また会う日まで
神の力
「神権の教理」という題で話された中央神権部会の説教から。『聖徒の道』1982年7月号,57-61。表記は現代の用法に改めてあります。
信仰とは力であり,力は神権です。
神が神であられるのは,神がすべての信仰とすべての力とすべての神権を具現した御方であられるからです。神がお持ちの命は,永遠の命と呼ばれています。
わたしたちがどれだけ神のようになれるかは,どれだけ信仰を持ち,神の力を得,その神権を行使するかにかかっています。そして,完全な意味で,また真の意味で神のようになったとき,わたしたちもまた永遠の命にあずかることになるのです。
信仰と神権は,いわば車の両輪の関係にあります。信仰とは力であり,力は神権です。わたしたちは信仰を得た後に,神権を受けます。そして,その神権を通して,信仰を育み,やがてすべての力を受けて,わたしたちの主に似た存在となります。
現世におけるこの生涯は,試しの時として定められているものです。この世の生涯を送る間に,自分の信仰を完全なものとし,神権の力の中で成長していくことは,わたしたちの特権です。
聖なる神権は,エノクの時代には,人を完全な者にするうえで,ほかのいかなる時代にも増して大きな働きをしていました。この神権は,当時エノクの位に従う神権という名称で知られ(教義と聖約76:57参照),エノクとその民がその身を変えられたのも,この神権による力のためでした。つまり,エノクの民がその身を変えられたのは,彼らが信仰を持ち,その神権の力を行使していたからだったのです。
主が永遠の聖約を交わされた相手というのが,このエノクでした。その聖約とは,神権を受けた者はことごとく,信仰によって,万物を統治し,制御する力を授かり,国々の軍勢に敢然と立ち向かう力を授かり,そして,主の前にあって栄光と昇栄のうちに立つ力を授かるというものです。
メルキゼデクも同じような信仰を持った人で,「この民は義を行い,天を得,エノクの町を求めた」と書かれています(ジョセフ・スミス訳,創世14:34)。……
それでは,神権の教義とは何でしょうか。また,わたしたちは主の僕としてどのように生きるべきなのでしょうか。
この教義とは,父なる神が,栄光を受け,完成され,昇栄された御方であって,あらゆる力と権能と支配力とを有し,すべての事柄を御存じで,すべての属性において無限であって,家族という単位で生活しておられるということです。
すなわち,永遠の御父は,御自分の信仰が完全であって,その神権が無限であるがゆえに,栄光と完全と力とに満ちた最高の状態を享受しておられるということです。
さらに,神権とは神の力を表す名称そのものであって,もしわたしたちが神のようになることのできる存在であるならば,わたしたちは神が今行使しておられるように,神の神権,すなわち力を受けて,それを行使しなければならないということです。
加えて,わたしたちが,信仰によって力を得,それによって,物質的にも霊的にも,万事を統御,支配し,奇跡を行って完全な生活を送り,神の前に立って,神と似た者となるということです。これはわたしたちが神の信仰と神の完全さと神の力を得て,言い換えれば,完全な神の神権を得て初めて可能になるからなのです。
これがまさに神権の教義なのです。これ以上に大いなるものは実在もせず,その可能性すらありません。これこそ,信仰と義によって得ることのできる力なのです。
まことに,神権には力があります。それは,わたしたちが用いるために身につけたいと願っている力であり,わたしたちとその子孫のうえに永遠にとどまってほしいと心から祈り求める,その力なのです。