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主がわたしたちを必要とされる時と場所で召しを果たす
召しから解任されることはありますが,善を行うことから解任されることは決してありません。
わたしが14歳のとき,家族で引っ越して新しいワードに集いました。それから間もなく,父はビショップに召されました。わたしたちの限られた視点からは,それは少しばかり困惑する出来事でした。ワードにはほかにふさわしい人たちがいましたし,父は会員のことや個人の必要を自分が望むほどはよく知らないと感じていたからです。
しかし,父は最善を尽くして忠実に奉仕し,自分が仕えている人々と知り合おうと一生懸命に努力しました。奉仕が終わるころには,父はワードの会員に対して大きな愛を感じていました。
そして解任された直後に,父は託児に召されました。
その移行を目にするのはすばらしいことでした。父は託児の子供たちを愛し,子供たちが福音の堅固な土台を築けるようなレッスンや活動を綿密に計画しました。ワードでの召しは変わりましたが,父は自分が知り合い,愛するようになったワードの会員と近しい関係を保ち,兄弟姉妹に仕える新しい方法を学び続けました。
父はまた,家族のためにもっと多くの時間を費やすようになりました。父の解任後間もなく,母は学校に戻って上級の学位を取得するようにという促しに従いました。母が勉強に時間を費やすようになったので,家庭における父の責任は増しました。当時,父の助けを得られたことは,家族にとってほんとうに祝福でした。
父の責任は変わりましたが,父の責任の重要性と影響は変わっていませんでした。主はワードと家族の両方にとって何が最善かを御存じだったのです。大管長会第一顧問のダリン・H・オークス管長は次のように説明しています。「わたしたちは解任されるときに『降格』するのではなく,召されるときに『昇進』するわけではありません。主の奉仕の業において『上,下』はないのです。『前に出るか,後ろに下がるか』だけなのです。その違いは,解任と召しをどのように受け入れ,どのようにそれに従って行動するかです。」1
奉仕する召しを受け,働く割り当てを受ける
伝道活動について話した際,十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は,ある場所に割り当てられることと奉仕するように召されることを次のように区別しています。
「〔伝道の召しの手紙の〕最初の文は,主の回復された教会の専任宣教師として奉仕するという召しであることに注目してください。次の文には,特定の場所や伝道部で働く割り当てが書かれています。この二つの文にある重要な違いを,わたしたち全員が理解しておく必要があります。
教会員は,アルゼンチンやポーランド,韓国,アメリカ合衆国などの国で奉仕するよう召された,と言うことがよくあります。しかし,宣教師は場所に召されるのではなく,奉仕するよう召されるのです。」2
召しについて同じように考えると助けになるかもしれません。教義と聖約第4章3節には,「〔わたしたち〕は神に仕えたいと望むならば,その業に召されている」とあります。どこに「割り当て」られるか,また具体的な責任が何であるかにかかわらず,わたしたちは自分の聖約に伴う責任の一部として,主に仕え,主の子供たちを祝福するよう常に召されています。わたしたちは目的において一つとなって,「神の子供たちに仕えることによって,神に仕える喜びを感じる〔モーサヤ2:17参照〕」ことができます。「召しはまた,〔わたしたち〕が信仰を増し加え,主に近づく助けにもなります。」3どの組織や召しで奉仕するとしても,わたしたちは皆,同じ業,すなわち救いと昇栄の業に参加しています。
「キリストのからだ」の一部である
大管長会第二顧問のヘンリー・B・アイリング管長は,すべての召しは,わたしたちがさらにキリストに似た者となり,人々の生活を祝福するために与えられていると説明しています。「最も新しい会員ですら,奉仕の召しは本来,心にかかわるものであることを感じ取っています。心を完全に主にささげ,主の戒めを守っていると,主のことが分かるようになります。……
あなたは救い主を代表するよう召されています。あなたの証は主の御声となり,あなたがだれかを支える手は主の御手となります。」4
バプテスマを受け,キリストの御名によって行動することを聖約するとき,わたしたちは「キリストのからだ」(1コリント12:27)の一部となります。体の各部分は異なる役割を果たしますが,それらはすべて等しく大切です。最も重要なことは,体は一致した目的を達成するためにともに働くということです。『わたしに従ってきなさい』のテキストによると,「このような一致においては,違いをただ受け入れるだけでなく,大事にします。様々な賜物や能力を持つ会員がいなければ,体全体の働きは制限されてしまうからです。」5
主はわたしたちの異なる技術や能力を御存じであり,わたしたちや周りの人々を祝福するためにそれらを使う方法も御存じです。それには,様々なときに,異なる召しや割り当てにおいて奉仕するようわたしたちを招くことが含まれます。召しとは,地位や階級,資格に関することではありません。重要なのは,進んで神の御心に従い,特定の時と場所において神がわたしたちを最も必要としているところに召されるということを受け入れることなのです。
主の業
ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は,末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長に召されて最初の説教で,教会におけるすべての召しの重要性を強調しました。
「この教会に,小さな召しとか,つまらない召しなどはありません。わたしたちは皆,責任を果たしていく中で,人々の生活に影響を及ぼすのです。主はわたしたち一人一人に,その責任について次のように言われました。『それゆえ,忠実でありなさい。わたしがあなたを任命した職において務めなさい。弱い者を助け,垂れている手を上げ,弱くなったひざを強めなさい。』(教義と聖約81:5)……
皆さんは,それぞれの義務を果たす中で,喜びを得るすばらしい機会を授けられています。それはわたしの場合と同じです。この業の発展は,心を一つにしたわたしたちの働きにかかっています。皆さんがどのような召しを受けているにせよ,わたしの召しの場合と同じように,その中には善いことを成し遂げる機会が満ちあふれています。そして何より大切なのは,これが主の業であるということです。わたしたちのなすべきことは,主がなさったのと同じように,善を行っていくことです。」6
ヒンクレー大管長の言葉は,父がビショップや,託児指導者,伴侶,親として学んだことを端的に表しています。主はわたしたちに生涯を通じて様々な召しで奉仕するよう求められますが,わたしたちが周りの人々の生活を祝福するために努力する中でさらに御自分に似た者となるよう,わたしたちを招くのを決しておやめにならないのです。