教会歴史
23 ただ必要なのは


第23章

ただ必要なのは

ハワイ州ライエ神殿の敷地の池とヤシの木

1935年2月6日,15歳のコニー・テーラーとシンシナティ支部のほかの会員たちは,ジェームズ・H・ウォリスから祝福師の祝福を受けるために集会所で待っていました。

前世紀の大半にわたって,祝福師の祝福は成人の聖徒のみに授けられ,生涯の間に複数の祝福師から祝福を受けることもよくありました。しかし近年,教会指導者は,コニーのような10代の若者が信仰を強め,人生について導きを受ける一つの方法として,祝福を受けるよう奨励し始めていました。教会指導者はまた,聖徒が祝福師の祝福を受けるのは1度だけであるべきことも明確にしました。1

イギリス出身の改宗者であるウォリス兄弟は,遠隔地にある教会の支部の聖徒に祝福師の祝福を授けるよう,大管長会によって召されていました。また,ヨーロッパでの2年間の伝道を終えたところであり,その地で1,400件以上の祝福を授け,現在は合衆国東部とカナダの聖徒に祝福を授ける割り当てに就いていました。シンシナティのだれにとっても祝福師の祝福を受けることはめったにない機会であるため,資格のある支部の会員全員がその機会を得られるように,ウォリス兄弟は長時間にわたって務めを果たしていました。2

自分の祝福の番がやって来ると,コニーは扶助協会の部屋に用意されている椅子に腰掛けました。ウォリス兄弟は両手をコニーの頭に置き,彼女をフルネームで,コーネリア・ベル・テーラーと呼びました。祝福の言葉を述べる中で,ウォリス兄弟は主がコニーを御存じであり,見守っておられることを伝えました。そして,コニーが祈りによって主を求め,悪を遠ざけ,知恵の言葉に従うときに,生涯を通じて導きがあることを約束しました。ウォリス兄弟はコニーに,教会の活動によりいっそう関心を持ち,才能と知性を用いて神の王国で進んで働く者となるように勧めました。そして,コニーがいつの日か神殿に参入し,両親に結び固められるだろうと約束しました。

「この約束を疑ってはいけません」と,祝福師はコニーに告げました。「主の定められたときに,主の聖なる御霊があなたの父親の心に触れ,御霊の影響を通して,彼は真理の光を見,あなたの祝福をともに享受するでしょう。」3

その言葉は慰めとなるものでしたが,それには深い信仰が求められました。葉巻職人であるコニーの父親のジョージ・テーラーは,愛と思いやりのある人でしたが,ジョージの実家の家族は末日聖徒をひどく嫌っていました。コニーの母親のアデリンは,最初,教会に興味を示しましたが,ジョージはアデリンが教会に入るのを許しませんでした。

しかしある日,コニーが6歳ぐらいのころ,道路を横断中だった父親は車にはねられてしまいます。脚の骨折を治すために入院していた夫に,アデリンが「もう一度教会に入らせてほしい」と頼み込むと,今度は同意が得られました。ジョージの気持ちはさらに和らいでいき,最近ではコニーと兄と弟がバプテスマを受けることを許可したのです。ただジョージ自身は,教会に入ることにも,家族と一緒に集会に出席することにも興味を示さないままでした。4

祝福師の祝福を受けてから間もなく,コニーは隣人に福音を分かち合うという支部の取り組みに定期的に参加するようになりました。5大恐慌の間に宣教師が減ったため,世界各地で聖徒たちが自宅の近くでのパートタイムの奉仕に召されることが多くなりました。1932年,シンシナティ支部会長のチャールズ・アンダーソンは,町での御業を前進させ続けるために,パンフレット配布会を組織しました。6日曜学校は午前中,聖餐会は夜開かれていたため,コニーとほかの青少年たちは通常,午後の1時間ほどを使って家々を訪問し,回復された福音について人々に話していました。7

コニーの配布会の同僚の一人が,ジュディ・バングでした。ジュディは最近,コニーの兄のミルトンとデートをするようになっていました。教会員であることのほか,ミルトンとジュディにあまり共通点はありませんでしたが,それでも二人は一緒に楽しい時間を過ごしていました。コニー自身も最近,ジュディの兄ヘンリーと初めてのデートをしたところでした。ただコニーはヘンリーよりも,ヘンリーのハンサムな弟で自分と同い年のポールに好意を寄せていました。8

3月,ポールが相互発達協会(MIA)のローラースケートパーティーにコニーを誘いたがっているとジュディから聞かされたコニーは,その晩ポールが誘いに来るのをずっと待っていましたが,ポールは現れませんでした。翌日,ヘンリーはパーティーの数時間前になって,ポールとスケートに行くつもりがあるかコニーに尋ねるようミルトンに頼みました。デートに誘うには回りくどい方法でしたが,コニーはそれに応じました。

コニーとポールはスケートを一緒に楽しみました。その後,青少年の何人かがヘンリーの車にぞろぞろと乗り込み,シンシナティ・チリを食べに近くのレストランに向かいました。「ポールとの時間はすばらしかったわ。」コニーはその夜,日記にそう書いています。「期待以上だった。」9

春も後半になって,コニーは祝福師の祝福文の写しを受け取り,自分に与えられた約束を改めて思い起こしました。そこには次のように書かれていました。「愛する姉妹,この祝福はあなたの歩みを導くものとなるでしょう。あなたが暗闇の中でつまずくことなく,あなたの目が永遠の命を見据えることができるよう,歩むべき道を示してくれるでしょう。」10

生活の中でとても多くのことが起きていたので,コニーは主の導きを必要としていました。コニーは教会に入ったとき,常に正しいことをしようと心に決めており,福音は盾であると信じていました。神のもとへ行き,助けを求めるなら,神はコニーを生涯にわたって祝福し,守ってくださるでしょう。11


一方,ソルトレーク・シティーでは,ステーク会長のハロルド・B・リーが大管長会事務局にいました。ハロルドは自分のことを,どちらかといえば経験の浅い,アイダホの小さな町出身の農家の子と見なしていました。それでも今,こうしてヒーバー・J・グラントと向き合い,貧しい人たちへの支援について預言者から意見を求められているのです。

「パイオニアステークを手本としたいと思っています」とグラント大管長は告げました。12

グラント大管長は,顧問のJ・ルーベン・クラークとデビッド・O・マッケイとともに,ハロルドの働きを注視してきました。13パイオニアステークが意欲的な救済プログラムを開始してから,ほぼ3年が経過していました。その期間に,ステークは仕事のない人たちのために多くの雇用を生み出してきました。聖徒たちは,豆を摘み取り,衣服を作り,繕い,果物や野菜の缶詰を作り,新しいステークの体育館を建てました。14ステークの倉を活動拠点として,ジェシー・ドルーリーが複雑な運営を監督していました。15

同時に,大管長会は,公的資金に頼る教会員の数について深い懸念を抱くするようになっていました。大管長会は,食費や家賃に当てるお金がないときに聖徒たちが政府の援助を受けることに反対していたわけではありません。また,教会員が連邦政府の公共事業プロジェクトを通して支援を受けることに反対していたわけでもありません。16ただ,ユタ州が政府による援助に最も依存する州の一つになったことから,大管長会は,必要でない資金を受け取っている教会員がいることを懸念していたのです。17また,政府がどれほど長くその援助プログラムに財源を割き続けていけるのか疑問視していました。18

クラーク管長は,政府の援助に代わるものを聖徒たちに提供するようグラント大管長に勧めました。また,政府の援助の中には怠惰や落胆につながるものがあると考え,教義と聖約で命じられているように,責任を持って互いの世話をし,可能なときには受けた援助に見合った働きをするよう,教会員に呼びかけました。19

グラント大管長はさらなる懸念を抱いていました。大恐慌が始まってから,大管長は仕事や農場を失った善良で勤勉な末日聖徒からひっきりなしに手紙を受け取っていました。自分には彼らを助けるだけの力がない,と感じることが多くありました。自身も貧しい中で育ったので,貧困がどのようなものか分かっています。また,人生のうちの何十年間をひどい負債を抱えて過ごしてきたので,同じような苦境にある人に対して同情を覚えていました。実際,大管長は身銭を切って,夫を亡くした人や家族や見ず知らずの人々が,住宅ローンを返済したり,伝道を続けたり,そのほかの義務を果たしたりできるよう支援していました。20

しかし,グラント大管長は自分の取り組みが,善意ある政府プログラムの活動と同様,不十分であることも分かっていました。グラント大管長は,教会には貧しい会員や職のない会員の世話をする義務があると考え,ハロルドに,パイオニアステークでの経験を活かして,聖徒たちが助けの必要な人々のために協力して働けるような新しいプログラムを考案するよう希望しました。

「教会にとって,助けの必要な人々の世話をすること以上に大切なことはありません」と,グラント大管長は言いました。21

ハロルドは当惑しました。教会全体のためのプログラムを組織し,展開していくのかと思うと,圧倒される思いでした。会合の後,ハロルドは車を走らせて近くのキャニオンパークの中を通り,ぼうっとしたまま,ソルトレーク・シティーを見渡す丘を進んでいきました。

「どうすればいいんだろう。」ハロルドは思いました。

公園の端の行き止まりまで行くと,エンジンを切り,奥まった場所を見つけるまで木々の間をさまよいました。そしてひざまずき,導きを求めて祈りました。ハロルドは主に語りかけました。「あなたの民の安全と祝福のために,わたしにはあなたの指示が必要です。」22

静寂の中で,ハロルドは力強い印象を受けました。「この民の必要を満たすために,新しい組織は必要ないんだ」と,ハロルドは悟りました。「ただ必要なのは,神の神権を正しく機能させることなんだ。」23

翌日から,ハロルドは使徒であり元上院議員であるリード・スムートを始めとする,多くの経験豊かで広い見識を持った人たちの助言を求めました。次いで,数週間かけて,教会の救済プログラムの構想をまとめた,詳細な報告書と図表を含めた仮提案を作成しました。24

ハロルドが自分の計画を大管長会に提示すると,マッケイ管長はその計画が実現可能なものだと考えました。しかし,グラント大管長は,聖徒たちがこれほど大規模なプログラムを行う用意ができているかどうか確信が持てず,躊躇していました。会合の後,グラント大管長は主の導きを求めて祈ったものの,何の導きも得られませんでした。

大管長は秘書に伝えました。「主が望んでおられることを確信するまで,進めるつもりはありません。」25


グラント大管長は,救済プログラムについて主の導きを待つ一方で,ハワイに向かいました。オアフ島でステークを組織するのです。26グラント大管長がオアフ島の神殿を奉献してから15年がたっており,その間に多くの変化がありました。神殿の敷地はかつてはやせ地で,低木がまばらに茂るのみでした。今では,ブーゲンビリアが満開に咲き誇り,階段状になった池の周りではヤシの木が緩やかに揺れていて,生気がみなぎっています。27

ハワイの教会も同じように繁栄を続けていました。最初の末日聖徒の宣教師が船でホノルルに着いてからの85年間で,島々の教会員の数は1万3,000人以上となり,その半数がオアフ島に住んでいました。教会の集会への出席者はかつてないほど多くなり,聖徒たちはステークの一員になることをしきりに願っていました。オアフステークは教会の113番目のステークで,北アメリカ以外で組織される最初のステークになります。ハワイの聖徒たちにとって,初めてビショップやステークの指導者,そして祝福師がいることになるのです。28

聖徒たちを訪ねた後,ヒーバーは,ハワイ神殿の建設を監督したラルフ・ウーリーをステーク会長に召しました。29ハワイ先住民のアーサー・カぺワオケアオ・ワイパ・パーカーが,顧問の一人を務めることになりました。30ポリネシア系とアジア系の男女も,ステーク高等評議会や扶助協会会長会,そのほかの指導者の召しを受けました。31

ハワイの教会員の多様性に,預言者は感銘を受けました。32それまでの伝道活動は,ハワイの先住民に焦点を絞っていましたが,福音の網は広がりを見せていました。1930年代,日系人がハワイの人口の3分の1以上を占めていました。ハワイにはほかにも,サモア系,マオリ系,フィリピン系,中国系の人々が多くいました。33

預言者は,1935年6月30日に新しいステークを設立しました。数日後,預言者は日系の教会員たちとの夕食に出席しました。その小さなグループは,日本語の日曜学校のクラスに毎週集って勉強していました。34夕食の間に,ヒーバーは聖徒たちが伝統的な和楽器で音楽を演奏するのを聞きました。また,ユタ州の農業大学の学生だったときに教会に入った勝沼富造と,日本でバプテスマを受け,後に神殿で働けるようにと1920年代にハワイに移住した79歳の聖徒,奈知江常の証を聞きました。35

食事,音楽,そして証によって,ヒーバーは30年前に日本伝道部の初代会長として奉仕したときのことを思い出しました。ヒーバーは,日本での自分の働きに常に落胆してきました。懸命な努力にもかかわらず,日本語の習得には至らず,伝道による改宗者は数人にすぎませんでした。後任の伝道部会長たちも苦心し,ヒーバーは大管長になって数年後に伝道部を閉鎖しましたが,伝道を成功させるためにほかに何かできたのではないかと今でも思っていました。36

ヒーバーはかつてこう口にしました。「人生が終わるまで,わたしは主から期待されていた事柄や,その地で行うようにと遣わされた事柄をやり遂げられなかったと感じるでしょう。」37

ヒーバーは,日系の聖徒たちに会い,日曜学校の様子を知るにつれて,日本に新たな伝道部を立ち上げるうえでハワイが鍵になるかもしれないと悟りました。ホノルル滞在中,ヒーバーは新たにバプテスマを受けた二人の日系の会員に確認を行う機会がありました。その聖徒のうちの一人である池上吉太郎は,バプテスマを受ける前の2年間,日曜学校で教えていました。このすばらしい若者は,献身的な父親であり,オアフで影響力のあるビジネスマンでもありました。38

ヒーバーは,自分が今しがた,かつて日本で伝道した全期間に行ったよりも多くの日系の聖徒に確認を行ったことにふと気づきました。39恐らく,時期が来れば,この聖徒たちは日本への伝道に召され,教会があの地に定着するのを助けることになるでしょう。40


ヘルガ・メイスツスの周りでは,日常の生活が変化を続けていました。1935年初め,アドルフ・ヒトラーは,大戦の終わりに署名した協定に違反して,ドイツが軍事力を増強していることを公に宣言していました。ヨーロッパ諸国は,ヒトラーの力をそぐための行動をほとんど取りませんでした。宣伝省大臣の助けを借りて,ヒトラーはドイツを自分の意のままにしていました。ナチスの力を見せつける大規模な集会には,何十万人もの人々が引き寄せられました。ヒトラーを支持するラジオ番組,愛国主義的な音楽,そしてナチスのかぎ十字章が至る所にあふれていました。41

変化は教会でも起きていました。ビーハイブ・ガールズは集会を続けていましたが,政府はより多くの若い男性がナチ党の青少年グループへ加わるよう促すために,ドイツ国内の教会のボーイスカウトプログラムを解散させていました。また,ユダヤ人に対するナチスの憎悪により,政府は教会がユダヤ教に関連する言葉を使用することを禁じていました。信仰箇条は,「イスラエル」や「シオン」という言葉が含まれているために禁じられました。ナチスの権力に挑んでいるように思われるという理由で,『神の権能』(Divine Authority)という小冊子を含む,教会のほかの文献も非合法とされました。42

ドイツの教会指導者たちは,こうした取り組みの一部に抵抗したこともありましたが,結局,新政府を受け入れ,教会と教会員を危険にさらすような言動を控えるよう,聖徒たちに促しました。43ゲシュタポが至る所にいると思われる中,ティルジットの聖徒たちは,反乱や抵抗をほのめかせば回り回って秘密警察の知るところとなることが分かっていました。ドイツのほとんどの聖徒は政治活動にかかわらないようにしていましたが,支部内にナチスと関係のある人がいるのではないかという不安が常にありました。

支部の多くの会員は,忠実で従順なドイツ人として振る舞うのがいちばん安全だと考えていました。支部の会員による不忠な行為が一例でもあれば,全員がナチスの報復を受ける恐れがあったからです。44

ヘルガは,弟のジークフリートといとこのクルト・ブラーツを含む,教会のほかの青少年たちとの間に慰めや安全,友情を見いだしました。支部はよく,演劇や音楽のプログラムを行ったり,テーブルにポテトサラダやドイツソーセージ,それにシュトロイゼルクーヘンというおいしいクラムケーキが満載の,にぎやかなパーティーを開いたりしました。45青少年たちは普段,安息日は一日中ともに過ごしました。午前中に日曜学校に出席した後は,ヘルガのおばや祖母などの教会員の家に行きます。ピアノがあれば,だれかが座って演奏し,教会のドイツ語の賛美歌集の歌をみんなで歌います。

その後,聖餐会を終えると,支部会長のオットー・シュルツの10代の息子ハインツ・シュルツの家に行って,話し,笑い,一緒に楽しく過ごすのでした。シュルツ会長は,ヘルガやほかの青少年たちにとって第二の父親のようになっていました。シュルツ会長は青少年たちに高い期待を寄せ,悔い改めて戒めを守るよう度々勧めていました。一方で多くの物語を聞かせ,ひとひねりしたユーモア感覚の持ち主でもありました。だれかが教会に遅れて入って来て,皆がその人を見ようと振り向くと,シュルツ会長は決まって,「ライオンが入ってきたら教えてあげますから,振り向く必要はありませんよ」と言うのでした。46

ヘルガはまた,慰めと導きを求めて自分の祖母を頼っていました。ヨハンネ・ワクスムートは,オットー・シュルツのように厳しい面があり,孫をすぐに甘やかすことはありませんでした。また,天の御父と語る方法を心得た信仰深い女性でした。祖父母の家に泊まるときはいつも,ヘルガは祖母の傍らでひざまずいて祈るように求められました。

ある夜,ヘルガは祖母に腹を立て,祈ることを拒みました。ヨハンネはヘルガをほうっておくことはせず,一緒に祈るように言って譲りません。

ヘルガは折れて,硬い床にひざまずくと,反感は徐々に薄れていきました。祖母はヘルガの友であり,神と語る方法を教えてくれた人でした。後にヘルガはこの経験に感謝しました。自分は怒りに心を支配させなかったのだと知って,良い気持ちがしました。47


1936年2月,大管長会との最初の会合から10か月後,ハロルド・B・リーは再び大管長会の事務室にいました。グラント大管長は,助けの必要な聖徒たちのための救済計画を進める準備ができていました。管理ビショップリックが実施したワードとステークに関する最近の調査で,ほぼ5人に1人の聖徒が何らかの財政支援を受けていることが明らかになりました。しかし,近年,連邦政府が各州に与える援助を大幅に増やしたこともあり,教会に助けを求めている聖徒はほとんどいませんでした。管理ビショップリックは,末日聖徒一人一人が貧しい人の世話をするという自らの役割を果たすならば,教会は助けの必要なすべての会員を支援できると確信していました。48

グラント大管長と顧問たちは,以前の提案を手直しするようハロルドに依頼しました。また,ハロルドを助けるために,地元の銅山の福祉プログラムのディレクターであるキャンベル・ブラウン・ジュニアを採用しました。49

それから数週間にわたって,ハロルドは昼夜を問わず働き,統計の分析,キャンベルとの相談,そして以前の計画の再考を行いました。そして3月18日,二人は修正案をマッケイ管長のところに持って行き,詳細をもれなく伝えました。50新しい計画では,教会の複数のステークを地理的な地区に組織し,それぞれの地区に食料と衣類を備蓄した中央倉庫を設けることになります。これらの品は,断食献金か什分の一の基金で調達するか,様々な作業プロジェクトによって作り出すか,または「物品による」什分の一によって用意します。ある地区で特定の品が余っている場合,別の地区と交換して代わりに必要とする品を受け取ることができます。

ステーク会長らによる地区評議会がこのプログラムを管理しますが,プログラムを維持するための責任の多くは,ビショップリック,ワード扶助協会会長会,および新設されるワード雇用委員会が担います。雇用委員会の委員は,ワードのすべての会員の雇用状況の記録を作成し,毎週更新します。また,作業プロジェクトを組織し,ほかの形での援助により会員を支援します。51

この計画は,まさにパイオニアステークが行ったように,聖徒たちに労働の代価として援助を受けるよう求めるものでした。作業プロジェクトの参加者は,自分のビショップに会って食物,衣類,燃料,またはほかの生活必需品の必要について話し合い,その後,扶助協会の代表者が家庭を訪問して家族の状況を評価し,ステークの倉に提出する注文書を記入します。聖徒たちは個々の状況に応じて援助を受けます。つまり,二人の人が一日に同じ時間働いても,家族の人数やほかの要因に応じて,受け取る食物や物資の量が異なるということです。52

説明を終えたとき,ハロルドとキャンベルにはマッケイ管長が喜んでいるのが分かりました。

「兄弟たち,これで教会に提示するプログラムができました」と,マッケイ管長はテーブルを片手でたたきながら声を上げました。「主はあなたがたの務めにおいて,あなたがたに霊感を与えてくださいました。」53

  1. Taylor, Diary, Feb. 6, 1935; Bates, “Patriarchal Blessings and the Routinization of Charisma,” 25–26; Heber J. Grant to Mrs. Wilford J. Allen, Sept. 12, 1932, First Presidency Miscellaneous Correspondence, CHL.テーマ:祝福師の祝福

  2. Taylor, Diary, Feb. 6, 1935; Wallis, Journal, Feb. 4–6, 1935; Rytting, James H. Wallis, 6–7, 154, 177, 189–91.テーマ:Outmigration(移住)

  3. Taylor, Diary, Feb. 6, 1935; Cornelia Taylor, Patriarchal Blessing, Feb. 6, 1935, 1–2, Paul and Cornelia T. Bang Papers, CHL.

  4. Bang, Autobiography, 4–6, 8–9; Taylor, Diary, Apr. 12, 1936; Charles Anderson to Adeline Yarish Taylor, Apr. 18, 1936; Oct. 26, 1936, Paul and Cornelia T. Bang Papers, CHL.

  5. Taylor, Diary, Feb. 10 and 17, 1935; Mar. 3 and 24, 1935; June 2, 1935.

  6. Danish Mission, French Mission, Northern States Mission, Annual Reports, 1932, Presiding Bishopric, Financial, Statistical, and Historical Reports, CHL; Northern States Mission, Manuscript History and Historical Reports, Dec. 31, 1930, and Dec. 31, 1931; Anthony W. Ivins to Preal George, Feb. 5, 1932, First Presidency Miscellaneous Correspondence, CHL; First Presidency to John A. Widtsoe, Aug. 1, 1933, John A. Widtsoe Papers, CHL; Cincinnati Branch, Minutes, Jan. 16, 1932, 4.

  7. South Ohio District, General Minutes, Nov. 1931; Taylor, Diary, Feb. 3, 10, and 17, 1935.

  8. Taylor, Diary, Jan. 20, 1935; Feb. 3, 10, and 15–17, 1935; Fish, “My Life Story,” [6].

  9. Taylor, Diary, Feb. 15 and Mar. 22–23, 1935; Paul Bang, “My Life Story,” 10–11; Bang, Autobiography, 7.引用文は明確な表現にするために編集済み。原文では“Paul”ではなく,“Pete”(ポール・バングが時折名乗っていたニックネーム)とある

  10. Taylor, Diary, May 26, 1935; Cornelia Taylor, Patriarchal Blessing, Feb. 6, 1935, 1, Paul and Cornelia T. Bang Papers, CHL.引用文は読みやすさのために編集済み。原文の“thou will”“thou wilt”に変更し,“thy eye”“thine eye”に変更

  11. Cornelia Taylor Bang, “Youth Meeting,” circa 1944, 1, Paul and Cornelia T. Bang Papers, CHL.

  12. Harold B. Lee, in One Hundred Forty-Second Semi-annual Conference, 123–24; Gibbons, Harold B. Lee, 25–85; Harold B. Lee, Journal, Apr. 20, 1935; Grant, Journal, Apr. 20, 1935.引用文は読みやすさのために編集済み。原文の“he wanted”“I want”に変更

  13. Lee, “Remarks of Elder Harold B. Lee,” 3; Rudd, Pure Religion, 14.

  14. Salt Lake Pioneer Stake, Confidential Minutes, Nov. 5–6, 1932; Salt Lake Pioneer Stake Manuscript History, Mar. 26, 1933; June 30, 1933; Nov. 28, 1933; “Exchange Idea Assures Many Jobs for Idle,” Salt Lake Tribune, July 25, 1932, 14; Goates, Harold B. Lee, 99; Harold B. Lee, Charles S. Hyde, and Paul Child to Heber J. Grant, May 23, 1933, J. Reuben Clark Jr. Papers, BYU; Eugene Middleton, “Personality Portraits of Prominent Utahns,” Deseret News, Oct. 24, 1934, 16.

  15. Lee, “Remarks of Elder Harold B. Lee,” 2–3; Drury, “For These My Brethren,” [5]–[11].

  16. Heber J. Grant to Grace Evans, Sept. 12, 1933, Letterpress Copybook, volume 70, 931–32, Heber J. Grant Collection, CHL; J. Reuben Clark Jr. to Richard M. Robinson and H. M. Robinson, Oct. 26, 1934, enclosed in J. Reuben Clark Jr. to David O. McKay, Oct. 26, 1934, David O. McKay Papers, CHL; Heber J. Grant to Bessie Clark Elmer, Jan. 5, 1934; Heber J. Grant to J. N. Heywood, Oct. 23, 1934, First Presidency Miscellaneous Correspondence, CHL; Arrington and Hinton, “Origin of the Welfare Plan,” 67, 76–77; Mangum and Blumell, Mormons’ War on Poverty, 110–11.

  17. Hall, Faded Legacy, 124; Presiding Bishopric, Office Journal, June 3, 1935; Cannon, “What a Power We Will Be in This Land,” 68; J. Reuben Clark Jr. to Richard M. Robinson and H. M. Robinson, Oct. 26, 1934, enclosed in J. Reuben Clark Jr. to David O. McKay, Oct. 26, 1934, David O. McKay Papers, CHL.

  18. Arrington and Hinton, “Origin of the Welfare Plan,” 74–76; Mangum and Blumell, Mormons’ War on Poverty, 114.テーマ:Welfare Programs(福祉プログラム)

  19. Lee, “Remarks of Elder Harold B. Lee,” 3; J. Reuben Clark to Heber J. Grant and David O. McKay, Apr. 16, 1935, David O. McKay Papers, CHL; J. Reuben Clark, in One Hundred Fifth Semi-annual Conference, 96–100; Cannon, “What a Power We Will Be in This Land,” 66–68; Mangum and Blumell, Mormons’ War on Poverty, 119–29; Doctrine and Covenants 104:15–18; J. Reuben Clark Jr., in One Hundred Fourth Semi-annual Conference, 102–3.

  20. Heber J. Grant to Mrs. Claude Orton, Mar. 3, 1932; Heber J. Grant to Mrs. C. M. Whitaker, June 9, 1932; Heber J. Grant to Pauline Huddlestone, Sept. 14, 1935; Heber J. Grant to Mrs. Lee Thurgood, Jan. 29, 1932; Heber J. Grant to B. B. Brooks, Dec. 16, 1932; Heber J. Grant to Geo. W. Middleton, Aug. 5, 1931, First Presidency Miscellaneous Correspondence, CHL; Heber J. Grant to Grace Evans, Dec. 19, 1931, Heber J. Grant Collection, CHL.

  21. Harold B. Lee, Journal, Apr. 20, 1935; Heber J. Grant and David O. McKay to J. Reuben Clark, Mar. 15, 1935, J. Reuben Clark Jr. Papers, BYU.引用文は読みやすさのために編集済み。原文の“was”“is”に変更

  22. Harold B. Lee, in One Hundred Forty-Second Semi-annual Conference, 124; Harold B. Lee, Journal, Apr. 20, 1935.引用文は読みやすさのために編集済み。原文の“How could I do it”“How can I do it”に変更し,2箇所の“His”“Thy”に変更

  23. Harold B. Lee, in One Hundred Forty-Second Semi-annual Conference, 124.

  24. Harold B. Lee, Journal, Apr. 20, 1935.

  25. Harold B. Lee, Journal, Apr. 20, 1935; David O. McKay to J. Reuben Clark, May 6, 1935, First Presidency General Administration Files, CHL.引用文は読みやすさのために編集済み。原文には“he was not going to move until he felt certain of what the Lord wanted”とある

  26. “Grant to Organize New Hawaii Stake,” Salt Lake Telegram, May 31, 1935, 13; Grant, Journal, June 20, 1935.

  27. Historical Department, Journal History of the Church, June 30, 1935, 10.テーマ:ハワイ

  28. J. Reuben Clark, “The Outpost in Mid-Pacific,” Improvement Era, Sept. 1935, 38:530; Saints, volume 2, chapter 9; Hawaiian Mission, Annual Report, 1934, Presiding Bishopric Financial, Statistical, and Historical Reports, CHL; Castle Murphy to First Presidency, Feb. 28, 1934; Apr. 3, 1934; Nov. 30, 1934, First Presidency Mission Files, CHL; Historical Department, Journal History of the Church, June 30, 1935, 5–6.テーマ:ワードとステーク

  29. Clark, Diary, June 28–30, 1935; “Woolley Heads New LDS Stake Formed Locally,” Honolulu Advertiser, July 1, 1935, 1; “Woolley, Ralph Edwin,” in Jenson, Latter-day Saint Biographical Encyclopedia, 4:173–74.

  30. Britsch, Moramona, 279–81, 299; “First Offshore Stake Organized at Honolulu,” Deseret News, July 1, 1935, [9].

  31. Grant, Journal, June 29–30, 1935; “Organization of LDS Stake Nearly Ready,” Honolulu Star-Bulletin, July 4, 1935, 2.

  32. Grant, Journal, June 25, 1935; Heber J. Grant to Frances Bennett, July 3, 1935, Heber J. Grant Collection, CHL.

  33. Britsch, Moramona, 257–59.

  34. Grant, Journal, July 3, 1935; John A. Widtsoe, “The Japanese Mission in Action,” Improvement Era, Feb. 1939, 42:88.

  35. J. Reuben Clark, “The Outpost in Mid-Pacific,” Improvement Era, Sept. 1935, 38:533; Grant, Journal, July 3, 1935; Clark, Diary, July 3, 1935; Takagi, Trek East, 16–22; Parshall, “Tsune Ishida Nachie,” 122–30; John A. Widtsoe, “The Japanese Mission in Action,” Improvement Era, Feb. 1939, 42:88125.

  36. Heber J. Grant, in Seventy-Fourth Semi-Annual Conference, 7, 11; Walker, “Strangers in a Strange Land,” 231–32, 240–41, 247–48, 253; Britsch, “Closing of the Early Japan Mission,” 263–81.テーマ:Japan(日本)伝道活動の発展

  37. Heber J. Grant to Matthias F. Cowley, May 12, 1903, Letterpress Copybook, volume 36, 239, Heber J. Grant Collection, CHL; Walker, “Strangers in a Strange Land,” 250.引用文は明確な表現にするために編集済み。原文の“He”“the Lord”に変更し,“here”“there”に変更

  38. J. Reuben Clark, “The Outpost in Mid-Pacific,” Improvement Era, Sept. 1935, 38:533; Grant, Journal, June 30, 1935; Ikegami, “We Had Good Examples among the Members,” 228–29; Ikegami, “Brief History of the Japanese Members of the Church,” 3; Kichitaro Ikegami and Tokuichi Tsuda entries, Oahu District Baptisms and Confirmations, 1935, nos. 42 and 43, in Hawaiian Islands, part 22, Record of Members Collection, CHL.

  39. Britsch, Moramona, 282.

  40. J. Reuben Clark, “The Outpost in Mid-Pacific,” Improvement Era, Sept. 1935, 38:533; Ikegami, “Brief History of the Japanese Members of the Church,” 3–4.

  41. Müller, Hitler’s Wehrmacht, 7–12; Naujoks and Eldredge, Shades of Gray, 44–45; Wijfjes, “Spellbinding and Crooning,” 166–70.

  42. Nelson, Moroni and the Swastika, 123–34; Naujoks and Eldredge, Shades of Gray, 35; German-Austrian Mission, General Minutes, Jan. 1934, 315–16; Apr. 1934, 327–28; Carter, “Rise of the Nazi Dictatorship,” 59–63.

  43. Carter, “Rise of the Nazi Dictatorship,” 59–63; Nelson, Moroni and the Swastika, 167–84.

  44. Naujoks and Eldredge, Shades of Gray, 35; Tobler, “Jews, the Mormons, and the Holocaust,” 80.

  45. Meyer and Galli, Under a Leafless Tree, 10–12.

  46. Meyer and Galli, Under a Leafless Tree, 57–59; Naujoks and Eldredge, Shades of Gray, 35–37.引用文は読みやすさのために編集済み。原文の“the”“a”に変更

  47. Meyer and Galli, Under a Leafless Tree, 44.

  48. Harold B. Lee, Journal, Feb. 1936; “Summary of Relief Survey of the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints,” Apr. 1, 1936, First Presidency General Administration Files, CHL; Olson, Saving Capitalism, 14–15; Derr, “History of Social Services,” 49–50.

  49. Harold B. Lee, Journal, Feb. 1936; Cannon, “What a Power We Will Be in This Land,” 69.

  50. Harold B. Lee, Journal, Mar. 15, 1936; David O. McKay, Diary, Mar. 18, 1936 [University of Utah].

  51. Mangum and Blumell, Mormons’ War on Poverty, 134; Henry A. Smith, “Church-Wide Security Program Organized,” Improvement Era, June 1936, 39:334, 337; “Detailed Instructions on Questions Arising out of the Development of the Church Security Program,” [1936], 1–5, Presiding Bishopric Welfare Files, CHL.

  52. Henry A. Smith, “Church-Wide Security Program Organized,” Improvement Era, June 1936, 39:333; “Detailed Instructions on Questions Arising out of the Development of the Church Security Program,” [1936], 3–4, Presiding Bishopric Welfare Files, CHL; Arrington and Hinton, “Origin of the Welfare Plan,” 78.

  53. Harold B. Lee, Journal, Mar. 15, 1936.テーマ:Welfare Programs(福祉プログラム)