全力を尽くして内側から立つ
わたしたちが必要に応じてルートを見直し,大きな希望と信仰をもって将来を見据えることができますように。雄々しく「全力を尽くす」ことによって「内側から立つ」ことができますように。
数年前,小さな孫娘が走って来て,興奮しながらこう言いました。「おじいちゃん,おじいちゃん,今日サッカーの試合で3つのゴール全部をわたしが決めたのよ!」
わたしも非常に喜びながら,「それはすごいね,サラ!」と答えました。
するとサラの母親がおかしそうにわたしを見て言いました。「試合は2対1だったのよ。」
どちらが勝ったのか,わたしには聞く勇気がありませんでした。
総大会は,反省と啓示と,時には方向転換の時です。
「ネバーロスト」という,カーナビを搭載したレンタカー会社があります。一旦目的地を入力したら,曲がる方向を間違えても,ナビの声は罵倒したりせず,とても感じの良い声でこう言うのです。「ルートを検索中です。規制のない所でUターンしてください。」
エゼキエル書には,次のようなすばらしい約束があります。
「悪人がもしその行ったもろもろの罪を離れ,わたしのすべての定めを守り,公道と正義とを行うならば,彼は必ず生きる。死ぬことはない。
何とすばらしい約束でしょう。しかし,先のもろもろおよびすべてを行わなければ,最後の「もろもろ」が指す約束を受けることはできません。もろもろから離れ,すべてを守る。そうすれば,もろもろのとがが赦されるのです。それには「全力を尽くす」必要があります。
こうであってはならないという例を挙げましょう。『ウォール・ストリート・ジャーナル誌』(Wall Street Journal)に,国税庁に現金を詰めた手紙を匿名で送った男性の話が載っていました。手紙にはこう書かれていたそうです。「国税庁御中,過去の未払いの税金を同封します。追伸。この後も良心の呵責にさいなまれるようでしたら,残りを送ります。」
そのような方法で行うものではありません。最低ラインはどこなのかを伺いながら出し惜しみしてはならないのです。主は心と進んで行う精神を求めておられます。心を尽くすよう望んでおられるのです。バプテスマを受けたとき,わたしたちは救い主に完全に従うという約束のしるしとして,水に沈められました。中途半端に従うのではありません。「全力を尽くし」て完全に決意するとき,神はわたしたちのために天を震わせてくださるのです。生ぬるかったり,部分的に決心したりするだけでは,天の極上の祝福の一部を失ってしまいます。
何年も前に,ボーイスカウトを連れて砂漠へキャンプに行ったことがあります。ボーイたちは自分たちが作った大きなキャンプファイヤーのそばで寝ました。わたしはすべての良きスカウト指導者がするように,トラックの荷台で寝ました。朝,体を起こしてキャンプ地を見ると,一人目立って機嫌の悪い子がいました。仮にポールと呼びましょう。よく眠れたかと尋ねると,「あんまり」という答えが返ってきました。
理由を尋ねると,「寒かったんです。火が消えちゃったから」と言います。
わたしは言いました。「まあ,火って消えるものだよ。寝袋は暖かくなかったのかい。」
答えがありません。
すると,別の子が大きな声で「寝袋に寝なかったんですよ」と答えてくれました。
わたしは驚いて尋ねました。「どうしてだい,ポール。」
しばしの沈黙の後,彼はきまり悪そうに答えました。「だって,寝袋をほどかなかったら,後でしまう必要がないと思ったんです。」
これは実話です。彼は5分の手間を惜しんだために,何時間も凍えていたのです。「愚かだ,そんなことをする人がいるだろうか」と思うかもしれません。しかし実は,もっと危険な方法でわたしたちもよくそれをしています。誠心誠意祈り,学び,日々熱心に福音に従って生活することを怠るとき,わたしたちは事実上霊的な寝袋をほどくのを拒んでいるのです。そのうちに火が消えるだけでなく,わたしたちは無防備な状態となり,霊的に凍えてしまいます。
受けた聖約に無関心であれば,わたしたちはその結果に加担したことになります。主はこう勧告されました。「自分自身について気をつけ,永遠の命の言葉を熱心に心に留めるようにしなさい。」主はさらにこう宣言されました。「彼らがわたしの言うことを聞かなければ,わたしの血は彼らを清めない。」
実際には,「全力を尽くす」方が「力を一部使う」よりずっと簡単なのです。力を一部しか使わなかったりまったく使わなかったりすると,映画スターウォーズで言う「フォースに乱れ」が生じます。 それは神の御心に同調していない状態,すなわち幸福の本質に反する状態にあるからです。イザヤはこう言っています。
「悪しき者は波の荒い海のようだ。静まることができないで,その水はついに泥と汚物とを出す。
幸い,わたしたちの今,あるいは過去がどうであれ,救い主の力が及ばないことなどないのです。主は言われました。「それゆえ,悔い改めて幼子のようにわたしのもとに来る者を,わたしはだれでも受け入れよう。神の王国はこのような者の国である。見よ,このような者のために,わたしは自分の命を捨て,再びそれを得た。」
絶えず悔い改めて主に頼るとき,わたしたちは経験による知恵を加えつつも,幼子のような謙遜さと信仰に立ち戻るので強さを得ます。ヨブは,「正しい者はその道を堅く保ち,潔い手をもつ者はますます力を得る 」と宣言しています。「わたしの強さは十人力。 それは心に汚れがないからだ」と書いたのは詩人テニソンです。主は「あなたがたは聖なる場所に立ち,動かされないようにしなさい」と勧告されました。
息子のジャスティンは生涯病気と闘い,19歳でこの世を去りました。その少し前,彼は聖餐会で話をし,ある父親と幼い息子がおもちゃ屋に行って,人の形をしたパンチングバルーンを見つけたときの話をしました。きっと彼の心に響くものだったのでしょう。男の子がパンチをする度に人型のバルーンは床に倒れ,またすぐに起き上がりました。父親は,バルーン人形はなぜ起き上がり続けるのか男の子に尋ねました。彼は少し考えてから答えました。「分かんない。中で立っているからかな。」「全力を尽くす」には,「どんな出来事〔があろうと〕内側で立っている」必要があります。
主がわたしたちの肉体のとげを取り除いてくださるまで,またはそれに堪える強さを下さるまで辛抱強く待つとき,わたしたちは内側から立っているのです。そのようなとげは,病気,障がい,精神疾患,愛する人の死など,様々な形でやって来ます。
なえた手を持ち上げるとき,わたしたちは内側から立っています。今の世は,悪を呼んで善と言い,ますます光を疎んじ,善を呼んで悪という邪悪で宗教を顧みない世であり,「義人を彼らの義のゆえに罪に定め〔る〕」世です。そんな世に対して真理を擁護するとき,わたしたちは内側から立っています。
様々な苦難の中でも内側から立っていられるのは,澄んだ良心と,慰めや励ましとなる聖霊による確信,そして人知では計り知ることのできない永遠の見地があるからです。前世において,現世を経験することができると知ったわたしたちは声を上げて喜びました。胸を躍らせながら,天の御父の計画を雄々しく擁護すると決意したとき,わたしたちは皆,全力を尽くしていました。今こそ立ち上がり,もう一度御父の計画を擁護するときです!
わたしの父は最近97歳で亡くなりました。だれかに様子を聞かれる度に,父はいつも「10段階で25ぐらいだよ」と答えていました。もう立つことも,座ることさえもできなくなり,また話すのが難しなっても,この愛する父の答えは変わりませんでした。彼はいつも内から立っていたのです。
父が90歳のとき,空港で車椅子を持って来ようかと父に尋ねたことがありました。すると父は言いました。「いや,ゲリー。年を取ってからにするよ。」そしてこう付け加えました。「それに,歩くのが嫌になったら,走ればいいんだから。」もし今現在,わたしたちが全力で歩けていないなら,走る必要があるかもしれませんし,ルートを検索し直す必要があるのかもしれません。もしかしたら必要なのはUターンかもしれません。もっと熱心に学ぶ,誠心誠意祈る,あるいはほんとうに大事なものをとどめておくために何かを手放す必要があるのかもしれません。永遠を手に入れるために,この世的なことを諦める必要があるかもしれません。父はこのことを理解していました。
父は第二次世界大戦中海軍にいましたが,大きくて広々とした建物から父の信条をからかう人々がいました。しかし,二人の船員仲間のデール・マドックスとドン・デビッドソンだけは父に注目し,からかうことをしませんでした。二人は尋ねました。「サビン,どうして君はみんなとそんなに違うんだい。道徳心は高いし,酒もたばこもやらないし,悪い言葉も言わない。だけど,君は落ち着いていて幸せそうだ。」
彼らが父から受けた好印象は,それまで教えられていたモルモン像と一致しなかったのです。父は彼らを教え,二人にバプテスマを施すことができました。デールの両親は非常に怒って,教会などに入ったら大切な人,メアリー・オリーブを失うことになると警告しましたが,彼女はデールに勧められて宣教師に会い,バプテスマを受けたのです。
戦争が終わりに近づいたころ,ヒーバー・J・グラント大管長は宣教師を募りました。既婚の男性も対象でした。1946年,デールと妻のメアリー・オリーブは,最初の子供がおなかにいたにもかかわらず,デールが伝道するべきだと判断しました。その後二人は,3男6女に恵まれました。この9人の子供たちが全員伝道を終えてから,デールとメアリー・オリーブは3度も伝道に出ました。数十人の孫も伝道に出ています。彼らの二人の息子,ジョン・マドックスとマシュー・マドックス,そしてマシューの娘婿であるライアンは現在タバナクル合唱団の団員です。マドックス家は現在144人おり,「全力を尽くす」すばらしい模範となっています。
父の遺品を整理しているとき,ジェニファー・リチャーズからの手紙を見つけました。もう一人の船員仲間ドン・デビッドソンの5人の娘の一人です。手紙にはこうありました。「あなたの義にかなった行いがわたしたちの人生を変えました。教会がなかったらどんな人生になっていたか,想像し難いです。父は福音を愛し,最後までそれに従って生きようと努力していました。」
一人の善良な人が内側でしっかりと立つことによって及ぼす影響は計り知れません。父と二人の船員仲間は,大きくて広々とした建物から指さしてあざけり笑う人々の声に耳を傾けませんでした。彼らは群衆に従うより創造主に従う方がずっと良いことを知っていたのです。
使徒パウロがテモテに「ある人々はこれらのものからそれて空論に走〔る〕」と言ったのは,わたしたちの時代のことだったのかもしれません。現在,世の中には「空論」がたくさんあります。大きくて広々とした建物にいる人々の声です。多くの場合,それは邪悪な行いを正当化する声や,人々が道を踏み外し,ますます遠ざかっていく様子に表れます。時には,預言者とは反対に生まれながらの人に従う方を選び,「全力を尽くす」という代価を払わなかった人々の声もあるでしょう。
ありがたいことに,わたしたちは忠実な人々の終わり方を知っています。「全力を尽くす」とき,わたしたちには「〔神が〕神を愛する者たち……と共に働いて,万事を益となるようにして下さる」という全面的な確信があります。ニール・A・マックスウェル長老が言ったように,「恐れることはありません。ただ義にかなった生活をすればよいのです。」
わたしの義理の父はブリガム・ヤング大学で教え,フットボールのファンでしたが,結果があまりにも心配で試合を見ることができませんでした。すると,すばらしいことが起こりました。ビデオが発明され,試合を録画できるようになったのです。BYUが勝てば,試合の結果にまったくの確信を持ち,安心して録画された試合を見ることができました。不当にペナルティーを科せられても,味方がけがをしても,第4クォーターの後半に負けていても,そこから抜け出せることが分かっていたのでストレスを感じずに済んだのです。彼には「完全な希望の輝き」があったと言えるのかもしれません。
わたしたちについても同じです。忠実であれば,終わりにはすべてがうまくいくという,同様の確信を持つことができます。主の約束は確かなものです。だからといって,現世という大学が楽なわけでも,多くの涙なしに卒業できるわけでもありませんが,パウロが次に記したとおり,「目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心に思い浮かびもしなかったことを,神は,ご自分を愛する者たちのために備えられた」のです。
兄弟姉妹の皆さん,明日の罪を犯した人は一人もいません。わたしたちが必要に応じてルートを見直し,大きな希望と信仰をもって将来を見据えることができますように。雄々しく「全力を尽くす」ことによって「内側から立つ」ことができますように。天の御父の計画と救い主である御子の使命を清く,雄々しく擁護することができますように。御父が生きておられること,イエスがキリストであられること,偉大な幸福の計画が真実であることを証します。主のえり抜きの祝福が皆さんにありますように祈ります。イエス・キリストの御名により,アーメン