経歴のまとめ
以下の年表は,ゴードン・B・ヒンクレー大管長の生涯の主要な出来事を簡単に紹介するものである。
1910年6月23日 |
ユタ州ソルトレーク・シティーで,ブライアント・S・ヒンクレーとアダ・ビトナー・ヒンクレーのもとに誕生する。 |
1922年 |
父親とともにステーク神権会に出席し,ジョセフ・スミスが預言者として召されたという |
1932年 |
ユタ大学を卒業する。在学中,英語,ジャーナリズム,古代言語を学ぶ。 |
1933-1935年 |
専任宣教師としてヨーロッパ伝道部で奉仕する。全期間をイングランドで過ごす。 |
1935-1943年 |
教会のラジオ・広告および伝道文献委員会の幹部書記として働く。 |
1937年 |
日曜学校中央管理会に召される。 |
1937年4月29日 |
ソルトレーク神殿でマージョリー・ペイと結婚する。 |
1943-1945年 |
ユタ州ソルトレーク・シティーおよびコロラド州デンバーにあるデンバー・アンド・リオ・グランデ鉄道の管理補佐を務める |
1945-1958年 |
教会職員に戻る。1951年,新たに創設された宣教師管理部の日々の運営の監督を始める。 |
1953-1955年 |
デビッド・O・マッケイ大管長の導きの下,多言語で神殿のエンダウメントを行えるよう,エンダウメントの画像フィルム製作を提案し監督する。 |
1956年10月28日 |
イーストミルクリークステークの会長として奉仕するよう召される。 |
1958年4月6日 |
十二使徒会補助として支持される。 |
1961年10月5日 |
デビッド・O・マッケイ大管長から使徒に聖任され,十二使徒定員会の会員に任命される。 |
1981年7月23日 |
大管長会の顧問として奉仕し,スペンサー・W・キンボール大管長とマリオン・G・ロムニー管長,N・エルドン・タナー管長を補佐するよう召される。 |
1982年12月2日 |
キンボール大管長の第二顧問として奉仕するよう召される。 |
1985年11月10日 |
エズラ・タフト・ベンソン大管長の第一顧問として奉仕するよう召される。 |
1994年6月5日 |
ハワード・W・ハンター大管長の第一顧問として奉仕するよう召される。 |
1995年3月3日 |
ハンター大管長の死に伴い,先任使徒になる。 |
1995年3月12日 |
末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長に任命される。 |
1995年9月23日 |
「家族—世界への宣言」を中央扶助協会集会の中で発表する。 |
1996年2月 |
アメリカ合衆国以外の教会員数が合衆国内の会員数を上回る。 |
1996年4月7日 |
アメリカのテレビ番組「60 Minutes」に出演する。 |
1996年5月26日 |
在任中に奉献した77の神殿の最初の神殿となる中国・香港神殿を奉献する。77のうち63の神殿の奉献を自身で行った。 |
1997年4月5日 |
新たに3つの七十人定員会を組織する。 |
1997年10月4日 |
世界中に小規模神殿を建設する計画を発表する。 |
2000年1月1日 |
大管長会および十二使徒定員会の使徒たちとともに,「生けるキリスト—使徒たちの証」を発表する。 |
2000年10月1日 |
稼働中の100番目の神殿となるマサチューセッツ州ボストン神殿を奉献する。 |
2000年10月8日 |
カンファレンスセンターを奉献する。 |
2001年3月31日 |
永代教育基金の創設を発表する。 |
2002年2月8日 |
冬季オリンピックのために世界中からソルトレーク・シティーを訪れる人々を歓迎する。 |
2002年6月27日 |
ジョセフ・スミスとハイラム・スミスの殉教158周年にイリノイ州ノーブー神殿を奉献する。 |
2003年1月11日 |
初の世界指導者訓練集会放送を管理する。 |
2003年2月8日 |
初等協会の創設125周年を祝って,衛星放送を通して100万人の初等協会の子供たちに向けて語る。 |
2004年4月6日 |
妻マージョリーの死を悼む。 |
2004年6月23日 |
合衆国で文民に贈られる最高位の賞である大統領自由勲章を受賞する。 |
2007年6月26日 |
教会員数が1,300万人を超え,教会が組織されて以来100万人の宣教師が奉仕したことを発表する。 |
2008年1月27日 |
ユタ州ソルトレーク・シティーの自宅で死去。 |