「慎重に祈りをもって」『聖徒たち—末日におけるイエス・キリスト教会の物語』第3巻「大胆かつ気高く,悠然と」1893-1955年(2022年)
第36章:「慎重に祈りをもって」
第36章
慎重に祈りをもって
乗り込んだ列車がグアテマラシティー中央駅を発車すると,クレメンシア・ピバラルは時計に目をやりました。1951年10月10日の朝8時のことです。はるか遠くの空は灰色の雲で暗く覆われ,今にも雨が降りそうです。しかし,駅の上空はすっきりと晴れていました。今日は良い日だと,クレメンシアは思いました。クレメンシアと12歳の息子ロドリゴは,ほかの二人のグアテマラ人聖徒とともに約3,000キロの旅を始めたところでした。目指すのは,アリゾナ州メサにある神殿で開かれる,スペイン語圏の聖徒たちの大きな大会です。1
7年前から毎年,メキシコ,中央アメリカ,合衆国西部から何百人もの聖徒たちがメサに集まって,大会に出席し,神殿活動を行っていました。この行事に来る聖徒の大半は,何年もかけて旅費をためていました。到着した聖徒たちを,アリゾナ州の3つのステークが迎えました。地元の会員たちはやって来た人々に宿を提供し,食事を準備し,この来客たちが神殿で過ごす時間をたくさん取れるようにしました。大会の費用を埋め合わせるため,スペイン語圏の聖徒たちは二つの公演を開催して,入場料を収益としていました。一つはタレントショーで,もう一つは「時は来た」(The Time Is Come)という劇でした。この劇は,スペイン系アメリカ人の伝道部会長を夫に持つアイビー・ジョーンズが系図をテーマにして脚本を書いてくれたものです。2
クレメンシアにとって,この大会に出席するのは今回が初めてでした。クレメンシアが宣教師に出会ったのは1950年の初めです。地方部会長のジョン・オドナルが,クレメンシアの住むグアテマラ第二の大都市ケツァルテナンゴに,二人の宣教師を派遣した直後のことでした。クレメンシアは夫に先立たれた29歳の女性でした。死者のためのバプテスマや神殿,そのほかの福音の原則についてのレッスンをすぐに受け入れたので,教えていた長老たちと姉妹たちは喜びました。数か月後,クレメンシアはグアテマラシティーで視覚,聴覚,言語に障害のある生徒を教える仕事を見つけたため,息子とともにそちらへ移り,オドナル家族をはじめとするグアテマラシティー支部の会員たちとともに教会に出席するようになりました。3
ある日,支部の集会所で教義と聖約を研究していたとき,クレメンシアはメキシコ伝道部会長のルシアン・メチャムから,あなたは教会員ですかと尋ねられました。「いいえ」とクレメンシアは答えました。「まだ宣教師から,バプテスマを受けたいかどうか聞かれていません。」
メチャム会長はすぐにクレメンシアを面接し,宣教師たちから教わったことをすべて信じているかと尋ねました。クレメンシアは信じていると言いました。
「バプテスマを受ける覚悟があるのでしたら,明日はどうですか」と会長は言いました。
「はい!」とクレメンシアは答えました。4
それから1年あまりたった今,クレメンシアはエンダウメントを受けるために,神殿に向かっているところです。グアテマラの教会はまだ小規模で,会員は70名もいません。神殿の祝福を受けたグアテマラ人は,バプテスマを受けた翌年にソルトレーク神殿でエンダウメントと結び固めを受けたカルメン・オドナルを含め,ほんの数人しかいませんでした。5クレメンシアはこの旅に出られたことを喜んでいました。列車内のうだるような暑さに眠気を誘われながらも,グアテマラの海岸の緑豊かな景色を車窓から眺めていると,何物も自分の熱意を萎えさせることはできないと思えました。
クレメンシアと列車内のほかの聖徒たちは,聖典を読んだり,福音について語り合ったりして時間を過ごしました。また,クレメンシアは宗教についてしきりに話したがっている女性にも出会いました。互いの信仰について話した後,クレメンシアは使徒のジョン・A・ウィッツォーの書いた伝道用のパンフレット『回復された真理』(La verdad restaurada)をその女性に渡しました。そして,今度グアテマラシティーに来たときには教会に出席するようにと招きました。6
メキシコシティーに着いた後,クレメンシアを含むグアテマラ人の聖徒たちは,大会に向かっていたメキシコ人の教会員のグループに合流しました。一行はワンボックスカーに乗って,道中歌を歌いながら3日間かけて北上し,10月20日にようやくメサに到着しました。グアテマラ人の聖徒たちはメサで,その月にすでに休暇旅行で合衆国を訪れていたジョン・オドナルとカルメン・オドナルに会いました。7
大会の初めの2日間は,集会と,神殿参入の準備であわただしく過ぎていき,神殿の儀式は大会の3日目である10月23日に始まりました。その日,最初のエンダウメントのセッションには大勢の人々が出ていて,儀式が終わるまでに6時間かかりました。クレメンシアは自身のエンダウメントを受けると,その翌日には,クレメンシアが幼い少女だったころに亡くなった母方の祖母の身代わりの儀式を受けました。さらにその日,クレメンシアは自分にバプテスマを施してくれた宣教師であるラルフ・ブラウンとともに,祖父母の結び固めで身代わりを務めました。8
大会の後,クレメンシアとその息子は,オドナル夫妻とともにソルトレーク・シティーへ旅行しました。一行はテンプルスクウェアを訪れ,クレメンシアとオドナル夫妻はまた,エンダウメントのセッションに入りました。また,ジョン・オドナルは教会指導者たちと会い,グアテマラシティーにおける教会堂と伝道本部の建設について話し合いました。9
主の業は中央アメリカで広がりつつありました。グアテマラと近隣諸国には間もなく伝道部が組織されることになります。
1952年1月15日,ジョン・ウィッツォーはヨーロッパの末日聖徒の移民に関する報告書を大管長会に提出しました。戦争の終結以来,何千人もの聖徒たちが故国を逃れていたことから,大管長会は移民の動きと生活状況を把握するようジョンに依頼していたのです。そうした聖徒の移民先は,南アメリカやアフリカ,オーストラリアも一部ありましたが,大半は,合衆国かカナダでした。宣教師やほかの聖徒たちの勧めや手引きのあることが多かったからです。
移民した教会員が安全な定住先を見つけられたことは良いのですが,ジョンやほかの指導者たちは,苦境にあるヨーロッパの支部がそのような聖徒たちの流出から受ける影響を心配していました。教会がヨーロッパ大陸で発展するためには,聖徒たちに自国に残ってもらう必要がありました。しかし,特に当人たちが非常に多くの試練に取り囲まれている状況で,一体どうすれば自国にとどまるよう彼らを説得できるのでしょうか。
ジョンは18か月前,デンマークのコペンハーゲンで開かれたヨーロッパの伝道部指導者の大会で,すでにこの問題を取り上げていました。その集会では,ヨーロッパの聖徒たちが移民しているのは,新たな戦争の勃発を危惧し,北アメリカの教会で見いだせる安定と支援を切望しているためであるという見解に,数人の伝道部会長が同意しました。
「わたしたちはハンブルクの空襲だけでも28人の会員を亡くしており,聖徒たちはそのことを覚えています」と,ある伝道部会長はジョンに言っています。「アメリカに行きたがっている人たちをどうすれば止められるのか,わたしには分かりません。」
「止められませんよ」と,別の伝道部会長が言いました。「海を泳いで渡れるものなら,会員たちはそうするでしょう。」
ジョンは,ヨーロッパ諸国の中では戦争中の苦難が比較的軽かったデンマークでさえ,聖徒たちが国を離れていることに驚きました。そして会長たちに,どうしたらよいか尋ねました。
「もしヨーロッパに神殿があれば,流出をかなり防げるのではないでしょうか」と,ある伝道部会長が提案しました。
それは,霊感あふれるアイデアでした。ジョンがこれに賛同したこともあって,伝道部会長たちは大管長会に,ヨーロッパに神殿を建てる計画を承認するよう提言しました。「一つ確かなことがあります」と,ジョンは兄弟たちに言っています。「世界中の人々を改宗してアメリカに連れて行くことはできません。」しかし,教会は世界中に神殿を建てることはできるのです。10
ジョンが移民に関する報告書を提出した時点では,大管長会はヨーロッパでの神殿建設について何の発表もしていませんでした。しかし大管長会はすでに,神殿のエンダウメントをヨーロッパの幾つかの言語に翻訳する委員会を監督する権限をジョンに与えていたのです。エンダウメントの儀式は英語とスペイン語でしか行われていなかったので,それ以外の言語を使う聖徒たちは,儀式の言葉を完全に理解することのないままこの儀式を受けていました。
委員会は,オランダのピーター・フラムを含むヨーロッパの数名の聖徒を集めて,既存の神殿での特別セッションで使われることになる翻訳の作成に取り組んでいました。しかし,もし教会がヨーロッパに神殿を建てたなら,多くの国々からやって来る聖徒たちに様々な言語で儀式を提供することができます。11
ジョンの報告書を受け取ってから数か月後,マッケイ大管長は,移民について十二使徒定員会に話しました。ヨーロッパの支部を強める必要性を認めた後,預言者は少し前にイギリス伝道部会長からイギリスに神殿を建てるよう要請があったことに触れました。
マッケイ大管長は十二使徒定員会に次のように言っています。「大管長会の兄弟たちはこの件について慎重に祈りをもって検討しました。そして,イギリスに神殿を建てるのであれば,同時にスイスにも建てるべきであるという結論に至りました。」スイスは二つの世界大戦の間に中立国であり続けたことから,政治的な安定を得ていました。また,西ヨーロッパの中心近くに位置する国でもあります。
マッケイ大管長の話が終わると,ジョンはこう言いました。「イギリスの人たちと外国語圏の伝道部の人たちは,ヨーロッパに神殿が建つ時を夢見ています。」ジョンは,この大管長会の計画に,全面的な支持を表明しました。そして,その部屋にいただれもが,教会は神殿の建設を進めるべきであることに同意したのです。12
一方,大西洋の向こう側では,ベルリンの町が冷戦の真っただ中にありました。ドイツは1949年に,二つの国に分割されました。ソビエトに占領された東側地域は共産主義の新国家となり,ドイツ民主共和国(GDR)または東ドイツと呼ばれていました。残りの部分はドイツ連邦共和国,すなわち西ドイツとなりました。ベルリンは東ドイツに位置していたものの,ドイツが分割されたとき,この町の西側はフランス,イギリス,および合衆国の支配下にありました。そしてこの町は依然として東西,つまり,共産主義勢力と民主主義勢力の統治下に分割されていたのです。13
東西ベルリン間の移動は,基本的には支障がありませんでした。しかしその春,21歳のヘンリー・ブルクハルトが,連合国側の区域にある東ドイツ伝道部の本部に向かう途中で当局者に制止されました。ヘンリーは東ドイツ出身の宣教師で,ベルリンの南西にあるテューリンゲンという州で地方部会長を務めていました。西ベルリンにはそれまで何度も立ち入ったことがありました。しかし今回は,ヘンリーが什分の一のリストを含む地方部の年次報告書を持っていることに,当局者たちが気づき,この財務記録を見て警戒したのです。東ドイツの経済は低迷していたので,同国の指導者たちは市民が西ドイツに送金したり現金を持ち込んだりすることを禁じていました。
東ドイツの伝道部指導者として,ヘンリーは新しい制限に厳密に従わなければならないことを知っていたので,什分の一の献金はいつも東ドイツ銀行に入金していました。しかし,報告書を国外に持ち出そうとしたことは,当局者から嫌疑をかけられても仕方のない行動であり,ヘンリーはたちまち彼らに拘束されました。
ヘンリーを3日間にわたって拘留した後,当局者たちはヘンリーが何も悪いことをしていなかったという結論を下しました。彼らはヘンリーを解放しましたが,ただしその前に,伝道本部に報告書を届けることを禁じました。14
およそ1か月後,ヘンリーは西ベルリンを再び訪れて,教会の大会に出席しました。東ドイツの市民は,制度上では束縛を受けることなく望むままに礼拝を行えることになっていましたが,政府は外国の宗教を含め,外部の影響が自国民に及ぶことを警戒していました。東ドイツはドイツ人以外の宗教指導者を国外に追放していたので,東ドイツ伝道部に属する北アメリカ出身の宣教師たちは西ベルリンから出ることができませんでした。東ドイツにおけるほかの伝道活動はすべて,ヘンリーのような東ドイツ人に委ねられていました。
大会が終わった後,伝道部会長のアルトゥール・グラウスは,ヘンリーに東ドイツにおける教会の正式な記録係となり,さらに伝道本部と東ドイツの支部を結ぶ連絡役も務めるようにと頼みました。ヘンリーは自分が大会後すぐにテューリンゲンの地方部会長を解任になるものと思い,その新しい務めに力を注ぐことはできると考えました。しかし,ヘンリーはベルリンの地方部会長にも召されるかもしれず,もしかすると伝道部会長会の顧問になるかもしれないことを伝道本部から知らされたのです。
「とにかく」と,ヘンリーは思いました。「何が起きようと,それが主の御心なのだ。」15
2か月後,デビッド・O・マッケイ大管長が大管長となって初めての海外訪問でヨーロッパを訪れたとき,ヘンリーはまだテューリンゲンの地方部会長を務めていました。預言者と妻のエマ・レイ・マッケイは,イギリス,オランダ,デンマーク,スウェーデン,ノルウェー,フィンランド,スイス,フランス,ドイツで6週間過ごすことになっていました。一人の元伝道部会長が,東ドイツを通過する危険を考えるとベルリンには行かない方がよいと助言しましたが,大管長は構うことなく向かいました。ベルリンは,分割されたドイツの両側の聖徒たちが一緒に集まれる場所だったのです。16
マッケイ大管長は1952年6月27日にベルリンに到着しました。滞在中,マッケイ大管長とグラウス会長はヘンリーとの面接を希望しました。マッケイ大管長は面接の最初に,まずヘンリー自身について幾つか質問をしました。それから預言者は,「伝道部会長会の顧問を務めていただけませんか」と言いました。17
ヘンリーは新しい責任の話があることは予期していたものの,この召しには動揺を覚えました。この召しを受ければ,ヘンリーは単に伝道部会長と東ドイツの聖徒を結ぶ連絡役ではなく,伝道部会長会で唯一の東ドイツ人の顧問になるのです。政府は外国の宗教指導者の合法性を認めていないので,ヘンリーは実質的に東ドイツの60以上の支部を管理する教会役員となります。何か教会のことで問題があれば,東ドイツの当局者はヘンリーのもとを訪れるでしょう。
この召しの話を聞いて,ヘンリーは不安になりました。ヘンリーは教会員の家に生まれ育ってはいましたが,まだ若くて経験が不足していました。それに,人前では内気でした。しかし,ヘンリーはそのような心配を口に出しませんでした。主の預言者から召しを伝えられたのですから,ヘンリーはそれを受け入れました。
2週間もたたないうちに,ヘンリーはライプチヒの町に移り,小さな伝道本部を開設しました。そして,その務めに追われながら,地元の政府や神権指導者たちと関係を築くことに尽力しました。しかし,この新しい責任の重圧は相当なもので,ヘンリーはたちまち夜も眠れなくなります。
「なぜわたしなどがこの務めに召されたのだろう」とヘンリーは自問しました。18
ドイツの聖徒たちや宣教師たちと1週間過ごした後,マッケイ大管長とマッケイ姉妹はスイスに向かいました。今回の訪問中,スイスに行くのは2度目になります。大部分の聖徒には知らされていませんでしたが,預言者はヨーロッパを訪れてイギリスとスイスの神殿の用地を選定していたのです。イギリスでは,ロンドンのすぐ南に位置するサリーのニューチャペルで用地を選びました。それから,スイスの首都ベルンに行き,そこで神殿用地を選びました。しかし,続けてオランダに向かった後,大管長はスイス神殿のために選んだ用地が別の団体に買われてしまったことを知りました。また一から探さなければならなくなったのです。19
7月3日,スイス・オーストリア伝道部の指導者であったサミュエル・ブリングハーストとレノラ・ブリングハーストは,チューリッヒ空港でマッケイ夫妻と落ち合いました。一行は車でベルンに向かい,そこで数か所の売地を見て回りました。そして,町外れのツォリコフェンという村にある鉄道の駅に立ち寄りました。マッケイ大管長は左手に目を向け,森のそばにある丘の頂上を指さしました。あの土地を取得できないだろうかと,大管長は考えました。サミュエルは,そこは売りに出ていないと答えました。20
マッケイ大管長は翌朝も場所探しを続けました。そして,ベルン支部の集会所からそう遠くない場所に広い土地を見つけました。そこは神殿にふさわしい環境だったので,大管長はその地所を速やかに購入するようサミュエルに権限を与えました。務めを果たした預言者は次の日にベルンを発ち,訪問の最後の行程に入りました。大管長はバーゼルとパリで大勢の人たちに向けて話をしてから,7月の終わりにソルトレーク・シティーに帰りました。21
マッケイ大管長の帰還後すぐ,大管長会はスイスに神殿を建設する計画を発表します。フランスとスイスの聖徒たちは歓喜しました。教会のフランス語の定期刊行物である『ル・エトワール』(L’Étoile)のある記事は次のように述べています。「このことは教会がヨーロッパにとどまり,ヨーロッパの伝道部の支部を今後も発展させたいと願っていることの,具体的かつ確かな証拠です。」22
しかし,ベルンでは問題が起きていました。サミュエルが神殿用地の購入を成立させることができなかったのです。その地所は30人の相続人がいる土地の一部で,相続人の何人かが売却に反対していました。11月中旬,サミュエルはマッケイ大管長に手紙を書き,その地所が入手できなくなったことを伝えました。
預言者は翌日,サミュエルに電話をかけました。「ブリングハースト会長」とマッケイ大管長は言いました。「わたしたちに反対している,悪意のある勢力があるのですか。」
サミュエルには,その答えが分かりませんでした。「彼らはただ,気が変わったと言ってきただけです」とサミュエルは言いました。
サミュエルは別の二つの地所について説明しました。そのうちの一つはマッケイ大管長が訪問中に指さした,ツォリコフェンの近くの地所です。サミュエルは,そこは理想的な場所であると言いました。喧騒からも人や車の往来からも離れており,なおかつ路面電車の停留所からわずか徒歩4分の距離にあったのです。しかも,その地所は,少し前に売りに出されていました。
会話の間,サミュエルは自分自身が受けた霊的な印象については語りませんでした。サミュエルとレノラは,二つの地所のどちらをマッケイ大管長に推薦するかについて祈ってきていたのです。そしてその週,二人はツォリコフェンの近くの地所を最後にもう一度訪れました。その土地を横切って歩いていたとき,二人は主がこの場所を神殿用地とすることを望んでおられるという,安らかな感覚を覚えました。
「間違いなく,まさにこの場所だよ」とサミュエルはレノラに言いました。
「わたしも同じように感じるわ」とレノラは同意しました。23
サミュエルと話した後,マッケイ大管長が顧問たちに相談すると,顧問たちはその地所を購入するべきだと言いました。大管長はサミュエルに折り返し電話をかけ,地所を購入する許可を与えました。
1週間後,取り引きが成立すると,マッケイ大管長は伝道部会長にねぎらいの言葉を書き送りました。
「前の用地は5か月も交渉を重ねた挙げ句,すべての努力が水の泡となったのに,今度の地所ときたら,市場に出るなり,1週間以内に取り引きが成立するとは」と,預言者は驚嘆しました。「ここには,確かに主の御手がありました。」24
このころ,ジョン・ウィッツォーは『日の当たる地で』(In a Sunlit Land)という本を出版しています。それは,ジョンのノルウェーでの生誕から直近の十二使徒定員会における奉仕に至るまでの回顧録でした。ジョンはこの本を家族のために書いていましたが,友人たちから強く促され,より広範な読者に向けて出版することをしぶしぶ了承したのでした。ジョンはこの本を自分の子孫と,教会の「勇気ある青少年たち」にささげています。25
80歳になったジョンは,自分が歳を取ったことを実感するようになっていました。数年前には片方の目に小さな出血が起こって視力が損なわれ,拡大鏡で文字を読むことを余儀なくされていました。引き続き忙しい予定をこなしていましたが,深刻な腰痛に襲われるようになると,それもままならなくなりました。医師の診察を定期的に受け始め,医師からがんと診断されました。
ジョンの年齢を理由に,医師たちは手術をすることに消極的でした。ジョンは自分の死が近いことを知っていましたが,働きをやめることはありませんでした。そして,妻のレアにますます頼るようになりました。ジョンは娘ユードラの夫であるG・ホーマー・ダラムに次のように言っています。「わたしはこれまで豊かな人生を送ることができたので,主がお許しになるかぎりは生きて奉仕しようと思っています。」26
ジョンは母アンナが亡くなったときの年齢よりも,10歳上になっていました。ジョンが長い人生の中で何か目立つことを成し遂げたと言ってよいとすれば,それはアンナがノルウェーで教会に入り,ジョンに教育を奨励し,ジョンの信仰を育むという選択をしたおかげでした。アンナもまた,活動のペースを落とすことはまずありませんでした。亡くなる前の数年間も,シオンに入植して来るほかの移住者たちに,よく助言を与えていました。
新たに到着した一人の改宗者がアンナのところに来て,ユタ州の教会や聖徒たちに関してひどく不平を言ったときのことを,ジョンはまだ覚えていました。アンナはすぐに,その男性に次のことを指摘しました。「わたしたちがここにやって来たのは,シオンを築き上げるためであって,壊すためではないのですよ。」その改宗者はアンナのその言葉をしっかりと胸に刻み込み,その言葉のおかげで人生が変わりました。
ジョン自身も,傍らにいるレアとともに,教会を築き上げるために自らの人生の大半を費やしてきました。ヨーロッパの教会を強めてその指導者を訓練するために二人が払った努力は,ヨーロッパの聖徒たちが第二次世界大戦を生き抜き,戦後の混乱を乗り切るための助けとなりました。そして,それらの聖徒たちの信仰と熱意が今報われて,2か所に神殿が建つのです。27
新しい神殿はヨーロッパの教会をしっかりと支えるいかりとなり,ジョンが愛してきたもう一つの業,すなわち系図活動を前進させるでしょう。実際,教会は戦後,ヨーロッパの公文書や教区登録簿に記載されている出生と死亡の記録を写真に撮り,新たに数百万人の名前を神殿活動で利用可能にするという,野心的なプログラムを開始していました。28
また,伝道から帰還して以来,ジョンとレアは執筆を通しても教会を築き上げてきました。二人は『知恵の言葉:現代の解釈』(The Word of Wisdom: A Modern Interpretation)という共著を出版しています。この本は,啓示を信じる二人の信仰と,栄養学についての科学的理解とを通して,読者の健康増進に寄与する内容でした。1935年からは,ジョンは『インプルーブメント・エラ』の編集者となり,「証拠と和解」という連載コラムを執筆しています。読者の投稿した福音に関する質問に答えるコラムです。最終的に,このコラムはジョンによって数冊の本にまとめられ,広く読まれました。29
ジョンの健康は,年を追うごとにむしばまれていきました。レアは気丈にジョンの病気に耐えましたが,50年以上連れ添った夫が間もなく亡くなるというのは彼女にとって信じ難いことでした。レアとジョンは愛で結ばれた夫婦であり,最良の友でもありました。ジョンの健康が衰えていくのを見守る間,レアに力を与えたのは,息子マーセルが亡くなったときと同じく,回復された福音についての証でした。
「次の世での生活についてわたしたちのような理解のない人たちは,家族関係と喜びをどのようにして継続させようとしているのか,わたしには分かりません」と,レアは友人に書き送っています。
11月19日,ジョンは初めてのひ孫であるケリー・ウィッツォー・コプリンを抱く機会に恵まれました。生後数日目のひ孫を抱いたのです。そのときすでに,ジョンは寝たきりの状態でしたが,ウィッツォー家の新しい世代がこの世にやって来たのを見て感謝しました。数日後,ジョンは医師から,自分が腎不全に陥りつつあるという告知を受けました。
「なるほど,そういうことなのですね」とジョンは言いました。外は日差しの明るい,秋晴れの日でした。
1952年11月29日,ジョンは医師と家族に見守られながら自宅で亡くなりました。葬儀において,マッケイ大管長は次のように述べています。「人類に最も偉大な貢献をする人とは,いかなる犠牲もいとわず真理を愛し,真理に従う者です。」大管長は続いて,『日に照らされた地で』から,ジョンの最後の言葉を引用しました。「わたしは無私の心で生活し,神に仕えて同胞を助け,人間の幸福を促進するために自分の時間と才能を勤勉に用いるよう努めた,と自分について語られることを願っています。」
その後,ジョンの埋葬のために墓地に向かう途中,レアが車の窓から外を見ると,雪がちらちらと降っていました。その眺めに,レアは元気づけられました。「ジョンは激しい嵐の日に生まれ,そして今,彼の体は,白く美しい雪のじゅうたんの祝福を受けながら埋葬されるのね」とレアは思いました。30