わたしたちが一つとなれるように
十二使徒定員会
ヘンリー・B・アイリング
「もしもあなたがたが一つでなければ,あなたがたはわたしのものではない」
世の救い主イエス・キリストは,主の教会に属する人々にこう言われました。「一つとなりなさい。もしもあなたがたが一つでなければ,あなたがたはわたしのものではない。」(教義と聖約38:27)男女が創造されたとき,結婚によって一つとなることが,希望としてではなく,戒めとして与えられました。「それで人はその父と母を離れて,妻と結び合い,一体となるのである。」(創世2:24)天父はわたしたちが心を一つにするように望んでおられます。この愛における一致は,単なる理想ではありません。必要不可欠なものなのです。
一つになれという要求は,この世だけのものではありません。終わりがないのです。最初の結婚は,アダムとエバがエデンの園で死なない状態のときに,神によって行われました。神は創世の初めから,男女が夫婦として結び合い,義にかなった完全な一致の中で永遠の家族になりたいと望むようにされました。また,神の子供たちが,すべての人と平和に暮らしたいと願うようにされました。
しかし堕落によって,一致した生活が簡単ではないことが明らかになり,間もなく悲劇が起こりました。カインが弟のアベルを殺したのです。アダムとエバの子供たちは,サタンの誘惑を受けるようになりました。サタンは憎しみをもって巧妙に目的を達しようとします。それは天父と救い主の目的とは正反対です。神は完全な一致と永遠の幸福を与えてくださいます。神とわたしたちの敵であるサタンは,創世の以前から救いの計画を知っていました。永遠の命だけが神聖で喜びにあふれた家族関係を永続させることも知っていました。サタンは家族を引き裂いて,惨めな状態にしようとします。人の心に不和の種をまいて,分裂を起こさせようとします。
だれでも一致と分裂の両方を経験しています。時々,家庭やほかの場所で,人のために自分のことを後回しにする愛と犠牲の精神を見たことがあると思います。まただれでも,仲たがいや孤独の悲しみや寂しさを知っています。どちらを選ぶべきか助言は要りません。分かっているからです。しかしわたしたちは,この世で一つとなれるように,そして来るべき世で永遠にその関係を持つにふさわしくなれるように,願い求める必要があります。また,何をすべきか知るために,この偉大な祝福がどのようにしてもたらされるか理解する必要があるのです。
世の救い主は,一つになることと,そのために自分を変える方法について話されました。この世を去る前に,使徒との最後の集まりで祈りをささげ,その中ではっきり教えられたのです。その神聖で美しい祈りは,ヨハネの福音書に記録されています。すべての人が永遠の命を得られるように,恐ろしい犠牲を払う時が近づいていました。主はまさに,御自身が聖任し,愛し,教会を導く鍵を託した使徒たちのもとを離れようとしておられました。そこで主が御父に,完全な御子が完全な御父に,祈られたのです。その言葉から,家族が一つとなり,救い主とその僕に従うすべての天父の子供たちが一つとなる方法が分かります。
「あなたがわたしを世につかわされたように,わたしも彼らを世につかわしました。
また彼らが真理によって聖別されるように,彼らのためわたし自身を聖別いたします。
わたしは彼らのためばかりではなく,彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも,お願いいたします。
父よ,それは,あなたがわたしのうちにおられ,わたしがあなたのうちにいるように,みんなの者が一つとなるためであります。すなわち,彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり,それによって,あなたがわたしをおつかわしになったことを,世が信じるようになるためであります。」(ヨハネ17:18-21)
このわずかな言葉の中で,主はイエス・キリストの福音がいかに人々の心を一つにするか明らかにされました。主が教えられた真理を信じる人々は,権能を持つ僕から儀式と聖約を受けることができます。そして,儀式と聖約に対する従順を通して,自らの性質を変えるのです。このように救い主の贖いによって,わたしたちは聖別されます。そうすれば,きっと一つとなって生活でき,この世では平和を得て,永遠の世では御父と御子とともに住めることでしょう。
当時の使徒や預言者たちの務めは,今日と同じように,アダムとエバの子孫をイエス・キリストを信じる信仰の一致に至らせることでした。彼らが教えたことも,わたしたちが教えることも,その究極の目的は,家族が一つになることです。それは夫,妻,子供,孫,先祖,そしてついには,自ら選択するアダムとエバのすべての家族に及びます。
覚えていると思いますが,救い主は,使徒たちが「真理によって聖別されるように,彼らのためわたし自身を聖別いたします」と祈られました(ヨハネ17:19)。聖霊は聖別する御方です。聖霊を伴侶にできるのは,主が預言者ジョセフ・スミスを通してメルキゼデク神権を回復されたからです。神権の鍵は今地上にあります。その力によって,聖霊を常に伴侶とする聖約を結ぶことができるのです。
人々が御霊とともにいると,調和を期待することができます。御霊はわたしたちの心に真理の証を告げて,その証を分かち合う人々を一つにします。神の御霊は決して争いを起こしません(3ニーファイ11:29参照)。また,不和の基になる差別感情をもたらしません(ジョセフ・F・スミス『福音の教義』127参照)。むしろ平安と一体感へと導きます。心を一つにするのです。一致した家族,一致した教会,平和な世界は,心を一つにされることによるのです。
子供でも,聖霊を伴侶にするために何をすべきか理解できます。聖餐の祈りが教えています。聖餐会に出席して毎週聞く祈りです。この神聖なひとときに,わたしたちはバプテスマで交わした聖約を新たにします。そして,教会員に確認されたときの聖霊を受けるという約束を,主によって思い起こすのです。聖餐の祈りにこうあります。「進んで御子の御名を受け,いつも御子を覚え,御子が与えてくださった戒めを守ることを……証明して,いつも御子の御霊を受けられるように……。」(教義と聖約20:77)
わたしたちは聖約を守ることによって御霊を受けることができます。第1に,主の御名を受けると約束します。すなわち,自分を主のものと見なすのです。生活の中で主を最優先します。自分の望みや,世の中で望むように教えられることではなく,主が望まれることを求めるのです。この世の事柄を何より先に愛しているかぎり,平安はありません。物質的なものによって家族や国家に快適な生活をもたらそうとしても,結局は分裂に終わってしまいます。(ハロルド・B・リー,Stand Ye in Holy Places〔1974年〕,97参照)しかし,主が望んでおられることを互いに行うならば,これは主の御名を受けた人の自然な行為ですが,やがてわたしたちは地上における天国のような霊的な状態に達することができるでしょう。
第2に,いつも主を覚えると約束します。わたしたちは主の御名で祈る度にこれを行います。特に,頻繁にしなければならないことですが,赦しを求めるときに,主を覚えます。このとき,悔い改めと赦しを可能にした主の犠牲を思い起こすのです。また嘆願をするとき,御父との仲保者である主を思います。そして,赦しや平安がもたらされたとき,主の忍耐と永遠の愛を心に刻むのです。こうしてわたしたちの心は愛で満たされます。
わたしたちはまた,家族で祈るときや聖文を読むときに,主を覚えるという約束を果たします。朝食のテーブルを囲んだ家族の祈りで,子供の一人がその日に試験や何か発表がある兄弟のために祝福を求めることができます。そして祈りがかなうと,祝福された子供は朝感じた愛と,その御名によって祈りがささげられた仲保者の優しさを忘れないでしょう。心が愛で結ばれるのです。
主を覚えるという聖約は,家族で聖文を読む度に守っています。聖文は主イエス・キリストを証します。それが聖文のメッセージであり,常に預言者たちのメッセージだからです。たとえ子供がその言葉を覚えていなくても,聖文の真の著者イエス・キリストのことは忘れないでしょう。
第3に,聖餐を取るとき,すべての戒めを守ると約束します。J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は,総大会の説教で何度となく一致について語り,従うものを選ぶことについて,次のように警告しました。「主は無駄なものや不必要なものは何一つ与えておられません。主は聖文を,わたしたちが救いを得るためになすべきことで満たされました。」
クラーク副管長はさらにこう続けています。「聖餐を取るとき,わたしたちは主の戒めを守ると聖約します。これに例外はありません。区別も,差異もありません。」(Conference Report,1955年4月,10-11で引用)クラーク副管長は,わたしたちがたった一つの罪でなく,すべての罪を悔い改めるように,戒めすべてを守ることを聖約すると教えています。難しそうに聞こえますが,簡潔です。ただ救い主の権能に服し,主が命じられることにすべて従うと約束します(モーサヤ3:19参照)。家族として,教会として,天の御父の子供として,わたしたちを一つにするイエス・キリストの権能に従うのです。
主は預言者を通して,謙遜な僕に権能を授けられます。この信仰により,ホームティーチャーや訪問教師の召しが主の務めになるのです。主の指示により,主に代わって行きます。普通の男性と10代の後輩同僚が家庭を訪れ,天の力により,家族が一致して,かたくなさや偽り,陰口,悪口がないように助けを与えます。主がこれらの僕を召されるという信仰があれば,責められたときも彼らの欠点を無視できるでしょう。人間としての弱点よりも,善意がはっきりと見えてくるでしょう。怒る気持ちよりも,その人々を召してくださった主への感謝の気持ちがわき上がってくるのです。
わたしたちが守らないと,一致が崩れる戒めもあります。何を話すか,また相手の言葉にどう対処するかについての戒めです。人の悪口を言ってはなりません。互いの良い点を見て,できるだけ良いことを話すのです。(デビッド・O・マッケイ,Conference Report,1967年10月,4-11参照)
同時に,神聖なものを侮辱する人には,反対する態度を執らなければなりません。そのような攻撃の結果として,御霊が汚され,争いや混乱が起こるからです。スペンサー・W・キンボール大管長は,争わずに立場を守る方法を教えています。病院の担架で運ばれていたとき,いらだった付き添い人が主の名をみだりに口にするのを聞いて,こう言ったのです。「やめてください。それはわたしの主の名前です。」一瞬静まり返った後,その人が小さな声で「すみません」と言いました。(The Teachings of Spencer W. Kimball,エドワード・L・キンボール編〔1982年〕,198)霊感と愛にあふれた叱責により,一致をもたらすことができます。しかし,聖霊に感じたときに行わないと,争いを招くことになるでしょう。
一つとなるためには,自分の気持ちについて守らなければならない戒めがあります。たとえ傷つけられても,相手を赦し,決して悪意を抱かないことです。救い主は十字架の上で模範を示されました。「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」(ルカ23:34)わたしたちには,傷つけてくる人の気持ちが分かりません。また自分の怒りや心の痛みの源がすべて分かるわけでもありません。使徒パウロは,自分自身を含め,世の不完全な人々をどのように愛するか教えています。「愛は寛容であり,愛は情深い。また,ねたむことをしない。愛は高ぶらない,誇らない,不作法をしない,自分の利益を求めない,いらだたない,恨みをいだかない。」(1コリント13:4-5)それからパウロは,自分のことを忘れて人の過ちを責めることに対して重大な警告を与えています。「わたしたちは,今は,鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には,顔と顔とを合わせて,見るであろう。わたしの知るところは,今は一部分にすぎない。しかしその時には,わたしが完全に知られているように,完全に知るであろう。」(1コリント13:12)
聖餐の祈りが毎週思い起こさせるように,一致の賜物はイエス・キリストの福音の律法と儀式に従うことによってもたらされます。主の御名を受け,いつも主を覚え,すべての戒めに従うという聖約を守るとき,主の御霊を伴侶として受けるのです。それによって心は和らぎ,わたしたちは一つとなります。しかし,この約束には二つの警告があります。
まず,聖霊がとどまられるのは,わたしたちが清い状態で,この世のものに執着していないときだけです。汚れた選択は,聖霊を追い出します。御霊は,この世のことより主を選ぶ人にしか宿らないのです。「清くあれ」(3ニーファイ20:41;教義と聖約38:42),「心を尽くし,勢力と思いと力を尽くして」神を愛しなさい(教義と聖約59:5)。これらは提案ではなく,戒めです。御霊を伴侶とするうえで欠かせません。御霊なしに一つになることはできないのです。
もう一つの警告は,高慢です。御霊によって和らげられた家族や人々が一つになると,大きな力がもたらされます。やがてその力が世の中で認められるようになります。そして褒められ羨望の的になると,わたしたちは高慢になるかもしれません。高慢は御霊を妨げます。不一致の源である高慢を防ぐ方法があります。それは,神が与えてくださる恵みを,主の愛のしるしとしてだけでなく,周囲の人々とさらに大いなる奉仕に携わる機会としてとらえることです。夫婦が一致するには,似ている点から互いを理解し,異なる点から互いを補い合って,伴侶や周囲の人々に奉仕していくことです。同じようにして,わたしたちは,教会の教義を受け入れなくても天父の子供たちを祝福したいと願う人々と一致できます。
わたしたちは平和をつくりだす人になって,幸いな神の子と呼ばれるにふさわしくなれるのです(マタイ5:9参照)。
父なる神は生きておられます。御子イエス・キリストは教会の頭であり,受け入れるすべての者に平和の旗を掲げておられます。