2000–2009
個人の証がもつ力
2006年10月


15:30

個人の証(あかし)が持つ力

わたしたちの揺るぎない証は,自分自身を変えるよう促し,世界に祝福をもたらします。

青年ニーファイはモルモン書の中で,主から船を造るよう命じられました。ニーファイはためらうことなく命令に従いましたが,兄たちは疑っていました。ニーファイはこう記しています。「兄たちは,わたしが船を造ろうとするのを見ると,わたしのことをつぶやいて言った。『弟は愚か者だ。弟は船が造れると思っているし,この大海を渡れると思っている。』」(1ニーファイ17:17)

けれども,ニーファイは落胆しませんでした。船を造ったことはありませんでしたが,「主が命じられることには,それを成し遂げられるように主によって道が備えられて」いるという強い証を持っていました(1ニーファイ3:7)。この力強い証と動機を胸に,ニーファイは船を完成させました。そして,不信仰な兄たちの強い抵抗を受けながらも,一行は大海を渡ったのです。

正しい動機がもたらす力について,少年時代に経験したことを話しましょう。

第二次世界大戦後,わたしたち家族はロシア軍が占領する東ドイツに取り残されました。そこでは小学4年生になるとロシア語を学ばなければなりませんでした。初めて学んだ外国語です。キリル文字を覚えるのは簡単ではありませんでした。けれども時間がたつにつれて,何とか身に付いていきました。

11歳になると,父の政治的見解により,突然東ドイツを離れなければならなくなりました。ここでは当時アメリカ軍の占領下にあった西ドイツの学校に通いました。学校ではロシア語ではなく,英語が生徒全員の必修科目でした。ロシア語も確かに簡単ではありませんでしたが,英語は論外でした。わたしの口は英語を話すようにはできていないと思ったものです。先生たちは手を焼き,両親は頭を抱え,わたしは絶対に英語は話せないと思っていました。

そうした少年時代に変化が起きました。当時,わたしは毎日のように自転車で飛行場へ行き,離着陸する飛行機を眺めていました。航空技術に関する,あらゆる資料を読み,研究し,勉強しました。何よりもパイロットになりたかったのです。わたしの眼には,旅客機や戦闘機の操縦席に座る自分の姿がすでに映っていました。これこそ自分のすべき仕事だと思いました。

その後,パイロットになるには英語ができなければならないことを知りました。するとにわかに,変化が起きたのです。わたしの変わりぶりに皆が驚きました。わたしの口が作り変えられたかのようでした。英語ができるようになったのです。まだ忍耐しながら何度も繰り返し学ぶ必要がありましたが,英語が身に付いていきました。

なぜでしょうか。それは正しく,強い動機があったからです。

わたしたちの行動に最終的に影響を与えるのは動機と思いです。イエス・キリストの回復された福音が真実であるという証は,わたしたちの生活に最も強い動機付けを与える力となります。イエスは善い思いと正しい動機がもたらす力を繰り返し強調し,こう言われました。「あらゆる思いの中でわたしを仰ぎ見なさい。疑ってはならない。恐れてはならない。(教義と聖約6:36)

イエス・キリストと回復された福音に対する証は,神が用意してくださった計画を学び,それに従って行動するうえで助けを与えてくれます。また,神の実在,真理,慈(いつく)しみを実感させ,イエス・キリストの教えと贖(あがな)い,末日の預言者たちが神から召されていることを確信させてくれます。証は正しく生きたいという意欲をかき立て,正しい生活は証をいっそう強めてくれます。

証とは何でしょうか?

「testimony(証)」という言葉は,「証人」を表すラテン語の「testimonium(テスティモニウム)」,「test(i テスティ)」に由来し,「物事の真実性に関する厳然たる証拠」という意味があります(“Testimony,”http://www. reference.com/browse/wiki/Testimony; Merriam-Webster’s Collegiate Dictionary,第11版〔2003年〕,“testimony”の項,1291)

末日聖徒イエス・キリスト教会の会員にとって「証」という言葉は,温かみのある,なじみ深い教会用語となっています。快い響きを持つ言葉であると同時に,常に神聖な意味を含んでいます。わたしたちは「証」というと,論理的で,明白な事実よりはむしろ,心と思いに感じるものを指します。証は御霊(みたま)の賜物(たまもの)であり,特定の概念が真実であることについて聖霊から受ける確認です。

証とは,末日における主の業が真実で霊から授けられる確かな知識であり確信です。証とは,「イエス・キリストの福音が明らかにしている,真理への不変で,生きた,感動を与える確信」です。(マリオン・G・ロムニー,「証を得る方法」『聖徒の道』1976年11月号,510参照,強調付加)

証を述べるとき,わたしたちは福音のメッセージが確かに真実であることを宣言します。多くの人が真理を相対的なものとしてとらえている時代にあって,絶対的な真理を宣言する人はあまりいません。世の中では不適切,または不都合であるととらえられるのです。「現在のことをありのままに示〔す〕」(モルモン書ヤコブ4:13)証は大胆であり,真実で重要なものです。それは人類に永遠の結果をもたらすからです。わたしたちが状況に応じて信仰や福音の教えのメッセージを変えても,サタンは気に留めないでしょう。福音の真理に対する揺るぎない確信は,わたしたちの生活の錨(いかり)です。それは北極星のように不変であり,信頼できるものです。証とは非常に個人的なものであり,人によって少しずつ異なっているかもしれません。同じ人は二人といないからです。けれども,回復されたイエス・キリストの福音の証には,次に挙げる明確で純然とした真理が必ず含まれています。

神は生きておられます。神は愛にあふれる天の御父であり,わたしたちは神 の子供です。

イエス・キリストは生ける神の御子であり,世の救い主です。

ジョセフ・スミスは,末日にイエス・キリスト の福音を回復した神の預言者です。

モルモン書は神の御言葉(みことば)です。

ゴードン・B・ヒンクレー大管長とその顧問,十二使徒定員会の会員は,この時代の預言者,聖見者,啓示者です。

聖霊の力と賜物によって,これらの真理と救いの計画について深い知識を得るときに,わたしたちは「すべてのことの真理を知る」ことができます(モロナイ10:5)。

どうすれば証を得られるでしょうか?

わたしたちは皆,証を得ることの方が述べるより難しいことを知っています。証を得るには,「人は自分のまいたものを,刈り取ることになる」(ガラテヤ6:7)という収穫の法則に従わなければなりません。努力と犠牲なしに良いものを手にすることはできません。証を得るために熱心に努力するならば,わたしたち自身と証を強めることができます。また,人々と分かち合うことで,証はさらに強まります。

証はこの上なく貴重な財産です。それは論理や理屈だけで得ることはできず,この世の富で買い取ることや,贈り物として受け取ること,先祖から受け継ぐこともできないのです。また人の証に依存することもできません。自分で知る必要があります。ゴードン・B・ヒンクレー大管長はこう語りました。「すべての末日聖徒は,イエスが復活された,生ける神の生ける御子であられることを,はっきりと知る責任があります。」(「善を行うことをおそるるなかれ」『聖徒の道』1983年7月号,140)

この確かな知識と確信をもたらすのは,神から与えられる啓示です。「イエスのあかしは,すなわち預言の霊」だからです(黙示19:10)。

聖なる御霊が内なる霊に語りかけてくださるときに,わたしたちはこの証を受けます。穏やかで揺るぎない確信は,文化や人種,言語,社会や経済的環境にかかわりなく,わたしたちに証と確信をもたらす源となります。人の論理だけでなく,御霊によるこれらの導きに頼ることが,証を築き上げる真の基盤となります。

この証の核となるのが,イエス・キリストとその神聖な使命に対する信仰と知識です。主は聖文の中で御自身のことを,「わたしは道であり,真理であり,命である」とおっしゃいました(ヨハネ14:6)。では,聖霊の証に基づいた個人の証を得るにはどうすればよいでしょうか。その方法は聖文の中に記されています。

第1──信じようとする望みを持つ。モルモン書はこう勧めています。「もしあなたがたが目を覚まし,能力を尽くしてわたしの言葉を試し,ごくわずかな信仰でも働かせようとするならば,たとえ信じようとする望みを持つだけでもよい。」(アルマ32:27)ある人はこう言うかもしれません。「わたしには信じられません。宗教心がないのです。」信じようとする望みを持つだけでも,神は助けてくださると約束しておられることに注目してください。けれどもそれは真の望みでなければならず,うわべだけの望みであってはなりません。

第2──聖文を調べる。疑問を持ち,それらを研究し,聖文を調べて答えを見つけてください。このことについても,モルモン書は優れた勧告を与えています。神の言葉を熱心に研究することにより,「もしあなたがたが心の中に場所を設けて,種をそこに植えるようにするならば」,そして不信仰によってそれを捨てるようなことがなければ,その良い種は「〔あなたがた〕の心の中でふくらみ始めるであろう。」そしてこの良い種は「あなたがたの心を広げ」,「〔あなたがた〕の理解力に光を注」いでくれることでしょう(アルマ32:28)。

第3──神の御心(みこころ)を行い,戒めを守る。神の王国が地上に回復されたことを自分で知りたいと思っているなら,学問上の討論だけでは不十分です。ありきたりの研究をしていても知ることはできません。実行してみなければなりません。つまり,神の御心を知って,実行に移すのです。

キリストのもとに来て,キリストの教えに従う必要があります。救い主はこう教えておられます。「わたしの教(おしえ)わたし自身の教ではなく,わたしをつかわされたかたの教である。神のみこころを行おうと思う者であれば,だれでも,わたしの語っているこの教が神からのものか,それとも,わたし自身から出たものか,わかるであろう。」(ヨハネ7:16-17。強調付加)さらに主は言われました。「もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしのいましめを守るべきである。」(ヨハネ14:15)

第4──深く考え,断食し,祈る。聖霊から知識を受けるには,天の御父にそれを願い求めなければなりません。神がわたしたちを愛しておられること,聖霊の導きに気づくよう神が助けてくださることを信じなければなりません。モルモン書にはこう約束されています。

「あなたがたはこれを読むときに,アダ__ムが造られてからあなたがたがこれを受けるときまで,主が人の子らにどれほど憐(あわ)れみをかけてこられたかを思い起こし,それを心の中で深く考えてほしい。

これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように,あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら,誠心誠意問うならば,神はこれが真実であることを,聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。」(モロナイ10:3-4)

預言者アルマはこう語りました。

「わたしは,自分が語ってきたこれらのことが真実であることを知っている。あなたがたは,わたしがどのようにしてこれらのことが確かであるのを知ったと思うか。

見よ,わたしは自分でこれらのことを知ることができるように,……断食をして祈ってきた。……主なる神が神の聖なる御霊によってこれらのことをわたしに明らかにされた……。わたしの内にある啓示の霊によって知らされたのである。」(アルマ5:45-46)

愛する兄弟姉妹,アルマは2000年以上の昔に,断食と祈りによって証を受けました。わたしたちは今日(こんにち),同じ神聖な経験をすることができます。

証は何の役に立つのでしょうか?

証は正しい視野と動機,そして堅固な土台を与えてくれます。その土台の上に

人生を築くなら,それは目的と成長をもたらすものとなります。順調なときもつまずいたときも,証は常に確信を与える源となり,真の忠実な伴侶(はんりょ)となってくれます。証は希望と喜びを見いだすよりどころとなります。楽観的な精神と幸福を生み,自然の美しさに喜びを感じさせてくれます。証はいつでも,どのようなときも,善を選ぶよう促してくれます。神に近づいていただくために,みそばに近づくよう促します(ヤコブの手紙4:8参照)。

個人の証は防御の盾であり,鉄の棒のように暗黒と混乱の中を安全に導いてくれます。

ニーファイに勇気を与え,主に従う者たちの中に数えられるよう励ましたのは,彼自身の証でした。ニーファイはどのような状況に置かれても,つぶやくことも,疑うことも,恐れることもありませんでした。苦境に立たされると,ニーファイはこう言いました。「わたしは行って,主が命じられたことを行います。主が命じられることには,それを成し遂げられるように主によって道が備えられて〔いる〕ことを承知しているからです。」(1ニーファイ3:7)

主がニーファイを知っておられたように,神はわたしたちを御存じであり,愛しておられます。今はわたしたちの時であり,わたしたちの時代です。わたしたちは最後の神権時代に生きているのです。わたしたちの揺るぎない証は,自分自身を変えるよう促し,世界に祝福をもたらします。わたしは主の使徒としてこのことを証し,祝福を残します。イエス・キリストの御名(みな)により,アーメン。