「互いに重荷を負い合う」
2017年にLDSファミリーサービス職員に対して行った説教より。ホランド長老はこの説教をより広範囲の読者に向けて書き改めました。
この旅を変更することはできないかもしれませんが,一人で旅する人がいないようにすることはできます。まさしくそれが重荷を負い合うということです。
使徒ペテロは,イエス・キリストの弟子は「同情し合」わなければならないと書いています(1ペテロ3:8)。皆さんの多くは,その戒めをきちんと立派に守って日々の生活を送っていると思います。確かにこれまでと同様今日も,思いやりは大いに必要とされています。最新のデータによると,毎年,合衆国の成人のおよそ5人に1人(4,380万人)が精神的な疾患にかかっています。1ポルノグラフィーが蔓延しており,あるウェブサイトはアクセス数が2016年だけで230億回を超えています。2両親がそろっている世帯の数は,合衆国では〔急激に〕減少しており,その一方で,離婚,……同棲,〔また,非嫡出子〕が増えています。今日,新生児10人のうち少なくとも4人は,独身女性あるいは婚姻関係にない相手と同居している女性から生まれています。3
救い主の民と呼ばれ,救い主の教会の一員であり続けるためには,「重荷が軽くなるように,互いに重荷を負い合うことを望み,また,悲しむ者とともに悲しみ,慰めの要る者を慰めることを望み,また神に贖われ,第一の復活にあずかる人々とともに数えられて永遠の命を得られるように,いつでも,どのようなことについても,どのような所にいても,死に至るまでも神の証人になることを望んで」いなければなりません(モーサヤ18:8-9)。
互いに重荷を負い合うという表現は,イエス・キリストの贖いを簡潔でありながらも力強く言い表していると思います。人の重荷を取り除こうとするとき,わたしたちは「シオンの山」の「救う者」となります(オバデヤ1:21)。わたしたちは象徴的な意味において,世の贖い主と足並みをそろえてこの御方の贖いにつながり,「心のいためる者をいやし,捕われ人に放免を告げ,縛られている者に解放を告げ」るのです(イザヤ61:1)。
神の共感
しばらくの間,このキリストの贖いについて考えてみましょう。わたしがこの教義を正しく理解しているとすれば,贖罪という行為において,イエス・キリストは身代わりとして,アダムとエバの時代からこの世の終わりまでに生を受ける全人類の罪と苦しみ,悩み,涙をなめ,その重荷を担われました。こうして,イエス・キリスト御自身は文字どおり罪を犯されませんでしたが,罪を犯した人の苦痛を味わい,罪が招く結果に苦しまれました。イエス・キリスト御自身は離婚を経験されませんでしたが,離婚する人の苦痛を味わい,離婚が招く結果に苦しまれました。イエス・キリスト御自身は性的暴行を受けたり,統合失調症やがんにかかったり,子供を亡くしたりなさったことはありませんでしたが,そのような経験をする人の苦痛を味わい,そのような経験が招く結果に苦しみ,そのほか人生で負う実に多様な重荷や失意を味わい,その結果に苦しまれました。
贖いの業に関するこのような見方は,この世界でだれも知る者のない共感の唯一まことの神聖な模範です。明らかに,いかなる言葉も全宇宙で最も重大なこの行為を正確に言い表すことはできませんが,今日,これよりも適切な言葉を知らないので,その言葉を使います。
共感という言葉は,「過去現在を問わず,ほかの人の感情,思い,経験を理解し……その人の身になって共有する行為」と定義されます。4すでに述べたように,この言葉は,確かに,贖いのプロセスを言い表すかなり適切な言葉です。特に,「過去」「現在」という言葉に「未来」を付け加えるとそうです。
言うまでもなく,神の子供の中には,ひそかに独りで苦しんでいる人があまりにも多すぎます。例を挙げましょう。一人の若い男性が手紙を書いて寄越しました。きわめて理路整然と証が述べられていました。しかし打ちひしがれているとも書かれていました。同性に引かれる性質があるために,充足感がなく,将来の自分を思い描いても喜びがないからです。
「わたしは生涯,寂しい夜とわびしい朝を迎えるのです。わたしはヤングシングルアダルトのワードに忠実に通っています。でも,毎週教会から帰る度に,ほんとうの意味では溶け込めないことを痛感するのです。わたしが息子に自転車の乗り方を教えることは決してないでしょう。歩き始めた娘の手がわたしの指にすがるのを感じることも決してありません。孫に恵まれることも決してないのです。
来る日も来る日も,毎月毎月,10年また10年,帰る家にはだれもいません。支えとなるのはキリストに対する希望だけです。主がわたしにこのようなことをされてこんな無理な犠牲をささげるようお求めになるのはなぜだろうと,いぶかしく思うこともあります。だれに見られることもない夜に泣きます。だれにも話したことはありません。両親にも話していません。これまで両親も友人も皆,こんな人を拒否してきました。それとまったく同じように,……もしほんとうのことが分かったら,わたしを拒否するでしょう。わたしは世の中に疎まれて生きていくことになるのです。残された選択肢は,独身を通すことで煙たがられ敬遠されるか,あるいは事情を話して哀れまれ無視されるかのいずれかです。前途には,長く惨めな人生が待ち受けています。ギレアデに乳香はないのでしょうか。」5
これほどの苦痛と落胆,絶望を抱えていようと,そのような人に必ずしてあげようと努めなければならないことが一つあります。それは,独りではないと確信させてあげることです。神がともにおられ,天使がともにおり,わたしたちがともにいることを断固として強調する必要があります。
共感。きわめて不適切に聞こえるかもしれませんが,ここから始めるのです。この旅を変更することはできないかもしれませんが,一人で旅する人がいないようにすることはできます。それがまさしく重荷を負い合うということです。それが重荷というものなのです。そのような重荷がいつなくなるのか,あるいは果たして現世でなくなることがあるのかは,だれにも分かりません。しかし,わたしたちはともに歩いて重荷を一緒に負うことができます。イエス・キリストがわたしたちを引き上げてくださったように,わたしたちも兄弟姉妹を引き上げることができます(アルマ7:11-13参照)。
こういったすべてのことを通して,救い主がわたしたちのために最終的にしてくださったことが新たに,さらにはっきりと分かるようになるのです。以前にも述べたことですが,
「このような難しい事柄について多少の平安と理解を得ようと努力するときに決して忘れてはならないのは,わたしたちが現在堕落した世に生きていること,しかもそれを自ら選択したということです。ここは……神のようになることを目指すわたしたち……が,神聖な目的のために繰り返し試され,試練を受ける場なのです。何よりも,神の計画に救い主が約束されていることを忘れてはなりません。すなわち,主を信じるわたしたちの信仰を通してそのような試しと試練に勝利させ,栄光のうちに高く上げてくださる贖い主です。御子を遣わした御父と,遣わされた御子がそのために払われた犠牲は計り知れないものでした。この神聖な愛を正しく認識することで,わたしたちはそれに比べて小さな自分の苦しみにまず耐えられるようになり,次いでそれを理解できるようになって,ついに贖われるのです。」6
すぐに分かることですが,自分たちとしては最善かつ最も献身的な奉仕であっても,ほかの人が必要としている方法で慰めたり,励ましたりするうえでは不適切ということはよくあります。もしくは,一度はうまくいっても,次からはうまくいかないように思えることが多々あります。大切に思っている人が逆戻りしていくのを,スーパーヒーローと違って,簡単には防げないこともあります。だからこそ,詰まるところはイエス・キリストに心を向け,イエス・キリストを信頼しなければならないのです(2ニーファイ9:21参照)。
わたしたちには,どうすることもできないことがよくあります。あるいはそこまではいかなくても,助け続けられなかったり,確かに何度かうまくいっても再び同じことができなかったりすることがあります。しかし,キリストはお助けになれます。父なる神もお助けになれます。聖霊もお助けになれます。また,わたしたちは御三方の代理を務め,できるかぎりいつでも,またどこでも助けようと努力し続ける必要があります。
自らをもう一度強化する
重荷を負い合おうと熱心に努力する皆さんのような人にとって,大切なことは,周りから篤く期待を寄せられ,実際に多くを求められるときに,自分をもう一度強化し,鍛え直すことです。疲れやいらだちを少しも感じない,あるいは自分を大切にする必要がないほど強い人はいないからです。イエスは確かにそのような疲れを経験し,御自分の力が失われていくのを感じられました。イエスはただただ与え続けられました。しかし,その行為には代価が伴い,御自分に頼る実に多くの人々の影響を受けられました。長血を患っていた女性が群衆の中で主に触れたとき,イエスはこの女性を癒されましたが,同時に「自分の内から力が出て行った」ことに気づかれました(マルコ5:25-34参照)。
いつも驚くことですが,イエスはガリラヤ湖で起こった嵐,しかも腕利きの漁師である弟子たちが船は沈むと思うほどに強烈な嵐の中で,眠ることがおできになったのです。どれほど疲れ果てておられたことでしょう。何度も説教すれば,また何度も祝福すれば,だれでも必ず疲れ果ててしまうのではないでしょうか。世話をする人も,世話をしてもらう必要があるのです。タンクに燃料が入っていなければ,ほかの人に与えることはできません。
「ロザリン・カーター介護研究所」の役員会理事長であるロザリン・カーターは,かつてこう述べました。「世の中には4種類の人しかいません。世話してきた人,現在世話している人,将来世話する人,将来世話してくれる人が必要になる人。」7
紛れもなく,「世話をする人と世話を受ける人との関係は,〔重大な関係,より適切な言い方をすれば〕神聖な関係です。」8しかし,重荷を負い合うという困難な奉仕をするとき,わたしたちは次のことを記憶しなければなりません。大切な人の苦痛に共感するとき,だれ一人としてその影響を免れることはできないということです。
バランスを求める
世話をする役割と,仕事,家族,趣味など人生の様々な分野とのバランスを取る方法を見いだすことは大切です。このテーマに関する総大会説教でわたしは,「皆さんすべてに敬意を表〔すよう〕」努めました。「皆さんは多くのことをなし,深い思いやりを示し,『善を行うという意図』の下に働いています。惜しみなく持てるものをささげている方が大勢います。中には自分の生活も〔情緒面あるいは経済面で大変である〕にもかかわらず,何かしら〔周りの人と〕分かち合っている人もいます。しかし,ベニヤミン王がその民に警告しているように,わたしたちは自分の力以上に速く走ることは求められていません。何事も秩序正しく行うべきです(モーサヤ4:27参照)。」9とは言っても,わたしは皆さんの多くが非常に速く走り,時として,体力と気力が底を突かんばかりであることを知っています。
問題があまりにも大きすぎるように思えるとき,デビッド・バッティのエッセーにある次の言葉を思い起こしてください。
「希望は感情ではない。それは問題のただ中にあって生じる大きな喜びの渦ではない。
……希望は魔法の杖ではない。振れば問題がたちまちにして消えうせることはない。希望は命綱である。人生の嵐に打ちのめされないようあなたを守る力がある。
イエスに希望を置くとき,あなたはこの御方の約束に信頼を置く。つまりイエスはあなたを決して置き去りしたり,見捨てたりなさらない,あなたにとって最善のことをしてくださるという約束である。途方もなく大きな問題のただ中にあっても,希望があれば平安でいられる。また,この道を一足一足歩むごとに,イエスがともにいてくださることを知ることができる。」10
わたしはパウロが無力感や苦悩とどのように取り組んだかに深い感動を覚えます。聖文の中で,主は御自分の恵みはパウロに対して十分であり,御自分の力は「弱いところに完全にあらわれる」と語られました。パウロはこう書いています。「それだから,キリストの力がわたしに宿るように,むしろ,喜んで自分の弱さを誇ろう。」(2コリント12:9)11
御父と御子を信頼する
天の父なる神とイエス・キリストはわたしたちやわたしたちの行いを心から大事にしておられ,神の力がわたしたちの「弱いところに完全に」表れるよう望んでおられます。それはあなたが大切な人に対して抱く望みと同じです。このことを信じなければなりません。
神はわたしたちの重荷を御存じであり,わたしたちが周りの人を力づけてあげられるように,力を与えてくださることを証します。それは問題が必ずなくなるとか,世界に突然平和が訪れるとかいう意味ではありません。しかし,祈っても耳を傾けてもらえないという意味でもありません。また,伴侶に先立たれた人,離婚した人,孤独な人,打ちひしがれている人,依存症を患っている人,病気の人,希望を失った人など,あなたが大切に思うすべての人の祈りが聞き届けられないという意味でもありません。12
兄弟姉妹の皆さん,重荷を負い合うというわたしたちの奉仕は,きわめて重要です。それは文字どおり,主の業なのです。わたしの事務所に届く手紙の数は,どれほど助けが必要かを浮き彫りにします。その助けは,苦しむ者に与えられる天からのマナです。
わたしは以前にこう言ったことがあります。「神の御手に使われる者という意味では,すべての天使が幕のかなたから遣わされるのではないということを覚えておきましょう。ここで,今,そして日々,ともに歩き語り合う人の中にも天使はいます。近所に住む人の中にもいます。わたしたちを産んでくれた人たちもそうです。わたしにとっては,結婚してくれた人も天使の一人です。善良で清い人々の,親切で献身的な行いの中に神の愛を見るときほど,天を身近に感じるときはありません。彼らの善良さと清さを言い表すのに『天使のような』という言葉以外は思い浮かびません。」13
重荷を負い合おうと努力する人たちは,わたしにとってほんとうに文字どおり,憐れみに満ちた天使です。皆さんが周りの人に与えようとして払ったすべての努力に対して100倍の報いがありますように。