警告の声
預言者たちは警告することが義務であることを特に強く感じていますが,ほかの人々も同様にその義務を負っています。
預言者エゼキエルは,リーハイとその家族がエルサレムを去るおよそ20年前に生まれました。紀元前597年,25歳のときに,エゼキエルは,大勢の人とともにネブカデネザルに捕らわれてバビロンに連れて行かれました。そして知られているかぎり,彼はそこで残りの生涯を過ごしました。彼はアロンの祭司の家系で,30歳のときに預言者になりました。
エゼキエルを任じる際に,エホバは,見守る者の隠喩をお使いになりました。
「〔見守る者〕は国につるぎが臨むのを見て,ラッパを吹き,民を戒める。
しかし人がラッパの音を聞いても,みずから警戒せず,ついにつるぎが来て,その人を殺したなら,その血は彼のこうべに帰する。」
しかし,「見守る者が,つるぎの臨むのを見ても,ラッパを吹かず,そのため民が,みずから警戒しないでいるうちに,つるぎが臨み,彼らの中のひとりを失うならば,その人は,自分の罪のために殺されるが,わたしはその血の責任を,見守る者の手に求める。」
その後,エホバは,エゼキエルに直接語りかけて,こう宣言しておられます。「それゆえ,人の子よ,わたしはあなたを立てて,イスラエルの家を見守る者とする。あなたはわたしの口から言葉を聞き,わたしに代って彼らを戒めよ。」その警告は,罪から離れなさいというものでした。
「わたしが悪人に向かって,悪人よ,あなたは必ず死ぬと言う時,あなたが悪人を戒めて,その道から離れさせるように語らなかったら,悪人は自分の罪によって死ぬ。しかしわたしはその血を,あなたの手に求める。
しかしあなたが悪人に,その道を離れるように戒めても,その悪人がその道を離れないなら,彼は自分の罪によって死ぬ。しかしあなたの命は救われる。……
また,わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言っても,もし彼がその罪を離れ,公道と正義とを行うならば,……
彼の犯したすべての罪は彼に対して覚えられない。彼は公道と正義とを行ったのであるから,必ず生きる。」
興味深いことに,この警告は義人にも当てはまります。「わたしが義人に,彼は必ず生きると言っても,もし彼が自分の義をたのんで,罪を犯すなら,彼のすべての義は覚えられない。彼はみずから犯した罪のために死ぬ。」
神はエゼキエルに次のように告げ,御自分の子供たちに熱心に呼びかけておられます。「あなたは彼らに言え,主なる神は言われる,わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が,その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ,心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ,あなたはどうして死んでよかろうか。」
天の御父と救い主は,わたしたちを罪に定めたいとは決して思っておられず,わたしたちを幸せにしたいと思い,悔い改めるよう切に呼びかけておられるのです。「悪事は決して幸福を生じたことがな〔く,これからも決して幸福を生じることはない〕」ことをよく御存じだからです。エゼキエルと,それ以前とそれ以降のすべての預言者が,心を込めて神の言葉を語りながら,耳を傾けるすべての人に,敵であるサタンから離れ,「すべての人の偉大な仲保者を通じて自由と永遠の命を選ぶ」よう警告しています。
預言者たちは警告することが義務であることを特に強く感じていますが,ほかの人々も同様にその義務を負っています。実際,「警告を受けた人は皆,その隣人に警告しなければならない」のです。偉大な幸福の計画—ならびにそれに関連する戒め—について知っているわたしたちは,その知識を分かち合いたいと思うはずです。それは,この世と永遠における生活をまったく違ったものにするからです。「わたしが警告すべき隣人とはだれのことですか」と尋ねるなら,実にその答えは,次の言葉で始まるたとえ話の中にあります。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中,強盗どもが彼を襲い……。」
この文脈で良いサマリヤ人のたとえ話について考えてみると,「わたしの隣人とはだれのことですか」という問いかけが,二つの大切な戒めに関連したものであることが分かります。「『心をつくし,精神をつくし,力をつくし,思いをつくして,主なるあなたの神を愛せよ。』また,『自分を愛するように,あなたの隣り人を愛せよ』……。」警告の声を上げるように促すのは,愛,すなわち神への愛と同胞への愛です。警告することは気遣うことです。「穏やかに,かつ柔和に」,また「説得により,寛容により,温厚……により,また偽りのない愛により」警告するよう,主は指示しておられます。火の中に手を入れないよう子供に警告するときのように,緊急を要することもあるでしょう。それは明確で,時折断固としていなければなりません。場合により,「聖霊に感じたときは」叱責の形で警告することがありますが,それは必ず愛に根ざしています。それを証明する例として挙げられるのは,宣教師たちをその奉仕と犠牲へと駆り立てる愛です。
もちろん,愛するがゆえに,親は最も身近な「隣人」である自分の子供に警告せざるを得ないことがあります。福音の真理を教え,証するという意味です。つまり,子供たちに信仰,悔い改め,バプテスマ,聖霊の賜物というキリストの教義を教えるということです。主は親に次のことを思い起こさせておられます。「わたしはあなたがたに,あなたがたの子供たちを光と真理の中で育てるようにと命じた。」
親が警告する義務を果たす際に欠かせないのが,罪の招く悲惨な結果だけでなく,戒めに従って歩むことで得られる喜びについても教えることです。エノスがなぜ神を求め,罪の赦しを受け,心を改めるに至ったのか,エノス自身の言葉を思い出してください。
「見よ,わたしは森で獣を狩ろうとして出かけた。かつてわたしは,父が永遠の命と聖徒たちの喜びについて語るのを度々聞いていたのだが,その父の言葉が,そのときになってわたしの心に深くしみ込んできた。
すると,わたしの霊は飢えを感じた。それで,わたしは造り主の前にひざまずき,自分自身のために熱烈な祈りと懇願をもって造り主に叫び求めた。」
イエスはその比類ない愛と,人々の幸せを気遣うという思いから,警告を発することを躊躇されませんでした。教導の業を始めるに当たって,「イエスは教を宣べはじめて言われ〔まし〕た,『悔い改めよ,天国は近づいた』。」イエスはすべてが天に通じる道ばかりではないことを御存じであるため,主は次のように命じられました。
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく,その道は広い。そして,そこからはいって行く者が多い。
命にいたる門は狭く,その道は細い。そして,それを見いだす者が少ない。」
イエスは罪人に時間を割いて,こう言われました。「わたしがきたのは,義人を招くためではなく,罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
律法学者やパリサイ人,サドカイ人に対しては,イエスは,毅然として彼らの偽善を非難しておられます。イエスの警告と戒めは直接的でした。「偽善な律法学者,パリサイ人たちよ。あなたがたは,わざわいである。はっか,いのんど,クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら,律法の中でもっと重要な,公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが,これも見のがしてはならない。」もちろん,これらの律法学者やパリサイ人を愛していないと言って救い主を責める人は,だれ一人いないでしょう。何といっても,イエスは,彼らをも救うために苦しみ,亡くなられたのですから。愛しておられるがゆえに,彼らをはっきりと正すことなく,罪のあるままにされることはおできにならなかったのです。ある著者はこう述べています。「イエスは弟子たちに,御自分が行ったとおりに行うよう教えられた。すべての人を温かく受け入れながらも,罪について教えるようにと。愛は,人々を害する可能性のあることについて警告することを求めるからである。」
勇気を奮って警告の声を上げる人が,手厳しいの一言で片付けられることがしばしばあります。しかし,皮肉なことに,真理は相対的で道徳の標準は人それぞれだと主張する人が,今時のいわゆる「正しい思想」を受け入れない人を手厳しく批判することがよくあります。ある著者はこれを「恥の文化」と呼んでいます。
「罪の文化では,自分の良心の感覚から,自分が善か悪か分かるものである。恥の文化では,社会の評価によって,社会から称賛されるか,排除されるかによって,自分が善か悪か分かる。〔恥の文化では,〕道徳的な生活は,善悪の原則の上に築かれるのではなく,受け入れるという意味の包摂と排除の原則の上に築かれるのである。
……包摂と排除に基づく道徳制度では,すべての人が常に不安を感じる。そこには永続する基準がなく,大衆の判断はいつも変化する。それは過敏,過剰反応,頻発する道徳パニックの文化であり,すべての人が迎合するよう強制されていると感じるものである。
……罪の文化は厳しいかもしれないが,少なくとも,人は罪を憎んでも,罪人を愛してくれるだろう。現代の恥の文化は,包摂と寛容を尊重していると言うが,意見を異にする人や,なじまない人には,変に無情であったりする。」
これと対照的なのが「贖い主の岩」です。正義と徳の堅固な永続する基盤です。ソーシャルメディアの大衆が定める気まぐれなルールや彼らの怒りに捕らわれるより,神の不変の律法があり,その律法によって自分の行く末を選べる方がはるかに良くはないでしょうか。「様々な教の風に吹きまわされたり,もてあそばれたりする」より,真理を知る方がはるかに良くはありませんか。悔い改めて,福音の標準に到達する方が,善や悪はなく,罪や後悔で苦しむことなどないと装うよりもずっと良いのではないでしょうか。
主はこう宣言しておられます。「警告の声は,この終わりの時にわたしが選んだ弟子たちの口を通して,すべての民に及ぶ。」見守る者,または弟子として,わたしたちは,この「最もすぐれた道」について中立でいることはできません。エゼキエルのように,国につるぎが臨むのを見て,「ラッパを吹か〔ない〕」というわけにはいきません。だからといって,近所の家の扉をたたいたり,広場に立って「悔い改めよ!」と叫んだりすべきではありません。ほんとうのところ,よく考えたら,わたしたちには回復された福音によって,人々が心の奥底で望んでいるものを手にしているのです。ですから,多くの場合,警告の声は礼儀にかなった行為であるばかりか,詩篇の作者の言葉を借りれば,「喜ばしき声」でもあるのです。
『デゼレトニューズ』(Deseret News)の社説担当編集者であるハル・ボイドは,沈黙したままでいることが有害であることの一例を挙げました。結婚の概念は今もなおアメリカのエリート層の間で「知的討論」の対象でありながら,結婚そのものは実際には彼らにとって討論の対象ではないと述べています。「エリート層は結婚して,結婚生活を続け,子供たちが安定した結婚生活のもたらす恩恵を得られるようにしている。……しかし,問題は,彼らはそれを人に説こうとはしないことである。」道徳についての指導と価値観を最も必要としている人に「無理強い」したくないと思っているのです。しかし,「今こそ,教育があり,強い家族を持っている人々が,中立を装うのをやめて,結婚生活と子育てについて自分が実践していることを説き始める時」かもしれません。
特に,若い世代,将来主の御業を成すと主から信頼されている青少年とヤングアダルトの皆さんは,公にも個人的にも,福音の教えと教会の標準を守り続けてくれるものと思います。真理を受け入れるであろう人を見捨てず,彼らが無知ゆえにもがき,失敗することがないようにしてください。寛容についての誤った概念に負けないでください。あるいは,恐れ,すなわち,不自由,非難,苦悩の恐れに屈しないでください。救い主の次の約束を覚えておいてください。
「わたしのために人々があなたがたをののしり,また迫害し,あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には,あなたがたは,さいわいである。
喜び,よろこべ,天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも,同じように迫害されたのである。」
最終的には,わたしたちは皆,自らの選択と生き方について神に責任を問われます。救い主はこう宣言しておられます。「父は,わたしが十字架に上げられるようにと,わたしを遣わされた。十字架に上げられた後で,わたしはすべての人をわたしのもとに引き寄せた。わたしは人々によって上げられたが,そのように人々は,父によって上げられてわたしの前に立ち,自分の行いが善いか悪いかによって,行いを裁かれるのである。」
主が至高の御方であることをここに認め,わたしはアルマの言葉をもって嘆願します。
「さて,わたしの同胞よ,まことにわたしが心痛を感じるほどにひどく心配するとともに,心の底から願っていることがある。それは,あなたがたがわたしの言葉を聴き,罪を捨て,悔い改めの日を先に延ばすことのないようにということである。
しかし,あなたがたは主の御前にへりくだり,主の聖なる御名を呼び,自分が耐えられないような誘惑を受けないように,目を覚ましていて絶えず祈りなさい。そのようにして,聖なる御霊の導きを得て,謙遜,柔和,従順になり,忍耐強くなり,愛に富み,限りなく寛容になって,
さらに主を信じる信仰を持ち,永遠の命を得る希望を抱き,常に心の中に神の愛を持って,終わりの日に上げられて神の安息に入れるようにしてほしい。」
わたしたち一人一人が,ダビデとともに,主に向かってこう述べることができますように。「わたしはあなたの救を心のうちに隠しおかず,あなたのまことと救とを告げ示しました。わたしはあなたのいつくしみとまこととを大いなる集会に隠しませんでした。主よ,あなたのあわれみをわたしに惜し」まれませんように。イエス・キリストの御名により,アーメン。