真の男になる
神の権能を託されたわたしたちは,わがままという「地」から立ち上がって,男らしくなる必要があります。
何年も前,わたしも兄たちもまだ幼かったころのことです。母が,癌がんの摘出手術を受けることになりました。母は死と隣り合わせの状態でした。首と肩の組織の大半を摘出しなければならず,その後,長い間,母にとって右腕を使うことは大変な苦痛を伴うものとなりました。
その手術から1年ほどたったある朝のことです。父は母をある家電専門店へ連れて行き,そこの店主に,あるアイロンの使い方を母に説明してほしいと言いました。それは「アイロンライト」という商品でした。このアイロンは,いすに座ったまま,ひざでペダルを押して操作できるようになっていました。ペダルを押すと,熱した金属板の上にローラーが降りて来て回転し,シャツやズボン,ドレスなどにアイロンをかけてくれるのです。これでアイロンがけが随分と楽になったことがお分かりいただけると思います。(実際,5人の男の子のいる家庭では,大変な作業でした。)母は腕を十分に動かせませんでしたから,なおさらです。父が店主に,「このアイロンをください」と言って,全額を現金で支払ったとき,母はほんとうに驚きました。父は獣医としてそこそこの収入を得てはいましたが,それでも,母の手術代と治療費のことを考えると,家計は厳しい状況でした。
家へ向かう途中,母はずっと不機嫌で,こう言いました。「どうやったらあれだけのお金を出せるの。どこからあのお金を工面してきたの。これからどうやって暮らしていけばいいの。」ようやく,父は,そのお金を貯ためるために1年近く昼食を抜いてきたことを告げました。「これでアイロンがけを途中でやめて,寝室に入り,腕の痛みが治まるまで泣かなくても済むよ。」そのことを父に気づかれていたとは,母は思いも寄りませんでした。わたしも,当時,父が母のためにそこまで犠牲を払い,愛に満ちた行動を取っていたことなど知りませんでした。でも,それが分かった今,わたしは自分の心にこう言いました。「まさに男の中の男だ」と。
預言者リーハイは,反抗的な息子たちに向かって,こう訴えます。「息子たちよ,地から立ち上がって,男らしくありなさい。」(2ニーファイ1:21,強調付加)レーマンとレムエルは,年齢的には大人の男になったものの,人格や霊性の成熟度においては,まだ子供と同様でした。何か難しいことをするように言われると,不平不満を漏らしたのです。また,自分たちを正そうとする権威も認めず,霊的な事柄を軽視しました。すぐに暴力に走り,弱い者いじめばかりしていました。
現在でも,同じような行動を取る人がいます。人間の最高の目標は自分自身の楽しみを得ることだと言わんばかりに行動する人もいます。寛容さが過度に進んだ社会規範は,いわば「責任回避型人間」を生み出してしまい,その結果,結婚のきずなによらない子供たちを誕生させ,結婚より同棲どうせいの方がよいと考える人も数多く存在する始末です。1約束をはぐらかすのは頭の良い証拠で,他人のために犠牲を払うのは未熟な証拠である,と考えられています。勤勉に働き,自己実現を図る生涯などというのは,ある人にとっては,選択肢の一つでしかないのです。いわゆる「無気力症候群の若者」が増加していますが,この現象について研究しているある心理学者は,それを次のように例示しています。
“「大学生となったジャスティンは,1,2年でその大学をやめる。両親の蓄えを何千ドルも無駄にしたというわけだ。そのうち,退屈になって,実家へ戻り,昔自分のいた部屋で生活を再開する。高校生のころに住んでいた部屋だ。今は,週16時間,低賃金のアルバイトをしている。両親は途方に暮れている。『ジャスティン,君はもう26歳だ。学校に行っているわけでもない。キャリアもない。ガールフレンドさえいない。これからどうするつもりなんだ。いつになったら,もっと方向性のある人生を歩み始めるんだい。』
これに対して,ジャスティンは反論する。『何か問題でもあるって言うの。別に逮捕歴があるわけじゃないし,お金をねだっているわけでもないし。少し黙っていてくれないかなあ。』」2
なんとご立派な態度でしょうか。
神の権能を託されたわたしたちには,無為に過ごす時間はありません。わたしたちには果たすべき務めがあります(モロナイ9:6参照)。わがままという「地」から立ち上がって,男らしくなる必要があります。少年が成長して真の男――たくましく,有能な男,建設的,創造的,主導的な男――となろうとすることは,すばらしい願いです。わたしたち年配の者にとっては,真の男の理想の姿を生活の中で実現し,わたしたちの中に理想を求めている人たちのために良い手本となるということは,実にすばらしい望みです。
端的に言えば,真の男らしさというものは,女性との関係の中で定義されるものです。大管長会と十二使徒定員会は,追求すべき理想像について,次のような言葉で説明しています。
「家族は神によって定められたものです。男女の間の結婚は,神の永遠の計画に不可欠なものです。子供たちは結婚のきずなの中で生を受け,結婚の誓いを完全な誠意をもって尊ぶ父親と母親により育てられる権利を有しています。……神の計画により,父親は愛と義をもって自分の家族を管理しなければなりません。また,生活必需品を提供し,家族を守るという責任を負っています。」3
これまで何年間も,わたしは数多くの国々の教会員を訪ねてきました。状況や文化は異なっていても,どの地でも強い印象を受けたことがあります。それは,教会の女性たちの信仰と能力です。そのような女性たちの中には,ほんとうにまだ年若い女性も含まれています。非常に多くの教会の女性たちは,信仰の面でも善良さの面でも見事に成長しています。聖文にもよく通じており,落ち着いていて,自信にあふれています。わたしはこう自問します。「こうした女性にふさわしい男性がいるだろうか。教会の若い男性たちは,このような女性たちから尊敬の念を抱かれる,ふさわしい伴侶となるよう努力しているだろうか。」
ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,1998年4月の神権部会で,若い男性に対して,次のような具体的な勧告をしました。
「皆さんと結婚する女性は,大きなかけをするようなものです。……〔皆さん〕は彼女の残りの生涯にかなりの影響を及ぼすでしょう。……
教育を受けるために努力してください。受けることのできる訓練はすべて受けてください。社会は,皆さんの力にふさわしい報いを与えてくれることでしょう。パウロはテモテに次のように言いましたが,決して婉えん曲きょく的な言い方をしているわけではありません。『もしある人が,その親族を,ことに自分の家族をかえりみない場合には,その信仰を捨てたことになるのであって,不信者以上にわるい。』(1テモテ5:8)」4
高潔さは男らしくなるための基本です。高潔とは信義に篤あついことです。それと同時に,責任を引き受け,決意や聖約を尊ぶことでもあります。かつて大管長会第一顧問を務めたN・エルドン・タナー管長は,高潔な人でした。あるとき,助言を求めて来た人について語りました。
「最近,ある青年がやって来てこう言いました。『ある人に毎年一定のお金を支払うという約束をしました。でも今,生活が苦しくて支払いができません。支払えば,家を失います。どうしたらいいでしょう。』
わたしはその青年を見て『約束を守りなさい』と言いました。
『家がなくなってもですか。』
『家のことについては何も言っていません。あなたの約束について話しているのです。あなたの奥さんも,家はあっても取り決めや聖約を守らない夫と住むよりは,借家に住むことになっても約束を守り,責任を果たす……夫を望んでいると思いますよ。』」5
立派な人であっても,ときには過ちを犯します。高潔な人というのは,正直に,その過ちを認め,正す人のことです。それが尊敬される生き方です。人は努力しても失敗することはあります。ふさわしい目標を立てて,正直に最善の努力をしたとしても,その目標がすべて達成できるわけではありません。真の男は,常にその働きの実によってのみ測られるわけではなく,働きそのもの,言い換えれば,どれだけ努力したかによって評価されるのです。6
真の男は,決意を尊ぶ中で,幾らかの犠牲を払います。この世での楽しみをあきらめなければならないこともあるでしょう。しかし,真の男は報いに満ちた生活を送ることになります。多くを与えますが,それに勝るものを受けます。天の御父に認められることで,満ち足りた生活を送ります。真の男の人生とは,善良な生活そのものなのです。
いちばん大切なのは,男らしくなるという勧告について考えるとき,イエス・キリストについて考える必要があるということです。ピラトは,いばらの冠をかぶらされたイエスを連れて来ると,人々にはっきりとこう言いました。「見よ,この人だ。」(ヨハネ19:4-5参照。訳注――この部分は,欽定訳ヨハネ19:5ではBehold the man!となっており,英語のtheには「最高の,無類の,抜群の,超一流の」などの意味がある。)ピラトは,自分自身の言った言葉の意味を完全に理解してはいなかったかもしれません。しかし,主はそのとき,確かに民の前に立たれました。そして現在も,男らしさの最高の理想として立っておられるのです。この御方を,仰ぎ見ようではありませんか。
主は,弟子たちにどのような人物にならなければならないか尋ね,御自分でこうお答えになりました。「まことに,あなたがたに言う。わたしのようでなければならない。」(3ニーファイ27:27。3ニーファイ18:24も参照)これがわたしたちの究極の目標です。わたしたちが男らしい男となるための模範として,主はどのようなことをなさったでしょうか。
イエスは誘惑を拒まれました。大いなる誘惑者であるサタンと向かい合ったイエスは,「誘惑に負け〔なかった〕」とあります(モーサヤ15:5)。イエスは聖文を武器にされました。「人はパンだけで生きるものではなく,神の口から出る一つ一つの言ことばで生きるものである。」(マタイ4:4)福音の戒めや標準もわたしたちの守りとなってくれます。そして,救い主と同様,わたしたちも誘惑に対抗するために,聖文から力を引き出すことができるのです。
救い主は従順な御方でした。「生まれながらの人」(モーサヤ3:19)を完全にお捨てになり,御自分の思いを御父にゆだねられました(モーサヤ15:7参照)。バプテスマをお受けになったのは,「肉においては御父の前にへりくだることを人の子らに示〔し〕,御父の戒めを守ることについて御父に従順であることを,御父に証明される」ためでした(2ニーファイ31:7)。
イエスは「よい働きをしながら,……巡回されました。」(使徒10:38)聖なる神権の神聖な力を行使して,助けの必要な人々に祝福を授けました。「病人を癒いやし,死者を生き返らせ,足の不自由な者を歩けるようにし,目の見えない者を見えるようにし,耳の聞こえない者を聞こえるようにし,すべての病気を癒され」たのです(モーサヤ3:5)。イエスは,使徒たちにこう教えました。「あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は,すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも,仕えられるためではなく,仕えるためであり,また多くの人のあがないとして,自分の命を与えるためである〔。〕」(マルコ10:44,45)わたしたちは,その主と同じ業に働く僕として,王国において,愛と奉仕を通して偉大な者となれるのです。
救い主は恐れることなく,悪や過ちに対抗されました。「イエスは宮にはいられた。そして,宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し……た。そして彼らに言われた,『「わたしの家は,祈いのりの家ととなえられるべきである」と書いてある。それだのに,あなたがたはそれを強盗の巣にしている。』」(マタイ21:12-13)イエスはあらゆる人に,悔い改めて(マタイ4:17参照),赦しを受けるように勧めました(ヨハネ8:11参照)。ですから,わたしたちも堅く立って,神聖なものを守り,警告の声を上げようではありませんか。
主は,人類を贖うために御自分の命をささげられました。ですからわたしたちも,主から託された人々に対する責任を受け入れましょう。
兄弟の皆さん,主がそうであられたように,真の男になりましょう。イエス・キリストの御名により,アーメン。