贈り物を受け取る
神の言葉の研究,奉仕,悔い改め,神殿への参入などを行うことで,このクリスマスに神の愛を感じることができるでしょう。
11月のある晩,家に帰ると子供たちが寝室をクリスマスの不思議の国に変えていました。クリスマスツリー,きらめく花飾り,連なったライト,紙で作った雪の結晶が部屋の角,ベッドの枠,壁,天井などを飾っていました。薪とライトと靴下を完備した手作りの暖炉まで設置されていました。そのすばらしいクリスマスの風景はわたしたちの家と心を暖めました。
わたしが大好きなもう一つのクリスマスの光景は,預言者ニーファイによって記されています。ニーファイの父リーハイは1本の美しい木の夢を見ました。その木の実はリーハイの心を喜びで満たしました(1ニーファイ8:12参照)。ニーファイは父が述べた木を自分も見たいと願いました。その祈りに対する答えとして,ニーファイは示現を見ます。ニーファイがその経験について述べた話は,わたしにとって美しいクリスマスの物語です。このように記されています。
「そこでわたしは,その木を見てから御霊に言った。『わたしは,あなたがあらゆるものに勝って貴い木を見せてくださったことが分かります。』
すると御霊はわたしに,『何を望むか』と言われた。
それでわたしは御霊に,『その木の解き明かしを知ることです』と言った。……
……またナザレの町も見えた。そしてわたしはナザレの町に一人のおとめを見た……。
……すると天使は言った。『見よ,あなたが見ているおとめは,肉に関して神の御子の母である。』
……それで眺めると,腕に幼子を抱いたおとめが見えた。
すると天使がわたしに言った。『神の小羊,まことに永遠の父なる神の御子を見なさい。……』」(1ニーファイ11:9-11,13,18,20-21)
ニーファイが木の意味を知りたいと望んだとき,最初のクリスマスを見せられたことはとても意義深いことだと思います。そして御霊はニーファイに木の意味が分かるかと尋ねられました。ニーファイは次のような霊感された答えを返しました。
「はい,その木は人の子らの心にあまねく注がれる神の愛です。だから,どんなものよりも好ましいものです。」
御霊は続けて言われました。「そのとおり。それは人にとって最も喜ばしいものである。……」(1ニーファイ11:22-23)
この経験から,わたしたちにとって最も好ましく,喜ばしいことは神の御子イエス・キリストを通して神の愛を感じることであると,ニーファイは学びました。これこそが,クリスマスの真の贈り物なのです。しかし,多くの人は人生において神の愛をなかなか感じられずにもがいています。このクリスマスの季節であってもそうです。以下に,このクリスマスの季節に神の愛という贈り物を受け取るためにわたしたちができる4つのことを提案します。
1.神の言葉を研究する
聖文と生ける預言者の言葉の定期的な研究を新たに始めるか,再開しましょう。リーハイは示現の中で,木へと導く「鉄の棒」を見ました(1ニーファイ8:19)。神の愛を経験した人たちは棒をしっかりとつかんで押し進み,ついにその木の実を食べました(1ニーファイ8:30参照)。この棒は神の言葉を表していることを,ニーファイは知りました(1ニーファイ11:25参照)。
主の言葉を研究することで,主をわたしたちの生活にお招きすることができます。この取り組みを大げさに考える必要はありません。聖文の研究にどれほどの時間を当てるべきかと友人に聞かれるとき,わたしはいつもこう答えています。「御霊を感じるまで読むといいよ。そのころにはもっと読み続けたくなっているかもしれないけれど。」何分間,または何節,何章読むかは重要ではありません。もっと重要なのは,研究を通して求める御霊と交わる経験です。わたしたちのどのような小さな努力に対しても,主は祝福してくださいます。
12月の『わたしに従ってきなさい』の学習には,モロナイ書と「クリスマス」という題の特別な章が含まれます。聖餐の祈りやモロナイのような預言者たちの言葉を研究することは,聖文に没頭するこれ以上ない機会です。預言者たちはイエス・キリストについて力強い,個人的な証を述べています。
また,『リアホナ』総大会号を読んだり,「福音ライブラリー」で説教を聞いたりすることによって,生ける預言者たちの言葉を研究することもできます。リーハイの夢に出てきた鉄の棒のように,キリストの言葉を新たに研究することで,わたしたちは導かれてこのクリスマスに神の愛を経験できることでしょう。
2.奉仕する
わたしの青少年時代の最も大切なクリスマスの思い出は,わたしの家族がおばたち,おじたち,いとこたちと協力して,地域の助けを必要としていたある家族に服,食べ物,おもちゃ,眼鏡,電化製品などを贈った年のことです。まるで大きな隊商を組むようにその家庭にクリスマスを届けたことは,決して忘れません。そのとき抱いた気持ちはクリスマスが遠く過ぎ去った後も続き,母親と4人の子供たちの感謝の表情はいまだにわたしの記憶に残っています。あの家族に奉仕することで,わたしの心に神の愛が「あまねく注がれ〔た〕」のです(1ニーファイ11:22)。
ほかの人への奉仕はたいそうなものである必要も,複雑である必要もありません。ビショップとして奉仕していたときに,どんな日でも,寂しかったり,不安だったり,途方に暮れていたりする人が自分のワードや地域に大勢いることを学びました。1本の電話,思いやりがこもったメールのメッセージ,心優しいメモ,手作りのお菓子,近所の散歩への同行,子守の手伝いの申し出などが,だれかにとっては天から送られた奇跡や祈りへの答えになるのです。
天の御父に「今日,わたしがお手伝いできる人はいますか?」と尋ねるなら,名前か顔が思い浮かぶかもしれません。聖霊の促しに耳を傾ければ,その人を祝福する方法が分かることでしょう。そのような促しに従って行動するとき,彼らに対する神の愛と,わたしたちに対する神の愛の幾らかを経験することでしょう。
教会の「Light the World—世界に,光を」の取り組みでは,シンプルな奉仕の行いを通じて人々に神の愛を感じてもらうことが提案されています。このクリスマスにあなたの生活の中で奉仕を通して神の愛という贈り物を受けるよう御霊の促しを感じたなら,「世界に,光を」は奉仕を始める助けとなります(ComeuntoChrist.orgにアクセスしてください)。
3.悔い改める
3つめの勧めは,悔い改めという救い主の賜物を受けることです。七十人のリン・G・ロビンズ長老は次のように教えています。「悔い改めは,いつでも活用できる神の賜物で,失敗を重ねても熱意を失うことなく前進できるようにしてくれます。悔い改めは,失敗したときのための代替策ではありません。悔い改めは主の計画であり,わたしたちが悔い改める必要があることを,主は御存じなのです。」1
現世での生活は難しいものです。永遠の命という目標に向かって努力する過程において,わたしたちのだれもが失敗をし,キリストの贖罪が持つ贖いの力を必要とします。わたしたちの罪に対する罰を救い主が自ら進んで経験してくださった理由の一つは,わたしたちに悔い改めの賜物を与えることができるようにするためでした。主はすでに代価を払ってくださいました。後は,わたしたちが主の招きを受け入れるかどうかだけなのです。
「それゆえ,悔い改めて幼子のようにわたしのもとに来る者を,わたしはだれでも受け入れよう。神の王国はこのような者の国である。見よ,このような者のために,わたしは自分の命を捨て,再びそれを得た。それゆえ,地の果てに至る人々よ,悔い改め,わたしのもとに来て救われなさい。」(3ニーファイ9:22)
わたしたちは皆,重荷を降ろすよう御霊から促されているような罪を,大なり小なり抱えていると思います。ビショップやステーク会長が助けてくれます。救い主は優しく寛大な心を持った御方であり,御自分の僕にも同様の感情を分け与えられます。彼らはわたしたちを愛し,わたしたちが救い主の贖罪を通して癒しを受けられるよう助けてくれます。このクリスマスに,主のもとに来て罪のない者となるようにという救い主の招きに,わたしたちはそれぞれが応じることができます。
4.主の宮を訪れる
わたしが神の愛を最も感じることができた瞬間の幾つかは,主の聖なる神殿の中でのことでした。その場所で,わたしと最愛の妻はこの世においても永遠にわたっても結び固められました。決断が必要なときには導きを,ストレスが多い時期には平安を求めて訪れてきました。神殿にいると天がもっと身近に感じられ,啓示がもっと容易に注がれるように思われます。
神殿の儀式を含め,メルキゼデク神権の儀式について,主は「この神権の儀式によって神性の力が現れる」と言っておられます(教義と聖約84:20)。
わたしたちは神殿の儀式に参加することで神を知るようになり,神のような生活の持つ平安と力がわたしたちの生活にも現れます。
トーマス・S・モンソン大管長(1927-2018年)は次のように約束しています。「神殿に入ると,ある種の霊性がもたらされ,人の心に感じられるいかなる感情よりも崇高な平安を感じることができます。」2
もし平安をしばらく感じていないのならば,このクリスマスの季節を,神殿の再開後に参入するという決意を新たにする時の始まりとしてはどうでしょうか。もしまだ自身のエンダウメントを受けていなければ,ワードや支部の指導者に相談して準備を始めましょう。また,先祖が神殿の祝福を受けられるように先祖の名前を見つけて提出するときにも,わたしたちは神の愛を感じることができます。
真の贈り物
神の言葉,心からの奉仕,悔い改め,そして神殿の儀式への参加は,すべてクリスマスの真の贈り物を受ける機会です。使徒ヨハネは次のように記しています。「神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。」(ヨハネ3:16)このクリスマスに,わたしたちが御霊に導かれてそれぞれの行うことを選び,神の御子イエス・キリストを通して,神のすばらしい贈り物である愛を経験できるよう祈ります。