人生というレース
わたしたちはどこから来て,なぜここにいるのか,この世を去った後はどこへ行くのか。この万人の抱く疑問は,もはや疑問ではなく,はっきりと解決されたのです。
愛する兄弟姉妹の皆さん,今朝,わたしは永遠の真理,すなわち人生を豊かにし,家庭に平安をもたらす真理についてお話ししたいと思います。
周りを見渡せばだれもが慌ただしく,ジェット機は大切な乗客を乗せ,広大な大陸や大海原の上を飛び回っています。営業会議に出席し,責務を果たし,休暇を満喫し,家族を訪問するためです。高速道路であれ一般道路であれ,どこの道路でも,無数の車が,それをさらに上回る数の人々を乗せ,ひっきりなしに,また様々な理由で走り続けています。わたしたちは来る日も来る日も,仕事で飛び回っているのです。
この慌ただしい生活の中で,わたしたちは立ち止まり,瞑想する時間,すなわち永遠の真理に思いをはせる時間を取っているでしょうか。
永遠の真理に比べると,日常生活のほとんどの問題や悩みは実にささいなものです。夕食は何にしようか,リビングルームはどんな色に塗るべきだろうか,息子をサッカーチームに入会させるべきだろうか。こういった問題や悩み,またこれに類するほかの無数の問題や悩みは,例えば,愛する者が傷を負った,突然健康を害する者が出た,命のろうそくが消えかかり,暗闇が迫っているといった危機的な状況に置かれたときには,取るに足りないものとなります。わたしたちの思いは研ぎ澄まされ,何が大切で何がささいなものか即座に判断できるようになります。
最近,わたしはある女性のもとを訪問しました。2年以上にわたって,生死にかかわる病気と闘っている女性です。彼女は,健康を害する前の生活について,家を完璧に掃除し,屋内を美しい調度品で満たすといったことばかりしていたと話してくれました。週に2回美容室へ行き,洋服ダンスに追加する衣装のために毎月お金と時間を費やしました。孫を家に招待することはほとんどありませんでした。その小さく不注意な手で自分にとっては貴重な持ち物を壊されたり,そこまでは行かなくても,汚されたりするのが心配でたまらなかったからです。
そんなある日,彼女は衝撃的なことを知らされます。自分の死期が近づいており,これから先,残された時間がわずかしかないというのです。彼女は,医師の診断を聞いたその瞬間,すぐに,残された時間をすべて家族や友人とともに過ごし,福音を中心とした生活を送る決意をしたと語っています。それらが自分にとって最も価値あることだったからです。
この女性のように劇的な環境に置かれることはまれでしょうが,そのような目覚めはわたしたちのだれもがいつかは経験することです。人生でほんとうに大切なものは何か,どのような人生を送るべきなのか,わたしたちははっきりと理解するのです。
救い主はこう言っておられます。
「あなたがたは自分のために,虫が食い,さびがつき,また,盗人らが押し入って盗み出すような地上に,宝をたくわえてはならない。
むしろ自分のため,虫も食わず,さびもつかず,また,盗人らが押し入って盗み出すこともない天に,宝をたくわえなさい。
あなたの宝のある所には,心もあるからである。」1
これ以上ないほどに深く思い巡ぐらしたり,必要に迫られたりしたときに,人々の心は,人はどこから来て,なぜここにいるのか,この世を去った後にどこへ行くのかといった,人生最大の疑問に対する神聖な答えを求めて,神の方向へ向きます。
これらの疑問に対する答えは,大学の教科書を開いても,インターネットで調べても分かるものではありません。これらは,この世を超越した永遠にかかわる問題なのです。
人はどこから来たのか。これは,すべての人が,口に出さないまでもいやおうなく思いをはせる質問です。
使徒パウロは,マルスの丘のアテネ人に,わたしたちは「神の子孫なのである」2と言いました。自分の肉体をこの世の両親から受け継いでいることを知っているわたしたちは,このパウロの言葉の意味を,もっと真剣に考える必要があるのではないでしょうか。主はこのように宣言されました。「霊と体が人を成す。」3したがって,この霊をわたしたちは神から受け継いでいるのです。ヘブル人への手紙の著者は,神のことを「たましいの父」と呼んでいます。4すべての人の霊は,文字どおり「神のもとに生まれた息子や娘」5なのです。
わたしたちがこのような事柄について深く考えられるように,霊感を受けた詩人が心打つメッセージを書き,超越した思いを記していることに注目しましょう。ウィリアム・ワーズワースがこの真理を次のように歌い上げています。
われらの誕生はただ眠りと前世の忘却とに過ぎず。
われらとともに昇りし魂,生命の星は,
かつて何処かに沈みて,
遥かより来たれり。
過ぎ去りし昔を忘れしにあらず,
また赤裸にて来りしにあらず,
栄光の雲を曳きつつ,
われらの故郷なる神のもとより来りぬ
われらの幼(いと)けなきとき,天国はわれらのめぐりにありき。6
両親は教え鼓舞する責任や,導き,指示を与え,模範を示す責任について深く思い巡らします。こうして両親の自覚が深まっていく一方で,子供たち,特に青少年たちは,「わたしたちはなぜここにいるのか」という鋭い疑問を抱き始め,「自分はなぜここにいるのだろう」と心ひそかに問いかけるようになります。
賢明な創造主は地球を創造し,そこにわたしたちを置いてくださいました。そして前世を忘却の幕で覆い,わたしたちが試しの生涯,そして神が備えてくださったすべてのものを受けるにふさわしくなるために自らを証明する機会を経験できるようにしてくださいました。
わたしたちがこの世にあるおもな目的の一つは,骨肉の体を受けることです。また,わたしたちは選択の自由という賜物を与えられています。わたしたちは実に多くの面で,自由に自分で選択することができます。この世にあって,わたしたちは経験という厳しい教師からいろいろなことを学びます。また,善と悪を見分け,人生の苦楽を味わい,自分の行為には結果が伴うということに気づきます。
神の戒めに従順になることにより,わたしたちは次のイエスの言葉にある「家」にふさわしくなるのです。「わたしの父の家には,すまいがたくさんある。……わたしは……あなたがたのために,場所を用意しに行くのだから。……わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」7
わたしたちは「栄光の雲をひきつつ」この世に生まれてきますが,それでも人生は容赦なく流れて行きます。子供はやがて青年となり,知らぬ間にゆっくりと大人になっていきます。わたしたちは人生の旅路を進んでいく中で,様々な経験をし,助けを受けるためには神の方向を向く必要があるということを学びます。
父なる神と主イエス・キリストは,完成へと至る道を示してくださいます。御二方は,わたしたちが永遠の真理に従うことを選び,御自身が完全であられるように,わたしたちも完全になることを望んでおられるのです。8
使徒パウロは,人生を,レースにたとえています。彼はヘブル人に次のように強く勧めました。「わたしたちは,……からみつく罪……をかなぐり捨てて,わたしたちの参加すべき競争を,耐え忍んで走りぬこうではないか。」9
伝道の書に記されている次のような賢明な勧告にぜひ耳を傾けていただきたいと思います。「必ずしも速い者が競争に勝つのではな〔い。〕」10実は,終わりまで堪え忍ぶ者こそが,勝利を手にするのです。
人生というレースについて考えるとき,わたしはいつも子供時代にしたあるレースを思い出します。仲良しの男の子たちとポケットナイフを手にしたわたしは,柔らかい柳の木で小さなおもちゃの舟を作りました。小さな三角形の布で作った帆をかけただけのその舟を,少年たちは流れのやや急なユタ州のプロボ川に浮かし,競争させたのです。岸辺を駆けながら,わたしたちはその小さな舟が時には急流の中で荒々しく,深みの所では静かに流れて行くさまを見守りました。
このようなレースに興じていたあるときのことです。一つの舟がゴールの方に先頭を切って流れて行くのが見えました。すると突然,流れに乗った舟が大きな渦巻の中に入ってしまったのです。舟はあっという間に傾き,転覆してしまいました。回転しながら流されていくその舟は,どうしても元の流れには戻れませんでした。とうとう舟は,緑色をしたこけの繊毛にからまり,水に浮かぶいろいろながらくたの中に埋もれてしまいました。
子供時代に作ったそのおもちゃの舟には,安定させるための竜骨,方向舵,動力は一切付いていませんでした。そのため,船の行く先は,抵抗の最も少ない川下しかなかったのです。
そのような舟とは違い,わたしたちは行く先を導いてくれる天与の特質を身に付けています。わたしたちは人生という川の流れに,何も付けずに放り込まれたのではありません。考え,判断し,達成する力を備えて,この世に来たのです。
天の御父は,わたしたちが無事にみもとへ帰れるよう神の導きを受けることのできる手段を講じたうえで,わたしたちを永遠の航海に送り出してくださいました。その手段とは祈りです。わたしたちの心に,静かな細い声として聞こえる,御霊のささやきです。もちろん,わたしたちが立派にゴールへ到達できるよう助けるために与えられ,主の言葉と預言者の言葉が収録されている聖典も見過ごすことはできません。
この世にあってわたしたちは,足もとがふらつき,笑顔が消え,病の苦痛に身を置くことがあります。すなわち,夏が去り,秋が来てやがて冷たい冬を迎えるのです。この経験をわたしたちは死と呼んでいます。
思慮深い人ならだれでも,年老いたヨブの要を得た次の質問を自らに問いかけたことがあるはずです。「人がもし死ねば,また生きるでしょうか。」11この問いかけは,どんなに払いのけてもまた押し寄せてきます。死はすべての人にやって来ます。おぼつかない足どりで歩いている年老いた人々に,そして人生の半ばを過ぎたばかりの人々にも死は容赦なくやって来ます。また時折,死は,幼い子供たちの笑い声までも奪ってしまうのです。
いったい死の向こうには何があるのでしょうか。死によって何もかも終わりを告げるのでしょうか。ロバート・ブラッチフォードは,その著『神とわたしの隣人』(God and My Neighbor)で,神,キリスト,祈り,そして特に不死不滅といったキリスト教世界で受け入れられている信条を激しく攻撃しました。人の存在は死で終わり,それ以外のことを証明できる者などいないと断言したのです。それから驚くべきことが起こりました。彼の取り囲んでいた無神論の壁が,突然,崩れ落ちたのです。彼はむき出しで無防備の状態になりました。それから彼は少しずつ,かつてはあざ笑い放棄した信仰へと戻る道を探し始めました。彼の物の見方がこれほど大きく変化したきっかけは何だったのでしょうか。それは彼の妻の死でした。そのとき,彼は打ちひしがれた心で,妻のなきがらが横たえられた部屋に入り,自分がこよなく愛した妻の顔をもう一度見ました。部屋から出て来たとき,彼は友人にこう言いました。「あれは彼女ですが,彼女ではありません。すべてが変わってしまいました。以前彼女の中にあった何かが,取り去られてしまったのです。もはや同じ彼女ではありません。霊以外に,取り去られるものがあるでしょうか。」
後に,彼はこう記しています。「死とは一部の人が想像しているようなものとは異なる。それはもう一つの部屋に入るようなものだ。その別の部屋でわたしたちは,自分たちがかつて愛し失ったいとしい女性や男性,かわいい子供たちと……再会するのだ。」12
兄弟姉妹の皆さん,わたしたちは死によって人生が終わりを告げるのではないことを知っています。この真理は,いつの時代でも,生ける預言者によって教えられてきました。聖典の中にも見いだすことができます。モルモン書の中には,次のような言葉が記されています。
「さて,死と復活の間の人の状態についてであるが,見よ,天使がわたしに知らせてくれたところによれば,すべての人の霊は,この死すべき体を離れるやいなや,まことに,善い霊であろうと悪い霊であろうと,彼らに命を与えられた神のみもとへ連れ戻される。
そして,義人の霊はパラダイスと呼ばれる幸福な状態,すなわち安息の状態,平安な状態に迎え入れられ,彼らはそこであらゆる災難と,あらゆる不安と憂いを離れて休む。」13
救い主は十字架につけられました。その体は,3日間墓の中に横たえられた後,再び霊と結合しました。石は取りのけられ,復活された贖い主は不死不滅の肉体をもって歩み出られたのです。
「人がもし死ねば,また生きるでしょうか。」ヨブのこの疑問は,マリヤとほかの人々が墓に近づいたとき,次のように語る,輝く衣を着た二人の男の人を見たことで,はっきりとこたえられました。「あなたがたは,なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは,ここにはおられない。よみがえられたのだ。」14
キリストが死に対して勝利を収められたことにより,わたしたちは皆復活します。すなわち贖われるのです。パウロはこう書いています。15
わたしたちが求めているのは日の栄えです。わたしたちが望んでいるのは,神のみもとで暮らし,永遠の家族の一員となることです。そして,これらの祝福は,生涯にわたって努力し,求め,悔い改め,ついには成し遂げることによって,確かに得られるのです。
わたしたちはどこから来て,なぜここにいるのか,この世を去った後はどこへ行くのか。この万人の抱く疑問は,もはや疑問ではなく,はっきりと解決されたのです。心の底から,深くへりくだり,わたしはこれまでお話ししてきたことが真実であると証します。
天の御父は,戒めを守る人々を喜ばれるだけでなく,堕落した人々や気乗りのしない10代の子供たち,気まぐれな若者たち,怠慢な親たちのことも深く気にかけておられます。また,主はこれらの人々を含めすべての人に,優しくこう呼びかけておられます。「戻って来なさい。上がって来なさい。入って来なさい。家に入って,わたしのもとに来なさい」と。
1週間すると,わたしたちは復活祭を祝います。救い主の生涯と死,そして復活に思いをはせます。主の特別な証人として,わたしは皆さんに証します。主は生きておられ,わたしたちが勝利のうちに帰って来るのを待っておられます。そのように帰ることができるよう,主の聖なる御名,すなわちイエス・キリスト,救い主,そしてわたしたちの贖い主の御名によって,へりくだりお祈りします。アーメン。