キリストはわたしをどう思われるか
主を愛し,主を信頼し,主を信じ,主に従うとき,主の愛と承認を感じることでしょう。
ブラジルの大手雑誌社から派遣されたレポーターが,特集記事を組むに当たって,この教会を取材しました。1彼はわたしたちの教義を研究し,宣教師訓練センターと人道支援センターを訪問しました。教会の友人だけでなく教会に対してあまり好意的でない人とも話をしました。その後,わたしとのインタビューで,このレポーターはほんとうに当惑している表情を浮かべながら,こう尋ねたのです。「皆さんのことをクリスチャンではないと思っている人がいますが,これはどういうことでしょうか。」彼が教会全体のことを話しているのは分かっていましたが,わたしは自分に向けられた質問と感じ,心の中でこう自問しました。「わたしの生活は,わたしが救い主に対して感じている愛や献身を反映しているだろうか。」
イエスはパリサイ人にこう尋ねられました。「あなたがたはキリストをどう思うか。」2最後の裁きのときに,わたしたち個人が主の弟子になっているかどうかを裁くのは,友人でもなければ敵でもありません。むしろパウロが言っているように,「わたしたちはみな,神のさばきの座の前に立つので〔す〕。」3その日,わたしたち一人一人にとって次のような質問が重みを帯びてきます。「キリストはわたしをどう思われるか。」
イエスは全人類を愛しておられました。しかし,イエスを取り巻く人々の中には,偽善者,4愚かな人,5不法を働く者6と称され,主にとがめられた人々もいました。御国の子7,世の光8と呼ばれ,主に良しとされた人々もいました。目をくらまされた人9,実を結ばなくなる人10と称され,主に非難された人々もいました。心の清い人11,義に飢えかわいている人12として主に褒められた人々もいました。不信仰な人13,この世の者14として主の嘆きを買った人々もいましたが,選ばれた者15,弟子16,友17として主に尊ばれた人々もいました。そのようなわけで,わたしたちはそれぞれ次のように自問します。「キリストはわたしをどう思われるか。」
トーマス・S・モンソン大管長は,今日の社会は「霊的なものから」遠く隔り,「わたしたちの周りで世の中が変わり,社会の道徳基準が目の前で崩れていこうと〔している〕」と語っています。18キリストとキリストの教えを信じず,ないがしろにする傾向が増してきている時代なのです。
この激動する環境の中で,イエス・キリストの弟子であることはわたしたちにとって大きな喜びです。わたしたちは主の御手が世界中に伸べられているのを目の当たりにしています。わたしたちの目的地へと続く道は美しく整えられています。イエスはこう祈られました。「永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわれたイエス・キリストとを知ることであります。」19この末日に弟子となることは,永遠に輝く勲章となることでしょう。
この大会期間中に聞いたメッセージは,弟子としての旅の途上で主から与えられる道標です。この2日間に大会の話を聞き,霊的な導きを求めて祈り,耳を傾け,さらには,これらのメッセージについてこれからの数か月間,研究し祈るときに,主は聖霊の賜物を通して,わたしたちの状況に見合った指示を授けてくださいます。このようにするときに感じる気持ちは,わたしたちをさらに神へと向けさせ,悔い改め,従順,信仰,そして信頼へと導いてくれます。救い主はわたしたちの信仰ある行いにこたえてくださいます。「もしだれでもわたしを愛するならば,わたしの言葉を守るであろう。そして,わたしの父はその人を愛し,また,わたしたちはその人のところに行って,その人と一緒に住むであろう。」20
「わたしに従ってきなさい」21というイエスの呼びかけは,霊的なオリンピックで競争に参加できる人だけに向けられたものではありません。実は,主の弟子になることは,決して競争ではなく,すべての人に対する招きなのです。主の弟子としての旅は競技場のトラックを走る短距離走でもなければ長距離マラソンでもありません。実は,よりすばらしい世界を目指す,生涯をかけた旅なのです。
この招きは日々の務めへの呼びかけです。イエスはこう言っておられます。「もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしのいましめを守るべきである。」22「だれでもわたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,日々自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさい。」23わたしたちはいつも最高の状態というわけにはいかないかもしれませんが,わたしたちが努力しているかぎり,イエスの招きは励ましと希望に満ちています。「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」24
今,主の弟子としての道を歩んでいるのであれば,その道のどの地点にいようとも,皆さんは正しい道,すなわち永遠の命へと続く道を歩いていることになります。わたしたちの前途には偉大でかけがえのない日々が待ち受けています。その中でわたしたちは互いに高め合い強め合うことができます。どのような困難に直面しようとも,どのような弱点に縛りつけられようとも,あるいはまたどのような信じ難いことに取り巻かれようとも,「信ずる者には,どんな事でもできる」と宣言された神の御子を信じる信仰を持とうではありませんか。25
主の弟子として行動する二つの例を紹介しましょう。最初の例はトーマス・S・モンソン大管長の生涯から引用します。この例から,小さな思いやりと「あなたがたのうちでいちばん偉い者は,仕える人でなければならない」というイエスの教えには力があることが分かります。26
20年ほど前のこと,モンソン大管長は総大会で癌を患っている12歳の若い女性について話しました。彼女の勇気と彼女をユタ中部にあるティンパノゴス山の頂上まで抱えて行った友人たちの思いやりがテーマでした。
数年後,わたしはジェイミー・パーマー・ブリントンに会って,同じ話を別の視点,すなわちモンソン大管長が彼女のために何をしたかという視点から聞きました。
ジェイミーは1993年3月にモンソン大管長に会いました。それは右ひざ上部のはれ物は急激に悪化する骨肉種だと医者から言われた翌日のことでした。彼女の父親とともに,モンソン大管長は神権の祝福を施し,「イエスはあなたの右におられ,また左におられ,あなたを支えてくださるでしょう」と約束しました。
ジェイミーはこう語っています。「その日,モンソン大管長のオフィスを離れるとき,わたしは自分の車いすにつないであった風船を外して,彼にあげました。『あなたは最高。』風船には色鮮やかな文字でそう書かれていました。」
化学療法と四肢温存手術の間も,モンソン大管長は彼女のことを忘れませんでした。ジェイミーはこう語っています。「モンソン大管長は,キリストの真の弟子になるとはどういうことかを模範で示してくれました。〔大管長は〕わたしを悲しみから大きく揺るぎない希望へと引き上げてくれたのです。」最初の出会いから3年後,ジェイミーはモンソン大管長のオフィスに再び訪れる機会がありました。この2度目の出会いの最後にモンソン大管長がしてくれたことをジェイミーは決して忘れないでしょう。いかにも思いやりのあるモンソン大管長らしい行為でした。3年前にジェイミーからもらった風船で彼女を驚かせたのです。「あなたは最高!」と記されたあるの風船です。モンソン大管長は,癌が治ったら,彼女が自分のオフィスを再び訪れると分かっていて,その風船を取っておいたのです。ジェイミーとの最初の出会いから14年後,モンソン大管長はソルトレーク神殿でジェーソン・ブリントンとの彼女の結婚式を執り行いました。27
わたしたちはモンソン大管長が主の弟子として示した模範から多くのことを学ぶことができます。モンソン大管長は中央幹部に,次の簡単な質問について心に留める大切さをよく思い起こさせてくれます。「イエスなら,どうされるだろうか。」
イエスは会堂司に言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい。」28主の弟子になるとは,平穏なときだけでなく,困難なときにも主を信じることです。主はわたしたちを愛し御自身の約束を守られます。そのことを確信することによってのみ,わたしたちの痛みや苦痛は和らげられます。
わたしは最近,主をどのように信じるかをすばらしい模範によって示した家族に会いました。ハイチのポルトープランスに住むオルガン・サンテラス,ソリン・サンテラス夫妻です。二人は次のような話をしてくれました。
2010年1月12日,地震がハイチを襲い壊滅的な被害をもたらしました。そのときオルガンは職場,ソリンは教会にいました。3人の子供たち,ガンチ(5歳),アンジー(3歳),ガンスリー(1歳)は自宅のアパートにいました。一人の友人が付き添っていました。
町のあちこちが見るも無残な有様でした。皆さんも記憶しているとおり,あの1月にハイチで何万人もの人々が命を失いました。オルガンとソリンは,子供たちを探すために,自分たちのアパートに駆けつけました。サンテラス家が住んでいた3階建てのアパートの建物は崩壊していました。
子供たちは逃げ遅れていました。建物の崩壊があまりにもひどい場合,救助活動は行われませんでした。
オルガン・サンテラスとソリン・サンテラスは二人とも専任宣教師として奉仕し,神殿で結婚していました。彼らは救い主を信じ,自分たちに対する救い主の約束を信じていました。しかし,悲しみは深く,涙がとめどもなく流れ落ちました。
オルガンは,最もつらいその状況の中で次のように祈り始めたと語っています。「天の父なる神様,もし御心にかなうことでしたら,一人だけでも,子供を生かしてください。どうかわたしたちをお助けください。」何度も何度も,彼は霊感を祈り求めながら,建物の周辺を歩き回りました。隣人たちは彼を慰め,子供が亡くなったという事実を受け入れさせようとしました。それでもオルガンは,希望を持ち,祈りながら,倒壊した建物のがれき周辺を歩き回りました。そのとき,途方もなく奇跡的なことが起こりました。オルガンの耳に,小さな赤ちゃんの泣き声がかすかに聞こえたのです。それはほかでもない彼の赤ちゃんの泣き声でした。
隣人たちは,何時間も,必死になって,自分の身を危険にさらしながら,がれきを掘り起こしました。夜が来て辺りはまっ暗になりました。耳をつんざくようなハンマーとのみの音が響き渡る中,救助活動を行っている人たちはもう一つの音を耳にしました。彼らは作業の手を止めて,音のする方向へと耳を傾けました。自分たちの耳が信じられませんでした。小さな子供の声だったのです。しかも,歌っていたのです。後日談ですが,5歳のガンチは,歌を歌ったら父親が自分の声に気づくのを知っていたと語っています。落ちてきた重たいコンクリートの下敷きになり,後に腕を切断することになりましたが,そんな状況で,ガンチはお気に入りの歌「神の子です」を歌っていました。29
時間が経過し,ハイチに住む多くの貴い神の息子,娘たちが暗闇,死,そして絶望を経験していたとき,サンテラス家は奇跡を経験しました。ガンチ,アンジー,ガンスリーは押しつぶされた建物の下から生きて発見されたのです。30
奇跡はいつもそのように即座に起こるわけではありません。時折わたしたちは,熱心に祈り求めている奇跡がどうして今ここで起きないのだろうと考え込んでしまうことがあります。しかし,救い主に信頼を置いているかぎり,約束された奇跡は起こります。現世か来世か分かりませんが,すべてはしかるべき形に収まるのです。救い主はこう宣言しておられます。「あなたがたは心を騒がせるな,またおじけるな。」31「あなたがたは,この世ではなやみがある。しかし,勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」32
主を愛し,主を信頼し,主を信じ,主に従うとき,主の愛と承認を感じることを証します。「キリストはわたしをどう思われるか」と自問するときに,皆さんは主の弟子であり,主の友であることが分かるでしょう。主はその恵みによって,皆さんが自分一人の力ではできないことを皆さんに代わってしてくださいます。
わたしたちは愛する預言者の最後のお話を心から楽しみにしています。トーマス・S・モンソン大管長は,わたしが12歳のときに,主イエス・キリストの使徒として聖任されました。48年以上もの間,わたしたちは祝福されて,彼がイエス・キリストについて証するのを聞いてきました。わたしは彼が現在,この地上における救い主の先任使徒であることを証します。
この教会の会員ではない多くのイエス・キリストの弟子たちに対し心からの愛と尊敬を抱きつつも,わたしたちはへりくだり宣言します。わたしたちの時代に天使がこの地上を再び訪れました。主が古代に設立されたように,イエス・キリストの教会が,力,儀式,天の祝福を伴って回復されたのです。モルモン書はイエス・キリストのもう一つの証です。
わたしはイエス・キリストが世の救い主であり,わたしたちの罪のために苦しみと死を経験し,3日目によみがえられたことを証します。主は復活されました。将来,いつの日か,すべてのひざがかがみ,すべての舌が,彼こそキリストであると告白することでしょう。33その日,わたしたちの関心は,「周囲の人々はわたしをクリスチャンだと考えているか」ということには向けられないでしょう。そのとき,わたしたちの目は主に釘付けとなり,わたしたちの心は次の質問に集中するでしょう。「キリストはわたしをどう思われるか。」主は生きておられます。このことをイエス・キリストの御名によって証します。アーメン。