2010–2019
このかたが,あなたがたに言いつけることは,なんでもして下さい
2017年4月


12:46

このかたが,あなたがたに言いつけることは,なんでもして下さい

神がわたしたちに「言いつけることは,なんでも」しようと決心するとき,わたしたちは日々の行動を神の御心に合わせようと熱心に全力を注ぎます。

救い主はガリラヤのカナで開かれた婚礼の祝宴で,記録にある最初の奇跡を行われました。イエスの母マリヤ,そしてイエスの弟子たちもそこにいました。マリヤはこの祝宴の成否に幾らか責任を感じていたようです。お祝いの最中に,問題が生じました。婚礼の主催者がぶどう酒を切らしてしまったのです。マリヤは心配し,イエスに相談しました。二人は少し話し,それからマリヤは僕たちの方を向いて,こう言いました。

「『このかたが,あなたがたに言いつけることは,なんでもして下さい。』

そこには,……石の水がめが,六つ置いてあった。〔この水がめは飲み水を蓄えておくものではなく,モーセの律法の下で洗い清める儀式に用いるものでした。〕

イエスは〔僕たち〕に『かめに水をいっぱい入れなさい』と言われたので,彼らは口のところまでいっぱいに入れた。

そこで彼らに言われた,『さあ,くんで,料理がしらのところに持って行きなさい。』すると,彼らは持って行った。

〔それから〕料理がしらは,ぶどう酒になった水をなめて」最良のぶどう酒が祝宴のこれほど遅くに供されたことに驚きを表しました。

わたしたちはたいていこの出来事を記憶しています。水をぶどう酒に変えたのは,神の力を証明するもの,つまり奇跡だったからです。それは大切なメッセージですが,ヨハネはもう一つ大切なメッセージを記録しています。マリヤは,神の御子を産み,養い,育てるよう神から召された「尊い,選ばれた器」だったのです。マリヤはこの地上のだれよりもイエスのことを知っていました。イエスの奇跡的な誕生の真実を知っていました。イエスには罪がないことを,また「〔その〕語ることは他の人々とは異なり,イエスを教えることのできる人はだれもいなかった。教える人を必要とされなかったからである」ということも知っていました。婚礼の祝宴でぶどう酒を提供するというような個人的な困り事も含め,問題を解決するときのイエスの並外れた能力について知っていました。マリヤにはイエスとイエスの神聖な力に対して揺るぎない確信がありました。僕たちに対するマリヤの簡潔で単刀直入な指示には,警告,必要条件,制限といったものは一切ありませんでした。「このかたが,あなたがたに言いつけることは,なんでもして下さい。」

ガブリエルが現れたとき,マリヤは年若い女性でした。最初,マリヤは「恵まれた女」と呼ばれたことで,「胸騒ぎがして,このあいさつはなんの事であろうかと,思いめぐらし」ました。ガブリエルは,何も恐れることはなく,自分が携えてきたのは良い知らせであると言って,マリヤを安心させました。マリヤは「いと高き者の子」を「みごもって」,「男の子を産〔み〕……彼はとこしえにヤコブの家を支配」するのです。

マリヤは驚いて言いました。「どうして,そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに。」

天使はごく簡単に説明し,マリヤにこう断言しました。「神には,なんでもできないことはありません。」

マリヤは,具体的なことを知りたいと要求することなく,しかも自分の人生にどんな影響があるかという点で明らかに無数の疑問があったにもかかわらず,主に命じられたことはすると,へりくだって答えました。どうして神が自分にお命じになるのか,その後どうなるのか正確に理解できなくても,決意したのです。前途に何が待ち受けているのかほとんど知らなくても,マリヤは神の御言葉を,無条件に,また前もって受け入れたのです。神を素直に信頼し,マリヤはこう言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。」

神がわたしたちに「言いつけることは,なんでも」しようと決心するとき,わたしたちは日々の行動を神の御心に合わせようと熱心に全力を注ぎます。日々の聖文研究,定期的な断食,心からの祈りといった簡単な信仰の行いによって,現世の様々な要求を満たす源となる霊的能力は非常に高まり,時を経ると,信仰の簡単な習慣は奇跡的な結果を生じます。わたしたちの信仰は,幼い木から,日々の生活に益をもたらすダイナミックな力へと変貌を遂げるのです。そうすると,試練に見舞われても,キリストの土台にしっかりと根付いたことにより,確固としていられます。神はわたしたちの弱さを支え,喜びを深め,「万事を〔わたしたちの〕益となるように」してくださるのです。

数年前,わたしは一人のビショップと話しました。彼は,毎週何時間も使って,ワードの会員の相談に乗っていました。このビショップは非常に印象的な意見を述べました。自分のワードの会員が直面する問題は,どこの教会員も直面する問題だと言うのです。例えば,幸せな結婚生活を確立する方法,仕事と家族と教会の務めのバランスを保つうえでの葛藤,知恵の言葉に伴う課題,雇用,ポルノグラフィー,あるいは理解できない教会の方針や歴史上の疑問になかなか納得できないといった問題です。

このビショップがワードの会員に助言するときは,信仰を誠実に実践するという基本に立ち返ることもよく勧めるそうです。それは,わたしたちがトーマス・S・モンソン大管長から実践するよう勧告を受けたように,モルモン書を毎日学んだり,什分の一を納めたり,献身的に教会で奉仕したりするようなことです。しかしながら, 会員から受ける答えの多くは,懐疑的なものでした。 「ビショップ,あなたには賛成できません。そういったことを行うのは良いことだというのはだれでも知っています。そういったことは教会でいつも話しています。でも,ビショップがわたしのことを理解してくれているのかどうか分かりません。そういったことを行うことと,わたしが直面している問題とどういう関係があるのですか。」

もっともな質問です。やがて,その若いビショップとわたしが気づいたことは,着実に「小さな,簡単なこと」を行う人,すなわち一見ささいな方法で従う人は,実際の従順な行いそのものをはるかに超える,いやそれどころか,まったく無関係と思われるような信仰と力に恵まれます。基本的な日々の従順な行いと,わたしたちが直面する大きくて複雑な問題の解決。この二者間のつながりを理解するのは難しいと思うかもしれません。しかし,関係があるのです。わたしの経験では,小さな日々の信仰の習慣をきちんと行うことは,人生の問題に対して防備を固める唯一の最善策です。それがどのような問題であってもです。小さな信仰の行いは,取るに足りないと思われるとき,あるいは自分たちを悩ます特定の問題とはまったく関係がないと思われるときでも,わたしたちが行うあらゆることにおいて祝福をもたらします。

「スリヤ……の軍勢の長」で「大勇士」でしたが,重い皮膚病にかかっていたナアマンのことを考えてください。召し使いの少女がナアマンを癒せるイスラエルの預言者について話しました。そこでナアマンは僕と兵士を従え,贈り物を携えてイスラエルに赴き,ついにエリシャの家に到着しました。エリシャ自身ではなくエリシャの従者が,主の命令は単に「ヨルダン〔川〕へ行って七たび身を洗〔う〕」ことであるとナアマンに伝えました。簡単なことです。恐らく,この単純な処方を,大勇士は非論理的かつあまりにも安易で,自分の威厳を損なうものであると感じたのでしょう。このささいな提案に腹を立てました。少なくとも,エリシャの指示はナアマンにとって納得の行くものではありませんでした。「こうして彼は身をめぐらし,怒って去った」のです。

しかし,ナアマンの僕たちは,エリシャが「何か大きな事」をするように求めたとしても,ナアマンはそれをしたであろうことを穏やかに切り出しました。そして,小さなことをするように言われただけなので,その理由が分からなくてもそうするべきなのではないか,と指摘しました。ナアマンは自分の態度を考え直し,恐らく疑いながらも従順に,「下って行って……七たびヨルダンに身を浸〔し〕」,奇跡的に癒されたのです。

従順はすぐに報われることもありますが,試された後で初めて報われることもあります。高価な真珠には,アダムが飽くことなく熱心に戒めを守り,犠牲をささげたと記されています。アダムはなぜ犠牲をささげるのかと天使に尋ねられ,「わたしには分かりません。ただ,主がわたしに命じられたのです」と答えました。天使は,「これは,御父の……独り子の犠牲のひながた」であると述べました。しかし,その言葉が告げられたのは,あくまでアダムがそのような犠牲をささげなければならない理由の分からないままに,主に従うという決意を「多くの日」にわたって行動で示したうえでのことでした。

神は,福音に対する確固たる従順と教会に対する忠誠のゆえに,いつもわたしたちを祝福してくださいますが,いつそうしてくださるのかという予定を前もって示すことはめったになさいません。わたしたちに最初から全体像をお示しになることはありません。そこで主に対する信仰,希望,信頼が必要となるのです。

神は御自身とともに耐えるように,すなわち神を頼り,神に従うようにと言われます。神はわたしたちに「自分が見ていないからということで疑ってはならない」とおっしゃっています。また,容易な答えや手っ取り早い解決策を期待しないようにと警告しておられます。「〔わたしたちの〕信仰が試され」るときに堅く立っているならば,その試練がどれほど堪え難いものであっても,あるいは答えを得る時がどれほど遅くなっても,物事はうまくいくものです。わたしの話しているのは「盲従」ではなく,主の完全な愛と完璧なタイミングに対する,深く考えたうえでの確信です。

信仰の試しには,信仰を誠実に日々一貫して実践し続けることが常に 伴います。そうするとき,またそうするときにのみ,わたしたちが待ち焦がれる神の答えを受けると,主は約束しておられるのです。いつ,なぜ,どのようにしてなのか知ることを要求することなく,神から命じられたことを喜んで行うことをひとたび証明しさえすれば,わたしたちは,「〔わたしたち〕の信仰と熱意と忍耐と寛容の報いを刈り入れる」のです。真の従順は神の戒めを無条件で,また前もって受け入れます。

意識しているかいないかは別にして,だれもが毎日「〔自分が〕仕える者」を選んでいます。わたしたちは,日々の献身的で忠実な行いによって,主に仕える決意を示します。主はわたしたちの道を指し示すと約束しておられます。 しかし,主がそれを行われるためには,わたしたちは主がその道を御存じであると信じて歩まなければなりません。主こそ「道」で あられるからです。わたしたちは自分自身の水がめを縁までいっぱいに満たさなければなりません。神に頼り従うとき,水がぶどう酒になったように,わたしたちの生活も変貌を遂げます。ほかの方法ではなり得なかった者となるのです。主に信頼し,「〔主〕が,あなたがたに言いつけることは,なんでもして下さい。」イエス・キリストの御名により,アーメン。