リアホナ
神様のお気に入り
2024年11月号


10:31

神様のお気に入り

神様の愛に満たされていると,人生の嵐から守られるだけでなく,幸せな時間がもっと幸せになります。

初めにお伝えしますが,わたしの子供のうち二人が説教壇で話している途中で意識を失ったことがあって,わたしは今ほど強く,その子供たちとのつながりを感じたことはありません。そして,落とし戸以上に恐ろしいからくりが頭をよぎっています。

我が家の6人の子供たちは,自分こそが親の一番のお気に入りだと言って,からかい合うことがあります。自分が一番好かれていると思う理由は,その子によって様々です。わたしたちは子供たち一人一人に,純粋であふれるほどの,完全な愛を抱いています。一人の子をほかの子よりも愛することはできません。それぞれの子が生まれる度に,わたしたちの愛が美しく広がっていきました。わたしは,自分の子供たちに対して抱く愛を通して,天の御父のわたしへの愛を最もよく理解することができます。

子供たちが自分こそ一番愛されている子だと言い張ることから,わたしたちの寝室が散らかったことなんかなかったんだろうと思う方がいるかもしれません。愛に焦点を当てることで,親子関係の不完全なところは気にならなくなります。

わたしは,家庭内の争いが避けられそうにないことが分かると,こう言います。「弱ったなあ。でも,発表するつもりはないよ。わたしのお気に入りがだれかなんて,みんなよく分かっているから。」わたしの目標は,6 人全員が勝ったと感じ,全面戦争を回避することです……少なくとも次回までは,ですが。

福音書の中で,ヨハネは自分自身を「イエスの愛しておられた弟子」 と述べて,自分が特別な立場にあるかのように語っています。わたしが思うに,これはヨハネがイエスに完全に愛されていると感じたからでしょう。ニーファイが「〔わたしの〕イエスを誇りとする」と書いたとき,わたしと同じ気持ちだったことでしょう。もちろん,救い主はヨハネのものでも,ニーファイのものでもありませんが,ニーファイとイエスとの個人的関係が,この優しい表現につながったのでしょう。

これほど完全に,また個人的に愛され,気にかけてもらえていると感じられるときがあるのは,すばらしいことではないでしょうか。ニーファイが主を「自分の」イエスと呼んだように,わたしたちもそう呼ぶことができます。救い主の愛は「最も気高く,尊く,しかも強い愛」 であり,わたしたちが「満たされる」まで与えられます。神の愛は決して尽きることがなく,わたしたちは全員,大切なお気に入りの子供なのです。複数の円が重なり合っているグラフの共通項のように,神の愛はどのような人にも注がれています。それぞれ違った部分がありつつも,みんな神から愛されています。

神を愛し,周りの人を愛することが第一の戒めであるというのは,驚くべきことでしょうか。互いにキリストのような愛を示している人々を見ると,その愛には彼ら自身の愛以上のもの,神の特質が含まれているように感じます。このように,わたしたちが力を尽くして完全かつ十分に愛し合うとき,そこに天も関与します。

ですから,大切な人が神の愛から離れているように思えるなら,自分がまず神に近づくことを行い,それから相手に近づくことを行うというパターン,つまり,キリストのもとに来なさいという,無言の呼びかけに従うことができます。

どのような状況のときに神の愛を感じるか,皆さんにじっくり尋ねることができればと思います。それはどの聖句,どの奉仕の行いですか?場所はどこですか?どんな音楽ですか?だれといるときですか?総大会は,天の愛とつながることについて多くを学ぶ大切な場です。

あなたは今,神の愛から遠く離れていると感じるかもしれません。恐らく,そのようなときには心の中に,落胆と暗闇の声が響いていることでしょう。その声は,自分がひどく傷ついていて,混乱し,弱く,見過ごされ,あまりにも人と違いすぎ,動揺しているため,天の愛を受ける資格がない,と告げる声かもしれません。そのようなときには,次の言葉に耳を傾けてください。「その声は間違っています。」天の愛を受ける資格はないと思わせるいかなる挫折感も,気に留める必要はまったくありません。賛美歌を歌う度に,裂かれたパンを頂く度に,愛する完璧な救い主が,わたしたちのために傷つけられ,砕かれ,引き裂かれる道を選ばれたことを思い起こします。確かにイエスは,打ちのめされた人からすべての恥を取り除いてくださいます。イエスは,打ち砕かれることを通して完全になられ,打ち砕かれたわたしたちを完全な者とすることがおできになるのです。主は打ち砕かれ,孤独で,引き裂かれ,傷つけられました。わたしたちがそうであるように感じることがあっても,神の愛から切り離されてはいません。歌にあるように,「打ち砕かれた者に,完全な愛」が注がれます。

あなたには,愛される資格がないと感じさせるような秘密があるかもしれません。しかし,どれほどその自覚が正しいとしても,自分が神の愛の届かない所にいると考えるのは間違いです。わたしたちは時々,ほかの人に対しては決してできないような残酷で,忍耐のない方法で自分を扱うことがあります。この人生ですべきことはたくさんありますが,恥ずかしさで胸をいっぱいにし,自分を責め立てることは必要ではありません。自分をどれほど醜いと感じていても,神の御腕が届かないなどということはありません。そうではありません。その御腕は常にわたしたちに届き,一人一人を抱き締めてくださいます。

神の愛の温かさを感じないとしても,愛が消え去ったわけではありません。神御自身がこう言われました。「山は移り,丘は動いても,〔神の〕いつくしみはあなたから移る……ことがない。」ですから,ここではっきりとお伝えします。「神が愛することをやめられる」という項目は,人生に起こり得ることのリストのはるか下にあり,「山が移り,丘が動くこと」よりも起こり得ないことなのです。

山という象徴が,神の愛の確かさを示す証拠であることをわたしはほんとうにうれしく思います。その強力な象徴は,啓示を受けるために山に行く人々の記述や,「主の家の山は,もろもろの山のかしらとして堅く立ち……」というイザヤの言葉に織り込まれています。主の宮はわたしたちにとって最も貴い聖約の家であり,すべての人の避け所,そして御父の愛のしるしに深く浸る場所です。わたしはまた,バプテスマの聖約をさらに堅く守るときに,そして喪失や失望により嘆いている人を見つけ,彼らが自分の気持ちを受け止め,整理できるよう助けるときにもたらされる心の慰めに喜びを感じてきました。これらは,貴い聖約における愛,「ヘセド」にさらに浸る方法ではないでしょうか。

神の愛がわたしたちから離れないのであれば,その愛を感じられないときがあるのはなぜでしょうか。皆さんの期待に応えたいのですが,わたしには分かりません。しかし,愛されていることとそれを感じることは,決して同じではありません。先ほどの質問に対する答えを探すとき,皆さんの役に立つかもしれない考えが幾つかあります。

あなたは悲しみや憂鬱,裏切り,孤独,失望などといった,神の愛を感じる能力を妨げる大きな障害と闘っているかもしれません。もしそうなら,これらの障害が,感じる能力を鈍らせたり,停止させたりしている恐れがあります。少なくとも一時期は,神の愛を感じることができないかもしれないので,このようなことが起き得る,という知識を十分に持つ必要があります。しかし,神の愛を表現することや,その愛を享受するための様々な方法を,辛抱強く試してみてはどうでしょうか。目の前にあるものから一歩下がり,より広い景色が見えるようになるまで,必要なら,さらに一歩,もう一歩と下がり,もっと広く物事を見渡せば,数え切れない星々と世界を見て創造主を思い起こすことができるので,文字どおり「日の栄えの考え」が得られるでしょう。

鳥のさえずり,肌に感じる太陽,そよ風や雨,そして神への畏敬の念を感じさせてくれる自然など,どれもがわたしに,天とのつながりを与えてくれました。恐らく,信仰深い友人による慰めも助けになるでしょう。音楽が助けになるかもしれません。あるいは奉仕することがよいかもしれません。神とのつながりが明確になったときのことを記録したり日記に書いたりしたことがありますか。安らぎや理解を求めるとき,信頼できる人に頼んで,神とのつながりの源を分かち合ってもらってはどうでしょうか。

イエスがあなたと会うために,あなたが主だけに集中できるプライベートな場所を選ばれるとしたら,あなただけの個人的な苦しみの場所,ほかのだれも行けない,あなたが最も助けを必要とする場所を主はお選びになるのではないでしょうか。そこは,あなたがとても孤独で独りぼっちだと感じても,実はそうでない場所であり,恐らく主だけが歩まれたことがある道であって,あなたが到着する前に主がすでに迎える準備を整えておられる場所です。あなたが主を待っているとしても,主はすでにそこにおられ,手の届く所にいらっしゃるのではないでしょうか。

人生のこの時期に愛に満たされていると感じるなら,たっぷりと水をまくかのように,その愛を分かち合ってみてください。行く先々でその水をまいてください。神の方法における奇跡の一つは,イエスの愛を分かち合おうとするとき,「わたしのために自分の命を失う者は,それを見いだすであろう」という原則のバリエーションとして,自分が主の愛で満たされていくことに気づくことです。

神の愛に満たされていると,人生の嵐から守られるだけでなく,幸せな時間がもっと幸せになり,太陽が輝く楽しい日々は,わたしたちの心の太陽によってさらに明るくなります。

イエスとその「愛に根ざし,愛を基」としましょう。生活の中で主の愛と力を感じた経験を探して,大切にしましょう。福音の喜びは,幸せな人や落ち込んでいる人だけでなく,すべての人が得られるものです。喜びはわたしたちの目的であり,わたしたちの状況によって与えられるものではありません。わたしたちには「喜びを味わい,神とすべての人に対する愛で満たされる」十分な理由があります。神の愛で満たされましょう。イエス・キリストの御名により,アーメン。

  1. ヨハネ21:20ヨハネ13:2319:2620:221:7, 20も参照

  2. 2ニーファイ33:6;強調付加

  3. 『聖句ガイド』「慈愛」の項

  4. エルサレムでは,マタイ14:15-20。アメリカ大陸では,3ニーファイ27:16

  5. マタイ22:35-40参照

  6. 1ヨハネ4:12参照

  7. 『青少年の強さのために—選択の指針』には,「〔わたしたち〕を通して,天の御父の愛を感じられるよう……人〔々〕を助けてください」とあります(12)。

  8. 「ナザレ出しわが主よ」『賛美歌』,100番参照。イザヤ53:5マタイ26:26も参照

  9. ラッセル・M・ネルソン大管長は,次のように説明しています。「主は十字架におかかりになるに先立ち『わたしは……三日目に〔完全になる〕であろう』とおっしゃいました(ルカ13:32;強調付加)。考えてみてください。罪がなく,過ちを犯されなかった主が,つまり現世の標準から見ればすでに完全であられた主が,御自身が完全になるのはこれから先のことであると宣言されたのです。こうして主は,永遠の完成を,復活して『天においても地においても,いっさいの権威』を受けた後に(マタイ28:18教義と聖約93:2-23も参照),遂げられました。」(「完成への道『聖徒の道』1996年1月号,96)預言者モロナイは,すべての人を招いています。「まことに,キリストのもとに来て,キリストによって完全になりなさい。神の御心に添わないものをすべて拒みなさい。もしあなたがたが神の御心に添わないものをすべて拒み,勢力と思いと力を尽くして神を愛するならば,神の恵みはあなたがたに十分であり,あなたがたは神の恵みにより,キリストによって完全になることができる。」(モロナイ10:32

  10. “Savior of My Soul,” 2024 Youth Album, ChurchofJesusChrist.org.

  11. イザヤ59:1参照

  12. “Where Can I Turn for Peace?,” Hymns, no. 129.

  13. イザヤ54:10

  14. 例を挙げると,ニーファイ(1ニーファイ17:7参照),モーセ(出エジプト19:3参照),11人の弟子(マタイ28:16参照),そして救い主(マタイ14:23参照)があります。詩篇24:3も参照

  15. イザヤ2:23節も参照。聖句にある象徴は,主が数百という数の神殿を,世界中にいる御自分の子供たちに与えられる目的についてさらに考えさせてくれます。

  16. わたしは自分の経験から,「最も安全な場所は神殿の聖約の中にあります」というネルソン大管長の約束が真実であると証します(「神殿とあなたの霊的な基『リアホナ』2021年11月号,96参照)。

  17. ネルソン大管長はこのように教えています。

    「神殿で過ごす時間は,日の栄えの考えを持ち,自分が真に何者なのか,どのような人物になり得るのか,どのような生活を永遠に送れるのか,といったビジョンをつかむ助けとなります。定期的に神殿で礼拝すると,自分自身への理解が深まり,神の壮大な計画における自らの役割がさらによく分かるようになるとお約束します。

    ……苦しいとき,これ以上に霊を慰めてくれるものも,これ以上に天を開いてくれるものもありません。ほかにないのです!」(「神権の鍵という賜物を喜ぶ『リアホナ』2024年5月号,121,122)

  18. モーサヤ18:8-10,13参照。「バプテスマの聖約は,神に仕え,神の戒めを守り,イエス・キリストの御名を進んで受けるという3つの具体的な決意を天の御父に公に証するものです。バプテスマの聖約によく関連付けられるほかの点,つまり,『互いに重荷を負い合〔い〕,……悲しむ者とともに悲しみ,慰めの要る者を慰めること』は(モーサヤ18:9),実際の聖約の一部というより,聖約を交わすことによりもたらされる成果です。これらの点が重要なのは,これらは改心した人が自然に行うことだからです。」(デール・G・レンランド,“Stronger and Closer Connection to God through Multiple Covenants” [Brigham Young University–Idaho devotional, Mar. 5, 2024], speeches.byu.edu)

  19. ラッセル・M・ネルソン「永遠の聖約」『リアホナ』2022年10月号,4-11参照

  20. ラッセル・M・ネルソン「日の栄えの考え『リアホナ』2023年11月号,117,118参照

  21. マタイ16:25

  22. エペソ3:17

  23. 2ニーファイ2:25;ラッセル・M・ネルソン「喜び—霊的に生き抜く道『リアホナ』2016年11月号,81-84参照

  24. モーサヤ2:4

  25. モロナイ7:48参照