リアホナ
「わたしが,それである」
2024年11月号


15:23

「わたしが,それである」

神の御心に完全に従うことに表れているキリストの慈愛は,絶えることがありませんでした。この愛は,これからも絶えることがありません。

この安息日,イエス・キリスト,つまり十字架につけられたキリストについて話すために,わたしたちは集っています。わたしは,贖い主が生きておられることを知っています。

イエスの現世における最後の週の,この場面について考えてください。棒を持ち,剣を帯びたローマ兵など,大勢の人が集まっています。たいまつを持つ祭司長たちに率いられたこの群衆は,憤っていますが,町を征服しに来たわけではありません今晩彼らが捜していたのは,それまでの人生で武器を持ったことも,戦い方の訓練を受けたことも,戦ったこともない,たった一人の男性でした。

兵士たちが近づいてくると,イエスは弟子たちを守るために進み出て,こう言われました。「だれを捜しているのか。」「ナザレのイエスを」と彼らが答えると,イエスは言われました。「『わたしが,それである。』……イエスが彼らに〔こう〕言われたとき,彼らはうしろに引きさがって地に倒れ〔まし〕た。」

わたしにとってこれは,すべての聖文の中で最も感動的な聖句の一つです。何の武器も持たない神の御子は,旧約聖書の偉大なエホバ,新約聖書の良い羊飼いであられ,嵐からの避け所,平和の君であられます。その御前において,敵対する者たちはその声を聞くだけでよろめいて退却し,将棋倒しになるのだということを,この聖句は端的に言っているのです。兵士たちのだれもが,その夜は厨房の仕事でも任されていればよかったのにと思ったに違いありません。

その数日前,主が勝利の入城をされたとき,「町中がこぞって騒ぎ立ち,『これは,いったい,どなただろう』と言った」と聖文にあります。「これは,いったい,どなただろう」という疑問は,あのあわてふめいた兵士たちの頭にも渦巻いたのだと想像できます。

この問いの答えは,イエスの外見にはなかったはずです。なぜならイザヤが7世紀ほど前に預言したように,「彼にはわれわれの見るべき姿がなく,威厳もなく,われわれの慕うべき美しさもない」からです。もちろん答えは,洗練された衣装や莫大な個人資産でもありませんでした。そのようなものはどれも,イエスにはなかったのです。イエスは年少のころから,よく訓練された律法学者や法律家に舌を巻かせ,「権威ある者のように」教義を教えて人々を驚かせられましたが,イエスが会堂で学ばれたという証拠はありませんので,地元の会堂で受けた専門的な訓練の成果でもあり得ません。

神殿での教えから,エルサレムの勝利の入城,そして最後に不正に捕らえられるまで,イエスは日常的に,困難で,不当な状況を経験されました。しかし,主は常に勝利されました。その勝利の要因は,神のDNA以外には説明がつきません。

にも関わらず,歴史の中で多くの人が,イエスのイメージと,主が何者なのかという証を軽んじ,取るに足らないものとした人さえもいました。イエスが正しい行いをしたのはただ潔癖すぎただけだと低い評価を下す人たちもいました。イエスの正義感をただの怒りとし,憐れみをただの放任主義だととらえる人もいました。そのような短絡的な解釈をしてしまわないよう気をつけねばなりません。そのような解釈をすると,従いたくないと思う教えを安易に無視するようになってしまいます。この短絡的な解釈は,イエスの至高の徳である愛に対してでさえ,実際に起こっています。

現世で使命を果たしているときにイエスは,いちばん大切な戒めが二つあると教えられました。これらの戒めは,今回の大会の中ですでに教えられており,これからもずっと教えられるでしょう。それらは「主なるあなたの神を愛〔し,〕自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」 という戒めです。 この大切な,密接に結びついている二つのルールを守って救い主に忠実に従おうと思うのであれば,救い主が実際に言われたことをしっかりと守らなければなりません。そして,主が実際に言われたのは,「もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしのいましめを守るべきである」という言葉です。その同じ晩,主はわたしたちに「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互いに愛し合〔う〕」ようにと言われました。

これらの聖句には,キリストのような真の愛である慈愛を定義するにふさわしい修飾語が不可欠です。

そのような言葉は,何と定義しているでしょうか。イエスはどのように愛してくださったのでしょうか。

第1に,主は「心と,勢力と,思いと,力を尽くして」愛してくださいました。そして, その愛はきわめて深い苦痛を癒し,厳しい現実について宣言する力を主に与えました。つまり,イエスは恵みを授けると同時に真理を守る御方であられます。息子のヤコブを祝福した時のリーハイの言葉にあるように,「贖いは聖なるメシヤによって,またメシヤを通じてもたらされ」ます。「それはメシヤが恵みと真理に満ちておられるから」です。主はその愛のゆえに,必要なときには抱き締めて励ましてくださり,必要とあらば苦い杯を飲んでくださいます。そのように神が愛してくださっているので,わたしたちも,心と,勢力と,思いと,力を尽くして愛するように努めます。

イエスの慈愛の第2の特徴は,神の口から出る一つ一つの言葉に従われ,御自分の御心と行いを常に天の御父の御心と行いに沿わせておられたことです。

復活後にこの西半球に来られたとき,キリストはニーファイ人にこう言われました。「見よ,わたしはイエス・キリストであ……る。……わたしは,父がわたしに下さったあの苦い杯から飲み,……初めから,すべてのことについて父の御心に従ってきた。」

イエスは御自分を説明することのできる無数の方法の中から,御父の御心に従うことを宣言するという方法を選ばれました。この神の独り子は,御父から完全に見捨てられたと感じたばかりだったにもかかわらず,御父の御心に従うことを宣言されたのです。神の御心への完全な忠誠に表れているキリストの慈愛は,平穏で安らかな日々のみならず,暗くつらい日々においても絶えることがなく,今後も絶えることはありません。

イエスは「悲しみの人で」 あったと聖文には書かれています。悲哀や疲れ,失望,耐え難い孤独を経験されました。今の時代も,いつの時代にも,イエスの愛は絶えることがありません。御父の愛もそうです。そのような成熟した,模範となり,力を与え,人に分け与える愛があるからこそ,わたしたちも,絶えることのない愛を持つことができます。

ですから,一生懸命やればやるほど状況が悪くなるような場合,自分の限界や欠点に挑戦しようと頑張っているのに信仰をぐらつかせようとする人や物が出てきた場合,熱心に働いてもなお恐怖に襲われるときがある場合には,いつの時代でも真心を尽くす素晴らしい人たちもそうだったことを思い出してください。また,この世界には,あなたが行おうとするあらゆる善を妨げようとする力があることも,忘れないでください。

ですから,富めるときも貧しいときも,人から称賛されるときも世間から批判されるときも,回復の神聖な出来事が起こるときも,必然的に現れる人間の弱点を見るときも,わたしたちは真のキリストの教会の教えに忠実であり続けます。なぜでしょうか。贖い主がされたように,わたしたちも学校に在籍しているようなものです。それは,たった1回の簡単な小テストで修了するものではなく,最終試験まで続きます。ここでうれしいのは,学校が始まる前に校長がすべての答えを公開してくれていることです。しかも,家庭教師がたくさんいて,定期的に答えを思い出せるよう助けてくれます。しかし,もちろん,授業をさぼってばかりいると,いい成績は取れません。

「だれを捜しているのか。」わたしたちは心の底から「ナザレ人イエスを」と答えます。主が「わたしがそれである」と言われるとき,わたしたちはひざをかがめ,主が生けるキリストであり,主こそがわたしたちの罪を贖ってくださった御方であること,主から見捨てられたと思っていても主はわたしたちを背負ってくださっていたことを,告白するのです。主の御前に立って,その手と足の傷を見るとき,主が御父に完全に従い,わたしたちの罪を負い,悲しみを知っておられるのはすべて,主がわたしたちを心から,純粋に愛してくださっているからだと,真に理解できるようになります。信仰と悔い改め,バプテスマ,聖霊の賜物,主の宮で祝福を授かること,これらの基本的な「原則と儀式」 を人々に伝えることは,神と隣人に対するわたしたちの最上の愛の表れであり,喜びあふれるキリストの真の教会の姿です。

兄弟姉妹の皆さん,わたしは証します。末日聖徒イエス・キリスト教会は,わたしたちが昇栄するために神が備えてくださった道です。教会が教える福音は真実であり,教会を正当なものとする神権は神から与えられたものです。わたしは,ラッセル・M・ネルソン大管長がこれまでの預言者と同じく,神の預言者であること,そして,これからの預言者もそうであることを証します。そしていつの日か,その預言者の導きは,救いの使者が「東から」来る「いなずま」のように降って来られるのを見る世代を導くでしょう。そしてわたしたちは,「ナザレのイエスを」と叫ぶのです。御腕を永遠に伸べ,偽りのない愛をもって,主は「わたしがそれである」と答えられるのです。主の聖なる御名,すなわちイエス・キリストの使徒の力と権能によって,そのことを約束します。アーメン。