また会う日まで
シオンの大きなつまずきの石
基本的に,高慢の本質は競争心です。
高慢は,ひどく誤った解釈をされている罪であり,多くの人が無意識のうちにこの罪を犯しています(モーサヤ3:11;3ニーファイ6:18参照)。聖典には,義にかなった高慢というようなことを教えている箇所は一つもありません。高慢は常に罪とみなされています。……
高慢の中心を成すのは敵意,つまり,神と同胞に対する敵意です。敵意は「憎悪,敵対心,反抗」を意味します。サタンは,この力によってわたしたちを支配しようとします。
基本的に,高慢の本質は競争心です。自分の思いを神の御心と競わせるのです。高慢な心で神に向かうとき,そこには「御心ではなく自分の思いが成るように」という気持ちがあります。……
自分の思いを神の御心と競わせるようになると,欲望や欲求,激情を制御することができなくなります(アルマ38:12;3ニーファイ12:30参照)。
高慢な人は,自分の生活に導きを与える神の権能を認めることができません(ヒラマン12:6参照)。自分流に真理を解釈して神の偉大な知識に挑み,自分の能力で神権の力に対抗し,自分の功績を神の力ある業と競わせます。
……高慢な人は,神が自分の思いに合わせてくれればいいのにと思います。神の御心に合わせて自分の考えを変えることなど念頭にありません。
どこにでも見受けられるこの高慢という罪には,もう一つ重大な要素があります。それは同胞に対する敵意です。わたしたちは,人よりも上に立ち,他の人をおとしめようとする誘惑に毎日直面しています(ヒラマン6:17;教義と聖約58:41参照)。
高慢な人は,自分の知性,意見,仕事,財産,才能など,この世的な尺度をもって張り合い,全ての人を敵に回します。C・S・ルイスはこう書いています。「高慢な者は何かを所有しただけでは喜ばない。人より多く持って初めて喜ぶのである。……人を高慢にするのは比較である。すなわち,自分は他の人たちよりも優れているという優越感である。競争心という要素がなくなれば,高慢もその姿を消すのである。」(Mere Christianity〔1952年〕,109-110)……
高慢な人は,神の裁きよりも人の裁きを恐れます(教義と聖約3:6-7;30:1-2;60:2参照)。彼らには「神にどう思われるか」よりも,「人にどう思われるか」が重要なのです。……
高慢な思いに捕らわれると,世の人々の目と自分を切り離すことができなくなり,自由を手放して,人の判断に縛られるようになります。世の人々の声が御霊のささやきよりもはるかに大きく鳴り響きます。そして,人の理論が神の啓示を押しのけ,高慢な人は鉄の棒から手を離してしまうのです(1ニーファイ8:19-28;11:25;15:23-24参照)。……
高慢はシオンの大きなつまずきの石です。もう一度言います。高慢は間違いなくシオンの大きなつまずきの石です。……
わたしたちは「聖なる御霊の勧めに従い」,「生まれながらの」高慢な人を捨て,「主なるキリストの贖罪により……聖徒となり」,「子供のように従順で,柔和で,謙遜」にならなければなりません(モーサヤ3:19。アルマ13:28も参照)。