主イエスを思うとき
主イエスを思うとき,わたしの胸は言い尽くせない喜びに満ちあふれます。それはわたしのすべてを支配しています。
先日,ヒンクレー大管長は新たに神殿で結婚した一組の若い夫婦にこう言ったそうです。「何とすばらしい時代に,生を受け愛し合うことができるのでしょう。」彼の楽天的な見方と性格は人を安心させてくれます。陰うつな世界にあって希望を与えてくれます。しかしこれは単なる前向きな人柄の表れではありません。その意味を説明するために,少し過去に目を向けてみましょう。
12世紀の初め,「熱烈……な信仰の人」1とされたフランスはクレルボーの聖職者,聖ベルナールは,以下の言葉を書き記しました。
主イエスよ,わが胸
喜び満みつ
み前に出いづれば
さらにうれし2
世の多くが無知と貧困と絶望に覆われていた時代に書かれたにもかかわらず,この詩は希望と喜びと平安について語っています。これらの言葉には,イエスの証にいつのときも伴う穏やかな確信が表現されています。これと同じ確信が,愛する預言者やキリストに忠実に従うすべての人々に,朗らかさと楽観的な性質を与えているのです。
では,このイエスの証とはどのようなもので,どうすれば得られるのでしょうか。また,それを得る人に何をもたらすのでしょうか。イエスの証とは,聖霊によって人の霊に明らかにされた,イエスが生ける神の生ける御子であられるという疑いのない確かな知識です。3
イエスの証は神から授けられるため,最も大いなるものであって,幸福な生活に不可欠なものです。それはこの宗教の基本原則であり,信仰に関するほかの事柄はすべてそれに付随するものです。4ヒンクレー大管長は次のことを思い起こさせてくれます。
「イエスがキリストであり,神の御子,全人類の贖い主であられるという……確かな知識を自ら得ることは,すべての末日聖徒の特権であり,機会であり,義務です。……その証は……わたしたちが手にする
ことのできる最も貴い財産です。……わたしは,人がその心に主イエス・キリストが生きておられることに対する真の証を持つとき,ほかの事柄はすべて本来あるべき形に落ち着く……と確信しています。」5
このイエスの証は義にかなった生活によってはぐくまれ,人のあらゆる行いを治める力となります。さらに,それはすべての人が手に入れることのできるものです。なぜなら「神は人をかたよりみないかた」6だからです。
しかし,そのような証は個人の努力なしに得ることはできません。知りたいと望み,研究して学び,ふさわしくなるよう生活し,得るために祈らなければなりません。そうするときに,謙遜さと信仰のうちに知識が与えられ,この知識とともに,すべてがうまくいくという心地よい確信と,物事を成し遂げるための内なる強さがもたらされるのです。
知りたいと望む
知りたいと望むことは,イエスの証の探究における最初の段階です。聖文にはこう勧告されています。「もしあなたがたが目を覚まし,能力を尽くしてわたしの言葉を試し,ごくわずかな信仰でも働かせようとするならば,たとえ信じようとする望みを持つだけでもよい。わたしの言葉の一部分でも受け入れることができるほどの信仰になるまで,その望みを育ててゆけ。」7
研究して学ぶ
イエスの証を誠実に求めるには,研究して学ぶ必要があります。主は次のように言っておられます。「聖文を調べなさい。あなたがたは,聖文の中に永遠の命があると思って調べているが,これらは,わたしについてあかしをするものである。」8
全編を通じて,聖書はキリストのことを教え,証しています。主は旧約のエホバであり,新約のメシヤであられます。9 主についてのもう一つの証であるモルモン書が編さんされ,保存され,世に現されたのは,次のはっきりとした目的のためでした。それは「ユダヤ人と異邦人に,イエスがキリストであり,永遠の神であり,すべての国民に御自身を現されることを確信させるものである。」10
ふさわしくなるよう生活する
望み,研究すると同時に,人はそのような証を得るためにふさわしく生活しなければなりません。イエスの言われることを行う人は,イエスがどのような御方であるかを知るようになります。主はこうおっしゃいました。
「わたしの教おしえはわたし自身の教ではなく,わたしをつかわされたかたの教である。
神のみこころを行おうと思う者であれば,だれでも,わたしの語っているこの教が神からのものか,それとも,わたし自身から出たものか,わかるであろう。」11
得るために祈る
最後に,イエスの証はそれを得るために祈る人々にもたらされます。「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。」12 これこそ謙遜で悔い改めた人をそのような知識へと導く招きです。この知識とともに,求めなければ隠されたままであろう眺望が開かれ,探究する人は人生の起源と目的についての理解も得るのです。
例えば,主の生涯はベツレヘムで始まったのではなく,13 わたしたちの人生も誕生から始まったのではありません。前世において,主は神が御自分の子供たちのために用意された永遠の計画の忠実で確固とした弁護者として立たれ,14 わたしたちもそこにいました。天での大いなる戦いにおいて,ルシフェルを追い出したのはまさに長子の力であり,15 わたしたちも大義のために戦いました。神の独り子によって「もろもろの世界が現在創造され,また過去に創造され」ました。16 その結果,わたしたちは自らの神聖な可能性を実現することができるのです。J・ルーベン・クラーク副管長は次のように語っています。
「初めに降りて来て……この世界を造ったのは,……初心者でもなければ未熟な者でもなく,初めて挑む者でもありませんでした。… …
もし皆さんが,恐らく初めから…… 100万の世界を擁していたであろうこの銀河について考え,それにわたしたちの周囲にある何百万という銀河の数を掛けてみるならば,〔イエス・キリスト〕がどのような御方であるかを多少理解できるでしょう。」17
畏敬の念を抱きながら,わたしたちはいにしえの聖職者とともに歓喜の声を上げます。主イエスよ,わが胸,驚き満みつ。
文字どおりの神の子であって,死すべき体を持つ母親から生まれた者として,前世でのキリストは肉における御父の独り子となられました。その満ちみちる尊厳,メシヤの特質および神性は最初から備わっていたものではなく,「恵みに恵みを受け続け,ついに完全を受けられた」のです。わたしたちもそうなることができます。18
天使たちが主に仕え,聖霊が主のうえに降られ,主は全人類の苦悩を担われました。そしてわたしたちの罪は主によって赦され得るのです。19
キリストと呼ばれるこのイエスは,その比類ない生涯,ゲツセマネでの苦しみ,流された血,十字架上での死,そして栄えある復活によって,全人類のための完全な贖罪をもたらされました。主は墓に対して勝利を得られ,主のおかげでわたしたちも死に打ち勝つことができます。20「主はこの地上に生を受ける者の中で,最も偉大な御方です。……イエス・キリストは主の主,王の王,……救い主,……輝く明けの明星であられます。主の御名は……わたしたちに救いをもたらすことのできる,天下にある唯一の名です。」21主は油注がれた者であられます。わたしたちは再び声を上げます。主イエスよ,わが胸,畏おそれ満つ。
時の中間に世が主に打ち勝てなかったように,現代においてもこの世は主なしに歩むことはできません。それはわたしたちも同じです。主の目的は「人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと」です。22 そのために主は預言者ジョセフ・スミスを訪れ,神権を回復し,御自身の教会を再び設立し,贖いの計画を再度宣言されました。ジョセフは主にまみえ,主と言葉を交わし,主に関する詩的な記述を残しました。それは人間の理解をはるかに超えたものです。
わたしは御座の周りに,
聖なる天使たちと天の軍勢と,
世の聖きよめられた者たちが,
聖さのうちに神と小羊を
拝しているのを見た。
とこしえにいつまでも,アーメン,アーメン!
そして今,証人により,
主を知る者たちにより,
主についてなされてきたすべての証の後,
わたしがなす最後の証はこれである。
小羊は生きておられる,
そう,生きておられる!
そして神の右に,
その御座に座しておられる。
そしてわたしは大いなる声が,
天より証するのを聞いた。
彼こそ救い主,神の独り子である。
彼によって,彼から,彼を通じて,
もろもろの世界はすべて造られた。
広い天に織り込まれるすべてのものさえも。
それらに住む者もまた,
初めから終わりまで,
わたしたちと同じ救い主によって
救われる。
そして確かに,
神のもとに生まれた息子,娘となる。
その同じ真理と,その同じ力によって。23
今日 わたしたちには,主によって正式に聖任された使徒たちがいます。彼らは「全世界におけるキリストの名の特別な証人」24 としての神聖な務めに忠実に,次のように宣言しています。
「イエスは生けるキリスト,不死不滅の状態にある神の御子です。イエス・キリストは今日,大いなる王,インマヌエルとして御父の右に立っておられます。イエス・キリストは世の光,命,そして希望です。イエス・キリストの道は,この世においては幸福に,後の世においては永遠の命に至る道です。わたしたちは御子という比類ない贈り物を授けてくださった神に感謝しています。」25
主イエスを思うとき,わたしの胸は言い尽くせない喜びに満ちあふれます。それはわたしのすべてを支配しています。主こそキリストであり,聖者であられることを知っています。それによってわたしの人生,愛,望みは形作られ,活気づき,目的を得ます。
イエスの証が与えられていることを神に感謝し,すべての人が同様の祝福を受けられるよう,イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン。