「『主の声を聞く』ことができ感謝します」『リアホナ』2023年3月号
「主の声を聞く」ことができ感謝します
わたしは教会で人の話を聞き取るのが大変なのですが,新約聖書に記されているこの話を通して,自分の状況について異なった見方をすることができました。
わたしは人生の大半を重い難聴を患って過ごしていて,教会のほとんどの集会で,説教壇から話される事柄は20パーセント程度しか理解することができません。時々,話者がユーモアのあることを言って会衆が笑っているのに,自分は聞こえなかったために笑っていないときなどは,孤独を感じ,周囲から切り離されたような気持ちになります。でもそれは,わたしだけではありませんでした。ワードの年配の会員たちが,自分たちも聞こえにくいのだと打ち明けてくれました。
時々,聖餐会で声の小さい話者の話を理解するのに苦労したときや,日曜学校の教師がみんな聞こえるだろうからマイクを使う必要はないと言うとき,自分はほとんど聞こえないのになぜ教会に来るのだろうかと疑問に思うこともあります。家で『わたしに従ってきなさい』のレッスンを読んだり,聖文を研究したりして時間を過ごす方がよいのではないでしょうか。
それでも,わたしは従順でありたいと思い,聖餐を受けることによってバプテスマの聖約を更新し,救い主を覚えるために,家族と一緒に出席し続けました。御霊を感じることは常に祝福であり,聞き取れた事柄によって教化されているといつも感じていました。
ある日曜日,聖餐会で話をした高等評議員の声は,はっきりと通る,聞き取りやすい声でした。その兄弟は,新約聖書に記されている,12年間長血に苦しんでいた女性の話を取り上げました。彼女は,イエスが通って行かれるときに手を伸ばしてその衣に触れることさえできれば癒されるという信仰を持っていました(ルカ8:43-48参照)。
そしてその兄弟による次の説明に,わたしは深く心を揺さぶられました。この女性は自分の状態のために汚れた者と見なされ,恐らく教会に出席することは許されなかっただろうというのです。12年間です!
そのような影響があったのかと,わたしは息を飲みました。この女性は病気ではありましたが,恐らく体調はそれほどひどくはなく,少なくとも時々,教会に出席することはできたと思われます。でも当時の社会的風潮から,彼女は出席することが許されませんでした。信仰の人にとって,何と大きな試練でしょう!
自分ではどうしようもない身体的な状態のために,仲間の信者たちと一緒に神を礼拝することを禁じられることで彼女が感じていたに違いない心の痛みについて深く考えたとき,御霊によってわたしの目が開かれ,わたしは彼女の状況をわたし自身と重ねることができました。わたしは完全な形で参加することはできませんが,少なくとも教会に出席し,自分が聞き取れる事柄を聞く特権を得ているのだと理解することができました。この女性にはそのような選択肢はありませんでした。わたしは家にいようと少し考えていたことを恥ずかしく思いました。
神はすぐにわたしの心に語りかけて,わたしが罪悪感を抱くことを望んではおられないことを知らせてくださいました。教会に出席し,キリストの忠実な弟子たちと交わることによって強められるという特権に対して,感謝の気持ちを抱くよう望んでおられたのです。すべてを聞き取ることはできませんでしたが,一部を理解することができましたし,その一つ一つがわたしの人生を祝福してくれていました。また,御霊の助けによって,聞き取れなかった事柄を理解できた特別な瞬間もありました。
神を礼拝し,神の宮に行くことによってもたらされる祝福を享受できる自由に感謝の念を覚えました。御霊はわたしに,教会の集会に出席し,聖餐を受け,学べることを学ぶ方が,まったく出席しないよりもわたしにとってはるかによいのだと証してくれました。
その日,わたしの態度は変わりました。自分の限界について意気消沈する代わりに,心が平安で満たされて,わたしは教会に出席することで受けられる祝福に心を向ける決意をしました。わたしは,聞こえなかった事柄について落胆するのではなく,聞こえた事柄について感謝するよう心から努力することを決意しました。
十二使徒定員会のディーター・F・ウークトドルフ長老は次のように言っています。「悩み苦しんでいるときに感謝の気持ちを持つとは,自分の置かれた状況を喜ぶという意味ではなく,信仰の目で今日の試練の先にあるものを見るという意味です。」1イエスの衣に触れようと手を伸ばした女性は,自分の限界の先にあるものを見ることができるほどに主を信じる信仰を持ち,神がわたしを祝福して肉体的な限界を乗り越えられるようにしてくださると知ることができるほどに神を信頼する必要があることを,見事に思い起こさせてくれました。
人生には,霊的,情緒的,肉体的にわたしたちを苦しめるあらゆる種類の困難が伴いますが,悩み苦しんでいるときにさえも,わたしたちは受けている祝福に感謝するよう勧められています。主は次のように言っておられます。
「わたしは友であるあなたがたに言う。恐れてはならない。心に慰めを得なさい。まことに,いつも喜び,すべてのことについて感謝しなさい。……
……また,あなたがたを苦しめたすべてのことは,あなたがたの益のために,またわたしの名の栄光のためにともに働く〔であろう〕。」(教義と聖約98:1,3)
筆者はアメリカ合衆国ユタ州在住です。