「広報活動」教会歴史のテーマ
「広報活動」教会歴史のテーマ
広報活動
教会が組織されたのは,印刷物による報道がアメリカ合衆国で急速に発達していた時期でした。そして,末日聖徒のイメージは,敵対的な内容であることの多い報道の影響の下に形造られたのです。1ジョセフ・スミスをはじめとする初期の教会の指導者たちは,教会に関する正しい情報を一般大衆に伝える必要があることを認識し,新聞を使って頻繁にそれを行っていました。ジョセフ・スミスの指示の下で主要な教会史を初めて書き,教会の新聞に初めてシリーズで掲載したのは特に,教会に関する間違った主張に対して「世間の考えを正すため」であり,末日聖徒の正しい姿を伝えるためでした。2
教会員がミズーリ州から強制退去させられた後,預言者は,聖徒たちが受けた被害の報告をすべて収集して公表することによって,被害を世に知らしめることは「急を要する義務」であるから,これを果たすようにと聖徒たちに勧める手紙を,リバティーの監獄から書きました。3政府に救済を求める請願を出しても認められなかったため,聖徒たちはミズーリ州で受けた被害を,談話や記事,演説,ちらしで引き続き公表したのです。その後聖徒たちはアメリカ西部に移住し,自分たちの住む準州を合衆国の州に昇格させる請願書を提出したところ,多妻結婚への反対が広範囲から起こりました。そのため教会の指導者たちは,19世紀末まで,伝道活動や出版物の出版・発行,口コミ,影響力のある人々との定期的な会合によって,教会の評判を改善するために奔走しました。
20世紀に入ると,産業界では会社その他の大きな組織が,一般大衆に情報を伝えるための新しく,より組織的な方法の開発に力を入れるようになります。あらゆる組織が宣伝の専門家を雇って広報活動のプログラムやイベント,キャンペーンを行うようになりました。大学も小売店も教会も,こぞって一般大衆向けの案内所やビジターセンター,展示会を開設するようになりました。4ソルトレーク・シティーでは,教会は1902年にテンプルスクウェアに案内所を開設して,パンフレットを配付したり,訪問者の質問に答えたりするようにしました。5
ゴードン・B・ヒンクレーは,1930年代にイギリスで伝道した際に何人かの報道関係者と親しくなり,教会に対する敵対心を鎮めるのに一役買いました。広報活動の才能を発揮したのです。ヒンクレーはユタに帰還すると間もなく,教会の指導者から声がかかり,創設されたばかりのラジオ広告および伝道文献委員会の一員になりました。そこでヒンクレーは伝道部で活用するメディア製品の作成にかかわったのです。1935年にヒンクレーはメディア関係のスペシャリストに協力を求めて,教会と一般大衆との間に良好な関係を育む作業に着手しました。6
1950年代に入ると,教会の指導者たちは,広報活動相談員と協力して働くようになります。これは,クモラの丘野外劇やタバナクル合唱団の新しいレコードの発売などの行事について,良いイメージを与える報道をしてもらうためでした。1957年に教会は,広報活動の専門家を雇って,教会情報サービス(CIS)を作りました。この組織の目的は,一般大衆の関心のある教会の活動について正しい情報を伝えることでした。
その後10年にわたり,1991年に広報部となったCISは,1964年から始まったワールドフェアに出したモルモンパビリオンや,1970年代に放送した「Homefront」(銃後の守り)というタイトルで家族についてのメッセージを伝えるラジオおよびテレビの番組,2010年代に行った「わたしはモルモン(I’m a Mormon)」キャンペーンのような宣伝活動を指揮して成功を収めます。1990年代までには,広報部は全世界のステークおよび伝道部にいる3,500人のボランティアの広報ディレクターを活用し,地元の教会の活動の報道資料を提供するようになりました。21世紀になると教会は全世界に拡大し,マルチメディアの技術が広まっていきました。そこで,地域社会の交流や他宗教との交流,メディアとメッセージの送信,評判管理など多くの広報機能は,新たに創設された教会コミュニケーション部の管理下に入りました。今日,広報活動の専門家たちは,教会のための公共サービス広告や,意見表明その他のオンラインメッセージ機能の開発に,引き続き取り組んでいます。
関連テーマ:「Columbian Exposition of 1893(1893年のコロンビア万博)」,「放送メディア」,「教会本部」,「Tabernacle Choir(タバナクル合唱団)」