第7章
御 霊 のささやき
「わたしはお願いします。絶えず主の霊感と主の聖なる
ゴードン・B・ヒンクレーの生涯から
6月24日,ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,新任伝道部会長とその夫人のための集会で話し,これから3年間にわたって奉仕するうえで指針となる勧告を与えた。このとき,ハロルド・B・リー大管長からステーク会長に任命されたときに受けた指示について,次のように話している。
「リー大管長が言ったことを一つだけよく覚えています。『真夜中に,
この指示に従ったときの経験についてヒンクレー大管長はこう語っている。「主は静かに語りかけてくださいました。……夜中,頭の中にいろいろな考えが浮かびました。思うに,それはその内容からして,預言的なものでした。」2例を挙げると,1982年7月,ヒンクレー大管長は,神殿の建設用地を探すため,他の教会指導者とともに
「とても興味深い考えが心に浮かんだ」と日記に記録している。「実際に声が聞こえたわけではない。しかし,心の中に御霊の声が聞こえたのだ。その声はこう言った。『この問題についてどうして悩むのか。伝道本部と小さな礼拝堂が立っているその場所に,すばらしい土地があるではないか。それはまさしく
今日,香港の人口密集地域である九龍の,以前,礼拝堂と伝道本部が立っていた所に,一つの建物が立っている。礼拝堂,伝道部会長宅,伝道本部事務局,聖なる神殿を擁するこの建物は,神の預言者に御霊がささやいたことを
ゴードン・B・ヒンクレーの教え
1
聖霊は慰め主であり,真理の証人である。
聖霊は神会の第三の御方であり,救い主が約束された慰め主です。この慰め主は,主に従う者たちに全てのことを教え,また主が語られたことを,ことごとく思い起こさせてくださいます(ヨハネ14:26参照)。4
聖霊は,わたしたちの心に御父と御子について
〔イエス・キリストについての〕証は聖霊の力によるものです。それは,神会の第三の御方から啓示によって与えられた神聖な,驚くべき
聖霊は真理を証される御方です。聖霊は,〔わたしたち〕が互いに教えることのできない事柄を教えてくださいます。モロナイのあの偉大な勧めの言葉の中で,モルモン書が真実であることは「聖霊の力によって」分かると約束されています。次いで,モロナイはこう宣言しています。「そして聖霊の力によって,あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。」(モロナイ10:4-5)
今日,この力,この賜物がわたしたちに与えられていることを,わたしは信じています。7
2
家庭と教会で奉仕するときには,聖霊に導いていただく必要がある。
わたしたちの生活で受けられる祝福の中で,聖霊の
管理上の多くの責任を果たすには,聖なる御霊が必要です。クラスで福音を教えるとき,また世の人々を教えるとき,聖なる御霊が必要です。家族を治め,教えるときも,聖なる御霊が必要です。
もしもわたしたちが御霊の影響を受けながら指導し教えることができれば,託された人々の生活に霊性をもたらすことができるのではないでしょうか。……
……聖なる御霊の霊感の下に与えられる教えの実は甘く,霊を養い,魂に養いを与えます。
親として家族の長の立場にいる方々に,わたしは特別な助言を差し上げたいと思います。家庭の霊性を高めるという,わたしたちに与えられた難しいながらもすばらしい務めを果たすに当たっては,聖霊の導きが必要です。9
御霊の促しに耳を傾けてください。
3
啓示は,ほとんどの場合,静かな細い声,すなわち御 霊 のささやきを通して与えられる。
わたしは何度か,メディアのインタビューを受けることがありました。そして例外なくこのように尋ねられました。「啓示はどのように教会の預言者に与えられるのですか。」
「過去に与えられたと同様に,現在も与えられます」とわたしは答えます。このことに関してわたしはメディアの人々に,エリヤがバアルの祭司たちと競った後の経験を詳しく話します。
「その時主は通り過ぎられ,主の前に大きな強い風が吹き,山を裂き,岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが,地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火があったが,火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が
これが啓示です。静かな細い声。祈りへの答えとして与えられ,御霊のささやきとして下ります。夜の静寂のうちに与えられることもあるでしょう。
疑問の余地があるでしょうか。あり得ません。わたしは何度もそれを
このように,ほぼ例外なく,神の御言葉は,ラッパのような大きな音でもなく,学者の会議室からでもなく,啓示という静かな細い声で与えられるのです。知恵を見いだそうとしても見いだせない人や,病んだ世界に効く妙薬〔解決策〕があると声高らかに宣言する人の話を聞いていると,「静まって,わたしこそ神であることを知れ」という詩篇の言葉や(詩篇46:10),「耳のある者は聞くがよい」という主の言葉を返したくなります(マタイ11:15)。12
4
御 霊 に関する事柄は,わたしたちを啓発し,築き上げ,鼓舞する。
御霊に関する事柄はどのようにすれば分かるでしょうか。それが神から出ていることがどうして分かるのでしょうか。もたらす実によって分かります。成長と進歩に通じるもの,信仰と
御霊の促しは,御霊の実によって識別することができます。すなわち啓発し,成長させてくれるもの,前向きで肯定的であり,心を高め,より良い思いと言葉と行いに導くものは,神の御霊です。傷つけ,禁じられた道に誘いこむのは,サタンです。実に,単純明快だと思います。14
かつて,教会は主知主義(訳注——知性的・合理的・理論的なものを重んずる考え方)の敵であるという見解を述べた学者がいました。もし彼が,主知主義のことを,「知識は,ことごとく,あるいは主として純粋な理性から生まれるもの」であり,「理性は,実在の根底を成す」という説を奉じる哲学の一分派と解釈してそう言ったのだとしたら,わたしたちは偏狭な解釈で宗教を持ち出すことに断固反対の立場をとります(Random House Dictionary of the English Language, 738ページから引用)。そのような解釈は,〔わたしたち〕に,または〔わたしたち〕を通して語りかける聖なる御霊の力を排除するものです。
理性に力があるということは信ずるに足ることですが,知識の源は理性だけではないのです。全能者の霊感のもとに与えられた約束が,次のような麗しい言葉で述べられています。「神はその聖なる御霊によって,すなわち聖霊の言い尽くせない
主の
神につける事柄は,神の御霊によって理解されます。その御霊こそ確かなものです。御霊の働きを経験した人々にとって,そのようにして得られた知識は,五感を通して得られたものと同様確かなものなのです。わたしはこのことを
人を惑わす世の議論のわなに,かからないでください。そのようなものは,ほとんどが否定的なもので,好ましくない結果を生むことが多いのです。これから先も,明るい面を見て語り,自信ある態度を養いながら信仰をもってともに歩んで行こうではありませんか。そのようにするときに,わたしたちの強さが他の人々に強さをもたらしていくのです。15
祝福を得て,わたしたちの働きの成果が霊的に高い水準に維持されるよう,どうぞ絶えず主の霊感と主の聖なる御霊との交わりを求めてください。これらの祈りは必ずかなえられます。16
5
この祝福にふさわしく生活するならば,聖霊は常にわたしたちの伴 侶 となる
わたしたちが戒めを守るならば,「聖霊は常に〔わたしたちの〕伴侶となり」,わたしたちを高め,教え,導き,慰め,支えてくださいます(教義と聖約121:46)。そう言われたのは,他ならぬ主です。聖霊を伴侶とするには,そうあるように願い求め,ふさわしく生活し,主に忠実であることが必要です。17
「常に主の
毎週,日曜日になると,あなたは主イエス・キリストの
神聖な権能を有する人から聖霊の
研究とレッスンのための提案
質問
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わたしたちにはなぜ聖霊が必要なのでしょうか(第1項と第2項を参照)。あなたはこれまで,どのようなときに,聖霊による教えと導きを感じてきましたか。そのような経験からどのようなことを学んできたでしょうか。
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啓示が教会の預言者に与えられるプロセスについて,ヒンクレー大管長の説明からどのようなことが学べるでしょうか(第3項参照)。聖霊は,通常,「静かな細い声」でメッセージをお伝えになります。これを理解しておくことが大切なのは,なぜでしょうか。聖霊の伝えるメッセージを理解することについて,あなたは経験からどのようなことを学んできましたか。
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第4項でヒンクレー大管長が端的に説明している「
御 霊 のもたらす実」を読み返してください。この教えは,御霊の影響を理解するうえで,どのように役立つでしょうか。「知識の源は理性だけ……〔である〕」と思い込むことのどこに危険があるでしょうか。霊的な知識を得ることについて,あなたはどのような経験をしてきましたか。 -
第5項にある,聖霊を伴侶とすることに関するヒンクレー大管長の教えについて,あなたはどう感じますか。また,あなたはこれまで,聖霊からどのような祝福を受けてきたでしょうか。
関連聖句
1コリント2:9-14;1 ニーファイ10:17;2ニーファイ31:17-18;モーサヤ3:19;モロナイ8:25-26;教義と聖約11:12-14
教える際のヒント
「生徒を愛するようになると,生徒一人一人のために祈るようになる。そして彼らの関心事や達成したこと,必要としていること,悩んでいることを知るために最善を尽くす。たとえ余計に時間と労力が必要になっても,生徒の必要に合わせてレッスンの内容を変える。出欠席の状況をよく把握する。必要なときは助けの手を差し伸べる。」(『教師,その大いなる召し』31)