第27章
神が舵を取っておられる
「今夜,ぼくの家に来てよ。聞いてほしいことがあるんだ」と,16歳のヘルムート・ヒューベナーは友人のカールハインツ・シュニベに耳打ちしました。1941年の夏,日曜日の夕べのことです。この二人の若い男性は,ドイツのハンブルクで支部の人たちと聖餐会に出席しているところでした。
17歳のカールハインツは支部に多くの友人がいましたが,ヘルムートと過ごす時間は特に楽しいものでした。ヘルムートは賢く,自信に満ちていました。非常に知的であることから,カールハインツからは「教授」というあだ名をつけられていました。ヘルムートの証は力強く,教会への献身は深く,福音についての質問に容易に答えることができました。母親が長時間働いていたので,ヘルムートは同じ支部の会員である祖父母の家に住んでいました。ヘルムートの継父は熱心なナチ党員で,ヘルムートは彼のそばにいるのが好きではなかったのです。1
その夜,カールハインツがそっとヘルムートのアパートに入ると,ヘルムートは背中を丸くしてラジオに向かっていました。「これは短波が入るんだ」とヘルムートは言います。ドイツのほとんどの家庭では,ナチス政府から支給された,もっと安価でチャンネル数が少なく,受信感度の低いラジオを使っていました。しかし,ドイツ軍の兵士であるヘルムートの兄が,戦争の1年目にナチスの軍隊がフランスを征服した後,この高級ラジオをフランスから持ち帰っていたのです。2
「それで何が聴けるの?」とカールハインツは尋ねました。「フランスの放送?」
「うん」と,ヘルムートは言いました。「それに,イギリスの放送も。」
「正気かい?」カールハインツは言いました。ヘルムートが最新の出来事や政治に関心を持っていることは知っていましたが,戦時中に敵国のラジオ放送を聴いていれば投獄されるかもしれず,処刑される恐れすらあります。3
ヘルムートはカールハインツに,自分が書いた記録を手渡しました。そこにはイギリスとソビエト連邦の戦勝に関するニュースがびっしりと書き込まれていました。
「これをどこで知ったの?」カールハインツは記録を読んでから尋ねました。「こんなのあり得ないよ。ドイツ軍の放送と正反対じゃないか。」
ヘルムートはそれに答える代わりに明かりを消して,小さな音でラジオをつけました。ドイツ軍は絶えず連合軍の信号の妨害に努めていましたが,ヘルムートはラジオにアンテナを取り付けていたので,二人の少年ははるか遠くのイギリスから届く禁じられた放送を聴くことができたのです。
時計が10時を告げると,かすれた声が暗闇の中で次のように語りました。「BBCロンドンがドイツのニュースをお伝えします。」4その番組では,ソビエト連邦における最近のドイツ軍の攻撃が取り上げられていました。ナチスの新聞はドイツ側の戦死者を明らかにすることなく,その作戦を成功と報じていました。イギリスは,連合国と枢軸国の双方の犠牲者について率直に伝えていました。
「間違いなく,あちらがほんとうのことを言っていて,こちらがうそをついているんだ」とヘルムートは言います。「こちら側の報道は自慢話ばかり,プロパガンダばかりという感じだ。」
カールハインツは驚きました。ヘルムートはよく,ナチスは信用できないと言っていました。その話題について教会で大人たちと政治的な議論を交わすこともありました。しかし,これまでのカールハインツは,政府当局の言葉を差し置いて自分の10代の友人の言うことを信じる気にはなれませんでした。
でもこれを聞いて,ヘルムートが正しかったと思えるようになりました。5
1941年12月7日,池上吉太郎とその家族は,ハワイ・ホノルルのキング通りにある小さな礼拝堂で日本語の日曜学校が始まるのを待っていました。吉太郎が最初にほかの日系アメリカ人聖徒たちと一緒に参加し始めたときは,小さなクラスでした。しかし,4年前にハワイで日本語伝道部が組織されて以来,日本語の日曜学校はホノルルだけでも5箇所にまで増えていました。吉太郎はキング通りで集会を開いていた日曜学校の会長でした。6
その日の朝は,クラスの人数がいつもより少数でした。吉太郎たちが集会の始まるのを待っていると,日本語伝道部の会長をヒルトン・ロバートソンから引き継いでいたジェイ・C・ジェンセンが駆け込んできました。「日本が真珠湾を攻撃しています」とジェンセン会長は言いました。
吉太郎は青ざめました。「うそでしょう。信じられない。」7
吉太郎は日本で生まれましたが,子供のころから合衆国で暮らしていました。また,吉太郎自身の子供たちも合衆国で生まれています。自分や家族が祖国と呼ぶ国を,自分の生まれた国が攻撃していると考えると,吉太郎の心は深く大きく揺れ動きしました。8
その日の朝8時,ジェンセン会長は真珠湾の近くで開かれていた別の日本語の日曜学校に出席していました。真珠湾はホノルル近郊に位置し,合衆国海軍の大規模な基地になっていました。外では,飛行機が編隊を組んで行ったり来たりしており,その一部は爆弾を投下していました。ジェンセン会長は合衆国軍が演習を行っているのだと思ったため,その騒ぎについて深く考えませんでした。しかし,家に戻ると,妻のエバが外に飛び出してきて,真珠湾が攻撃されていると言います。
ジェンセン会長は耳を疑いましたが,ラジオをつけてみると,エバの言うとおりであることが分かりました。「市街に出ないでください!」とラジオのアナウンサーは警告していました。日本の飛行機はまだ空にいて,爆弾を投下していました。しかし,ジェンセン会長とジェンセン姉妹は吉太郎と彼の日曜学校のことが心配になり,キング通りまで大急ぎでやって来たのです。
「急いで家に帰って身を守ってください」とジェンセン会長は吉太郎に言いました。クラスは速やかに解散し,全員が建物から避難しました。その少し後,わずか100メートルほど離れた場所に爆弾が落ち,幾つかの建物が燃え上がりました。9
それから数日のうちに,合衆国は日本とその同盟国であるドイツに宣戦を布告し,この紛争における中立を放棄したのです。合衆国政府はハワイに戒厳令を敷き,公立学校を閉鎖し,新聞を検閲し,国外あての手紙をすべて検閲しました。ハワイ諸島の人々は皆,夜間外出禁止令の対象となりましたが,合衆国市民ではない日本人は毎晩,ほかのすべての住民よりも1時間早い8時までに帰宅しなければなりませんでした。さらに,政府は公の場での日本語の使用を禁止しました。10
この時期,吉太郎の15歳の息子デビッドは,家族の生活に突然訪れた変化に動揺していました。「毎日がまったく退屈だ」とデビッドは日記に書いています。「また学校が再開すればいいのに。」デビッドは図書館から借りた本を自分のロッカーから取って来たいと思い,学校の校舎に行こうとしましたが,道は兵隊に封鎖されていました。
島の人々は日本からの今後の攻撃を恐れて,敵の爆弾から身を守る小さな地下防空壕を作り始めました。吉太郎と妻の松江は,裏庭に防空壕を作るのを手伝うようデビッドに頼みました。彼らが防空壕のための穴を掘り始めたのは,クリスマスの1週間と少し前のことでした。その作業は過酷で時間がかかり,土の中から岩を取り除かなければならないときは特に大変でした。さらに人手を借りて,クリスマスの朝に防空壕を完成させることができました。
デビッドは重労働が終わってほっとしましたが,残りのクリスマスを楽しむのは難しいことでした。「戦争のせいで,クリスマス気分にはなれないよ」とデビッドは嘆きました。11
さらなる攻撃がないまま,爆撃から数週間がたっていました。しかし,空を見て,日本軍のしるしである日の丸の付いた飛行機を探さずにはいられませんでした。12
ドイツに話を戻すと,ある日曜日の夕方,カールハインツ・シュニベとルディ・ウォッベはヘルムート・ヒューベナーがハンブルク支部の聖餐会に来るのを待っていました。13この数か月,カールハインツと15歳のルディは二人とも,ヘルムートが町で反ナチスのビラを配って回るのを手伝っていました。支部書記だったヘルムートは,末日聖徒の兵士たちに手紙を書けるよう支部のタイプライターを自宅に置いており,しばしばそれをビラ作りに使用していました。そのビラには,「政府は隠し事をしている」とか「人殺しのヒトラー!」といった大胆な見出しがついていました。14
このようなビラの配布は国家に対する反逆であり,死刑に値する犯罪でしたが,この若い男性たちはこれまでのところ,当局の目をかいくぐっていました。しかし,ヘルムートが教会に来ていないのは心配です。もしかすると病気なのではないかと,カールハインツは思いました。集会は普段どおりに進みましたが,閉会の祈りの後,ナチ党員でもあった支部会長のアルトゥール・ツァンダーは,出席者たちにそのまま席に就いているよう求めました。
「この支部の会員であるヘルムート・ヒューベナーが,ゲシュタポに逮捕されました」と,ツァンダー会長は言いました。「わたしも詳しいことはまったく分かりませんが,逮捕理由は政治的なものだということです。以上です。」15
カールハインツはルディと顔を見合わせました。二人の近くに座っていた聖徒たちは驚きながら,ひそひそと話し合っていました。聖徒たちの多くは,ヒトラーに賛成しているか否かに関係なく,政府とその法律を遵守することが自分たちの務めであると信じていました。16そして,もしナチスに公然と反対する会員が支部にいれば,その行為がどれほど英雄的であろうと善意から出ていようと,すべての会員を危険にさらす恐れがあることを知っていました。
カールハインツの両親は家に帰る道すがら,一体ヘルムートは何をしたのだろうと疑問を口にしていました。カールハインツは何も言いませんでした。カールハインツ,ルディ,そしてヘルムートは,もし自分たちの一人が逮捕されても,その人がすべての罪を負い,ほかの二人の名前を言わないと約束していたのです。カールハインツはヘルムートがこの約束を守るだろうと信じていましたが,恐怖も感じていました。ゲシュタポは逮捕者を拷問して望みの情報を引き出すと言われていたのです。17
2日後,カールハインツは職場で戸をたたく音を聞いてドアを開けました。すると,革のロングコートを着た二人のゲシュタポ要員が,胸のバッジをカールハインツに見せます。
「君はカールハインツ・シュニベかね?」と一人が尋ねました。
カールハインツは,はいと答えました。
「来てもらおうか」と二人は言って,カールハインツを黒塗りのメルセデスに先導しました。それから間もなくして,後部座席に二人のゲシュタポの間で押しつぶされそうになったカールハインツを乗せて,車は彼のアパートに向かっていました。カールハインツは質問を受けても,自分が罪に問われないように努めました。
一行がようやくカールハインツの家に到着したとき,カールハインツは父親が職場,母親が歯医者に行っていたことをありがたく思いました。ゲシュタポ要員たちは本をぱらぱらとめくったり,ベッドの下をのぞいたりして,アパートを1時間かけて捜索しましたが,カールハインツは証拠になる物を家に一切持ち込まないよう気をつけていたため,何も見つかりませんでした。
しかし,ゲシュタポはカールハインツを解放しません。カールハインツを車の中に戻すと,ゲシュタポの一人が言いました。「うそをついたらたたきのめすからな。」18
その晩カールハインツが到着したのは,ハンブルクの町外れにある留置所でした。留置所の監房に連れて行かれると,警棒と拳銃を持った職員が扉を開けました。
「どうしてここに連れてこられた?」と,職員は強い調子で聞きました。
カールハインツは分からないと言いました。
職員は鍵束でカールハインツの顔をたたきました。「これで分かったか」と職員が怒鳴ります。
「いいえ」と答えたものの,カールハインツは恐怖を覚えていました。「いや,分かりました。」
職員はカールハインツをもう一度たたきました。今度はカールハインツも痛みに屈し,「ぼくには,敵の放送を聴いたという疑いがかけられています」と言いました。19
その夜,カールハインツは何事もないようにと願っていましたが,職員たちは何度も,扉を勢いよく開けて明かりをつけると,カールハインツを壁まで走らせて自分の名前を言わせました。ようやく暗闇の中に残されたとき,カールハインツの目は疲労で真っ赤になっていました。しかし,眠れません。両親のことを考え,どれほど心配していることかと思いました。留置所にいるなど,二人は知る由もないのではないでしょうか。
体も心も疲れ切ったカールハインツは,枕に顔をうずめて泣きました。20
1942年2月,エイミー・ブラウン・ライマンは,小さな明かりに照らされたソルトレーク・タバナクルでマイクの前に座り,扶助協会の100周年に向けた特別メッセージを録音する準備をしていました。その録音に立ち会っているのは一握りほどの人たちだけでしたし,扶助協会の指導者を30年間務めてきたエイミーには,大勢の前で話す機会がこれまで豊富にありました。しかし,今回は新しい経験であったため,エイミーは緊張していました。21
エイミーが中央扶助協会会長に任命されたのは,ヒーバー・J・グラントが脳卒中に見舞われるわずか数週間前の1940年1月1日です。それ以来,グラント大管長の状態は快方に向かい続けていました。22しかし,世界各地の人々の安全と福利は,かつてないほどの危険にさらされていました。イギリス,合衆国,ソビエト連邦,中国,およびその連合国が,ドイツ,イタリア,日本,およびその同盟国の軍と戦い,戦火は実質的に世界のあらゆる地域に広がっていたのです。23
アメリカ兵が海外出兵の準備を着々と進める一方で,アメリカ政府は国内にいる市民には,戦争を後方で支えるために犠牲を払うよう求めました。1月には,扶助協会などの教会の組織は経費削減と燃料の節約のため,カナダ,メキシコ,合衆国におけるすべてのステークの大会を中止すべきであるとの発表が,大管長会によってなされました。24
この理由から,エイミーは自分のメッセージを直接皆に向けて話す代わりに,録音しようとしていたのです。当初,エイミーと扶助協会のほかの指導者たちは,扶助協会がノーブーで初めて組織されてから100年目となる1942年3月に,100周年の大きな祝典を開こうと考えていました。さらに扶助協会は,4月に3日間の大会を開いて,「女性の光の世紀」(Woman’s Century of Light)という野外劇の9回にわたる上演を後援し,タバナクルにおける1,500人の「歌う母親たち」のコンサートを主催する計画も立てていました。25
これらのイベントが中止された後,扶助協会中央管理会は個々のワードや支部に,100年の節目を記念する代替案として,小さな集まりを各ワード支部で開いたり,「100周年の木」を植えたりすることを勧めました。26
さらに中央管理会は,エイミーの言葉とグラント大管長からの短いメッセージを収録した12インチのレコード盤を,合衆国,メキシコ,カナダのすべての扶助協会に送付することも決定していました。そのほかの国の女性たちへ録音を届けることは戦争のために難しくなっていましたが,扶助協会は状況が好転するのを待ってレコードを送る計画を立てていました。27
メッセージを話す時間が来ると,エイミーはよく通る声でマイクに向かって話し始めました。「多くの国々に戦争の影が重くのしかかっていても,この100年目の記念日が忘れられることはありません」とエイミーは言いました。そして次に,扶助協会のすばらしい業,その奉仕と信仰の歴史,そして現在の課題について話しました。
「扶助協会の新しい100年が始まる1942年,世界は騒然として混乱しています。あらゆる場所の人々が犠牲を,それも多くの人がこれまで想像もしなかったような種類の犠牲を,想像もできないほどたくさん払わなければならないことは明らかです。」
エイミーは続けてこう言いました。「この苦しい時期にも,扶助協会の女性たちに不足しているものが見られることはないでしょう。そして,最終的に知識と平和が無知と戦争に勝利すると,扶助協会の女性たちは信じて疑いません。」28
話を終えた後,エイミーは何千キロも離れた所に住んでいる女性たち,すなわち平時であってもソルトレーク・シティーの大会やページェントに出席できなかったであろう女性たちに言葉を伝えられたことを感謝しました。
1942年は教会全体で扶助協会を祝う喜びの年になってほしいと,エイミーは思っていました。しかしそうはならずに,犠牲と,苦難と,新しい責任を受け入れる年になることは間違いなさそうでした。それでもなお,エイミーは自らのメッセージを伝える中で,主を信頼し,主の大義において働くようにと扶助協会の女性たちに勧めて,こう言っています。
「今日この日に,わたしたち自身の特別な業と使命のため,主イエス・キリストの福音を推し広めるために,今一度自分自身を奉献しようではありませんか。」29
そのころ,ドイツのティルジットでは,21歳のヘルガ・メイスツスが,日曜日には教会の集会の合間に兵士たちにシュトロイゼルケーキを届けたり,負傷者を見舞ったりすることで,戦争を支援していました。ある日,近隣の病院を訪問していたとき,ヘルガはゲルハルト・ビルトという名前の末日聖徒の負傷兵に出会いました。間もなくして,ヘルガはゲルハルトから何度も手紙をもらうようになります。
一度しか会ったことがないにもかかわらず,ヘルガはゲルハルトから,故郷の町に来て自分の家族と一緒にクリスマスを過ごさないかと誘われました。最初,ヘルガはその誘いを受けるべきであるとは思いませんでした。その後,ヘルガと一緒に地元の眼鏡店で働いている弟のジークフリートの言葉によって,ヘルガの考えは変わりました。「その人たちは教会員で,お姉ちゃんを誘ってくれたんでしょう。行ってみたら?」と言われたのです30
そこで,ヘルガはゲルハルトの故郷へ向かい,彼やその大家族と親しくなって楽しい時間を過ごしました。この若い男性がヘルガに心を寄せていることは明らかでしたが,ヘルガは二人の関係がそれ以上発展していくようには思えませんでした。31戦争と不確かな将来に直面して,若い人たちはしばしば結婚を急いでいました。ヘルガが同様のことを行うとすれば,ゲルハルトが前線へ送り戻されるまでに,二人が一緒にいられる時間はほとんどないでしょう。しかも,戦況はドイツにとって思わしくありませんでした。ヒトラーは1941年6月にソビエト連邦に侵攻していましたが,クリスマスの数週間前,ソビエト軍とロシアの厳しい冬のためにナチスはモスクワで撃退されていたのです。32
ティルジットに戻ってからすぐ,ヘルガはゲルハルトから手紙をもらいました。今度は,結婚を申し込む手紙でした。ヘルガは,その申し込みを一笑に付す返事を出しました。しかし次の手紙で,ゲルハルトは自分が本気であることをはっきりと伝えてきました。「婚約しましょう」とゲルハルトは書いています。
ヘルガは最初,気乗りしませんでしたが,結局,ゲルハルトの申し込みを受け入れました。ヘルガにとってゲルハルトは好きな人であり,あこがれでもありました。ゲルハルトは11人きょうだいの一番上で,両親にも,教会に対しても献身的でした。さらに,優れた教育を受けていて大望があり,歌もすばらしく上手でした。ヘルガは,彼となら良い人生をともにできるだろうと思いました。
その少し後のある日曜日,教会の集会から帰宅したヘルガは,郵便受けにゲルハルトから電報が来ているのを見つけました。ゲルハルトは前線に呼び戻されており,彼の乗る列車はソビエト連邦に向かう途中で,何とティルジットを通過するとのことでした。ゲルハルトは駅でヘルガに会って,町で結婚することを望んでいました。
駅に一人で行って兵士に会うのははばかられるので,ヘルガはヴァルトラウトという友人に一緒に来てくれるよう頼みました。約束の日,ヘルガたちは駅で兵士の一団と一緒にいるゲルハルトを見つけました。ゲルハルトはヘルガに会えて喜んでいるようでしたが,ヘルガは簡単に握手で彼を迎えました。ヘルガはそれから,再会のぎこちなさを和らげてもらおうと考えたのか,ヴァルトラウトの方を向きましたが,ヴァルトラウトはヘルガたちを残して姿を消していました。
部隊は前線に向かいますが,ゲルハルトは数日間ティルジットにとどまる許可を得ました。1942年2月11日,ゲルハルトとヘルガは役所へ行って婚姻届を出しました。外は寒かったものの風景は美しく,二人が歩くと,足の下で雪がざくざくと音を立てるのが聞こえました。役所では,家族と支部の友人たちが二人の式に参加しました。
次の日曜日,ゲルハルトは教会で独唱しました。ティルジット支部は男性の多くが徴兵されていたため,大幅に人数が少なくなっていました。ヘルガ自身の父親も,後に家へ戻って来たものの,ポーランド侵攻の直後に徴兵されていました。弟のジークフリートは兵士になれる年齢に達しており,同じく弟のヘンリーも間もなくそうなります。
ヘルガはゲルハルトが歌うのを聴いて,心を動かされました。「人生の楽しみは,じきに消え去るでしょう」と,その賛美歌の歌詞は小さな支部の人々に告げています。「その喜びは,あったとしてもわずかです。」
集会の後,ヘルガは夫を駅まで送り,二人はお互いに別れを告げました。ゲルハルトは1か月半にわたって,ほとんど毎日ヘルガに手紙を書き続けました。手紙がぱたりと来なくなって何週間かたつと,ゲルハルトが戦死したという知らせが,ヘルガのもとに届いたのです。33
その年の4月,J・ルーベン・クラーク管長はテンプルスクウェアのアッセンブリーホールで開かれた総大会で,少人数の聴衆の前に立ちました。移動制限のため,集会に直接出席していたのは中央幹部とステーク会長たちだけです。ユタ州とその周辺地域に住む聖徒たちはラジオで聴くことができましたが,さらに遠くに住む聖徒たちは,説教が教会の大会報告として出版されて配布されるのを待たなくてはなりませんでした。一方,戦争で荒廃した国々に住む聖徒たちには,説教を入手する手段が一切ありませんでした。クラーク管長はそれでもなお,大管長会を代表して語る自分のメッセージは,住んでいる場所に関係なくすべての末日聖徒に向けたものにするべきだと感じていました。
「現在の戦争では,両陣営の義にかなった教会員たちが亡くなっています。祖国のための偉大な英雄的行為によって亡くなった人もいます」と,クラーク管長は述べました。34クラーク管長の義理の息子であったマービン・ベニオンも,わずか数か月前,日本の真珠湾攻撃で命を落とした一人でした。マービンを実の息子の一人のように愛していたクラーク管長は,彼の死に大きな衝撃を受けていました。しかし,マービンの死をつらく感じると同時に,クラーク管長は悲しみの中で御霊に慰められており,怒り,恨み,復讐の感情に屈してはならないことを理解していました。35
「青少年や人々の心に憎しみを植え付ける人には災いが及ぶでしょう」と言いました。「憎しみはサタンから生じ,愛は神から生まれます。わたしたちは自分の心,わたしたち一人一人の心から憎しみを追い払わなければなりません。そして,憎しみが再び心に入り込むのを許してはなりません。」
クラーク管長は続けて,教義と聖約の第98章を引用しました。「それゆえ,戦争を放棄して,平和を宣言しなさい。」国家間の争いは平和的に解決すべきであると,クラーク管長は宣言しました。「教会は戦争に反対であり,またそうでなければなりません。」36
戦争は世界中の聖徒たちの生活に心痛と苦悩をもたらし,教会の発展を妨げていました。ヨーロッパの聖徒たちや,彼らの中で奉仕した宣教師たちは,前の戦争から20年かけて福音を広め,教会を築き上げてきました。それが今や,多くの支部が,ばらばらにならないよう必死に努力している状況です。
合衆国の聖徒たちも,ヨーロッパほどではないにせよ苦労していました。政府がガソリンとタイヤを配給制にしたため,聖徒たちが一緒に集まれる頻度は少なくなりました。18歳から64歳までの男性は全員,兵役に登録しなければなりませんでした。ほどなくして,伝道に出られる若い人たちが大幅に減少したことから,教会指導者は専任宣教師による伝道活動を南北アメリカとハワイ諸島に制限しました。37
大管長会は戦争に反対した一方で,末日聖徒には自分の住む国を守る義務があることも理解していました。義理の息子を敵国の急襲で亡くした痛みを抱えながらも,クラーク管長は,戦争の両陣営の聖徒たちが国の要請に応じることは正当であることを強調しました。
「この教会は,世界規模の教会です。どちらの陣営にも,献身的な会員たちがいます。どちらの側の会員も,自分たちは故郷と国と自由のために戦っていると信じています。どちらの側でも,兄弟たちは勝利を願って,同じ神に,同じ御名によって祈っています。どちらも完全に正しいということはあり得ませんし,恐らく非のない側はないのでしょう。
神は,御自分が定められたときに,御自身の至上の方法で,この戦争に関する正当さと正しさについて明らかにされることでしょう」とクラーク管長は述べています。「神が舵を取っておられます。」38