「ステップ7—自分の欠点を取り除いてくださるよう,へりくだり天の御父に求める」『救い主を通して癒される:アディクションからの立ち直りプログラム 立ち直りの12のステップガイド』(2023年)
「ステップ7」『アディクションからの立ち直りプログラム 立ち直りの12のステップガイド』
ステップ7—自分の欠点を取り除いてくださるよう,へりくだり天の御父に求める。
基本原則—謙遜
これまでのすべてのステップは,わたしたちをこのステップに備えてくれてきました。ステップ1は,わたしたちが謙遜になり,アディクションに対して自分が無力であることを認める助けとなりました。ステップ2とステップ3は,主に助けを求めるのに十分な,主に対する信仰と信頼を持つ助けとなりました。ステップ4の棚卸し表は,自分の性格や行動をよりはっきりと見るのに役立ちました。ステップ5に取り組むことで,神と自分自身とほかの人に対して正直になる勇気を示すことができました。ステップ6は,性格上の弱点を進んで手放す備えをする助けになりました。今,わたしたちはステップ7に進む準備ができています。各ステップに取り組む「方法」に焦点を当てます:謙遜で,柔軟で,意欲的な態度です。
すべてのステップで謙遜さが求められますが,ステップ7において最もはっきりと求められます。「自分の欠点を取り除いてくださるよう,へりくだり天の御父に求める」のです。立ち直りの最初の数ステップに取り組む中で,わたしたちは,どれほど自力で頑張っても,主の助けなしには変わることも,立ち直ることもできないことを学びました。このステップも例外ではありません。『真理を守る』では,謙遜さについて次のように説明されています。「謙遜とは,自分が主に頼らなければならないことを,感謝の思いをもって認めること,すなわち自分が常に主の支えを必要としていることを理解することです。」(『真理を守る—福音の参考資料』78)
わたしたちの中には,以前の方法に戻り始め,自力で変わろうとする人もいました。しかし,自分の多くの過ちや弱点に気づくにつれ,変わるためには主に頼り,主に助けていただく必要があることを学びました。ステップ7に取り組んだとき,わたしたちはなすべき課題を免除されはしませんでした。忍耐強く,「キリストを確固として信じ〔て〕力強く進まなければ」(2ニーファイ31:20)なりませんでした。神に頼り,神の助けを求めることを絶えず思い起こす必要がありました。
これらの奇跡はどのようにして自分の身に起こるのだろうかと,わたしたちは思いました。それは一人一人にとって異なる経験でしたが,共通点があります。人の性格が突然劇的に変化することはめったにありません。ステップ6とステップ7の緩やかなプロセスは,たいていデビッド・A・ベドナー長老が以下で述べている方法でもたらされてきました。
「わたしたち教会員は奇跡的で劇的な現れを強調するあまり,聖霊が働かれる一般的なパターンを認識できずに見過ごしているかもしれません。小さな霊的印象が徐々に大きくなり,……導きになっていくという〔方法です〕。」(「啓示の霊」『リアホナ』2011年5月号,88)
神に身を委ね,自分の思いを神の御心に沿わせることを選ぶとき,わたしたちの毎日は,かつての受け身の反応をやめて,助け,高め,愛する神の力に頼るよう神から招かれる瞬間に満ちたものとなります。レベッカ・L・クレーブン姉妹はこう教えています。「落胆しないでください。変化は生涯を通じた工程です。変わろうと葛藤しているとき,主が忍耐強くいてくださることに感謝します。」(「変わり続ける—チェンジ」『リアホナ』2020年11月号,59)
アディクションの対象がアルコール,薬物,ギャンブル,性的欲望,自滅的な食習慣,衝動的な浪費,または生活におけるストレスに対処するために用いてきたそのほかの依存性のある行為や物質のいずれであろうと,救い主は「〔わたしたちをわたしたちの〕弱さに応じて……救〔って〕」(アルマ7:12)くださいます。イエス・キリストのもとに来て進んで変わろうとするとき,わたしたちは主の癒しの力を経験します。
このステップに取り組んでいる間,わたしたちの多くは,恥ずかしいと感じる傾向を振り払う必要があることに気づきました。自分の欠点に目を向けると,自分は不十分だとか,また失敗してしまったという気持ちが湧いてきました。しかし,各ステップに取り組み,キリストのもとに来ることで,自分自身に対する新しい見方ができるようになりました。神の愛する息子や娘である自分に対する神の愛を感じました。この愛が,恥じる気持ちや自己憐憫を振り払う助けとなりました。
自分の欠点や弱点を,立ち直りの旅において前に進むために謙遜に神の助けを願い求める機会だと考えるようになりました。
行動のステップ
このプログラムは行動のプログラムです。わたしたちの進歩は,日々の生活の中でこれらのステップを着実に実践することにかかっています。これは「ステップに取り組む」こととして知られています。以下の行動は,わたしたちがキリストのもとに来て,立ち直りの次のステップを踏むために必要な導きと力を受ける助けとなります。
自分ではできないことをしてくださるよう神に願い求める
ステップ7を毎日どのように実践すればよいでしょうか。日中,強情さが戻ってきたり,自分の弱点が見えたりしたときには,一息つきます。そのような瞬間には,身を委ねて耳を傾けます。助けなしには自分を変えられないことを思い起こし,主は自分を変えることがおできになると信頼します。そして,主に頼って前進します。自分ではできないことを手放し,神に助けを求めます。
そのためには,祈りによって神に頼ることが必要です。「わたしたちはそれぞれ,祈りを通してより高い力を受けなければ自分では解決できない問題や,克服できない弱さを抱えています。」(ジェームズ・E・ファウスト「祈りという命綱」『リアホナ』2002年7月号,62)
有意義な,目的を持った祈りをささげるとき,わたしたちは神の愛を受けることができます。神とつながるための安らかな時間と場所を設けることで,神との関係を築き,強めることができます。「主よ,わたしが何をすることをお望みですか」(欽定訳〔英文〕使徒9:6から和訳)や「御心が行われますように」(教義と聖約109:44)といった簡潔な祈りを常に心の中でささげることによって,自分がすべての面で主に頼っていることを絶えず思い起こすでしょう。わたしたちの神への愛と,神のわたしたちへの愛は,わたしたちが自分のすべてをささげることのできる関係を築く助けとなります。
聖餐の祈りを研究する
聖餐の祈りは,ステップ7の背後にある謙遜さと意思を見事に表現しています。わたしたちには毎週聖餐を受け,聖餐の祈りの言葉を思い巡らす機会があります。
モロナイ4:3と5:2を読み,この神聖な言葉を自分の声で謙遜に次のように当てはめてみるようお勧めします。「永遠の父なる神よ,〔わたし〕は御子イエス・キリストの御名によってあなたに願い求めます。このパンを頂く〔わたし〕が,御子の体の記念にこれを頂けるように,また,進んで御子の御名を受け,いつも御子を覚え,御子が与えてくださった戒めを守ることを,永遠の父なる神よ,あなたに証明して,いつも御子の御霊を受けられるように,このパンを祝福し,聖めてください。」(モロナイ4:3)
このような方法で聖餐の祈りについて考えるとき,わたしたちは打ち砕かれた心と悔いる霊をもって,より個人的に救い主に近づくことができます。自分の弱点や犯した過ちについて考えるとき,心を主に向けることができます。悔い改め,より善い人になり,これらの欠点を取り除くことができるよう,主に助けを求めることができます。
研究と理解
以下の聖句と教会指導者の言葉は,立ち直りを助けてくれます。瞑想や研究に役立てたり,日記に記したりすることができます。最大の利益を得るために,正直に,具体的に書くことを忘れないでください。
主の恵みは十分である
「もし人がわたしのもとに来るならば,わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜にするために,人に弱さを与える。わたしの前にへりくだるすべての者に対して,わたしの恵みは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり,わたしを信じるならば,そのとき,わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。」(エテル12:27)
死すべき状態にあり,不完全であるわたしたちは,皆,多くの弱さを持っています。この節で主は,わたしたちが死すべき状態を経験し,そのような弱さに遭遇するのを許されているのは,わたしたちが謙遜になるのを助けるためだと説明しておられます。わたしたちはへりくだることを選ぶのだということに留意してください。
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「すべての者に対して,わたしの恵みは十分である」という言葉は,わたしにとってどのような意味があるだろうか。
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主の恵みが自分に対して十分であるという信仰を持っているだろうか。
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主の前にへりくだるとはどういう意味だろうか。
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あなたの性格上の弱点を幾つか挙げてください。その横に,あなたがキリストのもとに来るときにそれらがどのような強さになるかを書いてください。
謙遜になることを選ぶ
「わたしは,あなたがたがやむを得ずへりくだっているので幸いであると言ったが,御言葉のために自ら進んで心からへりくだる人々は,なおさら幸いであると思わないか。」(アルマ32:14)
わたしたちのほとんどは,必死の思いで立ち直り集会にやって来ました。アディクションの結果として生じた状況に突き動かされて来たのです。わたしたちはやむを得ずへりくだっていました。しかし,このステップで述べられている謙遜さは自発的なものです。へりくだることは,わたしたち自身の選択の結果なのです。
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立ち直りを始めてから,わたしの謙遜な気持ちはどのように変わっただろうか。
喜びに満たされる
「彼らは,自分たちがこの世的な状態にあり,大地のちりよりも劣っていると思った。そして彼らは皆,声を合わせて大声で叫んだ。『おお,憐れんでください。わたしたちが罪の赦しを受けて心が清められるように,キリストの贖いの血の効力を及ぼしてください。わたしたちは,天地と万物を創造され,また将来人の子らの中に降って来られる神の御子イエス・キリストを信じています。』
そして,彼らがこれらの言葉を語り終えると,主の御霊が彼らに降られた。そして彼らは,罪の赦しを受け,良心の安らぎを得たので,喜びに満たされた。それは,彼らが……将来来られるイエス・キリストを深く信じたためである。」(モーサヤ4:2-3)
ベニヤミン王の民がささげた祈りは,わたしたちがステップ7に取り組んだときにささげた祈りと似ています。主の御霊が民に降って彼らに罪の赦しを与えたとき,彼らは平安と喜びを感じました。
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平安と喜びを感じたとき,どのような経験をしてきただろうか。
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生活の中で毎日平安と喜びを感じるとしたら,どのような気持ちだろうか。
戒めに従う
「わたしにつながっていなさい。そうすれば,わたしはあなたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ,自分だけでは実を結ぶことができないように,あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木,あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており,またわたしがその人とつながっておれば,その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては,あなたがたは何一つできないからである。……
もしわたしのいましめを守るならば,あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので,その愛のうちにおるのと同じである。
わたしがこれらのことを話したのは,わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため,また,あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネ15:4—5,10-11)
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救い主の戒めを守るなら,「〔わたし〕は〔主〕の愛のうちにおるのである」(10節)とは,わたしにとってどういう意味だろうか。
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これらの節によると,主につながっていることに対して約束された祝福にはどのようなものがあるだろうか。
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救い主の戒めを守ることについて,今どのように感じているだろうか。
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戒めを守ることはどのような点で神に対するわたしの愛の表現となるだろうか。
神の愛
「神を第一に考えれば,ほかのすべてのものは正しい位置に落ち着くか,またはわたしたちの生活の中から消えていくかのどちらかです。主への愛は,感情の欲求や時間の要求,興味,物事の優先順位をコントロールします。」(エズラ・タフト・ベンソン「偉大な戒め—主を愛する」『聖徒の道』1988年6月号,4参照)
神の憐れみと慈しみをこのように深く理解するようになったわたしたちは,恐らく,神の愛を,すなわち神への愛と神からの愛を,すでに感じ始めているでしょう。
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各ステップに取り組んでいる間,愛が増していくのを感じてきただろうか。もし感じてきたとしたら,それはなぜだろうか。
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ステップ7の取り組みは,自分の優先順位を再調整し,生活の中で神を第一にするのにどのように役立ってきただろうか。
イエス・キリストの御名を受ける
「さて,あなたがたが交わした聖約のために,あなたがたはキリストの子と呼ばれ,キリストの息子および娘と呼ばれる。……
……キリストの御名を受けて,神と聖約を交わしたあなたがたは皆,生涯の最後まで従順であってほしい。……
このとおりにする者はだれでも,自分がどのような名で呼ばれるか分かるので,神の右に見いだされるであろう。なぜならば,キリストの御名で呼ばれるからである。」(モーサヤ5:7-9)
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キリストの御名で呼ばれ,主を代表するとはどういう意味だろうか。
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神の右に見いだされるには何をしなければならないだろうか。
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バプテスマを受けるとき,そして聖餐を受けるとき,わたしは何をすると聖約するだろうか。(モーサヤ5:7-9;18:8-10,13;教義と聖約20:77,79参照)
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自分の欠点を手放すことを含め,主に従い,仕えることと引き換えに,主が御自身の御名を喜んで与えてくださることについて考えるとき,どのように感じるだろうか。
弱点を委ねる
「あらゆるものを犠牲とすることを求めない宗教は,命と救いを得るために必要な信仰を人々に持たせることはできない。」(Lectures on Faith [1985], 69)
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この言葉を読んで,「あらゆるもの」とはあらゆる所有物を指していると考える人がいる。あらゆる弱点を主に委ねることを通して,あらゆるものを犠牲にすることの意味について,わたしの理解はどのように深まってきただろうか。