不信仰なわたしを,お助けください
ある週末に目を覚ますと,左耳が聞こえなくなっていました。わたしは耳鼻咽喉科の医師に電話して診察の予約を取りました。
医師はすぐにわたしを聴覚機能訓練士のところに送り,聴力テストを受けましたが,試験音が一つも左耳で聞こえなかったので,心配になりました。テストが終わると聴覚機能訓練士は感音性難聴になっていると診断しました。つまり,聴力に使う脳神経が損傷しているということでした。
わたしはショックを受けました。弱冠26歳にして,もう補聴器が必要だと言われたのです。わたしが情熱を傾けている趣味の一つは音楽でした。これからも楽器を弾いたり,歌ったりすることができるのでしょうか。
医師は効果があるかどうかを見るためにステロイド剤を処方しましたが,聴力は回復しないと決めてかかりました。
わたしはとたんに感情が高ぶり,涙があふれました。これからどうなるのだろうという不安と,二度と普通に聞くことができないという悲しみが込み上げたのです。
その夜,夫のブライアンが神権の祝福を授けようかと言ってくれました。わたしは祝福が難聴を受け入れるための慰めと強さを与えてくれるものと思っていました。ところが,ブライアンは祝福の中で聴力が完全に回復すると約束したのです。信じられませんでした。
「夫は間違っているに違いない」と思いました。医師は似たような事例をたくさん見てきたので,わたしの聴力は戻らないと言ったのです。
わたしは後で,祝福の中の約束はブライアンの思いなのか,それとも主の御心だと思うかと彼に尋ねました。すると,ブライアンはそう約束するように強く促されたと言いました。わたしは納得しませんでした。
自分の状態について思い巡らしていると,マルコの福音書の聖句を思い出しました。その聖句で,イエスは打ちひしがれている父親にこう言われました。「信ずる者には,どんな事でもできる。」その男性はこう答えます。「信じます。不信仰なわたしを,お助けください。」(マルコ9:23-24)その夜,わたしは同じ言葉で天の御父に嘆願しました。癒やされることを信じたいと思いましたが,確信がありませんでした。この大変な問題について主が助けてくださるという信仰を持てずにいたのです。
祈った後で,若い女性に教えたあるレッスンを思い出しました。神権の祝福の力に関するレッスンでした。クラスの生徒に祝福を願い求めるように勧め,主が祝福を通して病人を癒やすことがおできになることを教えたのです。わたしが信じられないのに,どうして若い女性にわたしの言葉を信じてほしいと言えるでしょうか。主を信頼することにしました。主はこれまで一度もわたしにうそを言われたことがありません。
2週間後,聴力は完全に回復しました。聴覚機能訓練士と医師は衝撃を受けました。
わたしは聴力が回復したことを天の御父に永遠に感謝することでしょう。しかし,それ以上に今回学んだ教訓に深く感謝しています。必ずしも祝福の中で約束されなくても,信仰を持ち,主を信頼するなら,主が祝福してくださることを知っています。