教会歴史
第7章:裁判にかけられて


「裁判にかけられて」『聖徒たち—末日におけるイエス・キリスト教会の物語』第3巻「大胆かつ気高く,悠然と」1893-1955年,第7章

第7章:「裁判にかけられて」

第7章

裁判にかけられて

アメリカ合衆国上院の公聴会で話すジョセフ・スミス

1901年初頭,ジョージ・Q・キャノンの健康状態の悪化に伴い,教会における大管長会の責任がさらに重くジョセフ・F・スミスの肩にかかってきました。3月になると,潮風が病気の回復に良いかと思い,ジョージとその家族はカリフォルニアの海岸へ行きました。ジョセフはその間,遠く離れた地から,友を励まそうと努めました。

ジョージにこう書き送っています。「あなたとはこれまでずっと一緒に教会の務めを果たしてきました。ですから,わたしの心と魂はあなたと結びついています。あなたへの愛と思い入れは非常に深く,あなたとは生涯の愛と言えるほどの強いきずな,決して切れることのないきずなで結ばれています。」1

しかし,ジョージの容態は悪くなる一方でした。悪化しつつある父親の容態をジョージの息子たちが逐次ソルトレーク・シティーに報告していたので,ジョージの死を伝える電報が4月12日に届いたときに,ジョセフは驚きませんでした。しかし,ジョージを亡くしたことは,ひどくこたえました。ジョセフはその日の日記にこう書いています。「彼は謙遜で,偉大な人物だった。兄弟たちの評議会における力強い指導者だった。全イスラエルが彼の死を悲しむだろう。」2

悲しみの中で,ジョセフは増大しつつある大管長会の役割に目を向けました。3その年,ジョセフとロレンゾ・スノー大管長は,世界の主要地域の伝道活動を指導する責任を3人の使徒に与えました。フランシス・ライマンにヨーロッパ伝道部を管理する召しを与え,ジョン・ヘンリー・スミスにメキシコの伝道部を再生する召し,ヒーバー・J・グラントには,日本初の伝道部を管理する召しを与えたのです。教会の指導者たちは,主の業を世界の様々な国に広げたいと思っていたため,南米に宣教師を送ることや,アリゾナとメキシコ北部にある聖徒たちの居留地に小規模神殿を建てることも考えました。しかし,教会はまだ負債を抱えていたため,このような計画はどれも,すぐに実行に移すことはできませんでした。4

聖徒たちはこの年,さらに二人の死を悼むことになります。8月に,中央扶助協会会長のジーナ・ヤングが,カナダにいる娘のジーナ・プレセンディア・カード宅を訪問しているときに倒れたのです。ジーナ・プレセンディアは急きょ母親をユタに送り返しました。そしてジーナ・ヤングは,ソルトレーク・シティーの自宅で静かに息を引き取ったのです。ジーナ・ヤングは生涯,神の王国を何よりも優先する模範でした。5

彼女は,亡くなる2週間前にカードストンの扶助協会でこう言っています。「わたしたちの信じている原則の壮大さを思うと,日々喜びが大きくなります。わたしたちの受けている祝福の偉大さは,言葉で言い表せません。神に頼ることから得られる祝福に勝る祝福はないのです。」6

それから2か月後,スノー大管長が突然病に倒れました。数人の使徒が献身的に看病し,ジョセフ・F・スミスの要請に応じてベッドの周りにひざまずき,スノー大管長のために祈りました。スノー大管長は,その後間もなく亡くなりました。

スノー大管長の葬儀で,ジョセフはスノー大管長をほめたたえ,真理に対する大管長の揺るぎない証について述べました。「かつてこの地上にいた人で,これほど力強く,明快にイエス・キリストの証を述べた人は,預言者ジョセフを除いてはほかにいないと思います。」7

数日後の1901年10月17日,十二使徒定員会は,ジョセフ・F・スミスを教会の第6代大管長として支持しました。スミス大管長は,管理ビショップリックのジョン・ワインダーと,アンソン・ランドを大管長会顧問に召しました。その後,使徒たちはジョセフの頭に手を置き,ジョセフの兄であり,教会の祝福師であったジョン・スミスが,ジョセフを任命しました。8


聖徒たちは,1901年11月10日にソルトレークのタバナクルで開かれた特別集会で,新しい大管長会を支持しました。「主の助けを受け,主の御霊による霊感に従って御業を遂行するという最大限の決意と目的を心に抱いてしっかりと御業に携わる義務が,わたしたちにあります」と,スミス大管長は会衆に語りました。新しい世紀の幕開けとともに,スミス大管長は,教会員に未来への希望を与えたいと思いました。

「わたしたちは家を追われ,どこへ行っても中傷され,悪く言われてきました。主はこの状況を変えて,神を真に礼拝する者というわたしたちのほんとうの姿を世の人々に知らせようとしておられます。」9

この集会で,スミス大管長は,バスシバ・スミスを第4代中央扶助協会会長として支持するよう聖徒たちに提議しました。神権定員会が新しい中央扶助協会会長会の支持の表明を求められたのは,これが初めてです。

エメリン・ウェルズはこう言っています。「姉妹たちの進出に興味のある女性たちは,聖なる神権の定員会すべてが挙手によって自分たちを支持するのを見て,非常に喜びました。」10

79歳のバスシバは,生存する数少ないノーブー扶助協会創設時の会員の一人でした。彼女は,15歳で教会に入った後,まずミズーリに聖徒たちとともに集合し,次にノーブーに集合しました。そして,1841年にジョージ・A・スミスと結婚し,その後,儀式執行者としてノーブー神殿で奉仕しています。彼女は扶助協会で活発に働き,中央扶助協会会長会でジーナ・ヤングの第二顧問を務めていました。11

バスシバは,聖徒たちから支持を受けた2か月後,愛と思いやりに満ちたあいさつの言葉を扶助協会の全会員に送りました。その中でバスシバはこう述べています。「愛する姉妹の皆さん,愛と一致の輪で皆さんの社会を一つにするようにしてください。今,決意を新たにして,扶助と改善の働きかけを進めましょう。」12

バスシバは,顧問のアニー・ハイドとアイダ・デューゼンベリーとともに,貧しい人や困っている人のために奉仕するよう呼びかけ,また穀物の貯蔵と絹の生産を推進しました。支援活動の資金を集めるために,バザーやコンサート,ダンスパーティーを開いて寄付を募るよう,扶助協会の会員に呼びかけました。全国規模の女性組織に代表を派遣し,女性が看護師や助産婦になる訓練を受けられるよう支援しました。また,資金を集めてソルトレーク神殿の向かいに「女性のビル」を作る計画も立てました。その土地は,ロレンゾ・スノーが亡くなる前にその組織のために用意していたものでした。13

前任者と同様,バスシバとその顧問たちも,個々の扶助協会を訪問することが大切だと信じており,伝道部会長夫人たちを頼ってヨーロッパや太平洋地域の扶助協会をよく訪問しました。会長会と扶助協会中央管理会の会員は,アメリカ合衆国西部やメキシコ,カナダに住む末日聖徒の女性たちを,少なくとも年に2回は訪問するように努めました。この地域には数十のステークがあってすべての人を訪問するのは難しかったため,会長会はさらに6人の女性を召して,この御業を助けてもらいました。14

扶助協会の指導者たちがステークを訪問して気づいたのは,若い年齢層の女性の関心が薄いことでした。若年層の女性たちの中には若い母親が多かったため,中央会長会は,若い世代をもっと引き付けるような集会をするようにと,ステーク扶助協会会長会に呼びかけました。当時の扶助協会は定められたカリキュラムに沿って行ってはいなかったため,ステーク独自の母親教育のクラスを開くようにと指示しました。経験から得た知識を年配の会員に教えてもらいつつ,子育てについて科学的な視点から書かれている本を調べて新しい世代の女性たちの興味を引くようにと,バスシバはお願いしたのです。ステークが独自のプログラムを作成する助けとして,間もなく機関誌『ウーマンズ・エクスポーネント』(Woman’s Exponent)に,コースの概要が掲載されるようになりました。15

1903年8月,バスシバは30歳のアイダ・デューゼンベリーをカードストンに送って,ジーナ・プレセンディア・カードと地元の扶助協会会長会が母親クラスを準備する支援をしてもらったのです。アイダはその姉妹たちに,プログラムの手配をし,教会機関誌や教会のその他の出版物を活用してレッスンするようにという指示を与えました。

「母親クラスでは科学的な説明をどの程度まで入れればよいのでしょうか」と,ジーナ・プレセンディアは質問しました。

大学教育を受けた幼稚園の先生であり学校管理者でもあったアイダは,母親クラスに最新の子育て理論を取り入れたくてたまりませんでした。しかしアイダは,扶助協会の年配の姉妹たちが自身の経験から多くのことを提供できることを理解していました。

そしてこう説明しています。「わたしは皆さんに,母親に必要なことや子供たちに対する母親の義務を一般的な方法で採り上げてほしいと思っています。わたしたちは多くの実践的で良いことをお互いに学び合うことができます。」16


アイダ・デューゼンベリーがカードストンを訪れていたころ,兄のリード・スムートはアメリカ合衆国の上院での政争の準備を進めていました。十二使徒定員会に召されて間もないリードは,大管長から認可されたうえで選挙に出て,その年の初めに上院議員に選出されていたのです。17妻のアリーも,上院議員になるという志を夫が遂げられるよう応援していました。夫がユタの人たちのために多くのことを行えると確信していたのです。アリーは夫にこう言いました。「どうしてもあなたに当選してほしいの。それに,神様がわたしたちを二人とも祝福して助けてくださるような気がするわ。」18

予想に違わず,リードの当選は民衆の怒りと抗議運動をあおりました。191898年のBH・ロバーツの下院選出が聖徒に対する国民の反感をかきたててからというもの,教会は世間のイメージを良くしようと努力してきました。その後,教会はテンプルスクウェアに案内所を開設し,一般の人たちが聖徒についてもっとよく知ることができるようにしました。この案内所のスタッフはボランティアで,その多くは青年男子相互発達協会(YMMIA)と青年女子相互発達協会(YLMIA)の会員でした。彼らは教会の出版物を配布し,教会とその信条に関する質問に答えました。それまでソルトレーク・シティーへの何千人もの訪問者を迎えて,教会について正しい情報を伝えてきました。しかし,その努力にもかかわらず,ユタ内外にいる教会への過激な敵対者の心はほとんど変わりませんでした。20

リードを最も激しく攻撃したのは,ユタ出身のプロテスタントの実業家や弁護士,牧師から成るソルトレーク聖職者協会の会員たちでした。彼らは選挙の直後に,リードの議員資格はく奪を正式に申し立てたのです。大管長会と十二使徒定員会は聖徒たちに政治的,経済的な権力を振るい,自分たちへの絶対的な服従を求めている,と彼らは主張しました。また,教会の指導者たちは「宣言」があるにもかかわらず,未だに多妻結婚を唱道し,実践し,支援しているとも主張しました。そして,これらの要因によって聖徒たちは民主主義に反する反国家分子になっていると結論づけたのです。

聖職者協会の会員たちは,リードが教会の使徒という地位を利用して多妻結婚を推進し,多妻結婚をしている者たちを擁護するのではないかと恐れました。ある会員は,妻が一人しかいないリードに向かって,陰で多妻結婚をしていると非難しました。その会員は,リードは大管長会の手先であり,すべて大管長会の指示に従う,と警告しました。21

上院の指導部はこの申し立てを審議し,13人の上院議員から成る委員会を任命して,聖職者協会の主張について公聴会を開かせました。しかし,リードに上院議員就任の宣誓をすることも許可したのです。こうしてリードは,少なくとも上院議員による公聴会が終わるまでは上院議員を務めることができるようになりました。22

調査が教会に及ぶ恐れはあったものの,ジョセフ・F・スミスは,リードが使徒職と上院議員の地位を保持するべきであると信じていました。リードがいちばん活躍できるのはほかのどこよりもワシントンであると,ジョセフは確信していました。この調査は聖徒とその信条をもっとよく理解してもらえる機会であると,スミス大管長は捉えていたのです。23

リードは多妻結婚をしたことがなかったため,委員会による私生活の調査については何の心配もしていませんでした。しかし,公聴会で教会がどうなるか心配でした。新たな多妻結婚についてのうわさがユタの中に広まっており,BH・ロバーツの当選以来,この慣習を放棄するという教会の公約に対する疑念が世論の中に残っていました。教会の指導者として,リードは教会の方針に関する質問に答えなければなりませんでした。委員会が「宣言」後の多妻結婚の状況を徹底的に調べるであろうということは,リードには分かっていました。リードはまた,教会の政治への関与とアメリカ合衆国への聖徒たちの忠誠について,議員たちが自分やほかの証人たちに質問するであろうと予期していました。24

教会が違法行為を助長していると委員会が証明したならば,リードは議員資格をはく奪され,聖徒たちの評判は損なわれるでしょう。

1904年1月4日,リードは委員会に反証を提出し,聖職者協会の告発を正式に否定しました。そして,委員会が自分と自分の行動に目を向けてくれることを期待しました。しかし,彼が1週間後に委員会と集会を持ったときに,上院議員たちが教会を調査する決意を固めていることがはっきりと分かりました。しかも彼らは特に,ジョセフ・F・スミスやその他の中央幹部に,聖徒たちに対する彼らの政治的影響力と,「宣言」後の多妻結婚の継続について質問することを強く望んでいました。

「スムート議員,あなたを裁判にかけているのではありません」と,委員会の議長は言いました。「わたしたちが調査しようとしているのはモルモン教会であり,教会の人たちが法律を守っていることを確認するつもりなのです。」25


1904年2月25日,上院委員会はスムート公聴会で証言するようにジョセフ・F・スミスを召喚しました。その二日後,スミス大管長は,教会はこれからの精査に耐えられるという確信を持って,ワシントンD.C.に向けて出発しました。リードは,上院議員たちがスミス大管長の家庭生活のあらゆる面について尋ね,大管長の多妻結婚について事細かに話すよう要求するはずだと,大管長に警告しました。また,教会の大管長として,聖徒に対する預言者,聖見者,啓示者の役割についても尋ねられることでしょう。委員会は,スミス大管長と大管長の受ける啓示が,リードと上院でのリードの行動にどのような影響を及ぼすのかを知りたがるでしょう。26

尋問の一日目である3月2日,委員会室は上院議員や弁護士,証人たちでいっぱいでした。リードの議員選出に反対する女性組織の会員たちも,同席していました。スミス大管長は議長に要請されて,長いテーブルを挟んだ議長の向かい側に着席しました。大管長は,白い髪と長いあごひげをきちんとくしで整え,地味な黒のコートを羽織り,金縁の眼鏡をかけていました。襟には,殉教した父親,ハイラム・スミスの小さな肖像を付けていました。27

尋問は,聖職者協会を代表する弁護士ロバート・テーラーによる,スミス大管長の生活についての質問から始まりました。その後,テーラーは,啓示と,啓示が教会員の個々の決断に与える影響に注意を向けさせると,教会員が教会の大管長の啓示に従わざるを得なくなるのはどんなときかと預言者に質問しました。全会員が預言者の啓示に従う必要があると預言者に認めさせることができれば,リード・スムートには実は上院で自分の意志で結論を下す自由がないということを,テーラーは証明できるのです。

スミス大管長は答えました。「教会の長を通して与えられる啓示はすべて,教会員に提示されて彼らによって受け入れられるまで,拘束力も効力も持ちません。」

テーラーは問いかけました。「ということは,教会員たちは大会で,教会の大管長であるあなた,ジョセフ・F・スミスに,『わたしたちは神がこれを伝えるようにとあなたに言ったとは思いません』と言うことができるのですか。」28

「そうしようと思うならば,できます」と預言者は答えました。「教会の標準的な原則と矛盾しないかぎり,自分の意見や考え,自分なりの善悪の概念を持つ権利は,すべての人にあります。」29

例として,多妻結婚を実践していたのは,ごく一部の聖徒が多妻結婚のみであったことを挙げました。「それ以外の教会員は全員,多妻結婚を控え,複数の妻と婚姻関係を結んでもいませんでした。それに,何千人もの教会員は多妻結婚を受け入れたことも,信じたこともありません。しかし,彼らが教会から断ち切られることはありませんでした。」30

委員会の議長が質問しました。「あなたは啓示を受けているのですね。」議長は,主の預言者からの啓示がどんなときに教会の基本的な教義,つまり,リード・スムートのように忠実な末日聖徒が従う義務を感じるものと見なされるのかと尋ねたのです。

スミス大管長は慎重に言葉を選びました。聖霊を通して個人の啓示を度々受けていましたし,預言者として,聖徒たちのために霊感による指示も受けていました。しかし,教義と聖約に記載されているような,教会全体にかかわる啓示を主御自身の声で受けたことはありませんでした。

スミス大管長は議長に言いました。「いわゆる『モルモニズム』が神の真理だと神が示してくださったこと以外,わたしは啓示を受けたなどと言ったことはありません。以上です。」31


スミス大管長は,その日の午後遅くに委員会が閉会になるまで,引き続き質問に答えました。翌日再開された公聴会で,委員会は,多妻結婚と「宣言」について集中的にさらに多くの質問をしました。スミス大管長は委員会の質問に正確に答えようとする一方で,新たな多妻結婚について自分やほかの教会指導者が知っていることを明らかにするのを避けました。この情報が調査で明らかになった場合,自分も教会も議会から非難されることを知っていたのです。32

さらに,委員会での質問に対するこの慎重な対応の根底には,「宣言」の発布後に多妻結婚を実践している聖徒たちは自己責任でそれを行っているという理解がありました。この理由から,スミス大管長は,「宣言」は自分と妻たち,または多妻結婚の夫婦たちが神聖な神殿結婚の聖約を慎重に守り続けることを禁じてはいないと信じていました。33

多妻結婚の妻と同居を続けるのは間違っているのかとロバート・テーラーから質問されたときに,スミス大管長はこう答えました。「それは教会の規定に反しており,国の法律にも反しています。」しかし,こう述べた後で,自分の多妻結婚の大家族を見捨てるつもりはないと,率直に語りました。「わたしは複数の妻と同居しています。妻たちは1890年以降,わたしの子供を産んでいます。」34

「それは法律違反です。なぜそんなことをしたのですか」と,テーラーは言いました。

これに対して,預言者はこう答えました。「わたしにとっては,家族を見捨てるくらいなら法で定められた罰則を受ける方がよいのです。」35

議員たちは,「宣言」後に複数の妻をめとった男性の名前を聞き出そうとして,使徒やそのほか数人の教会員の婚姻状況についてスミス大管長に尋ねました。委員会の議長も,スミス大管長自身が「宣言」後に多妻結婚を執り行ったかどうか問いました。

「いいえ,議長。一度もしていません」と,預言者は答え,その後,これ以上詮索されないよう,慎重に言葉を選んでこう言ったのです。「末日聖徒イエス・キリスト教会の承認の下で執り行われた多妻結婚もなければ,承知の上で執り行われた多妻結婚もありません。」

「『宣言』後はないのですね」と,ある上院議員は尋ねました。

「もちろん,そういう意味です」と,スミス大管長は明言しました。こう言い切ったものの,「宣言」後も多妻結婚があったことを否定はしませんでした。それよりもスミス大管長は,教会とその評議会が認可した多妻結婚と,個々の教会員が自分の良心に従い自分の選びとして行っている多妻結婚との間に微妙な線引きをしたいと考えていました。実際,聖徒たちは1890年に「宣言」を支持していたので,教会の指導者たちが執行した多妻結婚は教会全体の承認を得たものではありませんでした。

別の議員が質問しました。「そのような司式を教会の使徒が行ったとしたら,あなたはそれを,あなたの教会の権能によって行われたと見なしますか。」

スミス大管長は言いました。「使徒であろうと,権能を持っていると主張するほかの人であろうと,そのようなことを行うならば,その人は,州では訴えられて州法に基づく重い罰金を課せられるか禁固刑に処せられ,教会では宗紀の対象となり,教会の然るべき法廷で破門されます。」36


スミス大管長は5日間にわたる証言を終えると,自分は証人席で神の導きに従ったと感じました。「主がわたしを御手に使ってできるかぎりのことをしてくださったと,わたしは固く信じています」と,スミス大管長は述べています。37

それでも,スミス大管長の証言が新聞に載ると,激しい非難の声が世間から沸き上がりました。スミス大管長が今でも5人の妻と一緒に暮らしていることを知って,アメリカ合衆国中の人がショックを受けたのです。また人々は,証人としてのスミス大管長の信頼性と誠実さを疑い,教会の指導者たちをうそつきで法律を破るやからであると非難しました。38

「世間の悪感情という雪崩がわたしたち全体を一掃しようとしています」と,大管長会の秘書が友人に打ち明けています。「わたしたちに今できるのは,コートの襟を立ててこの嵐に背を向け,じっと我慢して待つことだけです。」39

上院での公聴会はワシントンD.C.で引き続き行われていましたが,預言者はソルトレーク・シティーに戻り,自分と教会に対する信頼を回復する決意を固めました。スミス大管長は,「宣言」に反して新たに多妻結婚を執り行った聖徒については,教会の役員が厳重に処分する,と委員会に断言しました。大管長は,自分や聖徒たちが新たな多妻結婚をやめることに真剣に取り組んでいることを示すさらに強力な証拠を,上院に提出しなければならなくなったのです。40

1904年4月6日,総大会の最終日に,スミス大管長はタバナクルの説教壇に立つと,教会の多妻結婚に関する新たな公式声明を読み上げました。「ウッドラフ大管長の公式の宣言に反して多妻結婚が始められているという報告が多々出回っていますが,そのような結婚はすべて禁じられているということをここでお知らせします」と述べたのです。

この声明は「宣言」後に多妻結婚を始めた200組前後の夫婦を糾弾するものではなく,その時以降多妻結婚を続けている人たちを非難するものでもありませんでした。しかし,それ以後新たに多妻結婚をすることは,アメリカ合衆国以外の地域でも禁じると宣言したのです。スミス大管長は言いました。「このような結婚の儀式を執り行う,または誓いを交わす教会の指導者や会員は,教会に背いていると見なされ,その規則および規律に従って処分を受け,破門されます。」41

後に「第二の宣言」として知られるようになったこの声明を読み上げた後,スミス大管長は,一致してこの新しい宣言を支持し,自分たちに対する政府の信頼を回復するようにと聖徒たちに呼びかけました。教会が多妻結婚の実施を命じることはないということが「宣言」によって明らかにされた所では,この新たな声明によって,その時以来新たな多妻結婚は行われなくなりました。42これによって教会員は法律を守らないという非難の声が上がらなくなることを期待して,スミス大管長はこう述べました。

「このような非難が的外れであることを,教会を代表する末日聖徒がこの聖会で挙手によって示すかどうかを,わたしは今日見たいと思います。」

タバナクルにいた聖徒たちは全員一体となって,腕を直角に挙げ,大管長の言葉を支持しました。43

  1. Joseph F. Smith, Journal, Feb. 18, 1901; George Q. Cannon, Journal, Mar. 13–Apr. 7, 1901; Bitton, George Q. Cannon, 447; Joseph F. Smith to George Q. Cannon, Apr. 7, 1901, Letterpress Copybooks, 503, Joseph F. Smith Papers, CHL.

  2. Joseph F. Smith, Journal, Apr. 12, 1901; see also, for example, “Mr. Cannon Improving,” Salt Lake Herald, Apr. 4, 1901, 2; “Mr. Cannon Better,” Salt Lake Herald, Apr. 5, 1901, 7; and “President Cannon Worse,” Salt Lake Herald, Apr. 9, 1901, 3.  テーマ:ジョージ・Q・キャノン

  3. Horne, “Joseph F. Smith’s Succession to the Presidency,” 270–73; “Life Sketch of Joseph F. Smith,” Deseret Evening News, Oct. 17, 1901, 1.

  4. “Opening of a Mission in Japan,” Deseret Evening News, Apr. 6, 1901, part 2, 9; “Personal Mention,” Salt Lake Herald, Apr. 24, 1901, 8; “Mexico Welcomes the Mormons,” Deseret Evening News, June 24, 1901, 1; Lund, Journal, Oct. 1–2, 1901; Clawson, Journal, Oct. 1–3, 1901.  テーマ:伝道活動の発展

  5. “Passed into the Repose of Death,” Deseret Evening News, Aug. 28, 1901, 8; “‘Aunt’ Zina Laid to Rest,” Deseret Evening News, Sept. 2, 1901, 8.

  6. Cardston Ward, Relief Society Minutes, Aug. 15, 1901, 132.  テーマ:ジーナ・ダイアンサ・ハンチントン・ヤング

  7. Clawson, Journal, Oct. 10, 1901; “President Snow Dead,” Salt Lake Tribune, Oct. 11, 1901, 1; “In the Tabernacle,” Deseret Evening News, Oct. 14, 1901, 5.  テーマ:ロレンゾ・スノー

  8. Lund, Journal, Oct. 17, 1901; Clawson, Journal, Oct. 17, 1901; Historical Department, Journal History of the Church, Oct. 17, 1901, 2; “The General Authorities,” Seventy-First Annual Conference, 45.  テーマ:ジョセフ・F・スミス大管長会教会指導者の職の継承ビショップ

  9. “Reorganization of the First Presidency,” Deseret Evening News, Nov. 16, 1901, 23; 『聖徒たち』第1巻,第32章

  10. “Authorities of the Church Sustained,” Deseret Evening News, Nov. 11, 1901, 23; Wells, Diary, volume 27, Nov. 10, 1901; Relief Society General Board, Minutes, Nov. 10, 1901, 31.  テーマ:教会員の同意

  11. Bathsheba Wilson Bigler Smith,” Biographical Entry, First Fifty Years of Relief Society website, churchhistorianspress.org; Nauvoo Relief Society Minute Book, Mar. 17, 1842, in Derr and others, First Fifty Years of Relief Society, 30; General Officers, General Relief Society, 32–52; see also Swinton, “Bathsheba Wilson Bigler Smith,” 349–65.

  12. General Officers, General Relief Society, 27–28.

  13. General Officers, General Relief Society, 20, 52–59, 91–9296. テーマ:Church Headquarters(教会本部)

  14. Relief Society General Board, Minutes, June 20, 1902, 51; General Officers, General Relief Society, 59–60; Derr, Cannon, and Beecher, Women of Covenant, 161–63.  テーマ:扶助協会

  15. Derr, Cannon, and Beecher, Women of Covenant, 154–61; General Officers, General Relief Society, 86–87; see also, for example, “Timely Suggestions,” Woman’s Exponent, Dec. 1 and 15, 1902, 31:51; “Lectures for Mothers,” Woman’s Exponent, Mar. 1, 1903, 31:75; and “Mother’s Work,” Woman’s Exponent, Oct. 1, 1903, 32:35.  テーマ:教会の定期刊行物

  16. Cardston Alberta Stake Relief Society, Minutes, Aug. 24, 1903, 25–28; Derr, Cannon, and Beecher, Women of Covenant, 157–59.

  17. “Smoot Chosen Senator by Majority of Thirty,” Salt Lake Herald, Jan. 21, 1903, 1; John Henry Smith, Diary, Jan. 24, 1902; Clawson, Journal, Nov. 13, 1902; Lund, Journal, Nov. 14, 1902.

  18. Allie Smoot to Reed Smoot, Feb. 24, 1904, Reed Smoot Papers, BYU.

  19. See, for example, “Smoot Question Considered,” Deseret Evening News, Feb. 2, 1903, 8; “Reed Smoot’s Case,” Evening Star (Washington, DC), Mar. 2, 1904, 1; and Proceedings before the Committee, 1:26–30; see also Heath, “First Modern Mormon,” 1:95–99.

  20. Edward H. Anderson, “The Bureau of Information,” Improvement Era, Dec. 1921, 25:131–39; Lund, “Joseph F. Smith and the Origins of the Church Historic Sites Program,” 346–47.  テーマ:Public Relation(広報)

  21. “Nineteen Citizens of Utah Sign Protest,” Salt Lake Herald, Feb. 10, 1903; Proceedings before the Committee, 1:26–30.  テーマ:大管長会

  22. Flake, Politics of American Religious Identity, 34–35, 38; Clawson, Journal, Mar. 5, 1903; First Presidency to Reed Smoot, Mar. 9, 1903, Reed Smoot Papers, BYU.

  23. Charles W. Nibley, “Reminiscences of President Joseph F. Smith,” Improvement Era, Jan. 1919, 22:195; Joseph F. Smith to Reed Smoot, Jan. 8, 1904, First Presidency Letterpress Copybooks, volume 39.

  24. Reed Smoot to Joseph F. Smith, Feb. 5, 1904, Reed Smoot Papers, BYU; Proceedings before the Committee, 1:26–30; Riess, “Heathen in Our Fair Land,” 298; Reed Smoot to Joseph F. Smith, Dec. 16, 1903; Jan. 8, 1904; Jan. 9, 1904, Reed Smoot Papers, BYU.

  25. “Reed Smoot’s Fate Is Sealed in the Senate,” Salt Lake Tribune, Nov. 18, 1903, 1; “Senator Smoot Files His Reply,” Salt Lake Herald, Jan. 5, 1904, 1; Reed Smoot to Joseph F. Smith, Jan. 9, 1904; Jan. 18, 1904, Reed Smoot Papers, BYU.  テーマ:Reed Smoot Hearings(リード・スムートの公聴会)

  26. Lund, Journal, Feb. 25, 1904; Francis Marion Lyman, Journal, Feb. 24–27, 1904; Reed Smoot to First Presidency, Jan. 18, 1904, Reed Smoot Papers, BYU; Joseph F. Smith to Reed Smoot, Jan. 8, 1904, First Presidency Letterpress Copybooks, volume 39.

  27. “Smith Expounds the Tenets of Mormon Church,” Washington (DC) Times, Mar. 2, 1904, 1; Proceedings before the Committee, 1:476; Bray, “Joseph F. Smith’s Beard,” 462.  テーマ:ハイラム・スミス

  28. Flake, Politics of American Religious Identity, 61; Proceedings before the Committee, 1:80–96.Quotation edited for clarity; “the first president of the church” in original changed to “the president of the Church.”

  29. Proceedings before the Committee, 1:96–98.  テーマ:教会員の同意

  30. Proceedings before the Committee, 1:98, 483–84.  テーマ:ユタにおける多妻結婚

  31. Proceedings before the Committee, 1:99, 483–84; Salt Lake Stake, Minutes of the Quarterly Conference, volume 9, Mar. 19, 1905, 40–41; Flake, Politics of American Religious Identity, 95–96.

  32. Proceedings before the Committee, 1:100–128; Flake, Politics of American Religious Identity, 75–79.

  33. Proceedings before the Committee, 1:129–31; Lorenzo Snow, “Polygamy and Unlawful Cohabitation,” Deseret Evening News, Jan. 8, 1900, 4;『声明』と多妻結婚の終決」福音トピックスの論文,ChurchofJesusChrist.org/study/manual/gospel-topics-essays?lang=jpn.

  34. Proceedings before the Committee, 1:129–30; “A Frank, Honest Declaration,” Deseret Evening News, Mar. 3, 1904, 1.

  35. Proceedings before the Committee, 1:129–31; see also Philip Loring Allen, “The Mormon Church on Trial,” Harper’s Weekly, Mar. 26, 1904, 469.  テーマ:一夫多妻禁止法

  36. Proceedings before the Committee, 1:138–43, 150, 158, 173–74, 177–78;『声明』と多妻結婚の終決」福音トピックスの論文,ChurchofJesusChrist.org/study/manual/gospel-topics-essays?lang=jpn.  テーマ:ジョセフ・F・スミスReed Smoot Hearings(リード・スムートの公聴会);Plural Marriage after the Manifesto(「宣言」後の多妻結婚);教会宗紀

  37. Proceedings before the Committee, 1:79–350; Paulos, “Under the Gun at the Smoot Hearings,” 205–7; Joseph F. Smith to Franklin S. Bramwell, Mar. 21, 1904, Letterpress Copybooks, 461, Joseph F. Smith Papers, CHL.

  38. Carlos A. Badger to Edward E. Jenkins, Mar. 16, 1904, Carlos A. Badger Letterbooks, volume 1, 454, CHL; Reed Smoot to Joseph F. Smith, Mar. 23, 1904, Reed Smoot Papers, BYU; see also, for example, “Utah Plague Spot,” National Tribune (Washington, DC), Mar. 10, 1904, 8; “Gives History of Mormonism,” San Francisco Call, Mar. 12, 1904, 2; and “Mormons at W.C.T.U. Session,” New York Times, Mar. 15, 1904, 5.

  39. George F. Gibbs to Harry J. Boswell, Mar. 22, 1904, First Presidency Letterpress Copybooks, volume 39; see also Merrill, Apostle in Politics, 50–51.  テーマ:Public Relation(広報)

  40. Proceedings before the Committee, 1:178; Reed Smoot to Joseph F. Smith, Mar. 23, 1904, Reed Smoot Papers, BYU; Flake, Politics of American Religious Identity, 91–92.

  41. Hardy, Solemn Covenant, appendix 2, [426]; Joseph F. Smith, in Seventy-Fourth Annual Conference, 75;『声明』と多妻結婚の終決」福音トピックスの論文,ChurchofJesusChrist.org/study/manual/gospel-topics-essays?lang=jpn.

  42. Joseph F. Smith, in Seventy-Fourth Annual Conference, 75–76; “President Lyman Very Emphatic,” Deseret Evening News, Oct. 31, 1910, 1; Flake, Politics of American Religious Identity, 91–92.

  43. Joseph F. Smith, in Seventy-Fourth Annual Conference, 76.