2010–2019
主はわたしたちを心から愛しておられる
2012年4月


11:29

主はわたしたちを心から愛しておられる

天によって定められた家族という規範のおかげで,わたしたちは天の御父がわたしたち一人一人を等しく,心から愛してくださっていることをよりよく理解できます。

わたしは専任宣教師といるのが大好きです。宣教師は信仰,希望,純粋な慈愛にあふれています。伝道の経験は,人生を1年半あるいは2年間を凝縮図したようなものです。宣教師は伝道地に着いたときは霊の赤ん坊のように,学ぶことに強い意欲を持っており,帰るころには成熟した大人のように,目の前のいかなるチャレンジにも立ち向かう備えができているように見えます。わたしは献身的なシニア宣教師も大好きです。彼らは忍耐と知恵と落ち着き払った自信にあふれています。周りの若い宣教師から醸し出される若々しい活気に安定と愛の賜物をもたらします。専任宣教師とシニア宣教師の双方は善に対してたくましく,根気強さを備えており,彼ら自身の生活にも,彼らが奉仕する人々にも,計り知れない影響を及ぼします。

最近,二人のすばらしい若い宣教師から,彼らの経験や働きを聞きました。いろいろな出来事を振り返りながら,彼らはその日に接触した人々について考えました。何人かはほかの人よりもよい反応を示していました。二人はこのように自問しました。「どうすれば,一人一人が天の御父についてもっと知りたいと思えるように助けられるだろうか。どうすれば彼らが御霊を感じるのを助けられるだろうか。どうすればわたしたちが彼らを愛していることを知ってもらえるだろうか。」

わたしは心の中で,伝道が終わって3,4年後のその二人の若い青年の姿が想像できました。永遠の伴侶を見つけ,長老定員会で奉仕したり,若い男性を教えたりしている姿が浮かびました。今度は求道者ではなく,自分が養うために召された定員会の会員や若い男性について同じ質問を自問することでしょう。伝道で経験したことが,残りの生涯で人を養う際のひな形にできることが分かりました。これらの義にかなった弟子たちの軍勢が伝道を終えて地上の様々な国々に戻ると,教会を築く業の中で重要な貢献者になっています。

モルモン書の預言者リーハイも,自分が受けた指示と示現に対する息子の返事に耳を傾けながら,宣教師たちと同じことを自問したかもしれません。「このように,いちばん年上のレーマンとレムエルは父に対してつぶやいた。彼らがつぶやいたのは,自分たちを造られたあの神の計らいを知らないためであった。」(1ニーファイ2:12

わたしたちも個々に,リーハイが二人の年長の息子に感じたもどかしさを味わったことがあるかもしれません。道をそれていく子供,福音を受け入れない求道者,あるいはあまり反応のない長老になる見込みのある会員と向き合うときに,わたしたちもリーハイのように胸を痛め,次のように自問するかもしれません。どうすれば彼らがこの世のことで思い煩うことなく,御霊を感じ御霊に耳を傾けられるようにできるだろうか。世の煩いがあっても,道を見いだす助けとなる聖句がわたしの心に二つ浮かんできて,神の愛の力を感じます。

ニーファイは学びという扉の鍵を自分の経験により示しています。「わたしニーファイは……神の奥義を知りたいという大きな望みを抱いていたので,主に叫び求めた。すると見よ,主がわたしを訪れ,心を和らげてくださったので,わたしは,父がこれまでに語った言葉をすべて信じた。そのためにわたしは,兄たちのように父に逆らおうとはしなかったのである。」(1ニーファイ2:16

知りたいという望みを起こすことは,天の声を聞く霊的な力を与えてくれます。その望みを呼び起こす方法を見いだしてはぐくむことは,すべての宣教師,親,教師,指導者,会員を含むわたしたち一人一人が探求すべきことであり,責任です。知りたいという望みが心の中で芽生えるのを感じるなら,二つ目の聖句を学ぶ備えができます。

1831年6月,初期の教会指導者に召しが与えられているとき,ジョセフ・スミスは「サタン〔が〕地の方々におり,出て行ってもろもろの国民を惑わす」と言われました。この世的な悪い影響と戦えるように,主はわたしたちが「欺かれないために,……すべてのことに関して規範」を与えてくださるとおっしゃいました(教義と聖約52:14)。

規範とは,神の目的にに沿ったひな形や指針,繰り返し行う手順,道です。規範に従えば,わたしたちは謙遜であり続け,感覚を研ぎ澄まさせ,聖霊の声とほかのこの世的なもので煩わせて道からそれさせる声を見分けることができます。そして主はこのような指示を与えておられます。「わたしの力の下でおののく者は強くされ,わたしがあなたがたに与えたもろもろの啓示と真理にかなって賛美と知恵の実を結ぶであろう。」(教義と聖約52:17

誠心誠意ささげる謙遜な祈りの祝福として,聖霊がわたしたちの心の琴線に触れ,現世に生まれる前に知っていた事柄を思い出すのを助けてくださいます。わたしたちは天の御父が下さった計画を明確に理解すると,ほかの人が御父の計画を学び理解するのを助ける責任があることを認め始めます。わたしたちが個人的に福音に添って生活し,福音を実践していく姿は,人が思い出すのを助けることに密接に関連しています。イエス・キリストが教えられた規範に倣って,実際に福音に添った生活をすると,人を助ける力が増します。以下はこの原則がどのように作用するのかを示す一例です。

二人の若い宣教師がドアをたたきました。自分たちのメッセージを聞いてくれる人を探していたのです。ドアが開いて,わりと体格の大きな男性が,友好的とは言い難い声で彼らを出迎えました。「二度とうちのドアをたたくなと言ったはずだ。今度来たら不快な思いをさせると警告しただろう。ほっといてくれ。」男性はあっという間にドアを閉めてしまいました。

長老たちがそこを去るとき,年上の,より多くの経験を積んできた宣教師が後輩宣教師を慰め,励まそうとして彼の肩に腕を乗せました。宣教師たちは知りませんでしたが,男性は宣教師が言われたとおりにするかどうか確かめるために窓から見ていました。男性は,宣教師が自分のそっけない対応を笑い,軽んじるに違いないと思っていました。しかし,宣教師が互いを思いやるのを見て,男性の心は瞬時に和らげられました。彼はドアを再び開け,戻って来てメッセージを教えてほしいと宣教師に頼みました。

わたしたちが御霊を感じるのは,神の御心に従い,主の規範に倣って生活するときなのです。救い主はこのように教えられました。「互に愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう。」(ヨハネ13:35)互いに愛し合い,思いと言葉と行いをキリストに焦点を当てたものとする能力をはぐくむ原則は,キリストの弟子となり,その福音を教える教師となるうえで重要です。

わたしたちはこの望みをわき起こすことで約束された規範を探す準備ができます。規範を求めると,救い主やその預言者である指導者が教えたとおりのキリストの教義を見いだします。この教義の規範には,終わりまで堪え忍ぶことが含まれます。「その日,わたしのシオンを起こそうと努める者は幸いである。彼らは聖霊の賜物と力を受けるであろう。また,彼らは最後まで堪え忍ぶならば,終わりの日に高く上げられて,小羊の永遠の王国に救われるであろう。」(1ニーファイ13:37

わたしたちが聖霊の賜物と力を享受できる究極の方法は何でしょうか。それは,イエス・キリストの忠実な弟子となることでもたらされる力です。それは,主と同胞を愛する心です。救い主は愛の規範を定義して次のように教えておられます。「わたしは,新しいいましめをあなたがたに与える。互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34

ゴードン・B・ヒンクレー大管長が次のように教えました。「『主を愛しなさい』ということは,単なる勧告ではありません。そうするのが望ましいという程度のものでもありません。それは……戒めなのです。……神の愛はすべての徳,善,人格の力,善へ導く忠実さの源です。」(「生ける預言者の言葉」『聖徒の道』1996年12月号,8;“Excerpts from Recent Addresses of President Gordon B. Hinckley,”  Ensign,1996年4月号,73)

天の御父の計画はさらに,わたしたちが愛の力を学び,実践し,理解できるように,家族という規範を示しています。わたしの家族が組織された日,愛する妻のアンとわたしは神殿に行って,結婚の聖約を交わしました。その日,妻をほんとうに愛していると思いましたが,まだ愛というもののほんの一端を見たにすぎませんでした。子供や孫が一人ずつわたしたちの人生に加わるにつれ,わたしたちの愛はさらに大きくなり,一人一人を等しく心から愛しました。愛が広がり大きくなるのに限りはないようです。

天の御父に愛されているという実感は,わたしたちを天に引き寄せる引力のようなものです。この世に引き込む悪影響を取り除き,選択の自由を行使して御父を求めることで,わたしたちは御父に近づけてくれる日の栄えの力に対して心を開きます。ニーファイはその力の強さを「肉体が燃え尽きるほど」であると表現しています(2ニーファイ4:21)。アルマはこの同じ愛の力を感じて「贖いをもたらす愛の歌」を歌いました(アルマ5:269節も参照)。御父の愛を感じたモルモンは感銘を受けて,「この愛で満たされるように,……〔わたしたちの〕熱意を込めて御父に祈りなさい」と勧告しました(モロナイ7:48)。

現代の聖文も,古代の聖文も,天の御父が子供たちに抱いておられる永遠の愛を思い出させてくれます。天の御父の御腕がいつでも差し伸べられており,わたしたち一人一人を抱き,あの静かな,心を貫く声で「愛している」とおっしゃることを確信しています。

天によって定められた家族という規範のおかげで,わたしたちは天の御父がわたしたち一人一人を等しく,心から愛してくださっていることをよりよく理解できます。わたしはこれが真実であると証します。神はわたしたちを御存じで,愛しておられます。御自分の聖なる場所をわたしたちに示してくださり,わたしたちが御自分のもとへ帰るための原則と規範を教える預言者や使徒を召されました。わたしたちが,自分やほかの人たちの心の中に知りたいという願望を呼び起こすよう努め,わたしたちが見いだす規範に添って生活するときに,主に近くなれるでしょう。イエスが神の御子,すなわち手本を示す者,愛する贖い主であられることを,イエス・キリストの御名により証します。アーメン。