入になると述べます。それは公の場所だけに限らず、個人的な場所、秘密の場所、暗い所、明るい所などでも証人になることを表します。教会、学校、家庭、車の中にあっても、また、山や海、路上や公園にいても同様です。どのような所にいても神のふさわしい娘の模範となってください。
『ニューエラ』(New Era)で、シャノンに関する記事を読みました。彼女が通う高校で、スピーチのクラスの先生がグループ発表を皆に割り当てました。各グループはある演劇の一場面を選んで発表するというものでした。あるグループは道徳的な事柄を扱った、いかがわしい場面を選びました。「芸術の一表現」であることを理由に、先生はその場面の発表を許可しました。しかしその場面が不快に感じられるかもしれないことを認めたうえで、その場面を嫌う人の退室を許可しました。
その生徒たちの発表が始まりました。シャノンは少しどきどきしていました。クラスの友人の何人かは顔を赤らめたり、苦笑いをしたりしていました。でもだれ一人部屋を立ち去ろうとしません。末日聖徒の友達が一締に出て行こうと合図を送ってくれるのを期待して、彼女たちの方を見ましたが、だれもそうしようとしませんでした。シャノンは机の上に顔を伏せ、真っ赤になった頬ほおをだれにも見られないようにしていました。とても嫌な気持ちでしたが、部屋を出て行く勇気はありませんでした。これも「芸術の一表現」などと言われていたからです。シャノンはこのように述べています。
「そのときです。若い女性のテーマが心に浮かんできたのです。「わたしたちは「いつでも、どのようなことについても、どのような所にいても、……神の証人になることを望んで」います。』(モーサヤ18:9参照)自分がどうすべきか、直ちに悟りました。『どのような所にいても』とは、すべての場所という意味です。もちろん、友達のいる教室も含まれます。
わたしは静かに立ち上がって退室しました。ただそれだけのことでした。立ち上がってわたしについて来る人は一人もいません。勇気ある行動だと褒めてくれる人がいるわけでもありません。わたしの示した模範で改宗した人もいませんでした。……〔しかし〕、『わたしの取った行動は正しかった』と心の中で納得していました。」(シャノン・D・ジェンセン「神の証人になる」「聖徒の道』1999年8月号、8)
これらの模範には共通することがあります。証人になるために、どの若い女性も正しい判断をしたことです。皆さんは、判断に優れていると言われたことがありますか。それはすばらしい褒め言葉です。良い判断ができるということは、成熟し、信頼されるふさわしさの表れです。天父はわたしたちに判断を行うよう求めておられます。モロナイ書第7章15節には次のように記されています。「善悪をわきまえることができるように、物事を判断することはあなたがたに任されている。そして、その判断の方法は明らかであり、善悪の違いは昼が闇夜よと違うように、完全に理解してわきまえることができる。」はっきりとわきまえることができると書かれています。ではどうすればできるのでしょうか。その方法は16節で分かりやすく説明されています。「〔1〕善を行うように誘い、また〔2〕キリストを信じるように勧めるものはすべて、キリストの力と賜物によって送り出されているのである。したがってあなたがたは、それが神から出ていることを完全に理解してわきまえることができる。」(番号付加)
しかし17節の言葉に注意してください。「〔1〕悪を行うように、〔2〕キリストを信しないように、〔3〕キリストを否定するように、〔4〕神に仕えないようにと人に説き勧めるものは何であろうと、それは悪魔から出ていることをあなたがたは完全に理解してわきまえることができる。」(番号付加)
皆さんはエシプトに売られたヨセブを覚えていますか。ヨセフはポテパルの妻に不道徳なことをするよう誘惑されたとき、良い判断をしました。聖書を読むと、ヨセフは若いころこの危険に遭遇したとき、立ち上がりその場を離れました(創世39:7-12参照)。何もしないまま、どうすべきか考えたりせず、それ以上その場にとどまることはなかったのです。ヨセフはこの危機の中、立ち上がって正義の証人となったのです。
皆さんもヨセフのように高貴な受け継ぎを得ています。王家の血筋を引いているのです。それは皆さんが神の霊の娘だからです。皆さんは選ばれた世代です。この世に来る前から選ばれていたのです。前世で神御自身から教えを堂けていたのです。
皆さん、今こそ正しいと知っていることを擁護するときなのです。善悪を判断しなくてはなりません。現状に満足したり、世の風潮に流されたり、何をすべきか迷ったりしてはなりません。どの道に従い、どの答えを出すか、今決めなくてはなりません。圧力を受ける前に、事前に何を擁護するか決断しておいてください。
皆さんに非常に良い知らせかあります。皆さんは自分を襲ういかなる攻撃にも打ち勝てるのです。それは難しいことではありません。ただ良い判断をするだけです。立ち上がってテレビのチャンネルを変え、コンピューター上のポルノクラフィーを消し、低俗な映画を避け、情欲をあおるようなビデオを借りないようにします。体の線が極端に強調され、肌の露出が多く、丈が短すぎる服は着ないでください。そのような服はたんすにしまっておいてください。もっと良いのは、初めから買わずに店に置いたままにしておくことです。ヨセフが行ったように、立ち上がって、誘惑から離れてください。ヨセフはゆっくりと離れたのではなく、走り去ったのです。皆さんもそのようにできます。そうすれば文写どおり、また比喩的にも、皆さんはさらに安全を得て、純粋さを増し、いっそう守られるのです。
神の皆さんへの計画を壊す方法の一つは、若い女性の感覚を鈍らせてしまうことです。この方法は、最終的には破滅をもたらすものを用います。最初は告にならないように思える微量を若い女性に与えます。次は量を少し増やし、その次はさらに増やします。そしてやかて致命的な打撃になっても、ほとんど気づかないほど皆さんの感覚はまひしてしまうのです。次のような言葉があります。かえるを煮てしまおうと思えば、沸騰しているお湯の中に人れてはいけません。すぐに飛び出してしまうからです。まず冷たい水の中に入れ、ゆっくりと温度を上けていきます。そうすれはかえるは、危険が及ぶほど温度かトがっていることに気づきもしません。若い女性の皆さん、世の風潮は次第に温度を上げてきているように思います。どうぞ注意していてください。良い判断から徐々に遠ざかり、感覚を鈍らせることのないようにしてください。
テレビ、ビテオ、映画、インターネット、雑誌といった媒体の画像を見るとき、良い画像を見る機会もあれは、好ましくない画像を見ることも多々あると思います。誤ったものや有害なものがあたかも容認されているような有様ありさまです。欺かれてはなりません。すぐに立ち上がり、その場を離れてください。
愛するすはらしい若い女件の皆さん、皆さんはすでに真理を学んているため、世の善良な人々が知らないことを幾らか知っています。皆さんは、強く、堅固で、誠実であるために必要なものはすべて備えています。主が皆さんのそばにいてくださるからです。救い主はその愛の力で、皆さんが強くなれるよう助けてくださいます。
皆さんを心にかけている会員が非常に多くいます。どうぞそのような会員とともに歩んでください。神とともに歩んでください。「あなたは謙遜でありなさい。そうすれば、主なるあなたの神は手を引いてあなたを導き、あなたの祈りに答えを与えるであろう。」(教義と聖約ll2:10)主の手を取ってください。主は皆さんを平安のうちに導き、道を示してくださるでしょう。
新しい世紀の始まりに、わたしたちはともに立ち上がりましょう。新たにバプテスマを受けたホイットニーや世界中の若い女性とともに、救い主である神の御子が生誕されてから2、000年を数えるこの年を祝いましょう。
世界中の人が、遠い昔にベッレヘムで生まれた幼子を今でも覚えています。これはまさに驚くべきことではないでしょうか。主の送られた生活は、わたしたちが今日でも倣ならおうとしているものです。主はわたしたちに道を示してくださいました。そして真埋をお教えになり、わたしたちは今もそれに従って生きようとしています。主は進んでわたしたちの罪のために苦しまれました。それはわたしたちを完全に愛しておられたからです。主はまた、わたしたちに悔い改める権利を与えてくださいました。そして自らの命をささげ、わたしたちが死を迎えた後、復活し、再び生きられるようにしてくださいました。
主がわたしたちに下さった賜物のすばらしさについて考えるとき、わたしたちが主や主を遣わしてくださった天父に報いることのできる事柄は何とささいなものでしょう。それには、いつでも、どのようなことについても、どのような所にいても、御二方の愛と教えに関する証人になることです。わたしたちがそのような存在となれるよう、イエス・キリストの御名によりお祈りします。アーメン