「第二次世界大戦」『教会歴史のテーマ』
「第二次世界大戦」『教会歴史のテーマ』
第二次世界大戦
世界の歴史上最大の被害をもたらし,最も広範囲に及んだ武力衝突と広く見なされている第二次世界大戦は,人の住むすべての大陸と海の島々を巻き込み,1億人以上の軍事要員が動員され,結果的に推定6,000万人という死者を出しました。1
この戦争の原因は複雑です。1930年代にヨーロッパとアジアにおける地域紛争は激しさを増し,関係諸国の植民地や同盟国をも巻き込むようになっていきました。21939年までには,ドイツ,日本,イタリアを中心とした「枢軸国」と,中国,フランス,ソ連,イギリス,アメリカを中心とした「連合国」という2つの連合が形成されていました。3枢軸国が当時の国際秩序を新たな帝国主義体制に塗り替えようとする一方で,連合国は現行の秩序を守り,枢軸国に対抗して結束を固めようと努めていました。41939年9月,ドイツ軍のポーランド侵攻により,ヨーロッパで戦争が勃発しました。この戦争は,約6年後の1945年5月にドイツ政府が降伏し,続いて9月に日本政府が降伏したことで終結しました。5
末日聖徒はこの戦争を,様々な前線で,それぞれ異なる国家への忠誠のもとで経験しました。1938年にヨーロッパで戦争の脅威が深まる中,ドイツで伝道していた宣教師たちは一時的にデンマークやオランダに避難し,伝道部の指導者たちは,非常事態への備えを地元の教会員たちにさせ始めました。1939年のドイツのポーランド侵攻の数日前,大管長会は,北アメリカから伝道に出ている宣教師全員(宣教師約800人と伝道部会長とその家族23人)に,ヨーロッパからの退去を命じました。6この侵攻を受けてイギリスとフランスがドイツに宣戦布告した当時,ヨーロッパ大陸には約2万人から3万人の教会員がいましたが,ほとんどの教会員は東ドイツ伝道部および西ドイツ伝道部の管轄区域内に住んでいました。イギリス,カナダ,オーストラリア,ニュージーランド,南アフリカからやって来た末日聖徒の軍人たちは,この初期の連合軍の軍事作戦に加わりました。その後数か月の間に,アフリカ,アジア,中東,太平洋において,新たな戦線が次々と生まれました。1940年6月,末日聖徒の軍人たちは,フランス北部から逃れる「ダンケルクからの撤退」(「ダイナモ作戦」)に巻き込まれ,中には捕虜となった人や殺された人もいました。この大戦では,捕虜として抑留された教会員が,どの国にもいました。7
1941年12月7日,大日本帝国がハワイの真珠湾にある米軍施設に奇襲攻撃を掛けると,アメリカは直ちに宣戦を布告しました。当時,教会員の約90パーセントがアメリカ合衆国にいました。81942年,教会指導者は,徴兵の対象となる男性をアメリカ合衆国から専任宣教師として召すことを一時的に中止して,末日聖徒の従軍聖職者の数を増やそうとしました。何千人もの末日聖徒が兵役を志願し,ただちに世界中に配置されていきました。ほかにも多くの人が徴兵されましたが,中には良心的兵役拒否者として軍事活動に抵抗する人たちもいました。9
ヨーロッパでは日常的に空襲があり,枢軸国側にも連合軍側にも壊滅的な打撃を与えました。家庭生活への被害は甚大でした。戦闘に出ていない末日聖徒も,絶えず物理的な脅威にさらされ,食糧が枯渇していたのです。地元の教会に集った会員たちは,出征した人たちの穴を埋めるのに苦労しました。このような動乱の中,ヨーロッパの会員たちは,ほかの末日聖徒からの支援が比較的乏しいにもかかわらず,引き続き集会を開き,大会を開き,調整して救援活動を行っていました。各伝道部では,宣教師として奉仕する地元の末日聖徒の男女の数が増え,教会員を定着させ,福音のメッセージを広める努力をしていました。10
第二次世界大戦では,戦時中,非戦闘員や捕虜に対して暴力行為が広範囲に行われていたことが度々指摘されています。11ドイツの首相,アドルフ・ヒトラーの率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は,ホロコースト(ショア)としてよく知られている,特定の民族を強制的に収容して絶滅させる作戦を実行しました。その結果,推定600万人のユダヤ人のほか,エホバの証人やシンティ族,ロマ族,同性愛者,障害者,反政府勢力など,標的となった集団が虐殺されました。12戦時中の残虐行為はホロコーストだけではありません。参戦国の中には,捕虜となった兵士や民間人に対して,拷問や人体実験を行ったり,飢餓状態に陥らせたり,殺害したりした国が,ほかにもあったのです。また,多くの女性が性的暴行を受けました。13この戦争では,どの国でも民間人が,士気をくじき,抵抗する気力をなくそうとする軍の標的になることがありました。141945年,イギリス,フランス,ソ連,アメリカにより,ドイツのニュルンベルクで開かれた国際軍事裁判で,ナチスの当局者らが戦争犯罪の罪で起訴されました。その1年後には,極東国際軍事裁判において,告発された日本の当局者たちに対する戦争犯罪裁判が始まりました。15
1944年から1945年にかけて,ヨーロッパの大部分がドイツの支配下から解放されると,何百万人もの人々が難民となり,国境が変更されました。新たな技術や兵器は,甚大な破壊をもたらしました。この大戦の悲劇の中には,アメリカ合衆国による日本の二つの都市への原爆投下があります。これは,壊滅的な被害をもたらしました。中立国もこの大戦の影響を免れることはなく,世界規模の経済状態の悪化からの回復には何年もかかりました。戦地で生き残った何百万人もの人々の苦難は,終戦後も続きました。住居を失った人もいれば,重度の傷害を負った人もあり,占領下に置かれることもあったのです。
戦後,教会の軍人委員会は,6,000人近くの末日聖徒の兵士が戦死,負傷,または行方不明になったと報告しています。また,ドイツ人とオーストリア人の末日聖徒が,1,300人以上戦死しています。16教会は,当時十二使徒だったエズラ・タフト・ベンソン長老の指示の下で,戦争が終わってからも数年間にわたって,ヨーロッパで苦境に陥っている教会員たちの援助を続けました。
関連テーマ:「World War I(第一次世界大戦)」,「Servicemember Branches(軍人支部)」,「Helmuth Hübener(ヘルムート・ヒューベナー)」