誤った道に進むのはやめましょう
わたしたちが道を見失わずに,常に天とつながっていられるように祈ります。
男の子がピアノの練習をしていると,窓からその様子を見たセールスマンが尋ねました。「お母さんはいるかい?」
男の子は答えて言いました。「いなきゃ練習してないよ。」
わたしの愛する5人の子供たちは,妻の意欲のおかげで,ピアノが弾けるようになりました。ピアノの先生が家に来ると,息子のアドリアンはよく逃げ隠れてレッスンをさぼろうとしたものです。でもある日,すばらしいことが起きました。息子は音楽が大好きになって,自分から練習をするようになったのです。
改心の過程においても,そのような境地にたどり着ければ最高です。絶えず誰かに念を押されなくても,戒めを守りたいという願いと,正しい道を歩めば聖文に約束されている祝福が得られるという確信が心の底にあったら,何とすばらしいことでしょう。
数年前,わたしは妻と娘のエベリン,そして友人家族と一緒にアーチーズ国立公園へ行きました。公園で最も有名なアーチの一つにデリケートアーチがあります。わたしたちはおよそ2キロの道を歩き,山を登ってそこへ行くことにしました。
最初は意気盛んに歩き始めたわたしたちでしたが,少し歩いたところで妻たちが休憩しなければなりませんでした。早く着きたかったわたしは,独りで先に行くことにしました。どの道を進むべきかに注意せず,わたしは,自信たっぷりな様子で前を歩く人の後ろについて行きました。道は次第に険しくなり,岩から岩へ飛び移らなければなりませんでした。その大変さから,わたしのグループの女性陣には目的地にたどり着くのはとうてい無理だろうと確信しました。すると突然,目の前にデリケートアーチが姿を現しました。しかし,驚いたことに,アーチはわたしがいる位置からは絶対行けない場所にあったのです。
大変がっかりしたわたしは,戻ることにしました。いらいらしながら,妻たちの帰りを待ちました。開口一番に,わたしは「デリケートアーチまで行けたのかい」と尋ねました。行けたと,彼女たちはうれしそうに答えました。そこまでの道を示す標識に従い,注意深く努力したおかげで目的地に到着できたのだと説明してくれました。
あいにく誤った道を進んだわたしは,その日,大切な教訓を学びました。
わたしたちは世の流行に惑わされて,正しい道を選び損なうことがないでしょうか。自分がイエス・キリストの御言葉を行う者であるかどうか,わたしたちは常に自問する必要があります。
ヨハネによる福音書にはこのようなすばらしい教えがあります。
「わたしにつながっていなさい。そうすれば,わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ,自分だけでは実を結ぶことができないように,あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木,あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており,またわたしがその人とつながっておれば,その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては,あなたがたは何一つできないからである。」(ヨハネ15:4‐5)
この比喩から,イエス・キリストとわたしたちとのこれ以上ない密接な関係と,主がわたしたち一人一人をどれほど大切に思っておられるかがよく分かります。主はわたしたちに生ける水をお与えになる根であり,幹であられます。その樹液はわたしたちが豊かに実を結べるように養いを与えてくれます。このように,イエス・キリストは,枝,つまり主に頼るべき存在であるわたしたちが,主の教えの大切さを決して過小評価してはならないと教えておられるのです。
過ちの中には深刻で,正すのが遅れれば永久に正しい道に戻れなくなってしまうものもあります。もし悔い改めて正しい道に戻れば,そのような経験は,わたしたちがへりくだり,行いを変えて,再び天の御父に近づくうえで役立ちます。
この考え方の例として,預言者ジョセフ・スミスが経験した最も劇的な出来事の一つを挙げたいと思います。この経験を通して,救い主はわたしたちが生涯を通じて忘れてはならない原則について,非常に大切な教えを授けられました。それはマーティン・ハリスが,モルモン書の最初の部分を翻訳した116ページをなくしてしまったときのことです。
神の勧告に従わなかったことを悔い改めた後,預言者ジョセフは教義と聖約第3章にある啓示を受けました(『歴代大管長の教え―ジョセフ・スミス』69‐71参照)。第1節から10節に記されている言葉から,常に覚えておくべき3つの原則を強調したいと思います。
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神の業と目的はくじかれることがない。
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わたしたちは人を神よりも恐れてはならない。
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常に悔い改める必要がある。
第13節で,主は次の4つのことを決してすべきでないと教えておられます。
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神の勧告を無視する。
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神の前で交わした最も神聖な約束を破る。
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自分の分別に頼る。
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自分の知恵を自慢する。
わたしたちが道を見失わずに,常に天とつながっていられるように,そして,世の流れに足をすくわれることがないように祈ります。
もし皆さんの中に,主の道を進む途中であきらめている人がいれば,そのような人はいつか,神の勧告を無視し,神の前で交わした最も神聖な約束を破り,自分の分別に頼り,自分の知恵を自慢したことについて,大きな後悔と苦しみを味わうことになるでしょう。
そのような人には,悔い改めて正しい道に戻るよう強く勧めます。
あるとき,孫が祖父に誕生日のお祝いを言うために電話をしました。孫は祖父に何歳になったか尋ねました。70歳になったと祖父が答えると,孫は少し考えてから尋ねました。「おじいちゃんも1歳から始めたの?」
子供や青少年のとき,自分は絶対老人にはならないと思うものです。死を現実のものと捉えることもしません。死はすごく年取った人の問題であり,自分がその域に達するのはずっと後のことだと考えます。月日がたつにつれ,しわが目立ち始めたり,疲れやすくなったり,頻繁に医者に通ったりするようになります。
やがて贖い主であり救い主であられるイエス・キリストに再びまみえる日がやって来ます。その神聖で厳かな機会に,わたしたちが主についての知識を持っており,その教えに従ってきたために,その御方が主であると分かるよう心から願っています。主はその手と足のしるしをお見せになり,わたしたちはしっかりと抱き合い,主の道に従ってきたことにうれし涙を流すことでしょう。
わたしはイエス・キリストが生きておられることを世の隅々にまで証します。主はこう強く勧めておられます。「聴きなさい,おお,地のもろもろの国民よ。あなたがたを造った神の言葉を聞きなさい。」(教義と聖約43:23)わたしたちが「〔わたしたち〕を造った神」のメッセージに気づき,心に留め,理解し,正しく解釈することができ,主の道からそれることがありませんように。イエス・キリストの御名により願います,アーメン。