どんな状況にあっても感謝する
わたしたちには,自分が置かれている状況に関係なく感謝に満たされてよい理由がないでしょうか。
長年にわたって,わたしは,深い悲しみに心を貫かれているように思われるたくさんの人々と出会う神聖な機会にあずかってきました。そのようなとき,わたしは愛する兄弟姉妹に耳を傾け,彼らの重荷についてともに悲しんできました。彼らに何を言うべきか思案し,試練の中にある彼らをどのように慰め,支えればよいかを知ろうと懸命に努めてきました。
そうした人々の悲しみは,彼らにとって終わりのように思えることが原因である場合がよくあります。愛する人を亡くしたり家族と疎遠になったりして,大切にしてきた関係の終わりに直面している人もいます。結婚や,子供をもうけること,または病気の克服に対する希望の終わりを迎えているように感じている人もいます。混乱を招く世の中の相反する声に惑わされ,かつては真実だと知っていたことを疑い,捨て去ろうとさえして,信仰の終わりに直面している人もいるかもしれません。
織り上げてきた自分の世界がぼろぼろに裂け,孤独と失望の中で当てどもなくさまよっているように感じる時期を,遅かれ早かれ誰もが経験します。
これは誰にでも起こり得ることであって,免れる人はいません。
わたしたちは感謝することができる
状況は一人一人異なり,誰もが人生の中で他の人と違う経験をします。それでも,わたしは人生で味わう苦痛を取り去ってくれるものがあることを学んできました。人生をもっと幸せと喜びに満ちた,さらには栄光に満ちたものにするために,できることが一つあります。
それは感謝することです。
悲しみの重荷を負っている人に,神に感謝をささげるように勧めるのは,世の知恵に反しているように聞こえるかもしれません。しかし,つらい思いを脇に置いて感謝の杯を手に取る人は,それを飲むときに癒やしと平安と理解を授かり,清められるのです。
キリストの弟子として,わたしたちは「すべてのことについて,主なる〔わたしたちの〕神に感謝し」,1「主に感謝して歌〔い〕」,2「神への感謝で心を満た〔す〕」3ように命じられています。
なぜ神は感謝するようにわたしたちにお命じになるのでしょうか。
神の戒めは全て,わたしたちが祝福を受けられるようにするために与えられます。戒めは,選択の自由を行使し,祝福を受ける機会です。愛にあふれる天の御父は,感謝の精神を育むという選択がわたしたちに真の喜びと大きな幸せをもたらすことを御存じなのです。
物事に対して感謝する
しかし,「自分の世界が崩れようとしているときに,何に対して 感謝すればよいのでしょうか」と言う人がいるかもしれません。
恐らく,何 に対して感謝するかに意識を向けるのは間違った方法なのでしょう。感謝の気持ちが数えることのできる祝福の数にのみ比例するとしたら,感謝の精神を育むのは困難です。もちろん,度々「み恵みを数え上げる」のは大切であり,それを試した人は皆,たくさんの祝福があることを知っています。ただ,試練のときには豊かで安楽なときほど感謝しなくてよいと主が思っておられるとは思えません。実際,関連聖句のほとんどは,何かに対する感謝の念ではなく,全般的な感謝の精神や態度について述べています。
人生が順調に思えるとき,物事 に対して感謝するのは容易です。では,自分の望むものが手の届かないところにあるように思えるときはどうでしょうか。
感謝することを一つの性質として,現在の状況がどうであろうと実践できる生き方として捉えてはどうでしょうか。つまり,「物事 に対して感謝する」よりも,どのような状況にあろうと,「自分の置かれた状況にあって感謝する」ことに意識を向けるということです。
次のような古い話があります。あるウェイターが,食事を楽しんでもらえたかどうかを客に尋ねました。客は,何もかも良かったが,パンがもっと多ければなお良かったと答えました。次の日,その男性がまた来ると,ウェイターはパンの量を2倍にし,枚数も2切れから4切れに増やして出しましたが,それでも男性は満足しませんでした。翌日,ウェイターはパンをさらに2倍にしましたが,功を奏しませんでした。
4日目,ウェイターは何としてもその客を満足させようと心に決めました。,そこで長さが3メートルもあるパンを取り,2つに切って,笑顔でその客に出しました。ウェイターはその男性客の反応を見るのが待ち切れませんでした。
食事の後,男性は見上げて言いました。「いつもどおり,おいしかったです。でもパンがまた2切れになりましたね。」
自分の置かれた状況にあって感謝する
愛する兄弟姉妹の皆さん,選ぶのはわたしたちです。祝福が欠けていると感じることを理由に,ある程度だけ感謝するという選択もできます。または,感謝の心が決して揺らがなかったニーファイのようになるという選択もできます。家族を約束の地に連れて行くために造った船の上で,ニーファイは兄たちに縄で縛られました。手首と足首は「大きくはれ上が〔って〕」ひどく痛み,激しい嵐のために海の深みにのまれそうになりました。ニーファイは,「それでもわたしは神に頼り,一日中神を賛美し,わたしの遭った苦難のことで主に対してつぶやくことはしなかった」と言いました。4
また,ヨブのようになるという選択ができます。ヨブは全てを持っているように思われましたが,その後全てを失いました。それでも次のように言いました。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸で……帰ろう。主が与え,主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」5
モルモンの開拓者のようになるという選択ができます。彼らはグレートソルトレークに向かう苦しい道を進みながら,感謝の精神を持ち続け,歌い,踊り,神の慈しみをあがめました。その困難な旅を経験したなら,わたしたちの多くは,きっと引きこもり,不平を言い,苦しみもだえていたでしょう。6
預言者ジョセフ・スミスのようになるという選択ができます。ジョセフはリバティーの監獄の悲惨な状態の中で,霊感あふれる次の言葉を書きました。「親愛なる兄弟たちよ,わたしたちの力の限りすべてのことを喜んで行おう。そして願わくは,その後,わたしたちがこの上ない確信をもって待ち受けて,神の救いを目にし,また神の腕が現されるのを見ることができるように。」7
どのようなことがあろうと感謝するという選択ができるのです。
このような感謝の精神は,周りで起こっているあらゆることを超越します。それは失望や落胆や絶望に勝るものです。氷で覆われた冬の風景の中でも,夏の気持ち良い暖かな季節と同じように美しい花を咲かせます。
自分の置かれた状況 にあって神に感謝するとき,わたしたちは艱難の中で穏やかな安らぎを味わうことができます。悲しみの中で,なお心を高めて神を賛美することができます。痛みの中でも,キリストの贖いによって喜ぶことができます。つらい悲しみがもたらす寒さの中で,天に抱かれたかのようなぬくもりを感じることができます。
時々,感謝は問題が解決した 後でするものだと考えることがありますが,それは何と近視眼的な見方でしょう。雨を神に感謝せずに虹を待ち望んでいるようでは,人生においてどれほど多くのものを見過ごしにしていることでしょうか。
悩み苦しんでいるときに感謝の気持ちを持つとは,自分の置かれた状況を喜ぶという意味 ではなく,信仰の目で今日の試練の先にあるものを見るという意味 です。
口先だけではなく,心から感謝するのです。そのような感謝は,心を癒やし,思いを広げてくれます。
信仰の行いとしての感謝
自分の置かれた状況 にあって感謝するとは,神への信仰を行いに表すことです。それには神を信頼し,まだ見ていない真実のことを待ち望むことが求められます。8 感謝することによって,わたしたちは愛する救い主の模範に倣います。主は「わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください」9と言われました。
真の感謝は,希望 と証の表れです。そのような感謝は,人生の試練の意味は常に分かるわけではないことを認め,いつの日か分かるだろうと信じることからもたらされます。
どのような状況にあっても,わたしたちが 知っている数多くの神聖な真理によって感謝の念が養われていきます。例えば次のような真理です。「御父はその子供たちに偉大な幸福の計画を与えてくださった。」「御子イエス・キリストの贖罪によって愛する人たちと永遠にともに住める。」「最後には病気や障がいの重荷から解かれて栄光に満ちた完全な不死不滅の体を得られる。」「悲しみと喪失感がもたらす涙は消え,あふれるばかりの幸福と喜びが,『おし入れ,ゆすり入れ,あふれ出るまでに量をよくして』与えられる。」10
恐れと疑いを抱いていた救い主の使徒たちを,恐れを知らない喜びに満ちた主の使者に変えたのは,このような証であったに違いありません。主が十字架上で亡くなられてからしばらくの時間,彼らは絶望と悲しみに打ちのめされ,何が起こったのか理解できずにいました。しかし一つの出来事がその全てを変えました。主が彼らに御姿を現し,次のように言われたのです。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。」11
その御方が復活されたキリストであると分かったとき,愛する救い主が栄えある復活を遂げられたことを経験によって知ったとき,使徒たちは別人になりました。どんなことも彼らがその使命を果たすのを妨げることはできませんでした。その証のゆえに,彼らは拷問や屈辱,そして死さえも,勇気と決意をもって受け入れました。12彼らが主をほめたたえ,主に仕えることを妨げるものは何もありませんでした。彼らは至る所で人々の人生を変え,世界を変えました。
皆さんはこのような変化を経験するために,使徒たちのように救い主にまみえる必要はありません。聖霊から得られるキリストの証があるので,皆さんは悲しみをもたらす現世の終わりに目を留めず,世の贖い主が用意してくださった輝かしい未来を見ることができるのです。
わたしたちに終わりはない
永遠の行く末について知っているわたしたちにとって,人生のつらい終わりを受け入れるのは困難なことかもしれません。わたしたちの内には,終わりを認めようとしない何かが存在しているように思われます。
なぜでしょうか。人は永遠に続くものでできているからです。わたしたちは永遠の存在であり,全能の神の子供であって,無窮という名のその御方は,13無数の永遠の祝福を約束しておられます。数々の終わりは,わたしたちの行く末ではないのです。
イエス・キリストの福音について学べば学ぶほど,この現世で経験する終わりは終わりなどではないことが分かってきます。それは単なる中断であり,一時的に立ち止まった状態にすぎず,忠実な者を待ち受ける永遠の喜びに比べればささいなことに思える日が来るでしょう。
天の御父の計画に本当の終わりはなく,あるのは永遠の始まりだけです。そのことを,わたしはどれほど御父に感謝していることでしょう。
感謝する者は栄光を与えられる
兄弟姉妹の皆さん,わたしたちには自分が置かれている状況に関係なく感謝に満たされてよい理由がないでしょうか。
「神への感謝で心を満た〔す〕」ために,さらに何か理由が必要でしょうか。14
「大いに喜んでよいのではない〔でしょう〕か。」15
人生という驚くべきつづれ織りに神の御手の業を認める人は何と幸いでしょうか。天の御父に対して感謝の念を抱くとき,理解が広がり,視界が開けます。謙遜になるように促され,同胞や神の全ての創造物を思いやる気持ちが育まれます。感謝はキリストのような属性の全てを身につけるための促進剤なのです。感謝の心はあらゆる徳の源です。16
主は次のように約束しておられます。「すべてのことを感謝して受け入れる者は,栄光を与えられるであろう。また,この世のものも百倍,いやそれ以上加えられるであろう。」17
わたしたちが「日々感謝しながら生活」し,18特に現世の一部である一見説明のつかないような終わりを経験しているときに,感謝することができますように。憐れみ深い天の御父への感謝で心が満たされますように。絶えず声を上げ,天の御父とその愛する御子イエス・キリストへの感謝を言葉と行いによって示すことができますように。このことを祈り,わたしの証と祝福を残します。わたしたちの主,イエス・キリストの御名により,アーメン。