末日聖徒の声
わたしは独りではありませんでした
ロバート・ホフマン(アメリカ合衆国,ワシントン州)
わたしは急ごしらえの塹壕の中に座り,砂の向こうの北方,イラクの方角を見渡していました。砂漠の盾作戦(訳注─2006年,イラクによるクウェート侵攻に対抗して取られたアメリカの軍事作戦)中の12月24日のことです。わたしは真夜中からの警備の割り当てを受け,任務に就いていました。
大隊でただ一人の末日聖徒だったわたしは,祝日は特に寂しい思いをしたものです。8月からサウジアラビアの砂漠地帯に駐留し,寒い,星がまたたくクリスマスの夜がもうやって来たのです。野営地全体が眠りに就いていました。わたしはこれから数時間,独りで青みがかった灰色の砂丘に囲まれて思いにふけることができます。
アメリカ合衆国のジョージア州に残してきた妻と息子のことを思い,クリスマスをいつものツリーやプレゼント,そして本物のクリスマスディナーで祝えないことを本当に残念に思いました。それから,クリスマスの物語について深く考え始めました。
キリストがお生まれになった夜について思い巡らしたのです。その夜はどれほど暗かったのだろう。月が出ていて辺りを照らしていたのだろうか。それとも星明かりだけだったのか。主が降誕された時代には電灯はなかったわけですから,わたしが目にしていたその夜に近いものだったに違いありません。降誕を祝う祝宴もなかったはずです。ただの暗い,静かな夜だったことでしょう。
そのとき突然,すばらしい考えが浮かびました。聖書には,その後,東の方から夜空の星に導かれて博士たちがやって来たとあります。暗い夜空を見つめていたわたしは,そこがベツレヘムの東に当たることに気づきました。また,バグダッドが当時,知識の拠点の一つだったことも。もしかしたら,博士たちは今自分がいる場所からさほど遠くない所からやって来たのではないだろうか。彼らを導いた星はどの星なのだろう。その星は今も空にあるのだろうか。自分にも見えるだろうか。
神の創造物に驚嘆しながら空を見上げていると,わたしは内側から温かいものが湧き上がるのを感じました。同じ場所にいるかどうか,同じ空の星を見ているかどうかが重要なのではありません。重要なのは,ベツレヘムでお生まれになった王の王である幼子について博士たちと同じ知識を共有していることなのです。
あのクリスマスの日,わたしは独りではありませんでした。むしろ,博士たち,預言者たち,あるいは砂漠の塹壕にいるただの寂しい兵士など,主を求める全ての人々と結ばれていたのです。あの夜,救い主の降誕についてのわたしの証は強められ,夜が明けても聖霊はわたしとともにおられました。
その年のクリスマスは悲しいものではなく,わたしにとって最も貴重なクリスマスになりました。