2010–2019
小さいわらべに導かれ
2012年4月


16:55

小さいわらべに導かれ

夫と妻は,自分たちの第一の召しは,お互いに対するもの,それから子供に対するものであって,この召しから解任されることは決してないことを理解するべきです

遠い昔,ある寒い夜に日本の駅で,寝台車の窓をこつこつとたたく音が聞こえました。見ると,ぼろぼろのシャツを着て,腫れあがったあごに汚いぼろきれを巻いた少年が凍えながら立っています。頭はかさぶただらけでした。さびたブリキの缶とスプーンを持っています。物乞いする孤児のしるしです。お金を上げるために必死でドアを開けようとしているうちに,列車は出発しました。

寒空の下,駅に一人残されてブリキ缶を持ったまま立つ,飢えた幼い少年のことをわたしは決して忘れません。そして,プラットフォームに立ち尽くす少年を後に,列車がゆっくりと走り始めたときに感じたやるせない気持ちも,忘れることができないでしょう。

それから数年後,ペルーのアンデス高地の都市クスコでA・セオドア・タトル長老とわたしは通りに面した細長い部屋で聖餐会を開きました。夜のことでした。タトル長老が話していると,6歳くらいと思われる男の子が戸口に現れました。ひざまで届くぼろぼろのシャツ以外は何も着ていません。

わたしたちの左手には小さなテーブルがあり,聖餐で使うパンが皿の上に載っていました。飢えて路上をさまようこの孤児は,パンを見ると壁伝いにゆっくりと近づいて来ました。テーブルまであと少しという所で,通路にいた女性がこの子に気づき,険しい顔で首を振って,闇の中に追い出したのです。わたしは心が痛みました。

後でその小さな子供は戻って来ました。壁に沿って足を滑らせ,パンからわたしの方へちらっと目を移しました。先ほどの女性にまた見つかりそうな場所に近づいています。わたしが両手を広げると走って来たので,ひざの上に抱き上げました。

そして,何かを象徴するように,わたしはこの子をタトル長老のいすに座らせたのです。閉会の祈りが終わると,この空腹の幼い男の子は,夜の闇の中に一目散に走って行ってしまいました。

わたしは本国に帰ると,スペンサー・W・キンボール大管長にこの経験について話しました。大管長は深く心を動かされて,「あなたは一つの民をひざの上に置いたのです」とわたしに言いました。そして,「その経験には,あなたにはまだ分からない大きな意味があります」と何度となく言ったのです。

わたしはラテンアメリカの諸国を100回近く訪問していますが,その度にあの幼い少年を人々の中に探しました。今では,キンボール大管長の言葉の意味が確かに分かります。

また,ソルトレーク・シティーでも路上で震える少年に出会いました。これも寒い冬の夜が更けたころのことです。クリスマスディナーが終わってホテルを出ると,通りの方から少年が6人か8人,どやどやとやって来ました。皆寒い外に出ないで家にいればいいのにとわたしは思いました。

一人の少年はコートを着ておらず,寒さを払いのけるために小刻みに跳びはねていました。その少年はわき道を走って見えなくなりました。きっと,狭く粗末なアパートに帰って,体を温めてくれる寝具も十分にないベッドに入ったのでしょう。

夜布団に入るとき,暖かいベッドのない人たちのためにわたしは祈りをささげます。

第二次世界大戦が終わったとき,わたしは大阪に駐屯していました。町はがれきの山で,道にはブロックや建物の残骸が散らかり,爆撃で地面のあちこちに穴が開いていました。木はほとんどなぎ倒されていましたが,中には枝や幹を吹き飛ばされながらもまだ立っていて,けなげに小枝を伸ばし,葉を付けている木も何本かありました。

ぼろぼろになった色鮮やかな着物を着た小さな女の子が,黄色いカエデの葉をせっせと集めていました。周囲の荒廃に気づいていないかのように,がれきの中を歩き回って葉っぱを見つけては束に加えていました。自分の世界に一つ残された美しいものを見つけていたのです。恐らく,この幼子こそ世界に残された美しいものだと言うべきでしょう。この幼子のことを思うと,なぜかわたしの信仰は増します。子供とは希望そのものなのです。

「幼い​​子供​たち​は,……​キリスト​に​よって​生きて​いる」1ので悔い改める必要がないとモルモンは言っています。

20世紀に入ったころのことです。二人の宣教師が合衆国南部の山岳地帯で働いていました。ある日,ずっと下の方の空き地に人が集まっているのが丘の頂上から見えました。この宣教師たちは大勢の人の中で福音を伝える機会があまりなかったため,その空き地に下りて行きました。

小さな少年がおぼれて亡くなり,葬儀が行われようとしていました。両親は息子の葬式で話してもらうため,牧師を呼んでいました。悲しむ父と母を前にしてこの巡回牧師が説教を始めると,宣教師たちは驚いて後ずさりました。両親はこの聖職者に慰めを期待していたとしたら,がっかりしたことでしょう。

幼い男の子にバプテスマを受けさせなかったことで,牧師は両親を厳しくしかったのです。あれこれ理由をつけてバプテスマを先延ばしにしていたから,今となってはもう手遅れだというのです。幼い男の子は地獄に行ったと牧師はにべもなく両親に言いました。親のせいでその子は果てしなく苦しむことになるというのです。

説教が終わって墓に土がかけられると,長老たちは嘆き悲しむ両親のもとに行き,「わたしたちは主の僕です。お伝えしたいことがあります」と母親に言いました。泣きながら耳を傾ける両親に,二人の長老は啓示の中から言葉を読み,死者と生者の両方を贖う鍵が回復されたことを証しました。

わたしはこの牧師にも幾らか同情を感じます。彼は自分が持っている限りの光と知識で最善のことをしていたのです。しかし,この牧師が伝えられたはずの知識がすべてではありません。完全な福音があるのです。

この長老たちは慰める者として,教師として,主の僕として,また,イエス・キリストの福音の権威ある教導者としてやって来たのです。

わたしが話した子供たちは,天の御父のすべての子供たちを代表しています。「子供たちは神から賜わった嗣業であり,……矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。」2

命を生み出すことは夫婦の大きな責任です。信頼できるふさわしい親となることは,この世の人生で最も大きな課題の一つです。男性も女性も,一人で子供をもうけることはできません。子供には両親がいることになっているのです。つまり,父親と母親です。これに代わり得る形態やプロセスはありません。

ずっと前のことですが,ある女性が,大学生のころボーイフレンドと重大な過ちを犯したと泣きながらわたしに言いました。ボーイフレンドが手続きをして堕胎したのです。やがて二人は卒業して結婚し,何人か子供が生まれました。彼女は今どれほどつらい思いをしているか話しました。自分の家族,自分のかわいい子供たちを見ていると,子供がもう一人いるはずの場所にぽっかりと穴が開いているように感じるそうです。

この夫婦が贖いを理解してその恵みにあずかるならば,そのような経験とそれに伴う苦悩はぬぐい去られるということを知るでしょう。永遠に続く苦しみなどありません。簡単なことではありませんが,そもそも人生とは簡単なものでも公平なものでもないのです。悔い改めれば赦され,その赦しによって永遠に続く望みが得られるのですから,努力する価値があります。

別の夫婦ですが,自分たちの子供を持つことはできないだろうと医者から言われて帰って来たところだと涙ながらに語った若い夫婦がいました。彼らは嘆き悲しんでいました。実はあなたがたは非常に幸運なのですよと言うと,彼らは驚きました。なぜわたしがそんなことを言うのか分からなかったのです。わたしが彼らに言ったのは,親になる能力がありながらも親になることを拒否し,自分たちのことだけを考えてその責任を避ける夫婦よりも,彼らの状況の方がはるかに良いということでした。

わたしは言いました。「お二人が子供を望むなら,その望みによって,この世でも次の世でも祝福をもたらすでしょう。それによって霊的にも情緒的にも強められるからです。最終的には,子供を望んでも得られなかったお二人は,得ることができるのに得ようとしなかった人々よりもはるかに祝福されることでしょう。」

さらには,結婚しないでいるために子供のない人々もいます。中には,自分ではどうすることもできない状況のために独身で子供を育てている母親や父親たちもいます。必ずしも現世でではなくとも,永遠の計画の中で,義にかなった強い望みはかなえられるのです。

「もしわたしたちが,この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとしたら,わたしたちは,すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。」3

教会のすべての活動の究極的な目的は,夫と妻と子供が家庭で幸福に暮らし,福音の原則と律法によって守られ,永遠の神権の聖約によって間違いなく結び固められるようにすることです。夫と妻は,自分たちの第一の召しは,お互いに対するもの,それから子供に対するものであって,この召しから解任されることは決してないことを理解するべきです。

子供を育てる中で分かる最も偉大なことの一つは,ほんとうに大切なことは,自分の親からよりも子供から学ぶことの方がはるかに多いということです。「小さいわらべに導かれ〔る〕」4というイザヤの預言が真実であることをわたしたちは悟ります。

エルサレムで「イエスは幼な子を呼び寄せ,彼らのまん中に立たせて言われた,

『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ,天国にはいることはできないであろう。

この幼な子のように自分を低くする者が,天国でいちばん偉いのである。』」5

「イエスは言われた,『幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である。』

そして手を彼らの上においてから,そこを去って行かれた。」6

モルモン書には,キリストが新世界を訪れられたことが書かれています。キリストは人々を癒し,祝福し,幼子をみもとに連れて来るようお命じになりました。

モルモンは次のように記録しています。「彼ら​は​幼い​子供​たち​を​連れて来て,イエス​の​傍ら​に​降ろした。イエス​は​その​真ん中​に​立って​おられた。また,群衆​は​道​を​譲って,幼い​子供​たち​が​皆,イエス​の​もと​に​来られる​よう​に​した。」7

イエスは次に人々にひざまずくよう命じられました。子供たちに囲まれて救い主はひざまずき,天の御父に祈りをささげられました。祈り終えると救い主は涙を流されました。「また,イエス​は​幼い​子供​たち​を​一人​一人​抱いて​​祝福​し,彼ら​の​ため​に​御父​に​祈られた。

そして,イエス​は​これ​を​終える​と,また​涙​を​流された。」8

救い主が子供たちに抱いておられた気持ちがわたしには理解できます。救い主の模範に従って「幼い​子供​たち​」9のために祈り,祝福し,教えようとするときに,多くのことが学べます。

わたしは11人きょうだいの10番目でした。わたしが知るかぎり,父も母も教会で目立つような召しを受けて奉仕したことはありません。

両親は親という最も大切な召しを忠実に果たしました。父は家庭を義のうちに導き,怒ることも家族に恐れを抱かせることも決してありませんでした。そして,父の頼もしい模範は,母の優しい助言によって倍加しました。パッカー家の一人一人に福音は強い影響力がありました。そして,わたしたちが見るかぎり,その影響力は次の世代にも,そのまた次の世代にも,そのまた次の世代にも及んでいます。

裁きのときに,わたしも父のように良い男性と言われたいです。天の御父から「よくやった」という言葉を聞く前に,まずわたしは肉親である父親からその同じ言葉を聞きたいと望んでいます。

わたしは「教会にあまり活発でない」と言われてもおかしくない父親のもとで育ちながら,なぜ使徒に召され,次に十二使徒定員会会長に召されたのだろうか,と何度も考えました。このような家庭で育ったのは十二使徒の中でわたしだけではありません。

ようやくわたしは,このような家庭で育ったからこそ,自分は今の責任に召されたのだということが分かり,理解できるようになりました。そして,教会で行われるすべてのことの中で,家族で一緒に過ごす方法を指導者が親と子供に提供する必要があるのはなぜかが理解できました。神権指導者は,教会が家族に祝福となるように注意を払わなければなりません。

イエス・キリストの福音に従って生活するということについては,出席簿の数字やグラフでは測ることのできない事柄がたくさんあります。教会員は建物や予算,プログラムや手順のことで忙しく働きますが,それらのことにかかわっているうちに,イエス・キリストの福音の持つほんとうの意味を見過ごしてしまう恐れがあります。

「パッカー会長,これをしてもいいですか」とわたしに聞きに来る人があまりにもたくさんいます。……

わたしは普通,彼らを遮って「だめです」と言います。それをすると新しい活動やプログラムができて,時間的,経済的な負担が家族にかかることになると思うからです。

家族の時間は神聖な時間ですから,守り,尊重するべきです。わたしたちは家族に献身的な愛を示すよう教会員に強く勧めています。

結婚当初,妻とわたしは生まれてくる子供を受け入れ,その出産と育児に伴う責任も受け入れると決心しました。やがて子供たちは自分の家族を持つようになりました。

わたしたちの息子のうち二人は,生まれたときに医師から「この子は長く生きないと思いますよ」と言われました。

どちらのときも,その言葉を聞いて,この小さな息子が生きられるのなら自分の命をささげてもよいとわたしたちは思いました。そんな気持ちになったとき,これこそ天の御父がわたしたち一人一人に対して持っておられる思いなのだということを悟りました。何と神聖な気持ちでしょう。

人生も終わりに近づいた今,家族は永遠に続くものとなり得ることをパッカー姉妹とわたしは理解し,また証します。戒めを守って福音に完全に従うならば,わたしたちは守られ,祝福されます。子供や孫,そしてひ孫のためにささげる祈りは,それぞれの家族が幼い子供に同じように献身的な愛を注いでくれるようにということです。

父親と母親の皆さん,生まれたばかりの子供を次に腕に抱くときには,命の神秘と目的について奥深い洞察を得ることができるでしょう。この教会がなぜこのような教会なのか,なぜ家族は現在と永遠にわたって基本的な組織なのか,皆さんはさらによく分かるようになるでしょう。イエス・キリストの福音は真実であり,幸福の計画とも呼ばれる贖いの計画は,家族のための計画であることを証します。教会の家族が,親と子供たちが祝福され,この業が御父の御心のままに転がり進むように主にお祈りします。このことをイエス・キリストの御名によって証します,アーメン。