歴代大管長の教え
第8章:キリストに頼る


第8章

キリストに頼る

「わたしたちはキリストを信じ,キリストについて教え,キリストに頼ります。キリストはわたしたちのい主,主,救い主であられます。」

ゴードン・B・ヒンクレーの生涯から

1975年4月の総大会で,当時十二使徒定員会会員であったゴードン・B・ヒンクレー大管長は,こんな体験談を話している。

「最近,アリゾナ州〔メサ〕神殿のオープンハウスを行いました。神殿の改装が終了した後,25万人もの人々が美しい内装を見学に訪れました。一般公開の初日には,他の宗派の牧師たちを来賓として招待しましたが,数百人の方々が応じてくれました。わたしは恵まれて彼らに話をし,また見学の最後に質問に答える特権が与えられました。わたしは彼らに,どのような類いの質問が出ようとも喜んで答える旨を告げました。数多くの質問が出されました。その中には,あるプロテスタントの牧師から出された次のような質問がありました。

彼はこう言いました。『わたしはこの建物の中を隅から隅まで見せていただきました。この神殿の正面には,イエス・キリストの名が掲げられています。しかし,どこを探しても,キリスト教の象徴である十字架を表すようなものは,まったく見当たりませんでした。他にもあなた方の教会の建物を見てきましたが,やはり十字架はありませんでした。イエス・キリストを信じると言っておられるのに,これはどうしてですか。』

わたしはこう答えました。『同じキリスト教徒である皆さんの感情を害しようなどという気は毛頭ありませんが,皆さんは,聖堂の尖塔や礼拝堂の祭壇に十字架を使い,また,祭服には十字架を縫いつけ,さらに出版物にも十字架の印を押していらっしゃいます。しかしながら,わたしたちにとっては,十字架は死にゆくキリストの象徴であって,わたしたちが伝えているのは,生けるキリストの御言葉なのです。』

すると,彼は次のように尋ねました。『では,十字架を使わないのなら,あなた方の宗教の象徴は何ですか。』

わたしは,わたしたちの信仰の何であるかを表現するうえで,教会員の生活こそがただ一つ意味のあるものとなっていなければならない,と答えました。事実,教会員の生活こそがわたしたちの礼拝の象徴なのです。……

……いかなる印であろうとも,いかなる芸術品であろうとも,そしていかなる形であろうとも,生けるキリストの栄光と奇跡とを表現するのに足るものはありません。主はわたしたちに,何が主の信仰の象徴となるべきかということについて,次のように教えられました。『もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしのいましめを守るべきである。』(ヨハネ14:15

わたしたちは,主に従う者として,万一下劣で,悪らつで,好ましくないようなことをすることがあれば,そのときには,必ず主の姿を汚しているのです。反対に,もし善良で,慈悲深く,また高潔な行いをしていれば,主の象徴をもっと輝かすことができます。わたしたちは,主のをこの身に受けているからです。

それゆえ,わたしたちの生活を意義深いものとしなければなりません。わたしたちの生活こそ,生ける神の永遠の御子であられる生けるキリストについてする,その証の宣言の象徴だからです。

兄弟姉妹たち,これは,単純でありながら,それほど深遠なことなのです。決して忘れることのないようにしようではありませんか。」1

The Sermon on the Mount

「第1にわたしたちの信仰に絶対に欠くことのできないものは,……神の御子イエス・キリストについてのです。……キリストはこの教会の隅のかしら石であられ,教会にはその名が付けられ……ています。」

ゴードン・B・ヒンクレーの教え

1

イエス・キリストは生ける神の生ける御子である

第1にわたしたちの信仰に絶対に欠くことのできないものは,……神の御子イエス・キリストについてのです。……キリストはこの教会の隅のかしら石であられ,教会にはその名が付けられ……ています。2

わたしたちはキリストを信じ,キリストについて教え,キリストに頼ります。キリストはわたしたちのい主,主,救い主であられます。3

地上における教導の業

神の御子であり独り子であられるイエスは御父の天の王宮を離れて死すべき肉体をまとわれました。その誕生に際して,天使たちは歌い,賢者が贈り物をするためにやって来ました。イエスはガリラヤのナザレで他の少年たちと同じように成長されました。そこで彼は「ますます知恵が加わり,背たけも伸び,そして神と人から愛され」ました(ルカ2:52)。

イエスは12歳のときにマリヤとヨセフに連れられて,エルサレムを訪れられました。帰宅の途中,二人はイエスがおれらないことに気づきました。エルサレムに引き返すと,イエスは神殿で学識のある博士たちと話していらっしゃいました。勝手に両親のもとを離れたことをいさめるマリヤに対して,イエスは次のようにお答えになりました。「わたしが自分の父の家にいるはずのことを,ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49)その言葉は将来携わることになるの予表でした。

その御業はまず,いとこのヨハネの手によって受けられたヨルダン川でのイエス御自身のバプテスマから始まりました。イエスが水から上がられると,聖霊がのような姿を取ってイエスに降られ,そして次のように語られる天の御父のが聞こえました。「これはわたしの愛する子,わたしの心にかなう者である。」(マタイ3:17)この宣言はイエスが神の御子であられることを確認するものとなりました。

イエスは40日間の断食で,天の御父より授かった聖なる使命からイエスを引き離そうとする悪魔の試みに遭われました。誘惑しようとする悪魔に対してイエスは次のように答えられました。「主なるあなたの神を試みてはならない……。」(マタイ4:7)ここでもまたイエスは神の御子であられることを宣言されました。

イエスはパレスチナの土ぼこりにまみれた道を歩かれました。自分の家と呼べる家も,体を横たえて休まれる場所もありませんでした。イエスのメッセージは平和の福音でした。イエスの教えはすなわち愛と寛容の教えでした。「あなたを訴えて,下着を取ろうとする者には,上着をも与えなさい。」(マタイ5:40

イエスはたとえによって教えられました。イエスは後にも先にも決して行われたことのない奇跡を行われました。長い間治らなかった病気が癒やされました。目の見えない人は見え,耳の聞こえない人が聞こえ,足の不自由な人は歩けるようになりました。イエスは死者をよみがえらせられ,再び命を得た人々はイエスを賛美しました。確かにそのような奇跡を行った人はそれまで一人もいませんでした。

イエスに従ってきた人々も何人かいましたが,ほとんどの人々は彼を憎みました。イエスは律法学者やパリサイ人を偽善者と呼び,また白く塗った墓にたとえられました。律法学者やパリサイ人は,イエスを陥れる策略を立てました。イエスは主の宮から両替人を追い出されました。この両替人たちも一緒になってイエスを殺そうと計画したことでしょう。しかしイエスはひるむことなく「よい働きをし」続けられました(使徒10:38)。

主への追憶の情を不朽のものとするのに,これらの事実があれば十分ではないでしょうか。歴史上,名言や業績ゆえに偉人として記憶にとどめられる人々の名前の中に,いえ,それ以上の位置に主のを掲げるために,これらの事実を挙げれば十分ではないでしょうか。まさにイエスは史上最も偉大な預言者の御一人です。

しかし全能者の御子を語るのに,これらだけでは十分とは言えません。これらの事実は,より偉大なことが起きる前兆にすぎませんでした。その偉大なことは,不思議なまた悲惨な方法で実現されることになったのです。4

捕縛と十字架,死

主は裏切られ,捕らえられ,死を宣告され,ひどい苦しみの中,十字架につけられ亡くなられました。主は生きたまま,体を木の十字架にで打ち付けられました。言葉にならない苦痛の中,主の命は少しずつ衰えていきました。まだ息があるとき,主は叫ばれました。「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」(ルカ23:34

主の霊が肉体を離れると,地は揺れ動きました。その様子を見ていた百卒長はに言いました。「まことに,この人は神の子であった。」(マタイ27:54

主を愛していた者たちは主の遺体を十字架から降ろしました。彼らは遺体を布で包み,……新しい墓に納めました。……

主の友人たちはさぞや涙を流したことでしょう。主が愛された,主の神性を証するために召された使徒たちも涙を流しました。主を愛した女性たちも嘆き悲しみました。主が3日目によみがえると語られたことを理解していた人はだれ一人いませんでした。そのようなことがどうして理解できたでしょうか。そのようなことは,これまで起きたことがありません。まったく前例のないことです。彼らでさえも信じられないことでした。

そして死によって主が取り去られてしまったと思ったとき,彼らは落胆し,絶望しそして苦痛を感じたことでしょう。5

復活

しかしそれが全ての終わりではありませんでした。3日目の朝,マグダラのマリヤともう一人のマリヤが墓に戻ってみました。驚いたことに,石がのけられ,墓が開いていました。二人は中をのぞいてみました。すると主の遺体が置かれていた場所の両端に,白い衣を着た二人の御方が腰をかけていました。一人の天使が,彼女たちに言いました。「あなたがたは,なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。

そのかたは,ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき,あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。

すなわち,人の子は必ず罪人らの手に渡され,十字架につけられ,そして三日目によみがえる,と仰せられたではないか。」(ルカ24:5-7

「そのかたは,ここにはおられない。よみがえられたのだ」と語ったこの率直な言葉は,あらゆる文学をもしのぐ最も意味の深い言葉となりました。その言葉は,空となった墓で宣言されました。それはよみがえりについて主が語られたあらゆる言葉の成就でした。そして地上に生を受けた全ての男女,そして子供が抱いていた疑問に対する,この上ない答えとなったのです。

Christ teaching

イエスのメッセージは平和の福音でした。イエスの教えはすなわち愛と寛容の教えでした。

よみがえった主はマリヤに語られ,マリヤは答えました。主は幻ではありませんでした。空想でもありませんでした。主は,亡くなられる前と何ら変わることなく,確かに生きておられました。主は,御自分に触れることをマリヤにお許しになりませんでした。まだ天の御父のみもとに昇っておられなかったからです。その後間もなく主は天に昇られました。どんなにすばらしい再会だったことでしょう。御父の御手に抱かれたのです。御父は御子を愛しておられました。御子が苦しまれたときには,きっと自らも涙を流されたことでしょう。

主はエマオの村へ行く道で二人の人に姿を現されました。主は彼らと言葉を交わし,ともに食されました。使徒たちを招いて,彼らに教えられました。トマスは最初主が御姿を現されたときに,その場にいませんでした。2度目に主が御姿を現されたとき,主はトマスに御自分の手とわき腹に触るようにと言われました。傷跡に驚いたトマスはこう叫びました。「わが主よ,わが神よ。」(ヨハネ20:28)主は〔別の〕折に,500人の人々と話をされました。……

そしてキリストを証するものがもう一つあります。聖書のもう一つの証であるモルモン書です。モルモン書は主が旧世界の人々にだけではなく,新世界の人々にも御姿を現されたことを証しています。主はかつてこのように宣言されなかったでしょうか。「わたしにはまた,この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも,わたしの声に聞き従うであろう。そして,ついに一つの群れ,ひとりのとなるであろう。」(ヨハネ10:16)

主は復活後,西半球の人々に御姿を現されました。主が天の雲から降られたとき,このように厳かに宣言する永遠の父なる神の御声が再び聞こえました。「わたしの愛する子を見なさい。わたしの心にかなう者である。わたしは彼によって,わたしの名に栄光を加えた。彼に聞きなさい。」(3ニーファイ11:7)……

もしこれら全ての事実をもってしてもまだ十分でないならば,この神権時代の偉大な預言者ジョセフ・スミスの,明白で疑う余地のない証があります。少年ジョセフは森に入り,光と知識を求めて祈りました。すると,筆紙に尽くし難い輝きと栄光を持つ二人の御方がジョセフに現れ,空中に立たれました。そのうちのがジョセフに語りかけ,ジョセフの「名を呼び,別の御方を指して,『これはわたしの愛する子である。彼に聞きなさい』と言われた」のです〔ジョセフ・スミス一歴史1:17〕。

このジョセフは,後にこう宣言しています。「そして,わたしたちは御父の右に御子の栄光を見,その完全を受けた。……

そして今,小羊についてなされてきた多くの証の後,わたしたちが最後に小羊についてなす証はこれである。すなわち,『小羊は生きておられる。』」(教義と聖約76:20,226

皆さんの中で疑いを持っている方がいれば,主が両手の釘跡に触れたトマスに言われた言葉を繰り返し申し上げたいと思います。「信じない者にならないで,信じる者になりなさい。」〔ヨハネ20:27〕この世においても永遠の世においても最も大いなる御方,神の御子イエス・キリストを信じてください。世界が創造される前に遡るその類いない命を信じてください。キリストがわたしたちの住むこの地球の創造主であられることを信じてください。イエスは旧約聖書のエホバであり,新約聖書のメシヤであり,死んだ後復活し,この西半球を訪れて民を教え,この最後の福音の神権時代を開かれたこと,そして生ける神の御子,わたしたちの救い主,贖い主として今も生きておられることを信じていただきたいのです。7

2

わたしたちは一人一人が,キリストは神の御子であり,世のい主であり,墓からよみがえられた御方であられることを知ることができる

人の……信仰を巡る戦いが,今まさに繰り広げられています。しかし,必ずしも……はっきりと敵味方の区別がつくわけではありません。というのは,キリストの名で語りながらも,キリストの神聖を汚そうとする人々がいるからです。その言葉にそれほど人を引き付ける力がなく,その影響力がそれほど広範囲に及ぶわけでもなく,また,用いる論理がそれほど巧妙でないとしたら,そのような人に耳を傾けることはないかもしれません。

……おびただしい数の人々が,あちこちの丘の頂に集まり,復活祭の朝を喜んで迎え,キリストの話を思い起こします。キリストの復活を記念するのです。美しく,希望にあふれる言葉で,いろいろな宗派の牧師たちが,空になった墓について詳しく語って聞かせます。彼らに,また皆さんに,わたしはこう問いかけます。「この出来事を本当に信じていますか。」

イエスが神の御子,御父の文字どおりの御子であられることを,あなたは本当に信じていますか。

神,すなわち永遠の父なる神の声が聞こえて,ヨルダン川の上空から次のように宣言したことを,あなたは信じていますか。「これはわたしの愛する子,わたしの心にかなう者である。」(マタイ3:17

この同じイエスが,奇跡を起こし,病人をやし,体の弱った人々に元気を取り戻させ,死者をよみがえらせた御方であられることを,あなたは信じていますか。

カルバリの丘で死に,ヨセフの墓に葬られ,3日後にそこから生きて出てこられたことを,あなたは信じていますか。

主が今も生きておられ,実在の,命と人格をお持ちの方であり,昇天されたときに天使が約束したとおり,再び戻って来られることを,あなたは本当に信じていますか。

以上のことを,あなたは本当に信じていますか。もしそうであるならば,あなたは聖書を文字どおり解釈しています。このような人は次第に少数派になってきており,哲学者からますます笑い者にされ,一部の教育者からますますられ,多数派となっていく聖職者や影響力のある神学者からますます「時代遅れ」と見なされています。

……こうした知識人の目から見れば,今わたしが語ったようなこと,つまりイエスがユダの地でお生まれになり,天使がそれを賛美したこと,病人を癒やし,死者をよみがえらせるといった奇跡を起こされたこと,墓からよみがえられたこと,また天に昇られ,約束されたように戻って来られることなどは,おとぎ話なのです。

このような現代の神学者たちは,主からその神性を剥ぎ取り,そのうえで,なぜ人々は主を礼拝しようとしないのかと首をかしげます。

Road to Emmaus

復活した救い主,二人の弟子とともにエマオへ続く道を歩かれる。

このような才気あるれる学者たちは,イエスから神性という衣を剥ぎ取り,イエスをただの人間にしてしまっているのです。彼らは自分の偏狭な考えに合わせて,イエスを作り変えようとしています。そして,その過程において,主が神の御子であられることを否定し,本来王であるべき御方をこの世から葬ってきたのです。……

……わたしはこのような人々にしたいと思います。神は死んだと解釈する人がいますが,神は死んではおられません。……

……理性的な確信以上のものが必要です。つまり,主が聖なる贖い主として担っておられる,他に類いのない役割に対する理解と,主御自身と,神の御子としてのメッセージに対する情熱が必要なのです。

この理解と情熱は,代価を支払うなら,誰でも得ることができます。この二つは高等教育と相いれるものではなく,哲学書を読んだだけで得られるものでもありません。得る方法はもっと簡単です。神につける事柄は,神のによって理解されるのです(1コリント2:11参照)。啓示の言葉は,そう言っています。

主に対する理解と情熱は,簡単なルールに従うことによって得られるのです。……3つの原則を取り上げてみたいと思います。いずれも簡単な概念で,繰り返し教えられているため平凡だと思われるでしょうが,応用という点から考えると基本的なものであり,最も実り豊かな結果を与えてくれるものです。……

第1は,主の言葉を読むことです。……例えば,ヨハネによる福音書を,初めから終わりまで読み通してください。主御自身に語っていただくのです。主の言葉が静かな確信をもたらし,主のあら探しをする人々の言葉を無意味なものとしてくれるでしょう。「イエスがキリストであり,永遠の神であり,すべての国民に御自身を現されること」の証として世に出た新世界の契約の書,モルモン書も読んでください(モルモン書のタイトルページ)。

次は,主の業で奉仕することです。……キリストの大義に疑いは必要ありません。必要なのは体力と時間と才能です。この3つを用いて奉仕するならば,信仰が育ち,疑いは徐々に消えていきます。……

第3は,祈ることです。御父の愛する御子のによって,永遠の父なる神と話してください。主はこう言っておられます。「見よ,わたしは戸の外に立って,たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら,わたしはその中にはいって彼と食を共にし,彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(黙示3:20

これは主御自身からの招きであり,その約束は確かです。天から声が聞こえてくることはないかもしれませんが,神が安らかな不動の確信を与えてくださることでしょう……

……哲学,いわゆる高等批評,現代の否定的な神学などが引き起こすあらゆる混乱の中を,聖霊の証が輝きを放ちながら現れます。聖霊はわたしたちに,イエスが肉体をまとってこの世に生まれた真の神の御子,墓からよみがえった世の贖い主,王の王として治められる主であられることを証してくださるのです。これを知る機会があなたに与えられています。見いだすのは,あなたの義務なのです。8

3

「それではキリストといわれるイエスは,どうしたらよいか」と絶えず自問する必要がある

今から約2千年前にポンテオ・ピラトが尋ねたことを,ここでもう一度繰り返したいと思います。「それではキリストといわれるイエスは,どうしたらよいか。」(マタイ27:22)確かに,このことを自分自身に問いかけてみる必要があります。キリストといわれるイエスについて,わたしたちは何をしたらよいのでしょうか。その教えについてはどうでしょうか。どうしたらそれを,わたしたちの生活から切り離せないものとすることができるでしょうか。……

……「見よ,世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)キリストの教えやその比類ない模範がなかったとしたら,わたしたちの生活はどんなに味気ないものとなるでしょうか。もう一方のを向けること,2マイル行く精神,戻って来た息子の教訓,その他数多くのすばらしい教えは,幾世代にもわたって人間の無情さの中から親切心と慈愛を引き出す媒体となってきました。

キリストが忘れ去られると,残虐さが人を支配します。反対にキリスとを認め,その教えを守るならば,親切と寛容が優勢になります。

では,キリストと言われるイエスについて,わたしたちは何をすればよいのでしょうか。「人よ,彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは,ただ公義をおこない,いつくしみを愛し,へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」(ミカ6:8

「それゆえ,わたしはあなたがたに言う。あなたがたは互いにし合うべきである。自分の兄弟の過ちを赦さない者は,主の前に罪があるとされ,彼の中にもっと大きな罪が残るからである。」(教義と聖約64:9)……

では,キリストと言われるイエスについて,わたしたちは何をしたらよいでしょうか。「あなたがたは,わたしが空腹のときに食べさせ,かわいていたときに飲ませ,旅人であったときに宿を貸し,裸であったときに着せ,病気のときに見舞い,獄にいたときに尋ねてくれたからである。」(マタイ25:35-36)……

では,キリストといわれるイエスについて,わたしたちは何をしたらよいでしょうか。

キリスト御自身についてよく知り,キリストについてする聖文を学ぶことです。またキリストの生涯と使命の奇跡を深く考えることです。そしてもう少し熱心にキリストの模範に従い,その教えを守ることです。9

4

わたしたちの救いの岩であられ,力,慰め,信仰の中心であられる主に頼る

わたしたちの前途には何が待ち受けているか分かりません。明日どうなるかも分かりません。わたしたちは不確かな世に生きています。ある人にとっては偉大な達成の日となり,他の人にとっては落胆の日となるかもしれません。喜びと楽しみ,健康,感謝に満ちた日々を送る人もいれば,病気や悲しみに見舞われる人もいることでしょう。わたしたちには分かりません。しかし,はっきりと分かることが一つあります。天空の北極星と同じように,将来に何が起きようと,世のい主,神の御子は,わたしたちが不死不滅の命に至るための力強い支えとして,確かに,間違いなく存在しておられる,ということです。主は救いの岩であられ,わたしたちの力,慰めであられ,信仰の中心であられます。

晴れの日も雨の日もわたしたちが主に頼れば,主はそこにおられて,励まし,ほほえみかけてくださいます。10

贖いの主,

神生きて,

われ恵む

苦しみと死とに,勝利せし王よ

主はわれらの岩,

輝く望みよ

き道を照らす,

のかなたへと

みたまをそそぎて,

平和授けたまえ

く道細くも,

神,われ導く11

研究とレッスンのための提案

質問

  • 第1項にあるヒンクレー大管長のの言葉を復習し,イエス・キリストについての自分自身の証はどうか,時間を取ってよく考えてください。あなたが救い主の教導の業といに感謝しているのはなぜですか。救い主の生涯で,あなたにとって特に意味があるのは,どのような話や教えですか。

  • 第2項にある質問を,一つ一つ自分に問いかけてください。それに対する答えは,毎日の生活にどのような影響をもたらすでしょうか。同じ項でヒンクレー大管長が提案している,「神につける事柄」を理解するための3つの「簡単なルール」を復習してください。このルールは,霊的な理解を深めるうえでどのように役立ってきたでしょうか。

  • ヒンクレー大管長は,繰り返しこう問いかけています。「キリストといわれるイエスについて,わたしたちは何をしたらよいでしょうか。」(第3項)これに対するヒンクレー大管長の答えから,何が学べるでしょうか。自分ならこの質問にどう答えるか,よく考えてください。救い主の教えと模範を知らなかったとしたら,あなたの人生はどうなっていたでしょうか。

  • ヒンクレー大管長は,イエス・キリストはわたしたちにとって,不確かな世における力強い支えであられることを強調しています。試練のときに救い主の力や慰めを感じたことがありますか。それはどんなときでしたか。第4項でヒンクレー大管長が紹介している賛美歌の歌詞をよく考えてください。どのような点でキリストは「輝く望み」なのでしょうか。どのような点で「き道を照らす」御方なのでしょうか。

関連聖句

ルカ24:36-39;ヨハネ1:1-14;使徒4:10-122 ニーファイ2:825:26;アルマ5:48教義と聖約110:3-4

学ぶ際のヒント

「救い主を信じる信仰を築〔く〕……ように,学習活動を計画する。」(『わたしの福音をべ伝えなさい』22)例えば,学習するとき,以下のような質問を自分に問いかけてみるとよいでしょう。この教えは,イエス・キリストのいの理解を深めるうえでどのような助けとなるだろうか。この教えは,さらに救い主のような者になるうえでどのような助けとなるだろうか。

  1. 「キリストの象徴」『聖徒の道』1976年12月号,543参照

  2. 「信仰の4つの隅石」『リアホナ』2004年2月号,4

  3. Teachings of Gordon B. Hinckley(1997年),280

  4. 「そのかたは,ここにはおられない。よみがえられたのだ」『リアホナ』1999年7月号,83-84

  5. 「そのかたは,ここにはおられない。よみがえられたのだ」84参照

  6. 「そのかたは,ここにはおられない。よみがえられたのだ」84-85参照

  7. 「信じない者にならないで」『リアホナ』1990年4月号,4

  8. Conference Report, 1922年4月,85-87

  9. 「それではキリストといわれるイエスは,どうしたらよいか」『聖徒の道』1984年5月号,2-5参照

  10. 「キリストに頼る」『リアホナ』2002年7月号,101-102参照

  11. いの主」『賛美歌』73番。詩:ゴードン・B・ヒンクレー