2010–2019
世に打ち勝つ
2017年4月


15:52

世に打ち勝つ

世に打ち勝つとは,生涯に一度の決定的瞬間ではなく,永遠を決定づける一生分の瞬間の積み重ねです。

何年も前,デビッド・O・マッケイ大管長はサモアへ向かう船上でのすばらしい経験について語りました。眠りに落ちた後,大管長は「荘厳な光景を示現で見ました。美しい白い街が目に入りました。距離はかなりありましたが……街のここかしこに,芳しい香りの漂う実を付けた木々や,……満開の花が見えました。一団の大群衆が,街に近づいている光景が目に入りました。皆,白いゆったりとした衣……を身に着けていました。……わたしはすぐその群衆の指導者の姿に目が留まりました。容姿を横から少し見ただけでしたが,……どなたであるかが一目で分かりました。救い主でした。救い主の御姿の輝きは,まさに栄光そのものでした。救い主の周囲には安らかさがありました。……」

マッケイ大管長はこう続けます。「その街は,救い主の……永遠の街でした。救い主に従っている人々は,そこで平安に,またいつまでも幸福に住むことになっていました。 」

そこでマッケイ大管長はこう自問します。「この人々は一体,だれなの〔だろう。〕」

大管長は次に起こったことを説明しています。

「救い主はわたしの胸の内をお察しになったかのように,その人々の上空に……現れた半円形のものを指差して,答えてくださいまし た。それには,金で次のような言葉が刻まれていました。

『この人々は世に打ち勝った人々,

真に再び生まれた人々である。』」

わたしは数十年にわたり,「この人々は世に打ち勝った人々」であるという,その言葉が忘れられませんでした。

主が世に打ち勝った人々に約束された祝福は,息を飲むほどすばらしいものです。「白い衣を着せられ……〔その名を〕いのちの書」に記されるのです。主は「〔御〕父と御使たちの前で,その名を言いあらわ〔されます〕。」一人一人が「第一の復活にあずか〔り〕」,永遠の命を受けて,神の御前から「決して二度と外へ出ることはない」のです。

世に打ち勝ち,そのような祝福を受けることなどできるのでしょうか。もちろんできます。

救い主への愛

世に打ち勝つ人々は,主であり救い主であられるイエス・キリストのすべてを愛するようになります。

主の栄えある降誕,完全な生涯,ゲツセマネとゴルゴタにおける無限の贖罪は皆,わたしたち一人一人の復活を保証するものでした。心からの悔い改めを通してわたしたちが罪から清められ,神のみもとに戻ることを可能にするのは主をおいてほかにはおられません。「わたしたちが愛し合うのは,神がまずわたしたちを愛して下さったからで〔す〕。」

イエスは言われました。「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」

後にこう付け加えておられます。「わたしはあなたがた〔も〕世に打ち勝つよう望んでいる……。」

世に打ち勝つとは,生涯に一度の決定的瞬間ではなく,永遠を決定づける一生分の瞬間の積み重ねです。

それは子供のときに祈りを学び,「わたしもなりたい,イエス様のように」と敬虔に歌うことから始まるのかもしれません。さらに,新約聖書から救い主の生涯について学び,モルモン書にある救い主の贖いの力について深く考えていきます。

祈り,悔い改め,救い主に従い,主の恵みを受けることで,自分が何のためにここにいて,どのような人物になるべきか理解が深まります。

アルマはこう説明しました。「彼らの心の中にも大きな変化が生じた。そして,彼らはへりくだり,まことの生ける神に信頼を寄せ……最後まで忠実であった……。」

世に打ち勝っている人々は,天の御父の前で地上での責任について報告を求められることを知っています。真心から変わり,罪を悔い改めることで,わたしたちは罪に縛られることなく自由になります。「罪〔が〕緋のようであっても,雪のように白くなる」のです。

神への報告責任

この世的な人々は,神に対する説明責任について考えようとしません。それは,子供が両親の旅行中に無断でパーティーを開き,24時間後に両親が戻ってきたときにどうなるかを考えずに,大騒ぎして楽しむようなものです。

反対に,この世の関心は,生まれながらの人を抑制することより,したいがままにさせることにあります。

世に打ち勝つとは,世界征服などではありません。それは,内なる敵との個人的な戦いであり,まさに格闘なのです。

世に打ち勝ちとは,「心をつくし,精神をつくし,思いをつくし,力をつくして,主なるあなたの神を愛せよ」という,最も大いなる戒めを大切に心に留めることです。

クリスチャン作家のC・S・ルイスはこう説明しています。「キリストはこう言うのだ。『わたしにすべてを与えなさい。わたしは,あなたの時間をこれだけ,あなたのお金をこれだけ,あなたの仕事をこれだけ,欲しいというのではない。あなた自身を欲しいのだ。』」

世に打ち勝つとは,神との約束を守ること,つまり,バプテスマや神殿で交わした聖約と,永遠の伴侶への貞節の誓いを守ることです。世に打ち勝とうとするとき,わたしたちは毎週へりくだった心で聖餐に備えます。赦しを願い求め,「御子を覚え,戒めを守〔り〕」ますので,どうぞ「いつも御霊を受けられるように」してくださいと嘆願します。

安息日を愛するわたしたちの思いは,集会所のドアを出るときに終わるのではなく,むしろ,そのとき新たなドアが開くのです。それは,日常作業を離れ,学び,祈り,助けが必要な家族やほかの人々に手を差し伸べるすばらしい一日に続くドアです。教会が終わった途端に安堵の息をつき,フットボールの試合が始まらないうちにと急いでテレビに向かうことではありません。わたしたちの焦点を救い主と主の聖日の上にとどめましょう。

この世は,数多くの,執拗で,説得力のある魅惑的な声に引きずられています。

世に打ち勝つとは,警告し,慰め,光を与え,「世が与えるようなものとは異なる」平安を与えてくださる唯一の声を信頼することです。

無私の精神

世に打ち勝つとは,自分以外に目を向けること,第二の戒めを思い出すことです。「あなたがたのうちでいちばん偉い者は,仕える人でなければならない。」伴侶の幸せを自分の喜びより大切にし,我が子が神を愛し,戒めを守るように助けることを何よりも優先します。什分の一や断食献金を納め,助けが必要な人に分け与えることで,物質的な祝福を進んで分かち合います。そして,霊のアンテナが天に向いているなら,主は助けが必要な人の所へ導いてくださいます。

この世的な人々は自己中心的で,誇らしげに呼ばわります。「わたしとお隣さんを比べて見てごらんなさい。ほら,わたしはこんな物だって持っている。わたしはほんとうに偉いんだ。」

この世は簡単にいら立ち,無関心で,大衆の称賛を求め,それを喜びます。しかし,世に打ち勝つことは,謙遜さ,共感,忍耐,そして自分と違う人に対する思いやりをもたらします。

預言者に従うことで守られる

世に打ち勝つということは当然,この世的な人々があざけるような信条を持っていることを意味します。救い主はこのように言われました。

「もしこの世があなたがたを憎むならば,あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを,知っておくがよい。

もしあなたがこの世から出たものであったなら,この世は,あなたがたを自分のものとして愛したであろう。」

ラッセル・M・ネルソン会長は今朝,「イエス・キリストのまことの弟子は,自分の立場を明確にし,率直に語り,世の人々と一線を画すことにためらいを感じません」と話しました。

キリストの弟子は,フェイスブックに投稿した自分の信仰についての記事に「いいね!」が1,000回,あるいは好意的な絵文字が幾つかもらえなかったからといって気にしたりしません。

世に打ち勝つとは,インターネット上の関係よりも,神との関係を大事にすることです。

生ける預言者と使徒の導きに従うとき,主はわたしたちを安全に守ってくださいます。

お話をするモンソン大管長

トーマス・S・モンソン大管長はこう言っています。「世の中は……問題にあふれる難しい場所になりかねません。……〔神殿に参入するとき〕,……あらゆる試練に耐え,誘惑を克服する力を得ます。……わたしたちは更新され,抵抗力をつけます。」

ますます増え続ける誘惑と妨害とゆがんだ解釈により,この世は忠実な人々をだまし,以前受けた豊かな霊的な経験を取るに足らないもの,愚かなごまかしと片付けてしまいます。

世に打ち勝つとは,たとえ落胆しているときでも,救い主の愛と光を感じたときのことを思い出すことです。ニール・A・マックスウェル長老はそのような経験の一つについて,こう説明してくれました。「わたしはこれまで,ずっと祝福されてきましたし,神が,わたしがそれを知っていることを御存じであることも知っていました。」わたしたちは一時的に神から忘れられたと感じることがあったとしても,神を忘れてはなりません。

世に打ち勝つとは,この世の不公正や困難から守られるために世間との交わりを断絶した生活を送ることではありません。むしろ,信仰をより広い視点で捉えることで,わたしたちを救い主と主の約束に近づけてくれるものです。

現世で完全にはなれないものの,世に打ち勝つことで,いつか「贖い主の前に立〔ち〕,……喜んで贖い主の顔を拝〔し〕」,「わたしの父に祝福された人たちよ,さあ,……あなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい」と言う主の声を聞く日が来る,と希望の火をともし続けることができるのです。

ブルース・D・ポーター長老の模範

去年の12月28日,親しい友人で中央幹部だった愛するブルース・D・ポーター長老がこの世の生涯を終えました。享年64歳でした。

初めて彼に会ったのは,ともにブリガム・ヤング大学の学生のときでした。彼は頭脳明晰で,非常に優秀でした。ハーバード大学からロシア問題を専門分野とした政治学で博士号を授与された後,ブルースはその思考力と執筆力で名声を博します。道を逸れる可能性もあったかもしれませんが,そんな富も世の誉れも彼の目を曇らせることは一度もありませんでした。ブルースの忠誠心は救い主イエス・キリストと,永遠の伴侶スーザンと,子供や孫たちに向けられていたからです。

家族とともに写るポーター長老

ブルースは腎臓に疾患を持って生まれました。手術を受けたものの,時の経過とともに腎臓の機能は低下し続けました。

1995年にブルースが中央幹部として召されて間もなく,わたしたちは家族と一緒にドイツのフランクフルトに赴任しました。ブルースの務めの中心は,ロシアと東ヨーロッパでした。

1997年,腎臓の機能が低下し,健康状態が悪化したため,ポーター長老の生活は大きく変わりました。一家はソルトレーク・シティーに戻りました。

七十人として奉仕した22年間に,ブルースは数え切れないほど入院を繰り返し,手術も10回受けました。スーザンは医師から,ブルースは朝までもたないだろうと宣告されたことが2度ありましたが,その度に持ち直しました。

中央幹部として奉仕した12年以上の間,ブルースは血液を浄化するための透析治療を受けていました。日中に召しを果たし,週末に大会の割り当てを受けることができるように,ほぼ週に5日は一回につき4時間かかる透析を夜に受けていました。何度か神権の祝福を受けても健康状態が改善しなかったとき,ブルースは困惑したものの,自分がどなたを信頼しているかを忘れませんでした。

2010年,ブルースは息子のデビッドから腎臓の提供を受けます。それまでのような拒絶反応はありませんでした。奇跡でした。健康を取り戻し,やがて地域会長会で奉仕するために,スーザンとともに愛するロシアへ戻ることができるまでになったのです。

ロシアでのポーター夫妻

昨年の12月26日,ソルトレーク・シティーの病院で相次ぐ感染症と闘った後,彼は医師たちに席を外してくれるように頼みました。ブルースはスーザンにこう言いました。「『医師たちにはもう,わたしを救う手立てがないことを御霊が教えてくださったよ。』彼は……天の御父が自分を天に召されることを知っていたのです。彼は平安に満たされていました。」

12月28日,ブルースは自宅に戻り,数時間後,家族に囲まれて安らかに天の家に戻って行きました。

ブルース・D・ポーター長老の顔写真

何年も前に,ブルース・ポーターは子供たちにこのような言葉を書き送っています。

「わたしにとって,イエス・キリストへの愛と,主が実在の御方であられるという証は,わたしの人生の羅針盤でした。……それは,主が生きておられ,どのような苦難のときにもわたしの贖い主であり,友であられるという,御霊によって得た純粋で燃えるような証です。」

「わたしたちに与えられているチャレンジは,〔救い主を〕知り,主を信じる信仰によって,この世の試練と誘惑に打ち勝つことです。」

「ともに主を信頼し,主に真心を尽くし,忠実でありましょう。」

ブルース・ダグラス・ポーターは世に打ち勝ったのです。

わたしたちも,世に打ち勝つよう,もう少し努力をしましょう。深刻な過ちを見過ごしにすることなく,それでいて小さなつまずきや失敗には忍耐強くあり,熱心に歩みを速め,喜んで人を助けましょう。救い主への信頼を深めるとき,祝福され,現世において大きな平安と,自らの永遠の行く末についての確信を深めることができると約束します。イエス・キリストの御名により,アーメン。