ピリピ3章
わたしはすべてを失ったが,それは,わたしがキリストを得るためである
イエス・キリストに従い,その弟子になるために,あなたは何を進んで犠牲にできますか。使徒パウロは救い主に従うことを選んだとき,パリサイ人としてのユダヤ人社会における影響力のある地位を含め,多くを失いました(ピリピ3:5参照)。この課は,イエス・キリストを知るために犠牲を払うことの重要性を理解するのに役立ちます。
何をあきらめるのか
大管長会のダリン H・オークス管長の次の話を読むか,ビデオを見てください。教会員になるために進んで払った犠牲について,ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)に打ち明けた一人の青年の話です。
「何年も前の総大会で,ある青年の経験が紹介されました。彼は合衆国に留学している間に回復された福音を見いだしました。やがて祖国に帰ろうとしていたときに,ゴードン・B・ヒンクレー大管長から,クリスチャンとして帰国したら何か支障がないかと尋ねられました。『家族はがっかりするでしょう』と青年は答えました。『家から追い出され,死んだものと見なされるかもしれません。この先仕事でもあらゆる機会が閉ざされると思います。』ヒンクレー大管長は尋ねました。『福音のためにそれほど大きな代価を進んで払うつもりですか。』」
(ダリン・H・オークス「犠牲」『リアホナ』2012年5月号,21)
-
その若者はどのように答えたと思いますか。それはなぜですか。
-
イエス・キリストに従うために,多くのことをあきらめる動機となるのは何でしょうか。
ピリピ3章を研究しながら,イエス・キリストの福音のためにあなたが犠牲にしたものと,そのためにあなたがどのように祝福されてきたかを考えてください。一方で,救い主に近づくために犠牲を払うという考えは,あなたにとってなじみのないものかもしれません。あなたがどのような状況に置かれていても,救い主はあなたの進歩を助けたいと望まれています。この課を通して,あなたの人生で犠牲が果たす役割を理解できるように,聖霊から来る考えと気持ちに注目してください。
イエス・キリストの福音はあらゆる犠牲を払う価値がある
ダマスコへ向かう途中でイエス・キリストに改宗する前は(使徒9章参照),パウロはユダヤ人の中で宗教的にも社会的にも高い地位にあるパリサイ人であったことを思い出してください(ピリピ人3:5参照)。イエス・キリストに従い,福音を説くために生涯を費やすことを選んだため,パウロは深刻な迫害,困難,肉体的苦痛,感情的ストレスを経験しました(2コリント1:23-28参照)。ピリピ3:7-17で,パウロがイエス・キリストに従うために自分の過去の人生を捨てるときの気持ちと,その結果授けられた祝福を読むことができます。
ピリピ3:7-14を読み,パウロがイエス・キリストを知り,従うために,喜んで失おうとしたものを探してください。なお,第10節の「ひとしくなり」という語は喜んで受け入れることを意味し,第12節の「追い求めている」は力強く進むことを意味し,第12節の「捕らえ〔る〕」は理解することを意味します。
パウロの模範から学ぶことができる一つの原則は,イエス・キリストに従い,信仰をもって力強く進むために失う必要があるものをすべて犠牲にすれば,イエスを知り,永遠の命を得ることができる,ということです。この原則を聖典や学習帳に書くとよいでしょう。
少し時間を取り,この原則がどのようにあなたに関連しているかを深く考えてください。
-
どのような考えや疑問を持ち,どのような気持ちを感じましたか。
個人の犠牲
この課の最初の方で,ある青年になぜ福音のために多くを犠牲にするのかと尋ねたヒンクレー大管長の質問を思い出してください。ダリン・H・オークス管長が分かち合った話の続きを読んでください。
「青年は涙を浮かべて答えました。『福音は真実ではないのですか。』ヒンクレー大管長がそのとおりと答えると,彼は言いました。『それなら,ほかに何を心配する必要があるでしょうか。』多くの新会員がこのような犠牲の精神を持っています。」
(ダリン・H・オークス「犠牲」『リアホナ』2012年5月号,21)
-
この青年のどのような点に感銘を受けますか。
-
救い主の命,務め,贖罪は,どのような意味で究極の犠牲の例なのでしょうか。
-
イエス・キリストがあなたのために犠牲にしてくださったものについて深く考えるとき,どのような考えや気持ちになりますか。
さらに学びを深める(任意)
ピリピ3:14。パウロが「目標を目ざして走り」と言ったのはどういう意味か
七十人のエドワード・デュベ長老は,以下のように教えています:
「目標を目指して走るとは,救い主と天の御父とともに,『永遠の命へ至る細くて狭い道』〔2ニーファイ31:18〕に忠実にとどまることです。パウロは自分の苦難など,『やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると,言うに足りない』〔ローマ8:18。2コリント1:3-7も参照〕ものだと考えました。パウロが牢屋の中でピリピ人へ書いた手紙は喜びにあふれ,わたしたち皆を,特にこの不確実で困難な時にあって励ましてくれます。……
興味深いことに,パウロは目標を目指して走るようにと勧めると同時に,過去の恐れや,過去に焦点を当てていた事柄,失敗,悲しみなどの過ぎたことは忘れるようにと呼びかけています。」
(エドワード・デュべ「目標に向かって走る」『リアホナ』2021年5月号,90,91 )
イエス・キリストに近づくためにどのような犠牲を払うべきか,どうすれば分かるのか
七十人のラリー・R・ローレンス長老は,わたしたちが主のためにどのような犠牲をささげることができるかを敬虔な思いで考える最善のときは,聖餐の儀式のときであると教えています。
「この敬虔な雰囲気の中で,わたしたちの思いが天に向くときに,主は次のステップが何かをそっと教えてくださるのです。皆さんと同じように,わたしも自分をどう改善できるかを示す御霊からのメッセージをこれまでに何度も受けてきました。……
恐らく御霊はだれかを赦すように促されるかもしれません。また,皆さんは見る映画や聴く音楽をもっと注意深く選ぶようにというメッセージを受けるかもしれません。仕事においてもっと正直になるように,または断食献金をもっと惜しみなく納めるようにと強く心に感じるかもしれません。御霊の答えは無限に考えられます。」
(ラリー・R・ローレンス「ほかに何が足りないのでしょう。」『リアホナ』2015年11月号,34-35)
末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は,救い主に従うためにどのような犠牲を払っているのでしょうか
大管長会のダリン・H・オークス管長は,主の回復された教会の会員の多くが払った犠牲を列挙しています。その話「犠牲」は『リアホナ』ChurchofJesusChrist.org2012年5月号,19-22で読むか,またはChurchofJesusChrist.orgにあるビデオ「犠牲」(16:30)を見てください。