第9課
「子供たちは神から賜わった嗣業 であ」る
応用のための提案
あなた自身の必要や状況に合わせて以下の提案に従ってください。
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子供や孫たち一人一人と個別に時間を取って話す決心をする。話すときは一人一人の関心や必要,課題について新しい発見をするように努める。
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以下の記事を研究する。既婚者の場合は
伴侶 と一緒に読んで話し合う。
読書課題
以下の記事を研究する。既婚者の場合は
大切な子供たち-神からの贈り物
第一副管長
トーマス・S・モンソン
マタイによる福音書には,イエスとその弟子たちは
すると,イエスは幼な子を呼び寄せ,彼らのまん中に立たせて言われた,
『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ,天国にはいることはできないであろう。
この幼な子のように自分を低くする者が,天国でいちばん偉いのである。
また,だれでも,このようなひとりの幼な子を,わたしの名のゆえに受けいれる者は,わたしを受けいれるのである。
しかし,わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は,大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が,その人の益になる。』」1
前世を離れて地上へやって来たばかりの幼い子供たちをイエスが愛されたということは,とても深い意味のあることだと思います。昔も今も子供たちはわたしたちの心に愛のともしびをともし,善い行いをするようにわたしたちを励ましてくれます。
詩人ワーズワースがわたしたちの誕生を次のように表現したのももっともです。「栄光の雲を
このような幼い子供たちのほとんどは,その到着を待ちわびる両親のもとへやって来ます。両親は,誕生という奇跡の一端を担うことに心からの喜びを感じるのです。どれほど大きな犠牲を払い,苦痛に耐え,そしてどれほど長く待たなければならないとしても,それだけの価値がある出来事なのです。
ですからわたしたちが,アメリカのある都市で次のような事件が起きたというニュースに大きな衝撃を受けるのも当然です。「生後間もない女の赤ちゃんが,紙袋に包まれごみ箱に捨てられているのが発見され,病院に運ばれ手当てを受けている。命に別状はない模様で,水曜日,病院関係者はとてもかわいい健康な赤ちゃんであると述べた。警察の話によると,清掃作業員が清掃車の後部にごみを空けたとき,ごみの中で何かが動くのに気がついたとのこと。当局では母親を捜している。」
わたしたちの生活を麗しくしてくれる子供たちを心から温かく家庭へ迎え入れることは,わたしたちの厳粛な義務であり,また貴重な特権であり,さらには神聖な務めでもあるのです。
子供たちにはそれぞれまったく異なった3つの学びの場があります。それは,学校,教会,そして家庭と呼ばれる学びの場です。
学校という学びの場
教会は常に学校教育に少なからぬ関心を抱き,PTAなど青少年の教育の向上を図る活動に参加するよう会員たちに勧めています。
熱心に学ぼうとする少年少女,若い男性,若い女性を愛し,教え,啓発する機会にあずかっている教師以上に,学校教育で大切なものはありません。デビッド・O・マッケイ大管長は次のように述べています。「教師はこの世の中で最も高貴な職業である。家庭の安定と清さ,国家の安全と永続性は,青少年への適切な教育にかかっている。親は子供に生きる機会を与え,教師は子供によりよく生きることを教える。」3わたしたちは教師の重要性とその大切な使命を認識し,適切な施設と書物,十分な給与を提供して感謝と信頼を示さなくてはなりません。
だれでも子供のころ教わった先生には,懐かしい思い出があることでしょう。わたしの小学校時代の音楽の先生の名前が,その科目にふさわしく「シャープ」先生だったのを思い出すと,楽しくなります。彼女は生徒に音楽を愛する心を植え付け,いろいろな楽器やその音の違いを教えてくれました。また,保健を教えてくれたルース・クロウ先生のこともよく覚えています。当時は大恐慌の時代でしたが,クロウ先生は6年生全員に歯の検診票を持たせ,先生自らが一人一人の生徒の歯を検査し,公的または私的な医療施設を通して生徒が一人残らず歯の治療を受けられるように手配してくれたのです。地理を教えてくれたバーカス先生は,世界地図を広げ,各国の首都を指しながらその国の特徴や言語,文化について説明してくれました。将来自分がそれらの国々やそこに住む人々を訪れる日が来ようとは,夢にも思いませんでした。
子供たちを励まし,勇気づけ,知性を磨き,意欲を高めてくれる教師がいるのは,子供たちの人生にとって何と重要なことでしょうか。
教会という学びの場
教会という学びの場も,子供や青少年の教育にとって非常に大切です。教会では,すべての教師が子供たちに霊感を与えることができます。子供たちがレッスンに耳を傾け,教師の
何年も前,教会の機関誌の一つがある賞を受け,その祝賀会にハロルド・B・リー大管長夫妻と同席したことがありました。リー大管長は当時10代だったわたしの娘アンにこのように言いました。「あなたは主から美しい容姿を授けられていますね。外見と同じように心も美しく保つようにしてください。そうすれば,ほんとうの幸福に恵まれますよ。」こうしてこのすばらしい教師は,天父のおられる日の栄えの王国へ行くための霊感あふれる道しるべを娘に与えてくれたのです。
教会の教室で教える
家庭という学びの場
すべての学びの場の中で最も重要な所は家庭だと言えるでしょう。わたしたちの態度や最も重要な信仰を培う場所は家庭だからです。希望がはぐくまれたり失われたりするのも家庭です。家庭は人生の実験室です。家庭で行ってきたことが,家を巣立った後,どのような人生を送るかを左右します。スチュワート・E・ローゼンバーグ博士はその著書『自信への道』(The Road to Confidence)の中でこのように述べています。「新しい発明や構想,流行や様式が次々と生まれてはくるが,自分の家族に取って代わるものを発明した人はこれまでになかったし,またこれからもないであろう。」5
幸福な家庭はまさに地上の天国です。ジョージ・アルバート・スミス大管長はこのように述べています。「わたしたちは家庭が幸福なものとなるように望んでいるでしょうか。もしそう望むならば,家庭を,神への祈りと感謝をささげる場,互いに感謝し合う場としなくてはなりません。」6
時には,子供が肉体的あるいは精神的な障害を持って生まれてくることがあります。なぜ,またどのようにしてそのようなことが起こるのかは,どんなに努力してもわたしたちには分からないでしょう。つぶやくこともせず,このような子供を温かく迎えて腕に抱き締め,天父の子供の一人としていっそう多くの犠牲と愛を注いでいる両親に敬意を表します。
ある年の夏,アスペングローブで行われたファミリーキャンプに参加しました。そこでわたしは,生まれたときのけがが原因でまったく体の自由が利かなくなった10代の娘に,忍耐強く食べ物を与えている母親の姿を目にしました。母親は娘の頭と首を支えながら,一さじ一さじ食べ物を与え,少しずつ水を飲ませていました。わたしは心の中で思いました。「この母親は17年間,自分を楽にすることや,自分の楽しみ,自分の食物のことは考えずに,こうして娘のために奉仕してきたのだ」と。このような母親,父親,そして子供たちを,神が祝福してくださいますようにお祈りいたします。神は必ず祝福してくださることでしょう。
無垢 な子供たち
この世で最も感動的な思いは,何か壮大な出来事によって感じるのではなく,また小説や歴史書の中に見いだされるのでもなく,ただすやすやと眠っている子供の顔を見詰めるときに感じるものであることを,親たる者ならだれでも知っています。
そのようなときに,チャールズ・M・ディキンソンの次の言葉が真実であることが分かるのです。
「子供はだれからも愛される
姿を変えた神の天使。
髪には日の光をたたえ,
その目には神の栄光が輝く。
天から送られた子供たちは,
わたしに勇気と安らぎを与えてくれた。
今,わたしには分かった。
主が神の王国を幼子にたとえられた訳が。」7
毎日子供と一緒に生活していると,子供は非常に感受性が豊かで,深遠な真理を口にすることがよくあるのに気づきます。古典的な名作『クリスマス・キャロル』の著者チャールズ・ディケンズは,この事実をいきいきと描写しています。貧しいボブ・クラチットの家族が,待ちに待ったクリスマスのささやかな夕食に集まりました。父親のボブが病弱な息子チム坊やを肩車に乗せて帰宅します。チム坊やは「手に小さな松葉
『そりゃあもう,じつによかった。』ボブは言いました。『よすぎるくらいだった。一人でずっと座ってるもんだから,何か,こう考えが深くなるんだねえ。だれも聞いたことのないようなことを考えているらしくて,帰りの道でも,教会の中でみんながぼくを見てくれるとよかったな,って言い出すんだ。なぜかっていうと,ぼくは足が悪いから,ぼくを見て,みんなが,足の悪いこじきを歩けるようにしたり,目の見えない人を見えるようにしたりしたのはだれだったか(キリストのこと),クリスマスの日に思い出せれば,みんな喜ぶだろうってね。』」8
チャールズ・ディケンズ自身もこのように述べています。「わたしはこのような子供たちを愛している。神のもとからやって来たばかりの子供たちがわたしたちを愛してくれるのは,重要なことである。」
子供たちは大人が思ってもみないような方法で愛を表現します。何年も前のことですが,わたしの誕生日に,かわいい小さな女の子が手書きの誕生日カードと一緒に,小さなおもちゃの錠をプレゼントしてくれました。それは彼女のお気に入りのおもちゃだったので,わたしもきっと気に入るだろうと考えたのです。
「子供が何かを与えようとしている姿ほど愛らしく,美しい光景はこの世でほかにありません。たとえそれがどんなにささやかなものであっても,子供はあなたに自分のすべてを与えているのです。今までに読んだこともない本を見せてあげるようなつもりで,自分の世界を見せてくれているのです。子供がくれるものは,たいていがつまらないもの,例えばでこぼこに張りつけられて,ピエロのように見える天使だったりします。子供には人にあげられるものなど何もないように見えますが,ほんとうは,あなたに何もかも与えていることを子供が気づかないだけなのです。」9
ジェニーのくれた誕生日のプレゼントも,そのような贈り物でした。
子供たちは天父に対しても,また天父が幼い祈りにこたえたいと望んでおられることと,実際にこたえてくださるということに対しても,揺るぎない信仰を授かっているように思われます。子供が祈るとき,神は必ず聞いておられると,わたし自身の経験からも申し上げることができます。
かつてアトランタ・ブレーブスの一員であった有名なプロ野球選手,バリー・ボンネルとデール・マーフィーの経験談をお話ししたいと思います。二人とも改宗者で,デール・マーフィーはバリー・ボンネルからバプテスマを受けました。
「バリーの言う『人生を変えるような』この経験は,1978年のシーズン中に起きたのです。バリーは打率2割という不調に悩んでいました。一向に伸びない成績に自分を責め,惨めな毎日を過ごしていたのです。ある日デール・マーフィーが,一緒に病院へ見舞いに行こうと誘ったときも,あまり気乗りがしませんでしたが,とにかく行ってみることにしました。そこでバリーは,白血病で入院中の〔アトランタ・〕ブレーブスの熱烈なファン,リッキー・リトル少年に出会ったのです。リッキーの命がいくばくもないことは一目で分かりました。バリーは何か慰めの言葉をかけたいと心から思いましたが,何と言っていいのか分かりませんでした。やっとのことで,何か自分たちにできることはないかと尋ねました。少年はちょっとためらっていましたが,二人に次の試合で自分のためにホームランを打ってほしいと頼みました。バリーは〔後に〕こう語っています。『その願いをかなえることは,デールにとってはそれほど難しいことではありませんでした。事実,彼はその晩も2本のホームランを打ったのです。でもわたしはひどく不調で,その年になってからまだ1本も打っていなかったのです。けれどもそのときわたしは心に何か熱いものを感じて,リッキーに「任せてくれ」と言ってしまいました。』その晩,バリーはそのシーズン最初で最後のホームランを打ったのです。」10このように,子供の祈りはこたえられ,願いはかなえられてきたのです。
安全の必要性
もし,すべての子供に愛情にあふれた両親がいて,安全な家庭があり,そして思いやりのある友達がいるならば,子供たちはどんなにすばらしい世界に住むことができるでしょう。ところが残念なことに,子供たちすべてがそれほど豊かな祝福を受けているとは限らないのです。父親が母親を乱暴に殴るのを見る子供もいれば,自分がそのような虐待を受ける子供もいます。何とひきょうで邪悪な恥ずべき行為でしょう。
全国各地の病院には,このような傷つけられ虐待された幼い子供たちが運び込まれます。「ドアにぶつかった」とか,「階段から落ちた」というような明らかなうそをついてはばからない親に連れられて来るのです。こうしたうそつきで,子供を虐げ,弱い者いじめをする者は,いつかその邪悪な行為に対して厳しい罰を受けるでしょう。何も言えず,傷つけられ,時には近親相姦までされる子供の犠牲者を,わたしたちは助けなくてはなりません。
ある地方判事から受け取った手紙にこう書かれていました。「子供への性的虐待は,文明社会における最も堕落した,破壊的で退廃的な犯罪の一つです。子供への肉体的,心理的,そして性的な虐待行為は増加の一途をたどっています。法廷はこの口にするのも不快な行為の裁判であふれています。」
教会は,このような憎むべき邪悪でひどい行為を決して見過ごすわけにはいきません。むしろ,神の貴い子供たちに対するこのような扱いを,最も厳しい言葉で非難するものです。わたしたちは子供たちを救い,養い,愛し,
わたしの申し上げたことは厳しすぎるとは思いません。わたしはこのような子供たちを愛し,主も彼らを愛しておられるからです。第三ニーファイには,イエスが子供たちに祝福を与えられた話が記されていますが,これほど主の深い愛を感動的に伝える話はほかにありません。そこには,イエスが病人を
「イエスは幼い子供たちを一人一人抱いて祝福し,彼らのために御父に祈られた。
そして,イエスはこれを終えると,また涙を流された。
また,イエスは群衆に語って,『あなたがたの幼い子供たちを見なさい』と言われた。
そこで彼らは,見ようとして天に目を向けたとき,天が開くのを見た。そして,天使がまるで火の中にいるかのような有様で天から降って来るのを見た。……そして,天使は幼い子供たちに恵みを施した。」11
皆さんはこのような質問をするかもしれません。「そのようなことは今日でも起こるでしょうか。」では,何年か前に伝道していたある老夫婦の幼い孫が,どのようにして祝福を受けたかという感動的な話をいたしましょう。この年配の宣教師からこのような手紙を受け取りました。
「妻のディアンナとわたしは,今,オハイオ州ジャクソンで伝道しています。伝道の召しを受けるうえでいちばん心配だったのは家族のことでした。何か問題が起きたときにそばにいてやれないからです。
伝道に出る直前,2歳半になる孫のR・Jが斜視を治すために目の手術を受けることになりました。R・Jとわたしは大の仲良しだったので,母親はわたしに付き添ってくれないかと頼みました。手術はうまくいきましたが,手術室には家族がだれも入れなかったので,怖くなったR・Jは手術の前後ひどく泣きました。
それから約6か月後,わたしたちはまだ伝道中でしたが,R・Jがもう片方の目の手術を受けなくてはならなくなりました。母親から電話があり,2度目の手術にもぜひ付き添ってほしいとのことでした。もちろん,伝道中でしたし,距離も離れていたので,行くことはできませんでした。ディアンナとわたしは断食し,手術中孫を慰めてくださるようにと主に祈りました。
手術が終わった後すぐにわたしたちは電話をかけました。R・Jは以前の経験を思い出して,両親のそばを離れようとしなかったということでした。ところが手術室に入った途端におとなしくなり,手術台に横たわり,自分で
2,3日後,娘に電話をしてR・Jの様子を尋ねました。経過は順調だと言って,娘はこのような話をしてくれました。手術を受けた日の午後,目を覚ましたR・Jは,手術の間おじいちゃんがそばにいてくれたよ,と言ったそうです。『おじいちゃんがいてくれたから,大丈夫だったよ』と言ったのです。お分かりでしょうか。主は,麻酔医が孫の目にはおじいちゃんに見えるようにしてくださったのです。実際には,おじいちゃんもおばあちゃんも2,900キロも離れた所で伝道していました。」
R・J,おじいちゃんは君のベッドのそばにはいなかったかもしれません。でも君はおじいちゃんの祈りと思いの中にいたのです。主の手の中にゆだねられ,わたしたちすべての御父から祝福されていたのです。
愛する兄弟姉妹の皆さん,子供たちの笑い声がわたしたちの心を和ませ,子供たちの信仰がわたしたちの心を慰めてくれますように。子供たちの愛がわたしたちの行いを鼓舞してくれますように。「子供たちは神から賜わった