子供を導く賜物
この世の影響力を振り払って御霊に頼ることができるように子供に教えるには,どうしたらよいでしょうか。
若い父親が,文字どおり沈みそうになりました。二人の子供を連れて,義理の父と一緒に湖のほとりを散歩しに行った時のことです。松の生い茂る壮大な山々に囲まれ,青い空には白い雲が薄く懸かり,美しさと静けさを醸し出しています。子供たちがだんだん暑がり,疲れてきたので,この二人の男性は,子供たちを背負って少し先まで湖を泳いで渡ることにしました。
簡単に思えたのですが,突然,若い父親は下に引っ張られるのを感じました。全てがひどく重くなっていきます。水の力で湖の底に引きずり込まれそうです。慌てました。浮いているためにはどうしたらよいのでしょうか。自分だけではなく,背中には大事な娘もいるのです。
叫んでも義理の父には届きません。はるか遠くにいて,必死で助けを求めても答えてくれないのです。誰にも頼れず,何の助けもないことを悟りました。
この心細さが想像できるでしょうか。手を伸ばしてもつかむものはなく,自分の命も我が子の命も絶望的です。不幸にして,わたしたちは程度の差こそあれ,誰もがこのような気持ちを経験します。生き延びて愛する人を救うために,必死に助けを求めることがあります。
取り乱しそうになる中で,この父親は自分の靴が水を含んで重くなっていることに気づきました。そこで,水面に何とか顔を出しながら,重い靴を脱ごうとしました。しかし,靴はまるで吸盤で張り付いているかのように離れません。靴ひもは水で膨れ上がり,余計に足を締め付けています。
絶望し,これで最後かと思ったそのとき,どうにか靴を脱ぐことができました。靴はついに足から外れると,湖の底へとまっしぐらに落ちていきました。引きずり込まれそうな重さから解放されると,この父親は直ちに上昇し,娘を水面に押し出しました。前に向かって泳げるようになり,湖の向こう岸に無事到着することができました。
誰でも溺れそうな気持ちになることがあるかもしれません。人生が重くのしかかってくることがあります。「わたしたちが住むこの世界は,騒がしく,忙しい所です。……注意していないと,この世の事柄が御霊に関わる事柄に取って代わってしまいます。」1
この父親を手本にして,負っている世の重荷を幾らか捨て,子供の顔を水面に出し続け,自分の不安を鎮めていられるようにするには,どうしたらよいでしょうか。どうすれば,パウロが勧告したように「いっさいの重荷……をかなぐり捨て」2ることができるのでしょうか。子供が親や親の証にすがることができなくなる日,自分で泳ぐ日に備えて,どう備えさせればよいでしょうか。
この力の神聖な源を理解すれば,答えはおのずと分かります。この源は見過ごされることが多いのですが,日々活用すれば道を照らし,大切な子供たちを導いてくれます。この源とは,聖霊の導きという賜物です。
子供は8歳でバプテスマを受けます。神との聖約を学び,交わします。愛する人たちに囲まれて水に沈められ,大きな喜びとともにバプテスマ・フォントから上がります。次に彼らは,聖霊の言い尽くせない賜物を受けます。その祝福を受けるにふさわしい生活をする限り,常に導き手となる賜物です。
デビッド・A・ベドナー長老はこう言っています。「この儀式が簡素なために,わたしたちはその大切さを見逃してしまうかもしれません。『聖霊を受けなさい』という言葉は受け身でいるよう言い渡すものではありません。むしろ,神権の命令,すなわち単に作用されるものになるのではなく作用するものとなるように促す,権威ある勧告なのです。」3
子供には,善いことをしたい,善い子になりたいという自然な欲求があります。わたしたちは彼らの純朴さ,純粋さを感じることができます。また,子供には,静かな細い声を聞き分ける偉大な感性があります。
第三ニーファイ第26章で,救い主は子供に霊的な感受性があることを示しておられます。
「イエスは,……彼らの舌を緩められた。そこで子供たちは,大いなる驚くべきことを,実に,イエスがかつて民に明らかにされたことよりも大いなることを,自分たちの父親に語った。……
……群衆は……,これらの子供たちが語るのを,まことに乳飲み子でさえも口を開いて驚くべきことを語るのを見聞きした。」4
わたしたちは親として,子供の霊的な感受性をどのように伸ばしたらよいでしょうか。親元を離れて人生の深い水の中に一人だけでいるときに,この世の影響力を振り払って御霊に頼ることができるように教えるにはどうしたらよいでしょうか。
幾つかアイデアを紹介しましょう。
第1に,子供が御霊の声を聞いたり御霊を感じたりしているときに,それに気づかせてあげてください。旧約聖書の時代に戻って,エリがサムエルに行ったことを見てみましょう。
少年サムエルはある声を2度聞き,そのたびにエリのもとに駆けつけ,「はい,ここにおります」と言いました。
エリは,「わたしは呼ばない」と答えました。
「サムエルはまだ主を知らず,主の言葉がまだ彼に現されなかった」のです。
3度目にサムエルが来たとき,主がサムエルをお呼びになったことを悟ったエリは,「しもべは聞きます。主よ,お話しください」5と言うよう,サムエルに告げました。
サムエルは主の御声を感じ,聞き分け,御声に聞き従うようになり始めていました。しかし,御声を認識できるようエリが助けてくれるまで,理解できなかったのです。そして,教えられたおかげで,サムエルは静かな細い声によく耳を傾けることができるようになりました。
第2に,静かな細い声を感じられるよう家庭を整え,子供に準備をさせてください。「外国語の教師の多くは,子供が外国語を覚える最も良い方法は,その言語にどっぷりと浸る『集中訓練方式』だと言います。この方式では,その外国語を話す人に囲まれた状況で,実際に自分で話してみるように求められます。そして,単に言葉を口にするというだけでなく,よどみなく話し,その外国語自体で思考することを覚えていきます。霊的教育の『集中訓練』の場としては,家庭が最適です。家庭では,霊的な原則を日常生活の基本とすることができるからです。」6
「努めて〔主の言葉を〕あなたの子らに教え,あなたが家に座している時も,道を歩く時も,寝る時も,起きる時も,これについて語らなければならない。」7家庭を御霊で満たすならば,子供の心を御霊の影響力に対していつも開いた状態にすることができます。
第3に,御霊が語り掛けるとはどういうことか,理解できるよう子供を助けることができます。ジョセフ・スミスはこう教えています。「イエスは幼い子供のもとに来ると,幼い子供の言葉と能力に合わせられる。」8ある母親は,子供の学び方はさまざまで,目から学ぶ子供もいれば耳から学ぶ子供もあり,触れることや体を動かすことによって学ぶ子供もいることを発見しました。子供をよく観察すればするほど,聖霊は子供一人一人にとって最適な方法でお教えになることが分かってきたのです。9
別の母親は,御霊を認識できるよう子供を助けた経験について,こう書いています。「〔子供は,〕何度も浮かんでくる考えや泣いた後に感じる慰め,ちょうどいいときに何かを思い出した経験が,全て聖霊のおかげだということを理解していないことがあります。わたしは子供に,どんな気持ちがするかによく集中し,〔その気持ちに従って行動する〕よう教えています。」10
御霊を感じ,認識すると,生活の中で子供の霊的な感受性は研ぎ澄まされますし,聖霊のささやきが分かってくると,その声が次第にはっきりと聞こえるようになります。リチャード・G・スコット長老が語った次の言葉のようになるのです。「御霊に導かれる経験をし,良い成果を得ると,見たり聞いたりできる事柄よりも,心に浮かぶ考えへの確信が増して〔いき〕ます。」11
子供が人生の水の中に入っていくのを見て恐れる必要はありません。この世の重荷を取り除くよう教えてきたからです。御霊の導きという賜物を求めて生活することを教えてきました。彼らがこの賜物を求めて生活し,その促しに従うならば,この賜物は,引き続き彼らの負う荷を軽くし,天の家に帰れるよう導いてくれるでしょう。イエス・キリストの御名によって,アーメン。