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第一の戒めを第一に
神が御自分を愛するようにわたしたちに命じておられるのは,それがわたしたちに何をもたらすかを,神は御存じだからです。
マタイ,マルコ,ルカの3つの共観福音書にはそれぞれ,律法の中で最も大切な戒めについてイエスが質問をお受けになった話が記されています。マタイによる福音書では,質問者は不純な動機を持つ律法学者で,主を試みようとしていました(マタイ22:35-36参照)。マルコによる福音書では,律法学者が質問していますが,この人は真心から知りたいと思っていたようです(マルコ12:28-34参照)。ルカによる福音書では,「ある律法学者が現れ,イエスを試みようとし〔た〕」(ルカ10:25)と再び述べられています。
わたしは法律関係の仕事に携わってきましたが,この話の中の律法学者は弁護しづらいです。しかし,救い主の答えが非常にすばらしい深遠なものであるため,その動機にもかかわらず,少なくとも質問をしたということについては彼を評価しようと思います。それに続く質問に対しても,わたしはこの律法学者に感謝しなければなりません。「では,わたしの隣り人とはだれのことですか。」(ルカ10:29)この質問を受けて,救い主は良いサマリヤ人についての感動的なたとえを話されました(ルカ10:30-37参照)。律法学者は彼の望む以上のものを得たわけですが,一方でわたしたちはかけがえのないものを得ました。
イエスの答えについてのマタイの記録は,皆さん全員がよく知っているものです。
「『先生,律法の中で,どのいましめがいちばん大切なのですか。』
イエスは言われた,『心をつくし,精神をつくし,思いをつくして,主なるあなたの神を愛せよ。』
これがいちばん大切な,第一のいましめである。
第二もこれと同様である,『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。』
これらの二つのいましめに,律法全体と預言者とが,かかっている。』」(マタイ22:36-40)
心と精神と思いを尽くして神を愛することに,マルコとルカは「力を尽くして」(マルコ12:30;ルカ10:27)を付け加えています。
「律法全体と預言者とが,かかっている」この二つの大切な戒めの壮大さとともに,第一の戒めが第一である理由についても考えてみてください。わたしたちにとってその順序にはどのような重要性があるでしょうか。
第二の戒めは,人との交わりに対する優れた指針です。もし第二の戒めが普遍的に受け入れられ,従われたとしたら,どのような世の中になるか考えてください。起こらないであろう事柄について考えてください。とりわけ,暴力,虐待,詐欺,迫害やいじめ,うわさ話,そして確かに戦争は起こらないでしょう。第二の戒めは本質的に黄金律です。「だから,何事でも人々からしてほしいと望むことは,人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」(マタイ7:12。ルカ6:31;3ニーファイ14:12も参照)弟子として,わたしたちは主がわたしたちの隣人であると定義しておられる人,つまりすべての人に愛と共感をもって手を差し伸べることによって,この第二の戒めに意識的に従って生活する必要があります。
「律法……と預言者」,すなわち神によって定められ,預言者によって教えられた一連の真理と戒めを支持するためには,第一の戒めと第二の戒めの両方が必要であり,これらは連携し合うものです。しかし,第一の戒めが全体にわたって優先されるのはなぜでしょうか。少なくとも3つの理由が思い浮かびます。
第1に,この第一の戒めが持つ基本的な性質です。第二の戒めはすばらしい,欠かせない戒めですが,わたしたちの生活に必要な基を与えるものではなく,そのように意図されたものでもありません。第二の戒めに従うことで,わたしたちは親切な人になりますが,その目的は何でしょうか。わたしたちが存在する意義とは何でしょうか。目的と指示と意味について,わたしたちは大切な第一の戒めに目を向けなければなりません。
第一の戒めを第一にすることで,第二の戒めを守るわたしたちの能力が弱まったり,制限されたりすることはありません。むしろ,その力は増し加わり,強められます。つまり,わたしたちの愛は,神の目的と力にしっかりと錨を下ろすことによって,さらに深まるのです。聖霊から霊感を授かり,自分では想像もしなかった方法で手を差し伸べるよう促しを受けるのです。神を愛することによって,ほかの人々をさらに十分に,また完全に愛するための能力が高まります。神の子供たちの世話をする業において,わたしたちは実質的に神とパートナーを組むからです。
第2に,第一の戒めを無視するか,第一と第二の戒めの順序を逆にするならば,生活のバランスが損なわれ,幸福と真理の道から破滅をもたらすほどに逸脱してしまう危険があります。神を愛し,神に従うとき,極端になることで徳を腐敗させてしまうわたしたちの傾向に歯止めがかかります。例えば,隣人の苦悩に対する思いやりは,たとえその苦しみが本人の背きによってもたらされているときでも,気高く善良なものです。しかし,アルマの息子コリアントンのように,放逸な思いやりを抱くとき,わたしたちは神の正義に疑問を抱き,神の憐れみを誤解するようになる可能性があります(アルマ42:1参照)。
例えば,人を愛するとは,罪を擁護したり大目に見たりするよう,律法をねじ曲げたり,無視したりしなければならないという意味だと信じている人たちがいます。ジェフリー・R・ホランド長老は,この誤解について次のように教えています。
「ですから,愛がわたしたちのモットーでなければなりません。そして愛がモットーだとしたら,身をもって愛を示された御方の言葉に従って,背くのをやめ,背くよう人をそそのかすような言動もやめなければなりません。イエスは,現代の文化の中でわたしたちの多くが忘れてしまいがちな事柄が何かを理解しておられました。それは,罪を赦しなさい(主は無限に赦す力をお持ちです)という戒めと,罪を大目に見てはならない(主は一度もなさいませんでした)という警告は明らかに異なるということです。」1
アルマがコリアントンに説明したように,わたしたちには正義と憐れみの両方が必要であり,神の御子という賜物と,悔い改めという御子の賜物にある神の愛を通してのみ,わたしたちはその両方を受けることができるのです(アルマ42:13-15,22-24参照)。
第3に,神の真理を土台としないで愛そうとすることは,助けようとしている相手を傷つける危険があるため,第一の戒めが第一でなければなりません。ラッセル・M・ネルソン大管長は次のように教えています。
「御父と御子はわたしたちに対して無限で完全な愛を持っておられます。御二方は,わたしたちには御自分たちが目にするすべてのものを見ることができないことを御存じなので,わたしたちを導き,守るために律法を与えてくださいました。
神の愛と神の律法には強いつながりがあります。」2
さて,第一の戒めが第一である理由は以上の3つですが,恐らくもう一つ,実際にはそれだけで十分な次の理由を挙げるべきでしょう:第一の戒めが第一であるのは,神がそれを第一にされたからです。
いちばん大切な第一の戒めは,人生の真のパラダイムを提供してくれます。エズラ・タフト・ベンソン大管長はかつて次のように述べました。
「神を第一に考えれば,ほかのすべてのものは正しい位置に落ち着くか,またはわたしたちの生活の中から消えていくかのどちらかです。主の愛は感情の欲求や時間の要求,興味,物事の優先順位をコントロールします。」3
わたしたちに対する神の愛:「御自分のように進歩する特権」をわたしたちに与えてくれる
御自分を愛するようにとわたしたちに命じておられる神は,まずわたしたちを愛してくださいました(1ヨハネ4:19参照)。神の愛が皆さんとわたしにとって,わたしたちの存在における現時点までにどのような意味を持ってきたか,そして何をあらかじめ示しているかを,少しの間考えてください。霊が存在する前から,わたしたちは創造されたのではない英知,すなわち英知たちとして存在していました。神は英知たちのただ中に降りて来て,わたしたちが進歩できるようにするための計画を立てられました。預言者ジョセフ・スミスは次のように述べています。
「神は御自身がもろもろの霊たち〔すなわち英知たち〕と栄光の中にいることを御覧になり,英知においてはるかに優れておられたので,ほかの者たちも御自分のように進歩する特権にあずかるように律法を定めることがふさわしいとお考えになりました。」4
皆さんもご存じのように,御父の計画にはわたしたちが御父の霊の子供となることが含まれ,それは輝かしい前進であり,わたしたちの「第一の位」(アブラハム3:26)でした。その後,御父はわたしたちが霊に肉体を加えてもらえる道を設けてくださいました。それは「第二の位」(アブラハム3:26)であり,神御自身が享受しておられる完全な存在と栄光を得るために不可欠な段階でした。それには,「試しの状態」(アルマ12:24)の舞台としての地球の創造,霊の死と肉体の死,そしてわたしたちを贖い,復活させてくださる救い主が必要でした。このすべてにおいて,神はわたしたちに選択の自由を与え,わたしたちの選びに応じて大小様々な結果と祝福を備えてくださっています。
このように,英知としてのわたしたちの最初の状態から始めて,天の御父はわたしたちを,すなわちわたしたちの不死不滅と永遠の命を,御自分と御自分の業の中心としてこられました。御父はそれを御自分の業であり栄光であると見なしておられます(モーセ1:39参照)。御父がそれをしなければならなかったとは思えません。ではなぜわたしたちのためにこのようなことをしてくださってきたのでしょうか。御父の動機は何でしょうか。愛のほかにあり得るでしょうか。このことをはっきりと示している証拠が,神の御子という賜物です。
「神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
その代わりに,神をわたしたちの生活の中心とし,神がわたしたちを愛してくださったように心と精神と思いと力を尽くして神を愛するようにと求めるのは,過度の要求でしょうか。神への愛がわたしたち自身の幸福の鍵であることを知りながら,わたしたちに対する神の愛を拒み,神を愛するのを差し控えることがどうしてできるでしょうか。
神に対するわたしたちの愛:救い主の模範
心と,精神と,思いと,力を尽くして神を愛するならば,人生におけるわたしたちの焦点は神の望みを果たすことになります。言うまでもなく,わたしたちの模範であられるイエス・キリストほど,それを十分に,完全に行われた御方はいません。主はかつて次のように言われました。「わたしは,いつも神のみこころにかなうことをしているから,わたしをひとり置きざりになさることはない。」(ヨハネ8:29)主の最優先事項は当時も今も,御父の栄光を現すことです。
その最優先事項,その最高の忠誠心により,イエスはその贖罪を最後まで成し遂げ,最も苦い杯を最後の一滴まで飲むことがおできになったのでした。この最も大いなる(そして文字どおり超人的な)犠牲において,救い主の苦しみの激しさは,「神であって,しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が,苦痛のためにおののき,あらゆる毛穴から血を流し,体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。そしてわたしは,その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った」(教義と聖約19:18)と,主は言っておられます。それでも,御父に対する主の愛と,御父の栄光を現したいという主の望みは,理解し難いほどの苦しみに勝りました。主御自身が次のように言っておられます。「しかしながら,父に栄光があるように。わたしは杯を飲み,人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。」(教義と聖約19:19)
キリストが十字架につけられたとき,わたしたちの運命,わたしたちの不死不滅,わたしたちの永遠の命がそこにかかっていました。わたしたちの存在そのものが意味を持つものとなるかどうかが決まるとき,形勢をわたしたちに有利にしてくれたのは,イエス・キリストが御自分の心と精神と思いと力を尽くして御父を愛されたことでした。
そしてキリストに,わたしたちは自分たちの規範を見いだします:ほかの何よりも,ほかのだれよりも神に対して忠誠を尽くし, いつでも,どのようなことについても,神に対する報告責任があることを意識し, そして,神の御心を知り,行いたいと切に望むのです。決断を下す際のわたしたちの指針は次のとおりです。第一に神を愛するとき,わたしたちはほかの人(ソーシャルメディアのインフルエンサーでさえも)の目を通してではなく,神の目を通して世の中と自分の人生を見ます。
では,第一の戒めを第一にするとは,どのようなことでしょうか。ほかの何よりも神を愛することに含まれるものをすべて挙げることはできませんが,幾つかの例を挙げましょう。
第一の戒めを第一にする:「わたしの戒めを守るべきである」
確かに,第一の戒めを守ることの最も重要な側面の一つは,神に厳密に従うことです。救い主は次のように言われました。「もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしの戒めを守るべきである。」(ヨハネ14:15。教義と聖約42:29も参照)イエスは確固として御父のすべての戒めを守り,神に従順であるとはどういうことかを実生活においてわたしたちに示してくださいました。
かつてわたしの良い友人が,神の戒めに関して正当化するという,一見万人に共通しているように思われる傾向について意見を聞かせてくれました。友人は,例えば,自分が見てきたことや自分自身の経験から,「わたしが……かどうかを主は実際に気になさるだろうか」という問いには,いつも「いいえ」という答えが続くのだ,と指摘しました。わたしたちが比較的小さなことだと思う事柄を主はきっと気になさらないだろうと自分に言い聞かせることができれば,ほとんど何でも言い訳ができて好都合です。しかし,友人はこれは間違った問いであると言いました。主が気になさるかどうかではなく,わたしたちが自分の約束したことを行うかどうかなのです。問うべきなのは,「神に対するわたしの愛に関して,わたしは神にどのようなしるしを差し出そうとしているだろうか」,あるいは「神の戒めと聖約を厳密に尊んで守るとはどういう意味だろうか」なのです。
もちろん,第一の戒めを守ることの最も重要な側面の一つは,兄弟姉妹を愛するという第二の戒めを守ることです。ヨハネは次のように述べています。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は,偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は,目に見えない神を愛することはできない。」(1ヨハネ4:20)そしてわたしたちになじみ深い主の言葉はこうです。「互に愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう。」(ヨハネ13:35)
第一の戒めを第一とする:「わたしの羊を養いなさい」
神の戒めに厳密に従うことと密接に結びついているのは,神と神の大義のために務めを果たすことです。ペテロに対して主は次の質問を3度繰り返され,それはわたしたちに対しても向けられています。「あなたは……わたしを愛するか。」(ヨハネ17:21-17)そしてペテロと同じように,わたしたちの答えは,「はい,わたしの職業やほかの何よりも,あるいはほかのだれよりも,あなたを愛しています」でなければなりません。また,わたしたちはそれぞれ,羊飼いの次の声を聞きます。「わたしの小羊を養いなさい。」(ヨハネ21:15)「わたしの羊を養いなさい。」(ヨハネ21:16-17)5
天の御父とその愛する御子は,皆さん一人一人の優しさを喜ばれます。それが助けの必要な広大な世界にあってどれほど限られた,あるいは取るに足りないもののように思えるとしても,御二方は喜ばれると,わたしは確信しています。すべての行いとすべてのささげ物が重要です。わたしはまた,わたしたちが末日聖徒イエス・キリスト教会として,またほかの人々と協力して集団で取り組んでいる事柄についても,御二方は喜んでおられると確信しています。一例ですが,ウクライナを標的とする現在の戦争で生じている苦しみを和らげるための支援は,まさにキリストのような行いです。わたしたちは常に,差し迫った必要に焦点を当て,右の手がしていることを左の手に知らせないようにしています。しかし,皆さんが主の羊を養うためにキリストの体の一部として行ってくださっている事柄を皆さんにもっと知ってもらえるように,今後さらに包括的な説明をしていけたらと願っています。
第一の戒めを守ることは,地上における主の大義を推し進め,御父の子供たちの永遠の命をもたらすことを助けることでもあります。多くの皆さんが行ってきた,あるいはこれから行う宣教師としての奉仕以上に良い例を,わたしは思いつきません。わたしたち十二使徒は,宣教師とともに過ごすあらゆる機会をぜひ持ちたいと望んでいます。神の羊や子羊を養うことに緊急に対応している人々の中にいると,心が高められ,霊が更新されるのを感じるからです。
現代において,地上と霊界における神の聖約の民の集合は,ラッセル・M・ネルソン大管長が強調しているように,わたしたちにとっていちばん大切な第一の戒めを守ることが意味するものの重要な一部です。
第一の戒めを第一にする:主を呼び求め,主の言葉をよく味わう
第一の戒めを第一にするもう一つの方法は,とても明瞭です。それは,祈りによって神を呼び求め,理解と導きを得るために神の言葉をよく味わうことです。わたしたちは神が望んでおられることを知って行いたいと思っています。神が御存じの事柄を知りたいと思っています。神の弟子として神が教えてくださることをすべて学びたいと思っています。個人の啓示を受けたいと思っています。
アミュレクは,キリストの御名によって神に憐れみを叫び求め,家族のために叫び求め,畑や家畜の群れについて叫び求めるよう強く勧めています。敵の力と悪魔の影響を防ぐことができるように,神に叫び求めるよう強く勧めています。「また,声に出して主に叫び求めないときでも,あなたがたの幸いと,あなたがたの周りの人々の幸いを気遣う気持ちを心に満たし,それが絶えず主への祈りになるようにしなさい。」(アルマ 34:27)6
ニーファイはわたしたちに,「キリストの言葉をよく味わう」ように勧めています。「見よ,キリストの言葉はあなたがたがなすべきことをすべて告げるからである。」(2ニーファイ 32:3)書き記された神の言葉の多くがわたしたち個人の手元にあっていつでもすぐに読めるというのは,現代におけるすばらしい授かりものです。現在の預言者や使徒たちの教えも同様であり,様々な形式や言語で公開されています。それは世界史上のほかのどんな時代とも異なっています。神はこれによって何を意図しておられるのだろうか,と自問してください。
わたしは祈りが大好きです。聖文が大好きです。天の御父が進んで与えてくださるすべての光と知識を得たいと思っています。御父は人をかたよりみない御方であり,わたしたちが受ける備えをするすべてのものを,皆さんとわたしに与えてくださいます。神を完全に愛し,神が定められた方法で絶えず神と交わるよう努めてください。ネルソン大管長の模範を覚えていてください—聖なる御霊を通して受ける事柄を記録し,それに従って行動してください。
第一の戒めを第一にする:神への報告責任
わたしたちが生活の中で第一の戒めを第一にする方法を,もう一つだけ話しましょう。それは,神に報告する責任があること,すなわち,自分の人生が向かっている方向と日々の生活について報告する責任があることを意識して生活することです。それはつまり,誘惑に抵抗し,打ち勝つことであり,悔い改めることや赦すこと,利己心と闘うこと,キリストの御名を受けること,キリストの特質を伸ばすことです。自分の行いに,そして思いや言葉にさえも注意を払うことです(モーサヤ4:30およびアルマ12:14参照)。「聖なる御霊の勧めに従い」,「子供のように従順で,柔和で,謙遜で,忍耐強く,愛にあふれた者となり,子供が父に従うように,主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従〔う〕」(モーサヤ3:19)ことです。
これは重荷となる,意気消沈してしまうような類いの報告責任ではありません。むしろ,御父が達成感と究極の喜びに至る道を御存じの,賢明で,関心を持ち,思いやりのある御方であるのを認めることです。わたしたちが自分では作ることのできない,そして神の助けなしには達成できない機会を,神がわたしたちのために用意してくださったことを認めることです。「神が授けてくださる多くの憐れみと祝福を日々感謝しながら生活する」(アルマ34:38)ことです。そして,この報告責任を果たす中で,わたしたちは神がわたしたちのことを喜んでくださっているのを感じるのです。心と精神と思いと力を尽くして神を愛するためにわたしたちが行う最も小さな努力でさえも,主が喜んでおられるということを理解するようになるのです。天の御父と贖い主があなたとあなたの人生の進路を喜んでおられるという聖なる御霊の証以上に,どんな大きな安心感と平安を得られるでしょうか。
大切なのは,神が御自分を愛するようわたしたちに命じておられるのは,それがわたしたちに何をもたらすかを神は御存じだからであるということです。同じ理由で,神はわたしたちに互いに愛し合うよう命じておられます。神への愛はわたしたちを変えます。神への愛は互いに対するわたしたちの愛を変えます。この愛は,唯一まことの神と,神が遣わされたイエス・キリストを知るようになるために必要不可欠です(ヨハネ17:3参照)。神に似た者になるための鍵です。
わたしは皆さんに対する天の御父の愛が現実のものであり,尽きることがないことを知っています。その愛は,神の御子イエス・キリストの恵みを通して最も力強く現れます。皆さんが神を愛し,神に仕えようと努力するときに,神の愛が皆さんを包み込んでくれるよう祝福します。皆さんが神の愛を感じ,それが皆さんの生活の中で最も力強い影響力となるよう祝福します。わたしは天の御父が,復活された神の御子と同じように,また神の恵みの使者である聖なる御霊と同じように,生きておられることを知っており,断言することができます。わたしはそれを知っており,皆さんがそのことを完全に知ることができるよう祈ります。