「ハウンズミルの虐殺」教会歴史のテーマ
「ハウンズミルの虐殺」
ハウンズミルの虐殺
ジェイコブ・ハウンは,ミズーリ州北西部のショールクリーク沿いに最初に入植した一団の一人でした。彼は製粉所を建て,その開拓地を「ハウンズミル」(ハウンの製粉所)と呼びました。ファーウェストにある末日聖徒の大規模な中心地から徒歩でおよそ1日の所です。ハウンは教会員ではありませんでしたが,1830年代後半に彼の製粉所の近くに移住して来た末日聖徒のグループと親しくなりました。
1830年10月30日,初期の聖徒たちをミズーリ州から追放することとなる暴力行為が高まる中,その一環として凶暴な民兵の一団がハウンズミルに住む聖徒を襲撃しました。1女性とほとんどの子供たちが居住地から森の中へ隠れる一方で,末日聖徒の男性と少年から成る一団は,鍛冶屋の店内に避難場所を求めます。暴徒たちは店を取り囲むと,荒削りの丸太壁の隙き間から繰り返し発砲し,店内にいる数人と降伏しようとする者たちの両方を殺害しました。最初の襲撃の後,暴徒たちは鍛冶屋のふいごの下に隠れていた数人の少年を引きずり出すと,まるで処刑するかのように発砲しました。17人の末日聖徒が殺されたほか,12人から15人が負傷しました。
この悲劇的な出来事は,ミズーリ州での経験にまつわる聖徒たちの記憶に,ひときわ大きな影を落とすこととなります。よく知られた記述の一つは,アマンダ・バーンズ・スミスによって書かれたものです。彼女の夫と10歳の息子は,一家がオハイオ州からミズーリ州にある聖徒たちの新たな集合地へ移住する途中,ハウンズミルに立ち寄り,その地で殺されたのです。アマンダは,重傷を負った7歳の息子の手当てをするに当たり,導きを求めて祈り,個人的な啓示を受けました。2
ミズーリ州知事,リルバーン・ボッグズが撲滅令を発布し,聖徒たちを州から追放する権限を州軍に与えてから3日後にこの虐殺が起こったことから,多くの人は,撲滅令が虐殺を招いたものと考えていました。しかし幾つかの証言は,襲撃者らは撲滅令について知らなかったこと,またこの虐殺は恐らくデイビース郡における末日聖徒の奇襲に報復しようとした自警団による暴力行為であったことを示唆しています。3
暴力行為が始まる前,ジョセフ・スミスは,ハウンズミルのように遠く離れた入植地に住む聖徒たちに,ファーウェストに集合するよう勧告していました。4数年後にノーブーで,ジョセフは,ハンズミルの聖徒たちが自分の勧告に従っていたならば,虐殺を防ぐことができたのではないかと思い巡らせています。5ハウンズミルで襲撃された聖徒たちが暴行を避けることができたかどうか断言するのは困難です。オハイオ州から到着したばかりの人々は,すでに道中で暴徒により苦しめられ,武器を取り上げられていました。6ファーウェストの指定された集合場所にたどり着くうえで,安全な機会などなかったものと思われます。