「光と希望の泉」『聖徒たち—末日におけるイエス・キリスト教会の物語』第3巻「大胆かつ気高く,悠然と」1893-1955年,第14章
第14章:光と希望の泉
第14章
第14章:光と希望の泉
ジョセフ・F・スミスの枕元を離れた後,ヒーバー・J・グラントは家に戻りました。眠ることができず,ヒーバーは死を迎えようとしている預言者のことを考えて涙を流しながら,いちばん新しい総大会でのスミス大管長の説教を何度も読み返しました。少年時代のヒーバーは,当時若い使徒だったジョセフ・F・スミスがヒーバーのワードで話をするとき,いつも胸を弾ませていました。ヒーバーは今でもなお,大管長の説教に畏敬の念を抱いており,自分の説教などは大管長の説教に比べればかすんでしまうと思っていました。
ヒーバーが眠りに就いたのは,翌朝の6時半を回ったころでした。そして目を覚ましたとき,スミス大管長が肺炎で亡くなったことを知りました。1
数日後,預言者の家族や友人たちが墓地に集まりました。ユタ州全域でのインフルエンザのまん延を受けて州の衛生局があらゆる集会を禁止したため,死を悼む人たちは内々に墓前で葬儀を営みました。2ヒーバーは自らの友人を簡潔な弔辞でたたえました。「彼は,わたしが理想とする人物でした」とヒーバーは言っています。「これまで生を受けた人の中で,彼ほど生ける神とわたしたちの贖い主について力強い証を持っていた人はいませんでした。」3
葬儀の翌日である1918年11月23日,使徒たちと管理祝福師はヒーバーを教会の大管長に任命し,アンソン・ランドとチャールズ・ペンローズをその顧問としました。4ヒーバーの友人たちは彼の指導力に対する信頼を表明しましたが,ヒーバーはスミス大管長の後を継ぐことに不安を覚えていました。ヒーバーは25歳の時から十二使徒定員会で奉仕していたものの,大管長会で奉仕したことはなかったのです。一方,スミス大管長は大管長として召される前に数十年間,顧問として奉仕していました。5
また大管長としても,在任中に数々の業績を成し遂げていました。教会員数はジョセフの在任中に2倍近くになり,今では50万人に達しようとしていました。ジョセフは神権定員会の全般的な改革に着手して,アロン神権の職の義務を明確にし,教会の定員会や組織の集会やレッスンを標準化しました。6また,報道機関のインタビューに答えたり,教会の過去の慣行や教えに関する論争に対処したりすることで,人々の間での教会の印象も改善しました。さらに1915年には「家庭の夕べ」を開始し,毎月1回の夕べを,祈り,歌,福音の指導,ゲームに当てるよう各家庭に求めました。7
このような圧倒せんばかりの前任者の業績を考えれば考えるほど,ヒーバーは眠れなくなるのでしした。ヒーバーとその顧問たちは,大管長という新しい召しの負担を軽減するため,スミス大管長が指導者として担っていた多くの責任の一部をほかの人たちに委任しました。ヒーバーはスミス大管長と同様,教会中央教育管理会の会長を務めましたが,一方で使徒のデビッド・O・マッケイを日曜学校の中央会長に召しました。また使徒のアンソニー・アイビンスを青年男子相互発達協会の指導者に任命しました。8しかしヒーバーは銀行業と保険業の実務家として長年の経験を持っていたため,教会が管理する企業の監督は自分自身で行うことを選択しました。9
それでもなお,ヒーバーには不安が残りました。友人や同僚の教会指導者たちから強く勧められ,ヒーバーとその妻オーガスタはカリフォルニア海岸で休暇を過ごすことにしました。ヒーバーはその地で,スミス大管長が亡くなって以来,初めてよく眠ることができました。数週間後,オーガスタとともにソルトレーク・シティーに戻ったときには,元気が回復し,仕事に戻る準備ができていました。10
1919年の最初の数か月間はインフルエンザの大流行のため,ヒーバーは自分が望むような頻度で聖徒たちに向けて語ることができませんでした。すでに1,000人以上の教会員がインフルエンザのために亡くなっていたことから,ヒーバーと顧問たちは人々の健康を心配し,総大会を6月の第1週に延期することを決定しました。また定例の聖餐会を再開することになっても,スミス大管長が導入した霊感に基づく慣行によって聖徒の健康が守られることが分かっていたので,ヒーバーたちはその点については安心できました。
例えば,教会の歴史の大部分を通じ,聖徒たちは聖餐をとる際,共通の杯を使って飲んできました。しかし,病原菌に関する知識がよく知られるようになってきた1910年代の初頭,スミス大管長はガラス製または金属製の個人用の聖餐カップを推奨したのです。ヒーバーはそのような新しい工夫が感染症との戦いにおいてもたらす衛生上の利点を理解していました。11
感染の世界的流行が和らいだ後の11月,ヒーバーはライエの神殿を奉献するため,ハワイを訪れました。ここでもまた,ヒーバーはスミス大管長と自分とを比較せずにはいられませんでした。スミス大管長は現地の人々の言葉を話し,彼らの慣習を理解していたのです。12
奉献のために,神殿にはあふれそうなほど人が集まっていました。多くの人にとって,その日の行事は長年にわたる熱心な祈りと忠実な奉仕の集大成でした。ソルトレーク神殿の近くで暮らそうとユタ州イオセパのハワイ系入植地に移っていた聖徒たちも,今やその開拓地を去り,新しい神殿で礼拝と奉仕を行うため故郷に戻っていました。
ヒーバーは前任者たちと同様,あらかじめ奉献の祈りを準備していました。祈りを秘書に向かって口述していたとき,ヒーバーは御霊の霊感を感じました。「これはわたしの普段のどの祈りよりもはるかにすばらしいものであり,その準備を助けてくださった主に,わたしは心から感謝します。」13
ヒーバーは日の栄えの部屋に立ち,ジョセフ・F・スミスやジョージ・Q・キャノン,ジョナサン・ナペラ,そのほかハワイの教会を確立した人たちについて感謝を込めて語りました。ヒーバーは太平洋諸島の教会員が自分たちの系図を守り,死者のために救いの儀式を行えるよう,彼らを祝福して力を授けてくださるようにと主に願い求めました。14
後に,ヒーバーはその経験について自分の娘に書き送っています。「スミス大管長が同席していないために集会において霊感が弱まるかもしれないという,相当の不安と恐れは,相当なものでした」とヒーバーは認めています。「しかし今は,わたしの不安には何の根拠もなかったと感じます。」15
ヒーバー・J・グラントがハワイに滞在していたとき,中央扶助協会書記のエイミー・ブラウン・ライマンはソーシャルワーカーとして働く人々の会議で講演をし,帰還していました。エイミーは過去3年にわたって同様の会議に出席し,貧しい人や困っている人たちを助ける最新の手法を学んでいました。エイミーは新しい手法が扶助協会による慈善活動の改善に役立つと信じていました。苦しんでいる聖徒たちを援助する慈善活動は,そのころますます赤十字社のような外部組織に依存するようになっていました。16
エイミーが社会福祉に関心を持つようになったのは数年前,夫のリチャード・ライマンがシカゴで工学を研究していたときのことでした。当時,合衆国では多くの改革志向の市民が,貧困,不道徳,政治腐敗,そのほかの社会問題に対して科学的な改善法を支持していました。エイミーはシカゴにいた間,幾つかの慈善団体とともに働き,彼らから刺激を受けてユタ州で同様の仕事を行うことにしました。17
扶助協会中央管理会はその後,教会で新設された社会福祉部を率いて助けの必要な聖徒への支援を監督し,扶助協会の会員たちに最新の援助法を教え,ほかの慈善団体との調整を行う務めにエイミーを任じていました。この期間はエイミーが教会の社会福祉諮問委員会で奉仕した時期と重なっていました。同委員会は十二使徒会の会員と教会の各組織の代表者から成っており,教会員の道徳と物質的な福利の向上を目標としていました。18
社会福祉の会議から戻った後,エイミーは自分が学んだことの実践を試みます。しかし,扶助協会中央管理会の全員が同様の熱意を持っているわけではありませんでした。一部のソーシャルワーカーは報酬を受け取っていたため,スーザ・ゲイツはそれにより自発的な行いであるべきものが商業化されていると考えていました。スーザはまた,社会福祉が慈善奉仕の遂行に関して啓示による教会の規範に取って代わることになるのを危惧しました。その規範では助けを必要とする人々への支援の収集と分配について,ビショップが管理人の職を受けていました。しかしスーザが最も心配したのは,社会福祉が,扶助協会のメッセージの隅石である神の子供たちの霊的な成長よりも,物質的な福利に重点を置いているように思われる点でした。19
中央管理会はスーザとエイミーの両方の意見を検討し,最終的には折衷案で合意しました。中央管理会は,助けを必要としている聖徒の世話をすることが扶助協会の神聖な務めであるときに,そうした活動が赤十字社などの組織によって主導されるべきではないと考えました。しかし,ワード扶助協会に対して最新の社会福祉の手法について訓練を行うこと,人数を限って有給のソーシャルワーカーを雇用すること,支援の要請を一つ一つ検討して援助が適切に分配されているか確認することを承認しました。断食献金の使途を決定する責任は依然としてビショップにありましたが,ビショップはその取り組みを扶助協会会長やソーシャルワーカーと調整して進められることになりました。20
1920年より,扶助協会の会員は毎月1回,社会福祉に関するコースで学びました。また社会福祉諮問委員会はブリガム・ヤング大学における6週間の夏期講座を組織し,新しいソーシャルワーカーの訓練を行いました。この講座には,65のステークの扶助協会から集まった70人近くの代表者が出席しました。出席者はどのように個人や家庭の必要を評価し,最善の支援方法を決定すべきかについて学びました。エイミーは衛生や家族福祉,それに関連するテーマについての講座のクラスを監督しました。またこの講座では社会福祉の権威がニューヨークから招かれ,講義を行いました。
1920年7月にコースが終了した際,女性たちは課程を修了したことで大学の6単位を取得することができました。エイミーが望んでいたとおり,女性たちは地元の扶助協会に戻って自分が学んだことを分かち合い,組織が聖徒たちの中で行う働きが改善されました。21
夏期講座から3か月後,グラント大管長はアジアと太平洋の聖徒たちが必要としていることについて理解を深めることを目的に,使徒のデビッド・O・マッケイがそれらの地域を旅して回ることを発表しました。「マッケイ長老は伝道部を全般的に調査し,状況を調べ,データを集めます。つまり,全般的な情報を入手します」と,グラント大管長は『デゼレト・ニュース』で語っています。マッケイ長老の旅の同行者は,ソルトレーク・シティーのステーク会長であるヒュー・キャノンが務めることになりました。22
二人はソルトレーク・シティーを1920年12月4日に出発し,まずは約130人の聖徒が住む日本に立ち寄りました。続いて朝鮮半島を回り,中国を訪れました。中国ではマッケイ長老がその地を将来の伝道活動のために奉献しました。二人はそこからハワイの聖徒たちを訪問し,ライエミッションスクールのハワイ,アメリカ,日本,中国,フィリピンの子供たちによる国旗掲揚式を参観しました。マッケイ長老は教会所有の学校を旅行中に数十か所視察する計画を立てており,このライエのスクールはそのうちの一つでした。23
教会の学校に特別な関心を持っていた使徒は,この国旗掲揚式から霊感を受けました。24マッケイ長老はその少し前,グラント大管長により教会教育委員長に召されていました。この新しい役職は,マッケイ長老の中央日曜学校会長としての務めを補完するものでした。マッケイ長老は委員長として,多くの変革のさなかにあった教会の教育システムを管理しました。
それまで30年以上,教会はステークによるアカデミーをメキシコ,カナダ,合衆国で運営し,伝道部による学校を太平洋地域で運営していました。しかし最近の10年間,ユタ州とその周辺の若い聖徒たちの中から,無料の公立高校に通い始める人が多数出るようになっていました。それらの学校では宗教教育が提供されていなかったため,多くのステークは地元の高校の近くに「セミナリー」を設置し,末日聖徒の生徒たちに宗教教育を提供し続けました。
セミナリープログラムの成功に促され,マッケイ長老はステークのアカデミーを閉校し始めました。しかしマッケイ長老は依然として,ライエのスクールや,メキシコのフアレスステークアカデミーのような合衆国外のミッションスクールは不可欠な働きをしており,教会の支援を受け続けるべきだと考えていました25
二人はハワイからタヒチを経由し,続いてニュージーランドの北島,テイカアマウイに移動しました。二人はそこで列車に乗ってハントリーという町に向かいました。ハントリーからそう遠くない場所には,マオリの聖徒たちが教会の年次大会と祭典を開いている広い牧場がありました。使徒がニュージーランドを訪問したのは初めてのことで,何百人もの聖徒たちがマッケイ長老の話を聞きに集まりました。全員を収容するため,牧場に大きいテントが二つ,また小さめのテントが幾つか設営されました。
マッケイ長老とキャノン会長が大会の会場に着くと,ヒリニ・ファアンガとミア・ファアンガの孫息子シド・クリスティーが二人に会うために駆け寄って来ました。シドはユタ州で育ち,最近になってニュージーランドに戻っていました。シドは二人をテントの方へ案内します。案内されているとき,二人は「ハエレ・マイ!」という歓迎の叫びを耳にしました。「ハエレ・マイ!」と,辺り一面から聞こえてきました。26
翌日,マッケイ長老は大きいテントのうちの一つで聖徒たちに向けて語りました。多くのマオリ人聖徒は英語を話せましたが,マッケイ長老は会衆の一部が自分の話を理解できないのではないかと心配し,自分が彼らの言語で話せないことを残念がりました。「わたしは自分自身の言語で話しますが,皆さんに解釈と識別の賜物が与えられるように祈ります」とマッケイ長老は言いました。「わたしが主の霊感の下で皆さんに語る言葉について,主の御霊が皆さんに証してくださるでしょう。」27
教会における一致について話していたとき,マッケイ長老は多くの聖徒たちが注意深く耳を傾けていることに気がつきました。聖徒たちの目に涙が浮かんでいるのが見え,マッケイ長老には一部の人たちが霊感を受けて自分の言葉の意味を理解していることが分かりました。マッケイ長老の話が終わった後,理解できなかった聖徒たちのために,スチュアート・メハという名前のマオリ人通訳者が説教の要点を語りました。28
数日後,マッケイ長老は再び大会で話をしました。マッケイ長老は死者のための身代わりの業について教えを説きました。今やハワイに神殿が建てられたため,ニュージーランドの聖徒たちは以前より神殿の儀式を受けやすくなっていました。それでもなおハワイは数千キロのかなたにあるため,大きな犠牲を払わないかぎり訪問することはできませんでした。
「皆さんが神殿を持つであろうことについて,わたしの心に疑いはありません」とマッケイ長老は言いました。マッケイ長老は聖徒たちに,その日に備えるよう求めました。「皆さんはそのための準備を整えなければなりません。」29
1921年の始め,49歳のジョン・ウイッツォーはユタ大学学長として5年目の終わりを迎えようとしていました。ジョンは1905年にユタ農業大学の職を追われ,それからブリガム・ヤング大学で少しの間教えた後,新しい学長として農業大学に戻っていました。その後,1916年にユタ大学の学長に指名されたため,ジョンと妻のレアは3人の子供を連れてソルトレーク・シティーに移りました。
最初にその町に来たとき,ジョンの母親のアンナ,おばのペトロライン,弟のオズボーンは皆,近くに住んでいました。結婚して二人の子供をもうけていたオズボーンは,ユタ大学英語学部の学部長を務めていました。30
しかし彼らが一緒にいられる時間は長くありませんでした。1919年の春,アンナが病気になったのです。夏になって病状が悪化すると,アンナはジョンとオズボーンを同時に呼びました。「回復された福音は,わたしの生涯の大きな喜びだったわ」とアンナは息子たちに言いました。「わたしのために,耳を傾けるすべての人に向けてその証を述べてちょうだい。」
数週間後,アンナは自分の妹,子供たち,孫たちに見守られながら亡くなりました。葬儀では,アンナがノルウェーで伝道していたときにヨーロッパ伝道部会長を務めていたヒーバー・J・グラントが話をしました。母親の生涯について考えたジョンは,彼女への感謝で胸がいっぱいになりました。
「母は家族のためにも助けを必要としている人たちのためにも,言い表せないほどに自己犠牲的だった」とジョンは日記に記しています。「真理の大義に対する母の献身は,崇高と言ってもよいほどだった。」31
わずか8か月後,オズボーンが突然の脳出血に襲われました。オズボーンは翌日に亡くなります。「唯一の弟を亡くした」とジョンは嘆き悲しみました。「わたしはたった一人になってしまった。」32
オズボーンの葬儀からちょうど1年がたった1921年3月17日,ジョンは使徒のリチャード・ライマンが午前中ずっと自分に連絡を取ろうとしていたことを知りました。ジョンはすぐにリチャードに電話をします。「直ちにわたしの事務所に来てください」とリチャードは切羽詰まった様子で言いました。33
ジョンはすぐに出発し,教会の新しい執務ビルでリチャードに会いました。34それから二人は通りを渡ってソルトレーク神殿に向かいました。そこでは大管長会と十二使徒定員会が集会を行っていました。ジョンは自分がそこにいる理由が分からないまま,席に加わりました。ジョンは青年男子相互発達協会の中央管理会の会員として,教会の最上位の評議会の会員としばしば会合を持っていました。しかし,この集会は大管長会と十二使徒会が木曜日に開いている定例集会であり,普段ここに招かれることはありませんでした。
グラント大管長が集会を進行し,教会の業務の幾つかの事項について話し合われました。それから大管長はジョンの方を向いて,アンソン・ランドが最近亡くなったことで生じた十二使徒会の欠員を埋めるようジョンを召しました。「この召しを受け入れますか。」グラント大管長は尋ねました。
ジョンには時間が突然止まったように思えました。将来についての様々な考えが頭をよぎりました。この召しを受けたなら自分の人生が主のものとなることは分かっています。これまで多くの年月をささげてきたにもかかわらず,大学関係のキャリアは脇に置くことになります。それに,自分の個人的な限界についてはどうでしょうか。そもそも自分はこの召しにふさわしいのでしょうか。
それでもなお,自分の人生で優先されるべきは福音であることをジョンは知っていました。それ以上ためらうことなく,ジョンは「はい」と言いました。35
グラント大管長はすぐにジョンを聖任し,神によるよりいっそうの強さと力を約束しました。そして母親の助言に耳を傾け,常に謙遜で,この世の知恵と福音の真理とを見分けることのできるようにとジョンを祝福しました。それからグラント大管長はジョンが使徒として行う務めについて話しました。「世界の様々なステークや国を旅するとき,あなたは末日聖徒たちから愛と信頼を寄せられるでしょうし,わたしたちと信仰を異にする人と接するときも相手から敬われるでしょう」と大管長は約束しました。36
人生の新しい段階を歩み始める用意を整えたジョンは,神殿を後にしました。それは簡単なことではないでしょう。ジョンとレアには負債が残っていましたし,年長の子供たちは伝道に出る準備ができていました。そのうえでジョンは大学の給料を捨て,代わりに中央幹部がフルタイムの奉仕に対して受け取るささやかな生活手当を得ることになります。しかしジョンは自分の持っているすべてを主にささげようと決意していました。37
レアも同じ思いでした。その少し後で,レアはグラント大管長に次のように語っています。「わたしの人生が大きく変わることは想像できますし,ともすれば,どうしても離れ離れになることが多くなるのを恐れてしまいそうです。しかし,これまでのように聖徒たちのために働くだけでなく,もっと直接的に聖徒たちとともに働ける機会を,わたしは喜んで受け入れます。」
レアは次のように付け加えています。「この大いなる務めに召された男性の妻として,どのような経済面での変化や,公的な仕事や日々の務めの変化を経験することになっても,わたしの心に後悔はありません。」38
自分の義理の息子が十二使徒定員会に召されたことを知ると,スーザ・ゲイツは非常に喜びました。スーザは以前,ジョンが家族や教会よりも職業を優先するのではないかと心配していましたが,その心配はすっかり払拭され,むしろレアや子供たち,そして回復された福音に対して献身的なジョンを深くいつまでも愛するようになっていました。
スーザはたくさんの助言を記した長い手紙をジョンに送り,彼の新しい務めに期待していることを伝えました。スーザは,扶助協会や教会のそのほかの組織に生じている変化にまだ不安を感じていました。「今日,世界は霊的な飢餓状態にあります」とスーザはジョンに言っています。スーザは救いを霊的な進歩ではなく,知的および道徳的な成長の問題として捉えている教会員がますます増えていると考えていました。
そして,すでに「永遠の命の種」を植えられている,霊的に眠っている男女を目覚めさせるよう,義理の息子に強く促しました。「それを育てるのは,優れた農学者であるあなたです」とスーザは書き送っています。「なぜなら,そうした一人一人の中には神の真理と愛の小さくても深い水たまりがあり,ただ心の休止状態という下草を少し取り去りさえすれば,光と希望の泉にまで成長するのですから。」39
ジョンに召しが与えられたのは,ちょうどスーザが教会における自分の影響力の衰えを感じていたとき,特にエイミー・ライマンやそのほかの人たちが扶助協会を新たな方向に導き続けていたときのことでした。組織に新しい命を吹き込むことを願って,扶助協会の管理会の中にはひそかに中央扶助協会会長エメリン・ウエルズの解任をヒーバー・J・グラントに迫った人たちさえいました。
93歳となっていたエメリンは,存命の教会役員の中で唯一,預言者ジョセフ・スミスと面識のあった人でした。身体的に衰えて健康状態が思わしくなかったエメリンはしばしば寝た切りとなり,管理会の集会で扶助協会の業務を第一顧問のクラリッサ・ウィリアムズに任せることが度々ありました。
ヒーバーの顧問たちや十二使徒定員会も同様に,扶助協会に新しい指導者が必要であると考えていました。しかしヒーバーはエメリンの解任をためらい,忍耐するようにと訴えました。エライザ・R・スノー以来,すべての扶助協会会長は亡くなるまで奉仕を続けていたのです。そしてヒーバーはエメリンを敬愛していました。ヒーバーの母親はソルトレーク・シティー第13ワードの扶助協会会長を30年にわたって務めましたが,エメリンはその書記を務めていました。10年以上前に亡くなったヒーバーの妻エミリーもウエルズ家の一員でした。そのためヒーバーは彼らとの深いつながりを感じていたのです。一体どうしてヒーバーにエメリンの解任を考えることができるでしょうか。40
しかし中央管理会の会員たちとさらに評議を重ねた後,大管長会と十二使徒定員会はエメリンの解任が扶助協会にとって最善であるという判断に至りました。ヒーバーはエメリンの解任を彼女の自宅で直接伝えました。エメリンはその知らせを落ち着いて受け止めましたが,その心は深く傷つきました。41翌日,扶助協会の1921年春の大会において,クラリッサ・ウィリアムズが新しい中央扶助協会会長として支持されました。また中央管理会の会員も大部分が解任され,新しい会員が代わりに召されました。42
スーザは再組織後の中央管理会に残った女性の一人でした。スーザはグラント大管長がエメリンを解任したことは正しかったと信じていましたが,次に何が起こるかについては気になっていました。1921年4月14日,新しい管理会の最初の集会で,クラリッサは組織に対する幾つかの変更を発表しました。最も重要な点は,エイミー・ライマンが扶助協会の活動の実務運営ディレクターに任命され,『扶助協会機関誌』を含む諸部門のすべての活動に対する責任を与えられたことでした。スーザはその定期刊行物の編集者の役割を保ちましたが,クラリッサの指示により,その役割の任期は1年間になりました。その機関誌に関し,スーザの将来はもはや保証されていません。
これらの変更に心を悩ませたスーザは,これは社会福祉に関してエイミーと意見を一致させられていないことに何か関係があるのではないかと考えました。43
6日後,スーザはエメリンを訪ねました。エメリンはベッドで過ごす時間が増え,しばしば自分の解任について涙を流していました。その枕元にはエメリンの娘であるアニーとベルが常に控え,彼女を慰めようと努めていました。スーザは古い友人を励まそうとして最善を尽くしました。「エメリンおばさん」とスーザは言いました。「皆があなたを愛していますよ。」
「そうならいいのだけど」とエメリンは答えました。「そうでないなら,わたしにはどうしようもないわ。」44
4月25日,エメリンは安らかに亡くなりました。スーザは『インプルーブメント・エラ』に寄せた弔辞でエメリンを熱い思いでたたえました。スーザはエメリンが詩人として,『ウーマンズ・エクスポーネント』の編集者として,そして合衆国憲法の条文に最近追加された女性参政権の熱烈な擁護者として送ってきた長い年月を称賛しました。しかしスーザは最大の賛辞を,エメリンの穀物貯蔵における働きに対して送りました。この割り当ては,最初にエメリンが1876年にブリガム・ヤングから受けたものでした。扶助協会の穀物によって世界中の困窮者が援助を受けてきたと,スーザは述べています。
「ウエルズ夫人の生涯における最も際立った特質は,その至高の意志にありました」とスーザは記しています。「彼女の望みは高く,目標は崇高でした。しかしそれらすべての中に真理の糸が通っていて,彼女の証につながっていました。それが彼女を守り,山の上に置かれた光としていました。」45