総大会
放蕩の果てに—家へと続く道
2023年10月総大会


14:32

放蕩の果てに—家へと続く道

数々の選択によって,救い主と主の教会から遠く離れてしまったとしても,偉大な癒し主は,家へと続く道に立ち,あなたを迎え入れてくださいます。

ある人に,二人の息子があった

これは,史上最高の短編ストーリーとも言われている物語です。1世界中の何千という言語に翻訳されており,過去2,000年にわたって,世界のどこかでこの物語が引き合いに出されることなしに日が沈んだことはないと言えるでしょう。

わたしたちの救い主,贖い主であり,「失われたものを……救うため」に地上に来られたイエス・キリストによって語られたものです。2主は次のシンプルな言葉で始められました。「ある人に,ふたりのむすこがあった。」3

わたしたちはすぐに,悲しい対立を知ることになります。一人の息子4が父親に,家での生活はもうたくさんだと言います。彼は自由が欲しく,両親の文化や教えから解放されたいと思っていました。そして父親の財産から自分の分を今すぐ欲しいと要求します。5

この言葉を聞いたときの父親の気持ちを想像できるでしょうか。息子が何にも増して望んでいるのは家族のもとを離れることであり,恐らく二度と戻らないだろうと知ったのです。

大いなる冒険

息子は待ち受ける冒険と刺激に胸を高鳴らせていたことでしょう。ついに,自分で生きていくことができます。若いころに身を置いた文化が説く原則や規則から解き放たれ,両親の影響を受けることなく,ようやく自分で選ぶ力を発揮できるのです。もう罪悪感もありません。馬の合う人々に受け入れられ,思うがままに人生を満喫できます。

遠く離れた国にたどり着いた彼は,すぐに新たな友人を作り,ずっと夢見てきた生活を送り始めます。自由奔放に金銭を費やす彼は,人気者だったことでしょう。新たな友人たちは,浪費に身を持ち崩す彼の恩恵を受けていますから,彼を裁くことなどありません。彼の選択をたたえ,称賛し,支持してくれます。6

もしそのころにソーシャルメディアがあったなら,彼のページは楽しげな友人たちとの生き生きとした写真で埋め尽くされていたことでしょう。「#最高の人生」「#幸せの絶頂」「#もっと前にこうするべきだった」,こんなハッシュタグが思い浮かびます。

飢饉

しかし世の常として,パーティーのような日々は長続きしませんでした。二つのことが起こりました。一つは,財産を使い果たしたこと,もう一つは,その地方を飢饉が襲ったことです。7

状況が悪化するにつれ,彼はパニックに陥りました。かつては向かうところ敵なしで,舞い上がっていた浪費家が,今となっては寝泊りする場所はおろか,食事一つする余裕もなくなってしまったのです。生き延びることなどできるのでしょうか。

友人たちに気前良く振る舞ってきたのですから,彼らが助けてくれるでしょうか。生活を立て直すまで,ほんの少しの間,ささやかな援助を求める彼の姿が思い浮かびます。

聖文では,このように伝えられています。「何もくれる人はなかった。」8

何とか生き延びようと,豚の飼育係として雇ってくれる地元の農家を見つけました。9

今や極度の空腹に襲われ,見捨てられ,孤独に陥った若者は,どうして物事がこれほど恐ろしく,ひどく誤った方向に運んでしまったのかと,戸惑ったことでしょう。

彼を悩ませたのは,空腹だけではありませんでした。霊的に飢えていたのです。この世的な欲望に身を任せることで幸せを得られると確信していた彼にとって,道徳に関する律法は,その幸福を妨げるものでした。でもよく分かりました。そのことを知るために,何という代価を払わなければならなかったことでしょう。10

肉体的にも霊的にも飢えが激しさを増すにつれ,彼は父親のことを思い出すようになります。こんなことをしてきたのに,助けてくれるでしょうか。父親の僕たちの最も身分が低い者でさえ,食べるものがあり,嵐から身を守る場所があります。

父親のもとに戻るべきでしょうか。

あり得ません。

親の財産を使い切ってしまったことを,村中に打ち明けるというのでしょうか。

できるはずがありません。

家族の顔に泥を塗り,両親を悲嘆に暮れさせることになると彼に忠告していた隣人たちと顔を合わせるというのでしょうか。自由を得るのだと自慢して去ったというのに,かつての友人たちのもとに戻るのでしょうか。

とうてい耐えられません。

それでも,飢えや孤独,自責の念は消えることなく,ついに「彼は本心に立ちかえ〔り〕」11ました。

なすべきことは分かっていました。

帰還

さて,失意のどん底にある家長である,父親の話に戻りましょう。何百時間,きっと何千時間を,息子について思い悩んで過ごしてきたことでしょう。

息子が歩いて行った道を幾度眺め,遠ざかっていく息子を見ながら感じた,突き刺すような喪失感が幾度よみがえってきたことでしょう。息子が無事であるように,真理を見いだせるように,戻って来るように神に懇願しながら,真夜中に幾度祈りをささげてきたことでしょう。

そんなある日,父親がそのひっそりとした道—家へと続く道—に目をやると,こちらに向かって遠くから歩いて来る人影が目に入ります。

そんなことがあり得るでしょうか。

ずっと遠くにいるにもかかわらず,父親は瞬時にして,それが自分の息子だと分かりました。

父親は息子に走り寄り,抱き締め,接吻します。12

「父よ」と息子が声を上げました。こう言おうと何度も何度も練習を重ねていたに違いありません。「わたしは天に対しても,あなたにむかっても,罪を犯しました。もう,あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ,雇人のひとり同様にしてください。」13

しかし父親は,息子がそれを言い終える前に,目に涙を浮かべながら,僕たちに言いつけます。「家にある最上の着物を出してきてこの子に着せ,指輪をはめ,履物をはかせなさい。祝宴を開こうではないか。息子が戻って来たのだから。」14

祝宴

わたしのオフィスには,ドイツの画家,リヒャルト・ブルデの絵が飾ってあります。ハリエットとわたしはその絵が大好きです。救い主のたとえの中から,心を動かされる一つの場面が,深い視点をもって描かれています。

「戻って来た放蕩息子」リヒャルト・ブルデ画

息子の帰還にほぼ全員が歓喜する中,一人だけ異なる思いを抱く人物がいます。—兄です。15

彼は感情的な重荷を負っていました。

弟が財産の取り分を要求したとき,彼はその場にいました。父親にのしかかった苦悩の重みを目の当たりにしてきました。

弟が去ってからというもの,父親の重荷を取り除こうとしてきました。来る日も来る日も,父親の傷ついた心を癒そうと努めてきました。

あの向こう見ずな子が戻ってきた今,人々は不従順な弟をちやほやせずにはいられないようです。

兄は父に向かって言います。「何年もの間,一度でもあなたの言いつけに背いたことはなかったのに,その間,あなたがわたしを祝ってくれたことはありませんでした。」16

愛にあふれた父親は答えます。「愛する子よ,わたしのものは全部あなたのものではないか。褒美や祝いを比較することに意味はない。この祝いは,癒しにかかわるものであり,わたしたちが何年もずっと待ち望んできた瞬間なのだ。あなたの弟は,死んでいたのに生き返り,いなくなっていたのに見つかったのだから。」17

現代のためのたとえ

愛する兄弟姉妹,愛する友人の皆さん,救い主のあらゆるたとえと同じように,このたとえは,遠い昔に生きていた人々に限った話ではありません。今日を生きる皆さんやわたしにも当てはまります。

わたしたちの中に,愚かにも自己中心的な我が道を歩むことでもっと幸せになれると思い込み,聖なる道からそれた経験のない人がいるでしょうか。

へりくだり,打ちひしがれ,赦しと憐れみを必死に求めたことのない人がいるでしょうか。

きっとこのように思ったことがある人もいるでしょう。「戻ることは可能なのだろうか。わたしは永遠に烙印を押され,拒まれ,かつての友に避けられるだろうか。このままさまよっている方が良いのだろうか。わたしが戻ろうとしたら,神はどんな反応を示されるだろうか。」

このたとえは,その答えを与えてくれています。

天の御父は,愛と思いやりにあふれた心で,わたしたちに駆け寄ってくださいます。わたしたちを抱き締めてくださいます。着物を着せ,指輪をはめ,履物をはかせ,このように告げられるのです。「今日は祝いの日だ。死んでいたわが子が生き返ったのだから。」

天は,わたしたちの帰還に喜びの声を上げるでしょう。

言葉につくせない,輝きにみちた喜び

少し時間を取って,皆さんに個人的にお話ししてもよろしいでしょうか。

あなたの人生でこれまでに何が起こってきたとしても,わたしは愛する友人であり同僚である使徒のジェフリー・R・ホランド長老の次の言葉を繰り返し,宣言します。「キリストの贖い〔の犠牲〕の無限の光が届かない深みなどあり得ないのです。」18

数々の選択によって,救い主と主の教会から遠く離れてしまったとしても,偉大な癒し主は,家へと続く道に立ち,あなたを迎え入れてくださいます。また,イエス・キリスト教会の会員として,わたしたちは主の模範に倣うように努め,あなたを兄弟姉妹として,友として迎え入れます。わたしたちはあなたとともに喜び,祝います。

あなたの帰還によって,ほかの人の祝福が減ることはありません。御父の豊かな恵みには限りがなく,ある人に与えられるもののためにほかの人の生得権が減るようなことは少しもないのです。19

戻って来るのが簡単なことだとは思っていません。そのことを証できます。実際,これ以上ないほど難しい選択かもしれません。

でもわたしは証します。あなたが救い主,贖い主の道に戻り,その道を歩もうと決意した瞬間に,主の力があなたの人生に流れ込み,あなたの人生を変えることでしょう。20

天にいる天使たちは喜ぶでしょう。

キリストにあってあなたの家族である,わたしたちも喜びます。つまるところ,わたしたちは放蕩者であることがどういうものかを知っています。わたしたちは皆,同じキリストの贖いの力に日々頼っています。わたしたちはこの道を知っており,あなたとともに歩んでいきます。

この道を歩めば,憂いや悲しみ,やるせなさから解放されるわけではありません。でも「キリストを信じる確固とした信仰をもってキリストの言葉に従い,人を救う力を備えておられるこの御方の功徳にひたすら頼〔る〕」ことで,わたしたちはここまで進んで来ました。そしてともに,「これからもキリストを確固として信じ,完全な希望の輝きを持ち,神とすべての人を愛して力強く進〔んで〕」21いきます。ともに「言葉につくせない,輝きにみちた喜びにあふれ」22ます。イエス・キリストはわたしたちの強さだからです。23

わたしたち一人一人が,この深遠なたとえの中に,家へと続く道に入るようにと呼びかけておられる御父の声を聞くことができますように。勇気をもって悔い改め,赦しを受け,思いやりと憐れみに満ちた神のもとに戻る道を進むことができますように。わたしはこのことを証し,皆さんに祝福を残します。イエス・キリストの御名により,アーメン。

  1. ルカ15章にあるこのたとえは,3つのたとえ(失われた羊,失われた銀貨,失われた息子)の一つであり,失われたものの持つ価値が示され,失われたものが見つかったときに祝われる様子が描かれています。

  2. ルカ19:10

  3. ルカ15:11

  4. この息子は,年若い人物であったと思われます。彼は未婚であり,そのことは彼が若かったことを示していると言えるかもしれません。ただ,父の財産を要求し,受け取るやいなや家を出ていくことが許されるほどの年齢には達していたことが伺えます。

  5. ユダヤ人の律法および伝統の下では,二人の息子のうち年長の者が,父親の財産の3分の2を受け継ぐ権利がありました。したがって,年下の息子は3分の1を得る権利がありました。(申命21:17参照)

  6. ルカ15:13参照

  7. ルカ15:14参照

  8. ルカ15:16

  9. ユダヤ人にとって,豚は「汚れたもの」(申命14:8参照),不快なものとされていました。教えを実践していたユダヤ人は豚を育てなかったでしょうから,この監督者は異邦人であったと思われます。また,ユダヤ人の教えに従う世界から離れるために,この若い息子がどれほど遠くまで旅していたかも示唆しています。

  10. ニール・A・マックスウェル長老は次のように教えています。「もちろん,環境に〔よって謙遜になるよう〕強いられるのでなく,『御言葉のために』進んでへりくだる方がよいのですが,強制されるのも効果的かもしれません(アルマ32:13-14参照)。空腹は霊的な飢えを引き起こすことがあります。」(「世の誘いと誘惑」『リアホナ』2001年1月号,43)

  11. ルカ15:17

  12. ルカ15:20参照

  13. ルカ15:18-19,21参照

  14. ルカ15:22-24参照

  15. 弟の方はすでに自分の取り分を受け取っていたことを思い起こしてください。つまり,兄からすれば,それ以外のものはすべて自分のものということになります。弟に何かを与えることは,家にとどまっていた兄の財産からそれを取り上げることを意味していたはずです。

  16. ルカ15:29参照

  17. ルカ15:31-32参照

  18. ジェフリー・R・ホランド「ぶどう園の労働者たち」『リアホナ』2012年5月号,31

  19. ある人に与えられるもののためにほかの人の生得権が減るようなことは少しもありません。救い主は,マタイ20:1-16で労働者のたとえを語った際,この教義を教えられました。

  20. アルマ34:31参照

  21. 2ニーファイ31:19-20

  22. 1ペテロ1:8

  23. 詩篇28:7参照