証の貯蔵庫
中学3年生の年に両親が離婚しました。何年もの間,父が聖餐を取っていない様子を見ていました。父が戒めを守ることに苦しんでいるのは知っていましたが,その問題の大きさや深刻さをわたしは理解していませんでした。父が破門されたことを両親から伝えられたときに初めて,姉とわたしは事の次第を知ったのです。
「父さんなんか大嫌い!」泣きながら何度も何度もそう叫びました。わたしは激怒していました。「どうしたらこんなひどいことを家族にできるんだろう。」そう考えました。なぜこんなに長い間うそをつき続けていられたんだろう。
初めに感じた驚きと怒りは長くは続きませんでした。2週間のうちに,その怒りは無感覚へと変わっていきました。初めのうちはその無感覚こそが,わたしの感じていた怒りと心痛からの解放でした。しかし,やがてその解放は絶望へと姿を変えていきました。自分の周りで人生が崩れ落ちていくのを感じました。これまで以上に天とのつながりを感じる必要がありました。神の愛,導き,平安,癒しを感じる必要がありました。
やがて総大会の時期が来ました。ある部会で,神の慰めを感じるために耳を傾け,待ちました。しかし何も感じませんでした。暗い礼拝堂の中で思いました。聖霊を感じられないけど,確かに聖霊がここにおられることは分かっている。必ずここにおられるはずだ。そのように考え始めると,これまで得てきた数々の小さな証を思い出しました。聖典が真実であること,ジョセフ・スミスが預言者であり,天の御父がわたしたち家族をこれまで祝福されてきたこと,戒めを守ることで平安がもたらされてきたことなどです。それはまるで自分の中に証の貯蔵庫があるようでした。
過去に得られた霊的な証を振り返れば振り返るほど,たとえ,この上なく御霊を感じたいと願っているにもかかわらず,聖霊の影響力をその瞬間に感じられなくても,それはどうでもよいことだと気づくようになりました。わたしにはすでに福音が真実であるという静かで揺るぎない証の貯蔵庫があったからです。
その知識はわたしを支え,たとえすぐには何も解決しなくても,戒めを守り続けたいという望みを抱かせてくれました。徐々に,普段の生活の中で天の御父と救い主の愛をより多く感じるようになりました。御二方に近く生活しようと努めるうちに,常には御二方を身近に感じられないときがあったとしても,紛れもない平安と主の福音に対するより強い証にたどり着くことができました。このような努力は,今でもわたしが不安や悲しみに直面するとき,良い影響をもたらしてくれます。天の御父と救い主を信頼し,御二方がわたしとわたしたち一人一人を癒し,高揚させ,強めてくださることを知っています。