「準備が整ったことを証明するとき」『聖徒たち—末日におけるイエス・キリスト教会の物語』第3巻「大胆かつ気高く,悠然と」1893-1955年,第2章
第2章:準備が整ったことを証明するとき
第2章
準備が整ったことを証明するとき
アメリカ合衆国の聖徒たちが世間から受け入れられるようになってきたころ,ジョン・ジェームズという名の宣教師がイングランド南西部で聴衆からやじを浴びせられていました。ある集会では,一人の男性がユタの聖徒たちは人殺しだと言い張りました。別の集会では,宣教師たちは若い女性を誘惑して多妻結婚の妻として連れて行くためにイングランドに来たのだと言う人がいました。そして,少しすると別の人が,ジョンと同僚たちは聖書を信じていない,と集まった人々に信じ込ませようとしました。ジョンたちが聖書を使って説教していたにもかかわらず,そう言ったのです。
またある集会では,一人の男性が宣教師たちの話を遮り,「自分はソルトレーク・シティーに行ったことがあるが,200人の女性が一つの小屋に集められていて,ブリガム・ヤング本人がそこにやって来て好きなだけ妻を選ぶのを見た」と言いました。ユタで生まれ育ったジョンは,その話がばかげていることを知っていました。しかし,反論しても聴衆は聞いてくれません。
ジョンは,教会を批判する人々が主張する教会についての知識はそのほとんどがウィリアム・ジャーマンから吹き込まれたものだと考えていました。ウィリアムと妻のマリアは,1860年代の終わりにイングランドで教会に加わりました。しばらくして,二人は子供たちと,婦人服仕立ての仕事をしていたマリアのお針子エミリー・リチャーズと一緒にニューヨークに移住しました。当時,マリアは知らなかったのですが,エミリーはウィリアムの子供を身ごもっていました。やがて一家はユタに移り,ウィリアムはエミリーと多妻結婚をして,ニューヨークの雇用主から盗んだと思われる節のある品物で乾物屋を始めます。
シオンで生活しても,ウィリアムの生き方は変わりませんでした。妻に暴力を振るう夫であることが分かり,マリアとエミリーはウィリアムと離婚します。ウィリアムはまた,重窃盗罪で起訴され,裁判所が不起訴にするまで刑務所に入っていたこともあります。教会に見切りを付けたウィリアムは,教会に反論する講演をして生計を立てるようになり,イングランドに戻りました。彼は長男アルバートを殺害したとして聖徒たちを非難し,その痛ましい話で聴衆の涙を誘いました。1
ジョン・ジェームズが英国に到着したのは,ウィリアムが講演活動を始めて何年もしてからでした。ウィリアムは教会を批判する本も出版しており,ウィリアムの信奉者たちが宣教師を襲うこともありました。ある町では,ウィリアムの信奉者が数人,長老たちに石を投げつけ,石が一人の長老の目に当たったこともありました。2
このような危険な状況にもかかわらず,ジョンは英国で福音を広めると固く心に決めていました。彼は「ジャーマンの話を聞いた人々からひどい妨害を受けています」と伝道部の指導者に報告しています。「でも,あらゆる面でうまく対応できていますので,集会を続けるつもりです。」3
「ジャーマンは相変わらず,これ以上ない悪辣な言葉でわたしたちを批判する講演を続けている」と,使徒アンソン・ランドはユタにいる妻セイニーに書き送っています。イングランドのリバプールに本部を置くヨーロッパ伝道部の会長に新たに召されたばかりのアンソンは,ウィリアム・ジャーマンが主の業にとって脅威であることをよく知っていました。多くの宣教師はこの講演者を気が狂っているのだと見なして相手にしなかったのですが,アンソンは,ジャーマンが狡猾な批評家であり,その欺瞞を過小評価すべきではないと考えていました。4
少年時代にデンマークで教会に加わったアンソンは,ヨーロッパで末日聖徒でいることの大変さも理解していました。自分の信じていることに反論されても,ユタの聖徒たちならば信者仲間の大きなコミュニティーの中で確信と強さを失わないでいられます。しかし,大西洋の向こう側では,8,000人の末日聖徒が西ヨーロッパとトルコに散らばっていました。聖徒たちの多くは改宗したばかりで,指導力と精神的な支えを宣教師に頼ることの多い小さな支部に通っていました。ジャーマンのような人物が教会を攻撃すると,このような支部が特に影響を受けやすいのです。5
アンソンは,1893年の夏から秋にかけてイギリス,スカンジナビア,オランダを訪問し,支部が経験する困難な状況を目の当たりにしました。教会が最も強いイングランドでさえ,聖徒たちが互いに遠く離れて住んでいたために,力を合わせて助け合うことは困難でした。時には宣教師が,20~30年も教会との接触がない聖徒に思いがけず出会うこともありました。6
アンソンは,ヨーロッパのほかの地域でも同じような問題があることを知りました。デンマークには教会に反対する説教を行っている人気のある牧師がいましたし,ノルウェーやスウェーデンで会った宣教師や教会員は,時々地方自治体やほかの教会から反対されていると言っていました。またオランダでは,モルモン書以外に自分たちの言語で書かれた教会の資料がほとんどないために,聖徒たちは苦労していました。
ヨーロッパ大陸の全土で聖徒たちは福音に献身していました。しかし,実際に活況を呈している支部はほとんどなく,教会の会員数が減少している地域もありました。7
数十年にわたり,ヨーロッパの聖徒たちは,教会の基盤がもっとよく整っているユタに集合していました。しかし,合衆国政府が聖徒たちの中で多妻結婚が広がるのを阻止しようと1880年代の終わりに永代移民基金を凍結したため,教会はユタへの移住を望む貧しい聖徒たちに資金を融資することができなくなっていたのです。最近では,世界的な経済危機により,多くのヨーロッパ人がますます貧困に陥っていました。移民するために貯金してきた聖徒の中にも,その計画を断念せざるを得ない人たちがいました。8
合衆国移民局の職員による入国審査も,厳しくなっていました。ヨーロッパの聖徒が多妻結婚をするためにユタに来ることを恐れる人々がまだいたため,教会指導者は,移民する人たちは目立たないように小さなグループで大西洋を渡るようにという指示を出しました。実際,アンソンがヨーロッパに到着した直後,大管長会は138人の聖徒をユタに送り出したとしてアンソンを叱責しています。大管長会は,50人を超える移民を一度に送らないようにと彼に警告しました。9
大規模な移民を実行する資金も権限もなかったアンソンは,公の場では集合について話さなくなりました。しかし,私的な集まりでは,経済的に余裕があるならば移住するようにと聖徒たちに勧めていました。11月下旬,イングランドに戻ったアンソンは,ユタに行くのに十分なお金を貯めた年配の女性に出会うと,自分の家族が住んでいる所からそう遠くないマンタイに定住するようにと勧めています。
「神殿で働いて余生を楽しむことができるだろう」と考えたのでした。10
そのころ,レア・ダンフォードはソルトレーク・シティーに戻り,ハーバード大学にいるジョン・ウィッツォーに長い手紙を書いていました。約束通り,レアはジョンの母親アンナに会いに行きました。夫を亡くしたアンナは44歳で,ソルトレーク神殿の南に住んでいました。アンナは,訪ねて来たレアに,ジョンが作った本棚を見せました。学者のジョンが木工細工も器用にこなすことに驚いたレアは,「よかった。これでジョンをからかえます」と言いました。
「あら」とアンナが言いました。「ジョンと文通してるのね。」
レアは「はい」と言いましたが,アンナが自分たちの交際に反対なのかもしれないと,急に不安になりました。しかしアンナは,ジョンにレアのような友人がいてよかったと言ってくれたのです。11
健康とフィットネスのコースを修了したレアは,合衆国中西部の大学で勉強を続けたいと考えていました。けれども,レアの母親は,ジョセフ・F・スミスとジョージ・Q・キャノンに相談した結果,教会が設立されていない場所へ一人で行かせるのはやめた方がよいと考えました。
レアはがっかりしましたが,ソルトレーク・シティーにある教会の学校に入学し,そこの校長であり,教会で最も尊敬されている学者であるジェームズ・E・タルメージの教える自然科学と化学の授業を取りました。レアはその大学の授業が好きでしたし,教授たちから多くを学びましたが,ハーバード大学で学ぶジョンを羨ましく思っていました。
「ああ,わたしも男だったらよかったのに」と彼女はジョンに書き送っています。「男性だったら何でもできるのに,女性が男性の世話や食事の支度以外のことを考えたら,『身の程知らず』と言われてしまいます。」
彼女はタルメージ教授から絶大な支持を受けました。教授はレアに,教会の学校で教えることを志す若い女性がもっと増えてほしいと言ってくれたのです。ジョンも応援してくれて,こんな手紙をくれました。「自分をささげて人のために尽くそうとするあなたの決意に,これ以上ない称賛を送ります。信仰と祈りをもって,できるかぎり応援します。」12
1893年12月のある日曜日,アンナ・ウィッツォーがレアの家を訪れました。彼女はノルウェーでの自分の改宗と,教会に入ったころに経験したことを話しました。「とても楽しい時間でした」とレアはジョンに知らせています。「宗教のために人々がどれほど大きな犠牲を払ってきたかを聞くと,自分がとても利己的でふさわしくないと感じます。」
レアは,同年代の聖徒たちが,ともすると霊的に進歩するよりお金を稼ぐことに興味があるように思えて,残念に思っていたのです。新しい世代の若者を強めるために,教会は1870年代に青年女子相互発達協会と青年男子相互発達協会を設立していました。これらの組織に所属する若者たちは,通常週に一度,週日の夜に集まって福音を学び,才能を伸ばして,礼儀作法を身につけ,交流を楽しんでいました。二つの組織はそれぞれ機関誌の発行もしていました。『若い女性ジャーナル』(Young Woman’s Journal)と『コントリビューター』(Contributor)です。また,そのほかに,青少年の指導者が聖文や教会歴史,健康,科学,文学に関するレッスンを教えるための手引きもありました。13
若い男性には,伝道に出る時が来るのを待つ楽しみがありました。伝道は霊的な成長の助けとなります。しかし,女性には正式な伝道の機会が与えられていませんでした。成人した若い女性は扶助協会の組織を通して近所の人に奉仕することができましたが,レアの世代は,扶助協会を母親の世代のための古風な組織と見なす傾向がありました。レアは,さらに霊的な強さを得るために,地元の教会員と一緒に礼拝し,定期的に断食して,福音を学ぶ機会をほかにも探し求めました。
大みそかの夜,レアは自分の母親が教えているプロボの日曜学校のクラスの女性たちと一緒に特別集会に出席しました。ノーブーの扶助協会に所属していたジーナ・ヤングとメアリー・イサベラ・ホーンが訪問し,教会の初期の時代とジョセフ・スミスの預言者としての召しについて話してくれたのです。
「霊的に大いに満たされました」とレアはジョンに伝えています。部屋にいた女性たち全員が一人ずつ証を述べました。「大勢の前で証をしたり,宗教について話したりするのは初めての経験でした」とレアは書いています。「とても楽しい会でした。」14
1894年元日,ジョージ・Q・キャノンは,家族が健康であることを心から主に感謝しながら目覚めました。「わたしたちには食べ物,衣服,住居がある」と彼は日記に記しています。「家は快適だし,足りない物は何もない。」15
前年は教会にとって良い年でした。聖徒たちはソルトレーク神殿を奉献し,扶助協会とタバナクル合唱団は万国博覧会で成功を収め,教会は財政的な破綻を辛うじて免れることができました。12月下旬には,合衆国下院がユタ準州に州昇格の申請をする許可を与え,聖徒たちは1849年以来追い求めてきた目標に一歩近づいたのです。
「ユタにこのようなことが起こるとだれが予測できただろう。」ジョージは日記にこう記しています。「全能の神の力がなかったら,成し遂げることはできなかった。」
しかし,年が明けると,ジョージとほかの教会指導者は新たな問題に直面します。1月12日,合衆国政府は,エドマンズ・タッカー法の下で教会から没収していた資金のうちの約43万8千ドルを返還しました。しかし,残念ながら,返還された金額は,教会の借入金を完済するには足りなかったのです。教会指導者は資金が返還されたことに感謝しつつも,返還金が,政府が聖徒たちから奪った金額の半分にも満たないと信じていました。17
依然として資金が不足していたため,大管長会はその後もローンを組んで教会運営費を捻出しました。安定した雇用を産み,ユタ準州に収益をもたらすために,教会は幾つかの地元企業への投資も行いました。この投資の中には,聖徒たちの職探しに役立ったものもありましたが,うまくいかずに,教会の負債を増やしたものもありました。18
3月初旬,十二使徒定員会会長のロレンゾ・スノーは,自分の直近の先祖のための神殿儀式の執行について大管長会に助言を求めました。特に,生前に福音を受け入れなかった両親への子供の結び固めについて知りたかったのです。 19
両親に子供たちを結び固める儀式が初めて行われたのは,ノーブーでした。当時,両親が教会員でなかった何人かの聖徒たちは,養子縁組によって教会指導者と結び固められることを選びました。そうすることで,永遠の家族の一員としての座を確かにし,来世において聖徒たちのコミュニティーを築くことができると信じていたからです。
聖徒たちがユタに到着してからは,セントジョージ神殿が奉献されるまで養子縁組の結び固めと子供と親の結び固めは行われませんでした。セントジョージ神殿の奉献以来,多くの聖徒が養子縁組によって使徒やその他の教会指導者の家族に結び固めれることを選んでいました。実際,当時の教会の慣習では,女性と,生前福音を受け入れなかった男性との結び固めは許されていませんでした。つまり,伴侶を失った末日聖徒の女性は,教会に入ったことのない亡くなった夫に結び固められることができなかったのです。この慣行は,時に耐え難い苦痛をもたらしました。20
ジョージは長年,養子縁組による結び固めについて違和感を抱いていました。若者だったノーブー時代,彼は両親が忠実な教会員だったにもかかわらず,養子縁組によって,おじのジョン・テーラー家族に結び固められていたのです。ほかの教会員も,忠実な末日聖徒の両親よりも使徒に結び固められることを選んでいました。ジョージは,この慣習によって聖徒たちの間に派閥意識が生まれたと信じるようになっていました。そして1890年,ジョージとそのきょうだいはジョン・テーラー家族との結び固めを取り消し,セントジョージ神殿において,亡くなった自分たちの両親に結び固められ,家族の自然な愛情のきずなを確認したのです。21
大管長会がロレンゾの家族のケースについて話し合ったときに,ジョージは一つの解決策を提案しています。「彼の父親とその兄弟を彼の祖父に結び固め,それからその祖父とそのきょうだいを祖父の両親に結び固めるというように,できる限りさかのぼって結び固めてはどうでしょうか。」
ウィルフォード・ウッドラフとジョセフ・F・スミスは,ジョージの提案に満足しているようでした。二人とも,養子縁組による結び固めには問題があると,人知れず感じていたのです。それにもかかわらず,ウッドラフ大管長は,ただちに養子縁組の慣習の変更を承認する用意ができていませんでした。ジョージは,遠からずこの問題について主の御心が明らかにされるという希望を持っていました。22
「この養子縁組の教義については,よく知られていないのが実情だ」と,ジョージは日記に記しています。「これらのことについて知るのはわたしたちの特権であり,主がわたしたちを思いやり,知識を授けてくださると信じている。」23
イングランドで最も声高に教会を批判していた人物の息子アルバート・ジャーマンは,陰惨な殺人事件の犠牲者などではありませんでした。1894年の春,彼はイギリスで宣教師として奉仕しており,彼の存在そのものが父親のうそを証明していたのです。24
伝道地に到着した当初,アルバートはすぐにでも父親と対決したいと考えていました。しかし,伝道部会長のアンソン・ランドは,アルバートには父親ほど狡猾で抜け目のない人物と対峙する準備ができていないことを見抜いていました。そこでアンソンは,若いアルバートをロンドンに派遣し,福音を学んで父親の攻撃に対して備えるように勧めたのです。その間,「父親にきちんとした手紙を書きなさい」とランド会長は助言します。25
ロンドンに落ち着くとすぐに,アルバートは父親に手紙を書いています。手紙は「親愛なるお父さん」という言葉で始まっています。「遠からず,モルモン教徒が息子を殺したといううそを広めたのは間違いだったことに気づけるよう,心から願い,祈っています。
あなたも年を重ねてきました。人があなたの言ったことをうのみにして繰り返すのを読んだり聞いたりすると,わたしはとても心が痛みます。悔い改めた父親と喜んで握手し,もう一度あなたを父と呼んで尊敬することができたら誇りに思います。」26
父親の返事を待つ間,アルバートはロンドンで福音を宣べ伝え,教えました。「自分の知識の及ぶ限り熱心に学んでいます」と彼は母マリア・バーンズに書き送っています。「説教はまだ大してうまくないですが,家に帰るまでにはうまくなっていたいと思います。」
間もなく,アルバートのもとに父親から急ぎの返事が届きます。「会いに来たらいい」とウィリアムは手紙に書いていました。「喜んで会うよ。」
ウィリアムが凶暴な行動に出かねないことを知っているマリアは,息子が心配でした。しかし,アルバートは父親が自分に危害を加える心配はないと彼女に言い聞かせています。「彼にはそんな力がないから。」そう言って,マリアを安心させました。何よりも,アルバートはウィリアムや,イングランドにいる親戚と話すのを楽しみにしていたのです。
「神が望まれるなら,彼らに自分の証を述べたいです」と書いています。27
ソルトレーク・シティーでは,ウィルフォード・ウッドラフがその顧問と十二使徒定員会に,養子縁組による結び固めについて啓示を受けたことを発表していました。1894年4月の総大会の前夜,ウッドラフは「神殿の儀式には厳しすぎることが幾つかあると常々感じていました」と明言しています。「特に,亡くなった夫と両親に関して,そのように感じます。
主はわたしに,子供がその両親に,そして両親がその両親に,記録を入手できる限りさかのぼって結び固められることは,義にかなっていると言われました」とウッドラフは言葉を続けます。「また,夫が福音を聞いたことがなかった妻が,その夫に結び固められることも義にかなっています。」
神殿の儀式についてはまだまだ学ぶべきことが多いと,ウッドラフ大管長は信じていました。「受ける準備が整ったことを証明するとき,神がそれを明らかにしてくださるでしょう」と約束しました。28
次の日曜日の総大会で,ウッドラフ大管長はジョージ・Q・キャノンに,教義と聖約128章の聖句を教会員に向けて読むようにと言いました。その聖句の中で,ジョセフ・スミスは,終わりの日にエリヤが先祖の心を子孫に,子孫の心をその先祖に向けさせると言っています。「先祖と子孫の間にある事項について固いつながりがなければ,地はのろいをもって打たれる」と預言者ジョセフは明言しています。29
それからウッドラフ管長が説教壇に戻り,「啓示は終わっていません」と宣言しました。「神の業は終わっていません。」そして,ブリガム・ヤングがジョセフ・スミスの業を引き継いで神殿を建設し神殿の儀式を組織的に行ってきたことについて語りました。「しかし,この業に必要なすべての啓示を受けたわけではありませんでした」とウッドラフ大管長は集まった人々に述べています。「テイラー大管長もそうですし,ウィルフォード・ウッドラフもそうです。この業は完成するまで,終わることなく続くのです。」
聖徒たちは受けてきたあらゆる光と知識に基づいて行動してきたと述べたあとで,ウッドラフ大管長は,自身もほかの教会指導者も,主は神殿活動ついてさらに明らかになさると長い間信じてきたと説明しました。「わたしたちは末日聖徒に,今からできるかぎり自分の系図をたどり,自分の父親や母親に結び固められてほしいと思います」と明言しました。「子供たちを両親に結び固め,その結びつきを,鎖のようにできるかぎり長くつないでください。」
彼はまた,女性を福音を受け入れることなく亡くなった夫に結び固めることを禁止していた方針を撤廃すると発表しました。「この方針によって,多くの女性が心を痛めてきました」と彼は言います。「夫が福音を聞いたことがなかったという理由で,なぜ夫に結び固められる機会を女性から奪うのでしょうか。わたしたちは彼について何を知っているのでしょうか。彼が霊界で福音を聞いたら受け入れないでしょうか。」
大管長は,ジョセフ・スミスがカートランド神殿で兄アルビンを見た示現について聴衆に語りました。「『この福音を知らずに死んだ者で,もしとどまることを許されていたらそれを受け入れたであろう者は皆,神の日の栄えの王国を受け継ぐ者となる』」と主は教えておられます。
「皆さんの先祖も同じです」と,ウッドラフ大管長は霊界にいる人々について語りました。「福音を受け入れない人は,もしいたとしても非常にわずかでしょう。」
説教を終える前に,ウッドラフ大管長は自分の言った言葉を深く考えて,亡くなった先祖を探し求めるようにと聖徒たちに強く勧めました。「兄弟姉妹,……記録の作成を続けましょう。主の前に義にかなって記録を埋めていきましょう。この原則を実践しましょう。そうするならば,神の祝福が常にともにあるでしょう。そして将来,贖われた人々がわたしたちを祝福してくれるでしょう。」30